無憂宮
瞳色 紅匂う 緋の椿
      今宵手の中 朱の深さを


  (ひとみいろ くれないにおう ひのつばき
        こよいてのなか あかのふかさを)


詠人  小雪丸さま




椿


 わずかばかりの室温の変化を感じ、ミロはぼんやりと瞼を持ち上げた。
 暖かい夜具の合間からそっと腕だけを出してみると、予想通り畳は床に就く前よりも格段に冷えている。
 これがいつもの宮の石張りの床の上だったなら、今頃とっくに凍えてしまっているだろう。
 折角旅行に来たのだからと、畳の上に床を延べる日本らしい習慣に従ってみたのだが、なかなかに発見があって面白い。
 ミロはかすかに口元を緩めながら、枕元の明かりを手探りで灯した。
 和紙のシェード越しにほのかに浮かび上がる室内の様子を、ミロは興味深げに見渡す。
 床の間の脇の違い棚や枯淡な壁画のような襖。全て和の設えだ。
 もっとも、異国に来たことを実感する見慣れない事物の中には、たった一つだけ、懐かしいものがある。
 傍らで眩しそうに顔をしかめるカミュの寝姿だけは、常にミロの目に馴染み見飽きることのないものだった。
 本人はそうは思っていないのかもしれないがかすかに覗く剥き出しの肩が寒そうで、布団を引き上げて覆ってやると、安心した子供のように表情が和らぐ。
 普段の取り澄ましたようなカミュからは想像もできない、あまりに幸せそうな無垢な表情は、彼と夜を共にするミロだけが目にすることのできる宝だ。
 その至宝の安らかな眠りを壊さないように、ミロは細心の注意を払いつつそろそろと布団を這い出した。
 脱ぎ捨ててあった浴衣をはおり窓辺に近づくと、ほんの少し障子を開けて外を垣間見る。
 気温の変化の原因は、ミロの推察どおりだった。
 深更に到って、雪雲が天を覆ったのだろう。
 闇の中、ほの白く雪が降り積もっていた。
 雪明りに浮かび上がる庭園の情景は幻想的な異世界へと誘っているようで、ミロは寒さも忘れ陶然と雪景色に見惚れた。
 「……どうした?」
 突如かけられた声に振り返ると、顔だけこちらに向けて不思議そうに見上げてくるカミュと目が合った。
 「ああ、悪い。起こしたか?」
 「いや」
 まだ寝惚けて舌が上手く回らないせいか、いつも以上に口数が少ないものの、瞳だけは雄弁に適当な言い逃れは許さないと語りかけてくる。
 「まあ、起きたんなら、ちょうどいい。こっちに来いよ」
 異国で目にする雪に、カミュがどのような感想を抱くのか知りたくなった。
 ささやかな好奇心と悪戯心を隠して手招きするミロに、カミュは訝しげに眉を顰めたが、今夜は素直に誘いに乗ることにしたらしい。
 立ち上がろうとしたカミュは、しかし、すぐに思い直したように再び布団に潜り込むと、懸命に腕を伸ばし周囲を探る。
 おそらく裸の身にまとう衣服を探しているのだろうが、布団から頭と腕だけが露出したその姿が滑稽で、ミロはくすりと笑った。
 「亀かよ」
 すかさず投げつけられた枕を片手で受け止めたミロは、肩を震わせながらも、せめてものお詫びに視線をカミュから窓の外へと転じた。
 カミュはその間に浴衣を手にすることには成功したが、残念ながら帯まではみつけられなかったらしい。
 浴衣の前を両手でひしとかき合わせると、少しふてくされたように窓辺に歩み寄って来る。
 「見てみな」
 窓の外を指差すミロに釣られるように障子を開けたカミュは小さく感嘆の声を上げた。
 「おまえの仕業?」
 「まさか」
 カミュはうっとりと口元を綻ばせ魅入られたように窓の外をみつめていた。
 雪を見慣れたはずのカミュをも魅了する何かが、この音も無く降り積もる白い華にはあるのかもしれなかった。
 「綺麗だな」
 夢の続きでもみているかのように、独り言めいた呟きがカミュの唇から漏れる。
 ほのかな雪明りに照らされるカミュの相貌は、不思議に現実感を欠いて見えた。
 傍にいるのに、なぜかこのままカミュの姿が雪と共に融けて消えてしまうような、そんな愚にもつかない不安に襲われ、ミロはわざとぶっきらぼうに口を開いた。
 「雪なんざ、おまえなら嫌というほど見てるだろ」
 「それはそうかもしれないが、同じ雪でも、この雪は私が知る雪ではない」
 禅問答のように不可思議な言を口にしたカミュは、窓外に視線を向けたまま静かに言葉を紡ぐ。
 「私が作る雪よりも、シベリアに降る雪よりも、どこか優しい感じがする」
 何故だろうな、と、なおも夢みるように呟くカミュは、やがてすっと指を持ち上げた。
 「ああ、わかった。あのせいだ」
 カミュの指差す先を追いかけたミロの瞳は、庭の一角にひっそりと咲く花樹を捕らえた。
 ほんのりと降り積もる雪に耐えるようにわずかに俯く、赤い花だった。
 「シベリアの雪は全てを埋め尽くそうとするから」
 地上を支配しようとするかのように、彼の地の雪は大地を真白に塗り込める。
 色彩を全て無に染め替えようと、非情なまでに激しく烈しく。
 あらゆる生命を奪い去ろうとてぐすね引いて待ち構える、そんな威勢は、この目の前に舞い降りる雪にはない。
 粉雪は、むしろ花弁の紅を一際美しく引き立たせる、ただそのためだけに訪れているようだった。
 「まあ、たまにしか来ないおまえに言っても、どうせ判りはしないだろうがな」
 そう呟くカミュの声に、極微量の寂しさが混じって聞こえた。
 雪に閉ざされた極北の地で、時折のミロの訪れを、カミュがどれほど待ち望んでいるのか。
 決して言葉にすることのないカミュの心の奥底に隠された本意が、一瞬だけ垣間見えたような気がした。
 「……ああ、判らんな」
 ミロは腕を伸ばし、カミュの身体を背後から抱きしめた。
 薄い浴衣の下でぴくりと震えた身体は、構わず抱き続けていると次第に緊張を解き、甘えるようにミロにもたれかかってきた。
 カミュの肩に顎を載せたミロは、紅い髪の中に埋もれる白い耳朶に向かって囁いた。
 「俺がそっちへ行くときは、別に世界は白一色ってわけじゃないからな」
 くすぐったそうに肩をすくめたカミュは反論の糸口を探そうとしているのか、首を捻って胡乱気にミロをみつめる。
 その紅い瞳に見据えられたまま、微笑んだミロはカミュの髪を一房指に絡めると芝居がかった仕草で口付けた。
 「あの花みたいに、雪に映える綺麗な紅華が咲いて……」
 「ああ、わかった、わかった。勝手に言ってろ」
 うんざりしたとでも言いたげな口調で、花になぞらえられたカミュは真紅の髪をミロから取り戻すと、その腕からも逃げ出しふいと窓の外を向く。
 その頬がかすかに上気していることを視界の端で確認しながら、かるく口の端を持ち上げたミロはカミュの視線の先を辿った。
 やはりそこには、赤い花があった。
 雪白の中に凛と咲く孤高の花は、雪原に一人佇むカミュを思わせる。
 冗句の中に含まれていた思いがけない類似性の発見に、ミロはふと興を覚えた。
 「……なあ、あれ、何ていう花なんだ?」
 「椿、だな。花が落ちてる」
 言われるまで気がつかなかったが、樹の根元はざっくりと花首から切り落とされたような落花で飾られていた。
 花陰で半ば雪に埋もれつつあるその花の終焉は、花弁が一枚一枚散り落ちる様よりも、はるかに鮮明で残酷な幕切れに見えた。
 突然暗い闇の一面に直面し虚を衝かれたミロの耳に、カミュの声が届く。
 「……おまえは私があの花のようだと言ったが、たしかに私が死ぬ時は、あんな感じかもしれんな」
 微笑を浮かべたカミュがさらりと口にした不吉な台詞に、ミロはわずかに眉を顰めた。
 無言で続きを促すミロに、カミュは微笑んだまま静かに言葉を続けた。
 「戦闘の名残で、おそらく私は周囲に雪を降らせているだろうからな」
 なかなかいい死に装束だ、と、カミュは笑う。
 ミロの脳裏で、雪が降り積もる赤い落花は、氷雪に包まれ横たわるカミュの亡骸の幻影に転化した。
 氷の刃の切っ先でも突きつけられたようにぞくりと背筋が凍りつき、ミロは息を呑んだ。
 傍らで戦慄するミロになど気にも留めず、その原因を作り出したカミュはなおも長閑に微笑んでいた。
 「ああ、また、花が落ちた」
 どこか楽しんでいる感さえあるカミュの言葉に、ミロは反射的に窓外を見た。
 視界に、落花の衝撃にぱらぱらと枝葉から零れ落ちる雪が映った。
 やがて雪を振り落とした枝が、再びその身を白く飾ろうと動きを鎮める。
 その反動のように、何の前触れもなくミロは動いた。
 背中からカミュを抱きすくめると、紅い髪が流れる首筋を強く吸い、囁く。
 「……華は散る前に愛でないとな」
 その声がかすかに震えていることに、執拗に落とされる口付けの意味に、カミュは思い至ったのかもしれない。
 常の彼らしくもなく、浴衣の合わせ目から差し入れられたミロの手を振り解くこともせず、カミュは黙ってただされるがままになっていた。
 やがて、雪をも溶かすような熱い吐息の塊が噛みしめた唇の合間から漏らされるようになった頃、カミュはするりとミロの腕を抜け出した。
 そっと障子に手をかけ雪景色を視界から遠ざけると、おもむろに振り返り、艶やかな瞳でじっとミロをみつめる。
 その双眸は、燃え立つような紅に彩られていた。
 あたかも緋色の華のごとき、深い深い紅だった。

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