無憂宮
赤と黒


 本の頁を繰る指が止まった。
 自分の他は誰もいない書庫に、突然の訪問者の気配が流れ込んできた。
 「相変わらず本の虫だな」
 呆れたように投げかけられる声に、カミュはようやく顔を上げた。
 書架の合間から、コーヒーカップを手にしたシュラが、静かに近づいてきていた。
 カミュの傍までくると、机に広げられた読みかけの本を覗き込む。
 「ロルカか。珍しいな、おまえが詩とは」
 コーヒーと煙草の混ざった香りが、かすかにカミュの嗅覚を刺激した。
 大人の男の、匂いだ。
 ふと浮かんだ着想に、カミュは我知らず赤面した。
 一体、何を考えているのか。
 「カミュ?」
 続く沈黙に不審気なシュラの声に、カミュは慌てて咳払いをした。
 「……よくわかるな」
 シュラは肩をすくめた。
 「そりゃ、ま、一応故国の天才詩人くらいは知ってる」
 カミュはかぶりを振った。
 長い髪が揺れ、辺りに漂うシュラの匂いをかき回した。
 「そうではなくて、私があまり詩を読まないということだ」
 シュラは一瞬動きを止め、それからゆっくりとカップを口に持っていった。
 褐色の液体が嚥下され、シュラの喉仏が動く。
 なぜか瞳をそらせなくて、カミュは気づかれないように静かに息をついた。
 「……そんな気がしただけだ」
 かすかに感じる違和感。
 シュラの声に、瞳に、ごくわずかな動揺があった。
 気がした。
 「……コーヒー、もらっていいか?」
 ぎこちなく固まる空気を払拭しようと、カミュは努めてさりげない提案をした。
 しかし、カップに手が伸ばされる前に、シュラはカミュの手が届かない高さまでカップを差し上げた。
 予期せぬ抵抗を受け不満そうににらむカミュに、シュラは口の端を軽く持ち上げた。
 「ブラックだぞ。おまえの好みじゃないだろ」
 「子供じゃないんだ。それくらい飲める」
 「顔をしかめながら、な」
 揶揄するようなシュラに、カミュは瞠目した。
 「……よく見てるんだな」
 無意識の呟きに、シュラの表情がやや強張った。
 しかし、それもまばたきをする間のこと。
 もう一口、コーヒーを流し込むと、シュラは壁際に並ぶ書架を見遣った。
 「テーブル山座の聖闘士の系譜がどこにあるか知らないか?」
 突然の話題転換。
 そのビジネスライクな台詞が、カミュの居心地の悪さも救済した。
 ほっとしたカミュは、書架の一点を指差した。
 「聖闘士の系譜だったら、一番奥の棚。その中のどこかにあると思うが」
 シュラは大げさなため息をついた。
 本の山に慣れない人間には、この膨大な書籍の中から目当ての一冊を探し出すのは拷問に近いのだろう。
 「コーヒー淹れてきてやるから、探しといてくれ」
 「私は司書ではない」
 「似たようなもんだろ。ここの主みたいなもんだからな」
 承諾の返事も聞かないうちに、シュラはカミュの頭をぽんと軽く叩いた。
 「じゃ、頼んだ」
 振り返りもせずに片手を挙げ立ち去る後ろ姿を、カミュは見送った。
 叩かれた頭に手を添える。
 怒る気はしなかった。


 カミュは埃の積もる薄暗い書架を見上げていた。
 八十八ある星座の、神話の時代からの聖闘士の系譜だ。
 探し出すのはなかなかに骨の折れる仕事だった。
 何順目かに視線をさまよわせると、ようやく目当ての題字が見つかった。
 天井近くまである書架の最上段。
 カミュはため息をついた。
 壁際から高所用のはしごを持ち出すと、本を傷つけないように細心の注意を払いながら設置する。
 鋼鉄製のはしごは重くて扱いづらい。
 面倒な作業だ。
 しかし、不思議と嫌がっていない自分がいるのも自覚していた。
 自分の時間を邪魔されるのは嫌いなはずなのに、珍しいことだ。
 何故かは、わからない。
 胸につかえるようなもやもやとした疑問を打ち消すように、カミュはもう一度ため息をついた。


 はしごを何段か登ったところで、カミュは目測を誤ったことを悟った。
 目的の書籍までは、少々距離がある。
 とはいえ、はしごをかけ直すのも煩わしかった。
 腕を伸ばせば届くだろう。
 だが、その楽観は、はしごを登りきったところで後悔に変わる。
 あとわずかのところで手が届かないのだ。
 今更はしごを降りて再設置する気にもなれず、カミュは懸命に腕を伸ばした。
 伸ばしすぎた。
 重心が傾いたはしごは、その不安定な荷重に耐えかねた。
 不気味な振動。
 ぐらり、と視界が傾く。
 突然支えを失い空に放り出されたカミュは、かろうじて受身をとりつつも床に叩きつけられた。
 全身に走る激痛に耐えながら、上方を振り仰ぐ。
 目の前に、妙にゆっくりと倒れ掛かってくるはしごがあった。


 ……煙草とコーヒーの匂い。
 好きな、匂いだ。
 自分の名を呼ぶ声。
 静かで、ぶっきらぼうで、でも優しい声。
 これも、好き。
 「……ミュ、カミュ!」
 感覚がじわりと戻ってくる。
 明滅するようだった意識が、ようやく通常の働きを取り戻し始めた。
 カミュはゆっくりと目を開けた。
 心配そうに覗き込んでくるシュラの顔が、至近距離にあった。
 黒い髪に黒い瞳。
 これも……。
 「大丈夫か?」
 カミュはぼんやりとしながらも、小さくうなずいた。
 痛みはあるが、ただの打撲だ。
 意識が無かったのも、軽い脳震盪程度だろう。
 その辺りの見極めは、戦士としての訓練を積んだ身には間違えようがない。
 シュラはようやく安堵の息をついた。
 「はしごの下敷きになって倒れてたんだ。何やってんだ、おまえ」
 「……シュラが、頼んだから……」
 「俺は本を探せとは言ったが、はしごと戯れろとは言ってない」
 いつものような憎まれ口を叩きながら、シュラは苦笑を浮かべた。
 「ま、大したことなくてよかったな。起きれるか?」
 シュラはカミュの上体をゆっくりと抱き起こした。
 肩にまわされたシュラの手が、温かくて心地よい。
 強いその腕は、不思議とカミュの心を落ち着かせた。
 離れてしまうのが惜しくて、とっさにカミュは自分の手をシュラの手に重ねた。
 手を引っ込めるタイミングを逃したシュラが、訝しげにカミュを見た。
 「……ちょっと、こうしていてくれ」
 シュラの動悸が激しくなったのがわかった。
 触れた掌から、鼓動が伝わってくる。
 その早鐘のような響きは、カミュにも伝染した。
 同じリズムを奏で出した拍動に、カミュはほんの少し頬を染めた。
 「……頭でも、打ったか?」
 声がかすかに震えている。
 さすがのシュラも、普段のように動揺を隠し切ることは出来ないらしかった。
 「そうかもしれない」
 カミュは微笑んだ。
 いつになく接近しているためか、鏡に映すようにシュラの心の動きが把握できる。
 そして、理屈では説明のつかなかった、自分の不可解な想いの正体さえも。
 「無意識状態になって、初めて見えてくる意識もあるらしい。あなたも試してみるといい」
 「……その必要は、なさそうだ」
 じっとシュラの瞳を見上げる。
 漆黒の双眸に浮かぶ、このうえなく穏やかで優しい光。
 カミュ自身の瞳にも同じ色が映っているはずだった。
 言葉は、いらなかった。


    私は、あなたが、好きです───

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