雨
朝から降り続く雨は、なかなか止みそうもなかった。
乾燥したギリシャでは、久しぶりの雨。
カミュは窓の外を見やった。
芝生の敷き詰められた小さな庭には、やはり小さな泉がささやかな存在感を主張している。
大粒の雨は、泉の水面やその上に張り出した木々の葉をひっきりなしに叩いていた。
衝突と同時に四散する雨は、軽快なステップを踏むかのようにリズミカルな音を立てつつ、間断なく大地に降り注ぐ。
そして、その久々に天から舞い降りた滴との戯れを、外界の草木もまた楽しんでいるようだった。
カミュは小さく息をついた。
自分も、楽しんでいた。
誰にも邪魔されず、久々にゆっくり読書ができるとほくそえんでいた。
初めは。
読書に集中できなくなっていることに気づいたのは、小一時間も経ってからだっただろうか。
予想外の驚きだった。
いつもなら、読書中にも構わず話しかけてくるミロがいても平気で本を読み進められたのに、今日は何か違う。
頁を繰る指がいつのまにか止まってしまい、気づけばぼんやりと視線が紙の上を漂っていた。
何故だろうと懸命に原因を考えたカミュは、ようよう認めたくはないながらも、ある結論に達した。
ミロが、傍にいないからだ。
平生と異なり、静かすぎて、落ち着かないのだ。
カミュはちらりと時計を見た。
普段なら、とっくにミロが宝瓶宮に来ていて、お茶の一杯も飲み終わり、今日は何をして遊ぼうかと、蒼い瞳をキラキラさせている頃合だった。
しかし今日は、彼の気配はどこにもない。
雨だから、外出を控えているのかもしれない。
カミュとてこの雨の中好き好んで外に出ようとは思わないし、会う約束をしている訳でもないのだから、それも至極当然のことだと思う。
それでも、なぜか気分が波立つのは否めなかった。
ミロが傍にいないと、視界から何か大切な物が欠けてしまったような気がしてしまう。
習慣とは、そういうものなのかもしれない。
常に当然のように存在していたものは、常に其処になくてはならないのだ。
さもなければ、違和感がじわりじわりと侵食し、目の粗い鑢でもかけたように心の平安を蝕んでいく。
かといって、自らミロの元に出向こうという気にならないのも、カミュのカミュたる所以だった。
いつも来るはずの彼が来ないということは、自分に会う必要を感じないからだ。
それなら、自分がミロの元に押しかけたら、迷惑になってしまうかもしれない。
くるくると思考を悪い方へと廻らせてしまうのはよくない癖なのだろうが、既に習い性になってしまった以上、そう簡単には直らない。
せめて、何か口実があったらよいのだが。
天蠍宮への訪問を正当化する理由が、何かないだろうか。
カミュは藁にもすがる思いで宮内を見渡した。
その視線が、一点で止まる。
何かに導かれるように玄関に通じる扉を開け、カミュは立ち止まった。
思い出した。
傘だ。
滅多に雨など降らないから忘れていたのだが、前回の降雨からずっと、ミロの傘は宝瓶宮に置き忘れたままになっていた。
カミュの口元に微笑がよぎる。
ミロがここに来ない理由がわかった。
ひょっとしたら、傘が無いから来たくても来れなかっただけかもしれない。
そして、カミュがミロの宮に行く立派な大義名分もできた。
カミュは、ミロの分と自分の分と、二本の傘を手にした。
傘を届けにきたんだ。
台詞が不自然にならないように、小さく呟いてみる。
自分からミロに対して行動を起こすのは初めてで、舞台前の新人役者のように緊張した。
大丈夫。ただ、この傘を渡すだけ。
何でもないことなのだと自分に言い聞かせると、カミュはかけがえのない宝物のようにミロの傘をきゅっと握り締めた。
傘の形をした訪問許可証に勇気付けられ、大きく深呼吸したカミュが、ようやく降り注ぐ雨の中に足を踏み出そうとしたとき。
勢いよく扉が開き、それは駆け込んできた。
驚きに瞳を見張ったカミュが見たものは、蠢く真っ白い塊、だった。
呼吸も忘れて茫然と立ち尽くしていたカミュは、しばらくしてようやくそれがシーツを頭から被った子供なのだと理解した。
雨に濡れて体にまとわりつく巨大な布から抜け出せず四苦八苦している姿に、我に返ったカミュは慌てて布を剥がすように手を差し出す。
「やっと取れたー」
ほっとしたように布の間から顔を出したのは、ミロだった。
先程まで散々心を悩ませていた張本人の予期せぬ登場に、カミュは訳もわからず瞳を瞬かせた。
唖然とするカミュには構わず、ミロは濡れた髪をわずらわしげにくしゃくしゃとかき回す。
「すっごい雨だよね」
そこまで言って、カミュの手にした物にようやく目を留める。
「あ、僕の傘」
握り締めていたミロの傘を隠そうとしても、もう遅い。
カミュは傘に視線を落としつつ、消え入りそうな声で呟いた。
「……今、届けにいこうかと思って……」
「えっ、カミュの方から来てくれようとしてたの?」
見方を変えれば、カミュがミロの元を訪れたことはないというのと同義である。
皮肉にも取れる発言だが、喜びに満ち溢れた声の響きが、ミロの本意を違えることなくそのままカミュに伝えてくれていた。
ほんの少しくすぐったいような温かさが胸に宿り、照れくさくなったカミュはぷいとそっぽを向いた。
「……ハロウィーンの仮装には、早すぎると思うけど」
……どうして、こんな憎まれ口だけは、すぐに口をついて出るのだろう。
自己嫌悪にますます仏頂面になっていくカミュに、ミロは気にした風もなく我が身を見下ろした。
「ああ、これ? そういえば、そうだね。お化けの格好みたいだ」
自分の体に巻きつくシーツを見て、くすくす笑う。
「でも違うんだ。てるてる坊主作ろうと思って」
「テル……? 何?」
聞きなれない言葉に、カミュは眉をひそめて聞きなおした。
博識なカミュでも知らないことを教えるというのが嬉しいのだろう。
ミロは得意気に鼻をこすった。
「てるてる坊主。お姉ちゃんが教えてくれたんだ」
お姉ちゃんというのは、天蠍宮付きの女官のことだ。
馴染みの無い東洋系の名前の発音が難しくて舌を噛みそうになったミロに、女官は笑いながらそう呼ぶように言ってくれたのだと、以前聞いたことがあった。
「雨が上がるようにっていう日本のおまじないなんだ。こういうのを窓につるしとくんだって」
こそこそとミロが手探りでポケットから出したのは、ハンカチで作った人形だった。
丸めたハンカチを別の一枚でくるんで頭とし、首になる部分を糸でくくっただけの、単純な人形。
「で、大きいのだったら、もっと効果があるかと思って。シーツを使おうと思ったんだけど、お姉ちゃんに言うと怒られそうだったから」
掃除を終えて女官が帰るまで待ってたんだと、ミロはくつくつと楽しそうに喉を鳴らした。
「カミュ、これで一緒にてるてる坊主作ろうよ」
満面の笑みでカミュを誘うミロを、カミュは黙ってみつめ返した。
ミロは、どうしていつもこうなんだろう。
カミュは小さくため息をついた。
一緒にやろう。
どうして自分が大変な苦労をしてやっと口にできる一言を、ミロはこんなにあっけなくさらりと言ってのけるのだろう。
これじゃ、一人で悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
「ねえ、カミュ?」
返事が無いことを訝しく思ったか、ミロは不審気にカミュの瞳を覗きこんできた。
「……いや」
「えー、どうしてっ?」
断られることなど、考えもしていなかったのだろう。途端にミロが口を尖らせる。
もっともカミュにしても、咄嗟に口から出た言葉は予想外だった。
自分と余りにも異なり、素直に意思表現できるミロを、羨ましいと思ってしまった。
それが、このあまりにぶっきらぼうな返事の理由。
そうはいっても、さすがに身勝手すぎる酷な反応だ。
いつもミロはカミュの傍にいてくれるとはいえ、さすがに今回ばかりは愛想をつかされてしまうかもしれない。
雨だって、自分を受け止めてくれる大地が存在することを知っているから、天空からの長い旅を続けることができるのだ。
辿り着くべき大地がなかったら、雨粒はたった一人で延々と空を切って落ち続けなくてはならない。
たった一人で。
それは、いやだ。
こんなに心が落ち着かなくて、どうしたらよいかとおろおろと気を揉んで、嫌われたのかもしれないという不安に居ても立ってもいられなくなるのは、もう絶対にいや。
カミュは必死で弁解の言葉を探した。
「だって、雨が降るのは久しぶりだし、植物にも雨は必要だし、それに……」
ミロが傍にいてくれれば、雨でも楽しい。
脳裏を過ぎった最後の台詞は、しかし、音にすることはできなかった。
一番伝えるべき言葉なのにどうしても言えない悔しさに真っ赤になりながら、カミュは唇を噛みしめて俯いた。
それでも、動物的に勘の優れたミロは、その声無き言葉もしっかり聞き取ってしまったらしい。
視界の端に覗くミロの足元が、みるみる明るくなっていくような気がした。
感情の変化が気と化して、ミロの周囲に散じているのだ。
小宇宙に頼らなくても感じられるほど顕著な、陰から陽への感情転換。
「そっか、そうだね。雨、止まなくっても、別にいいか」
満足気に微笑んだミロは、ついで悪戯っぽくカミュの顔を下から覗き込んだ。
「あ、でも晴れてくれないとシーツ乾かないから、僕のベッド使えないんだ。だから、今日はカミュの所に泊めて」
ひょっとしたら最初からそれが目的だったのかもしれない。
そう疑わせるに足る確信に満ちた蒼い瞳が、カミュを捕らえる。
カミュは小さく肩をすくめてみせた。
「仕方ないな」
本当は、嬉しくてたまらないくせに。
ミロが自分の傍にいてくれる。
それは飛び上がるほど嬉しいことなのに。
綻びそうになる口元を無理やり引き締めながら、カミュは手にしたままの傘に目を落とした。
自分から行動を起こす勇気をくれた傘。
たまには、素直になってみようか。
ミロのように。
カミュは自分に向けられた蒼い瞳をみつめかえした。
「……ミロ」
「何?」
小首を傾げたミロが、続く言葉を促す。
いつも傍にいてくれて、ありがとう。
そう言ってみるだけだ。難しいことじゃない。
カミュの唇が動いた。
「……さっきのシーツ被った君、てるてる坊主みたいだった」
最悪。
カミュの神経回路では、一体どうしてこんな意図しない翻訳がなされてしまうのだろう。
口も舌も、随意筋の支配下にはないのかもしれない。
言いたかった台詞は、脳から口へと伝わる間に、全く別の意味を持つ言葉に変化してしまった。
「何、それ。ひどいや」
緊張も空しく惨憺たる結果に終わり、頭を抱えてうずくまりたくなっていたカミュの内心も知らず、ミロはけたけたと声をたてて笑った。
「あ、でも、僕がてるてる坊主なら、雨あがるかな。ねえ、雨やんだら、虹見に行こうよ、一緒に」
「……虹は、必ず見られるというわけじゃないよ」
またミロの口から、一緒に、という言葉が発せられた。
自分が口にできない一言だから、ミロはカミュの分まで音にしてくれているのかもしれない。
カミュは小さく笑った。
ミロには申し訳ないが、もうしばらく、この状況に甘えさせてもらおう。
いつかカミュの方から、一緒に、という言葉を捧げられるようになるまで、ミロに誘い続けてもらおう。
少しずるいけれど、それが今のカミュの精一杯。
そして無意識ながら、ミロも漠然とそんなカミュの心理を察知してくれていると思うのだ。
悠久の時を経ても、変わらず大地は降り注ぐ雨を迎えてくれるように、ミロもまた、カミュの傍でその言葉をいつまでも待っていてくれると思うのだ。
「……でも、見られるといいね」
一緒に、という部分は口の中で唱え、カミュは微笑んだ。
ミロがにっこり笑ってうなずく。
不思議と自信に満ち溢れたその笑顔がやけに眩しくて、カミュはわずかに目を細めた。
ミロと一緒なら、虹もその姿を現してくれるかもしれない。
根拠もないのに、なぜかそう思った。
朝から降り続く雨は、なかなか止みそうもなかった。
乾燥したギリシャでは、久しぶりの雨。
カミュは窓の外を見やった。
芝生の敷き詰められた小さな庭には、やはり小さな泉がささやかな存在感を主張している。
大粒の雨は、泉の水面やその上に張り出した木々の葉をひっきりなしに叩いていた。
衝突と同時に四散する雨は、軽快なステップを踏むかのようにリズミカルな音を立てつつ、間断なく大地に降り注ぐ。
そして、その久々に天から舞い降りた滴との戯れを、外界の草木もまた楽しんでいるようだった。
カミュは小さく息をついた。
自分も、楽しんでいた。
誰にも邪魔されず、久々にゆっくり読書ができるとほくそえんでいた。
初めは。
読書に集中できなくなっていることに気づいたのは、小一時間も経ってからだっただろうか。
予想外の驚きだった。
いつもなら、読書中にも構わず話しかけてくるミロがいても平気で本を読み進められたのに、今日は何か違う。
頁を繰る指がいつのまにか止まってしまい、気づけばぼんやりと視線が紙の上を漂っていた。
何故だろうと懸命に原因を考えたカミュは、ようよう認めたくはないながらも、ある結論に達した。
ミロが、傍にいないからだ。
平生と異なり、静かすぎて、落ち着かないのだ。
カミュはちらりと時計を見た。
普段なら、とっくにミロが宝瓶宮に来ていて、お茶の一杯も飲み終わり、今日は何をして遊ぼうかと、蒼い瞳をキラキラさせている頃合だった。
しかし今日は、彼の気配はどこにもない。
雨だから、外出を控えているのかもしれない。
カミュとてこの雨の中好き好んで外に出ようとは思わないし、会う約束をしている訳でもないのだから、それも至極当然のことだと思う。
それでも、なぜか気分が波立つのは否めなかった。
ミロが傍にいないと、視界から何か大切な物が欠けてしまったような気がしてしまう。
習慣とは、そういうものなのかもしれない。
常に当然のように存在していたものは、常に其処になくてはならないのだ。
さもなければ、違和感がじわりじわりと侵食し、目の粗い鑢でもかけたように心の平安を蝕んでいく。
かといって、自らミロの元に出向こうという気にならないのも、カミュのカミュたる所以だった。
いつも来るはずの彼が来ないということは、自分に会う必要を感じないからだ。
それなら、自分がミロの元に押しかけたら、迷惑になってしまうかもしれない。
くるくると思考を悪い方へと廻らせてしまうのはよくない癖なのだろうが、既に習い性になってしまった以上、そう簡単には直らない。
せめて、何か口実があったらよいのだが。
天蠍宮への訪問を正当化する理由が、何かないだろうか。
カミュは藁にもすがる思いで宮内を見渡した。
その視線が、一点で止まる。
何かに導かれるように玄関に通じる扉を開け、カミュは立ち止まった。
思い出した。
傘だ。
滅多に雨など降らないから忘れていたのだが、前回の降雨からずっと、ミロの傘は宝瓶宮に置き忘れたままになっていた。
カミュの口元に微笑がよぎる。
ミロがここに来ない理由がわかった。
ひょっとしたら、傘が無いから来たくても来れなかっただけかもしれない。
そして、カミュがミロの宮に行く立派な大義名分もできた。
カミュは、ミロの分と自分の分と、二本の傘を手にした。
傘を届けにきたんだ。
台詞が不自然にならないように、小さく呟いてみる。
自分からミロに対して行動を起こすのは初めてで、舞台前の新人役者のように緊張した。
大丈夫。ただ、この傘を渡すだけ。
何でもないことなのだと自分に言い聞かせると、カミュはかけがえのない宝物のようにミロの傘をきゅっと握り締めた。
傘の形をした訪問許可証に勇気付けられ、大きく深呼吸したカミュが、ようやく降り注ぐ雨の中に足を踏み出そうとしたとき。
勢いよく扉が開き、それは駆け込んできた。
驚きに瞳を見張ったカミュが見たものは、蠢く真っ白い塊、だった。
呼吸も忘れて茫然と立ち尽くしていたカミュは、しばらくしてようやくそれがシーツを頭から被った子供なのだと理解した。
雨に濡れて体にまとわりつく巨大な布から抜け出せず四苦八苦している姿に、我に返ったカミュは慌てて布を剥がすように手を差し出す。
「やっと取れたー」
ほっとしたように布の間から顔を出したのは、ミロだった。
先程まで散々心を悩ませていた張本人の予期せぬ登場に、カミュは訳もわからず瞳を瞬かせた。
唖然とするカミュには構わず、ミロは濡れた髪をわずらわしげにくしゃくしゃとかき回す。
「すっごい雨だよね」
そこまで言って、カミュの手にした物にようやく目を留める。
「あ、僕の傘」
握り締めていたミロの傘を隠そうとしても、もう遅い。
カミュは傘に視線を落としつつ、消え入りそうな声で呟いた。
「……今、届けにいこうかと思って……」
「えっ、カミュの方から来てくれようとしてたの?」
見方を変えれば、カミュがミロの元を訪れたことはないというのと同義である。
皮肉にも取れる発言だが、喜びに満ち溢れた声の響きが、ミロの本意を違えることなくそのままカミュに伝えてくれていた。
ほんの少しくすぐったいような温かさが胸に宿り、照れくさくなったカミュはぷいとそっぽを向いた。
「……ハロウィーンの仮装には、早すぎると思うけど」
……どうして、こんな憎まれ口だけは、すぐに口をついて出るのだろう。
自己嫌悪にますます仏頂面になっていくカミュに、ミロは気にした風もなく我が身を見下ろした。
「ああ、これ? そういえば、そうだね。お化けの格好みたいだ」
自分の体に巻きつくシーツを見て、くすくす笑う。
「でも違うんだ。てるてる坊主作ろうと思って」
「テル……? 何?」
聞きなれない言葉に、カミュは眉をひそめて聞きなおした。
博識なカミュでも知らないことを教えるというのが嬉しいのだろう。
ミロは得意気に鼻をこすった。
「てるてる坊主。お姉ちゃんが教えてくれたんだ」
お姉ちゃんというのは、天蠍宮付きの女官のことだ。
馴染みの無い東洋系の名前の発音が難しくて舌を噛みそうになったミロに、女官は笑いながらそう呼ぶように言ってくれたのだと、以前聞いたことがあった。
「雨が上がるようにっていう日本のおまじないなんだ。こういうのを窓につるしとくんだって」
こそこそとミロが手探りでポケットから出したのは、ハンカチで作った人形だった。
丸めたハンカチを別の一枚でくるんで頭とし、首になる部分を糸でくくっただけの、単純な人形。
「で、大きいのだったら、もっと効果があるかと思って。シーツを使おうと思ったんだけど、お姉ちゃんに言うと怒られそうだったから」
掃除を終えて女官が帰るまで待ってたんだと、ミロはくつくつと楽しそうに喉を鳴らした。
「カミュ、これで一緒にてるてる坊主作ろうよ」
満面の笑みでカミュを誘うミロを、カミュは黙ってみつめ返した。
ミロは、どうしていつもこうなんだろう。
カミュは小さくため息をついた。
一緒にやろう。
どうして自分が大変な苦労をしてやっと口にできる一言を、ミロはこんなにあっけなくさらりと言ってのけるのだろう。
これじゃ、一人で悩んでいた自分が馬鹿みたいだ。
「ねえ、カミュ?」
返事が無いことを訝しく思ったか、ミロは不審気にカミュの瞳を覗きこんできた。
「……いや」
「えー、どうしてっ?」
断られることなど、考えもしていなかったのだろう。途端にミロが口を尖らせる。
もっともカミュにしても、咄嗟に口から出た言葉は予想外だった。
自分と余りにも異なり、素直に意思表現できるミロを、羨ましいと思ってしまった。
それが、このあまりにぶっきらぼうな返事の理由。
そうはいっても、さすがに身勝手すぎる酷な反応だ。
いつもミロはカミュの傍にいてくれるとはいえ、さすがに今回ばかりは愛想をつかされてしまうかもしれない。
雨だって、自分を受け止めてくれる大地が存在することを知っているから、天空からの長い旅を続けることができるのだ。
辿り着くべき大地がなかったら、雨粒はたった一人で延々と空を切って落ち続けなくてはならない。
たった一人で。
それは、いやだ。
こんなに心が落ち着かなくて、どうしたらよいかとおろおろと気を揉んで、嫌われたのかもしれないという不安に居ても立ってもいられなくなるのは、もう絶対にいや。
カミュは必死で弁解の言葉を探した。
「だって、雨が降るのは久しぶりだし、植物にも雨は必要だし、それに……」
ミロが傍にいてくれれば、雨でも楽しい。
脳裏を過ぎった最後の台詞は、しかし、音にすることはできなかった。
一番伝えるべき言葉なのにどうしても言えない悔しさに真っ赤になりながら、カミュは唇を噛みしめて俯いた。
それでも、動物的に勘の優れたミロは、その声無き言葉もしっかり聞き取ってしまったらしい。
視界の端に覗くミロの足元が、みるみる明るくなっていくような気がした。
感情の変化が気と化して、ミロの周囲に散じているのだ。
小宇宙に頼らなくても感じられるほど顕著な、陰から陽への感情転換。
「そっか、そうだね。雨、止まなくっても、別にいいか」
満足気に微笑んだミロは、ついで悪戯っぽくカミュの顔を下から覗き込んだ。
「あ、でも晴れてくれないとシーツ乾かないから、僕のベッド使えないんだ。だから、今日はカミュの所に泊めて」
ひょっとしたら最初からそれが目的だったのかもしれない。
そう疑わせるに足る確信に満ちた蒼い瞳が、カミュを捕らえる。
カミュは小さく肩をすくめてみせた。
「仕方ないな」
本当は、嬉しくてたまらないくせに。
ミロが自分の傍にいてくれる。
それは飛び上がるほど嬉しいことなのに。
綻びそうになる口元を無理やり引き締めながら、カミュは手にしたままの傘に目を落とした。
自分から行動を起こす勇気をくれた傘。
たまには、素直になってみようか。
ミロのように。
カミュは自分に向けられた蒼い瞳をみつめかえした。
「……ミロ」
「何?」
小首を傾げたミロが、続く言葉を促す。
いつも傍にいてくれて、ありがとう。
そう言ってみるだけだ。難しいことじゃない。
カミュの唇が動いた。
「……さっきのシーツ被った君、てるてる坊主みたいだった」
カミュの神経回路では、一体どうしてこんな意図しない翻訳がなされてしまうのだろう。
口も舌も、随意筋の支配下にはないのかもしれない。
言いたかった台詞は、脳から口へと伝わる間に、全く別の意味を持つ言葉に変化してしまった。
「何、それ。ひどいや」
緊張も空しく惨憺たる結果に終わり、頭を抱えてうずくまりたくなっていたカミュの内心も知らず、ミロはけたけたと声をたてて笑った。
「あ、でも、僕がてるてる坊主なら、雨あがるかな。ねえ、雨やんだら、虹見に行こうよ、一緒に」
「……虹は、必ず見られるというわけじゃないよ」
またミロの口から、一緒に、という言葉が発せられた。
自分が口にできない一言だから、ミロはカミュの分まで音にしてくれているのかもしれない。
カミュは小さく笑った。
ミロには申し訳ないが、もうしばらく、この状況に甘えさせてもらおう。
いつかカミュの方から、一緒に、という言葉を捧げられるようになるまで、ミロに誘い続けてもらおう。
少しずるいけれど、それが今のカミュの精一杯。
そして無意識ながら、ミロも漠然とそんなカミュの心理を察知してくれていると思うのだ。
悠久の時を経ても、変わらず大地は降り注ぐ雨を迎えてくれるように、ミロもまた、カミュの傍でその言葉をいつまでも待っていてくれると思うのだ。
「……でも、見られるといいね」
一緒に、という部分は口の中で唱え、カミュは微笑んだ。
ミロがにっこり笑ってうなずく。
不思議と自信に満ち溢れたその笑顔がやけに眩しくて、カミュはわずかに目を細めた。
ミロと一緒なら、虹もその姿を現してくれるかもしれない。
根拠もないのに、なぜかそう思った。