Appetizer
初夏の風が気持ちよく吹き渡る候だった。
持ち前の旺盛な好奇心を証明するかのように、次から次へと様々な提案をしてくるミロの、今日の誘いは外での食事だった。
とはいえ、それは一般的な意味での外食を指す訳ではない。
宝瓶宮の庭にテーブルを出しての食事。
これも一応、外食、だ。
毎日同じ顔を見て、同じ人間の作った料理を食べるのだ。
時には気分転換も必要だろう。
幸い天気もよく、涼やかな風に吹かれての食事に反対する理由もなかった。
キッチンで最後の仕上げに取り掛かる私の元に、先程までがたがたと騒ぎながらテーブルを運んでいたミロがやって来た。
「テーブル設置完了!」
「ああ、じゃあグラスとカトラリー持っていってくれ」
テーブルセッティングとワイン選びはミロの仕事だ。
私がとやかく言わなくても、ミロにはそれなりに料理にあったワインを選ぶだけの知識はある。
任せておいても大事はない、筈だ。
「……うわっ……!」
ただ時に、呆れるほど、がさつなのだ。
背後から聞こえた耳障りな音と小さな悲鳴に、私は肩を落としため息をついた。
次の買物リストに追加するものができた。
振り返った先には案の定、粉砕したグラスの破片を見下ろし頭を掻いているミロがいた。
「掃除機持ってくるかな」
慣れたものだ。
小言を言われる前に、ミロは床に広がるグラスの残骸を軽々と飛び越え逃げ出していく。
あの敏捷性と反射神経は、グラスが床に接地する前に発揮して欲しかったのだが。
とはいえ、嘆いたところで時間が逆行するわけではない。
彼が戻ってくる前に大きな破片だけでも拾っておこうと、私は床に膝をついた。
粉々に砕け散った硝子が、照明を反射してきらきらと輝く。
儚い生命の終わりを惜しませようと咲く、最後の徒華のようだった。
その美しさに見惚れすぎたのだろう。
不注意だった。
伸ばした指の先に、鋭い痛みが突き刺さる。
反射的に視線を落とすと、人差し指に朱線が走っていた。
しばらく外界を警戒するように流出を躊躇っていた血液が、やがて傷口から盛り上がるように滴り始める。
氷の剥片で切ったときと同様、見た目よりも意外と傷は深いのかもしれなかった。
技の特性にもよるが、私は他の聖闘士よりも血を見る機会が少ない。
そのためか、こうして流れ出る血が珍しいものに思えてしまうのだ。
私はみるみるうちに血が湧き出てくる傷口を、痛みも忘れてぼんやりとみつめていた。
「何やってんだよ」
茫然と紅に染まりゆく手を凝視していた私は、突如かけられた言葉に我に返った。
いつのまにか戻ってきていたミロが、呆れ顔の中にわずかばかりの気遣いをにじませつつ傍に座った。
乱暴に私の手をとると、有無を言わさず患部を口に含ませる。
傷口に硝子の破片が入っていないか調べているのだろう。
甘噛みするように、何度も歯が指先をしごいていく。
掴まれた手を振り払うこともできず、私はミロの為すがままに指を委ねていた。
困った。
治療だということはわかっているのだが。
彼に他意が無いこともわかっているのだが。
あまりにも、ミロは器用なのだ。
指先を這う舌と歯の動きが、痛覚とは別の感覚を刺激しだすのに時間はかからなかった。
普段は身体の奥底に封じ込められたままその存在にも気づかない熱が、徐々に温度を上げていく。
傷口に麻酔がかけられたように痛みは遠のいていき、かわって眩耀たる光が脳内に明滅し始めた。
意識を逸らそうとすればするほど五感だけが鋭敏に研ぎ澄まされ、焦燥にも似た粟立つような気配が徐々に背筋を這い登るように侵蝕していく。
必死で噛みしめた唇の合間から、抑え切れずに吐息が漏れた。
ミロの動きが一瞬止まった。
咥えられたままの指を通して、口の端が持ち上がるのがわかった。
あ。
しまった。
感づかれた。
揶揄するような笑みを浮かべたミロの蒼い瞳を直視できなくて、私は顔を背けた。
ミロの目的が、変わった。
殊更に執拗にミロは私の手をねっとりと舐めまわし始めた。
肉食獣のように長い舌を這わせながらも視線は私に据えたままだということくらい、顔を見るまでもなくわかる。
自分が与える刺激がもたらす些細な変化も見逃すまいと、愉悦に耽っているのだ。
自己嫌悪と羞恥、そして快楽への誘いが、私の中でめまぐるしく乱舞する。
しかし、それも程なく終わりを告げた。
指先に唇を触れさせたままわざわざ聞こえるように舌を鳴らされたとき、私は自らの敗北を悟った。
「……そっちの指は怪我してない」
「あれ、そうだった?」
とぼけた声が憎たらしい。
ようやく出血が止まった私の手を離すと、ミロはぺろりと意味ありげに舌なめずりをした。
「食前酒はこれでいいな。二十年物の赤ワインだ」
口の端に付いた血の痕といい、まるで吸血鬼だ。
ミロの思うがままに翻弄される自分が腹立たしくて、私は彼から視線を外したまま、唇を尖らせていた。
むざむざと血を吸われる無力な犠牲者で終わるのは、あまりに癪だ。
何とか、一矢報いる方途は無いものか。
しばらく必死で思考を巡らせていた私は、悔し紛れの反撃を思いついた。
どれほどの効果があるかはわからない。
が、それでも試してみることにした。
内心の意図を押し隠しつつ、相変わらず勝ち誇ったように笑うミロに向き直る。
蒼い瞳を覗き込むようにおもむろに顔を近づけると、唇に触れる直前で止めた。
「食前酒だというなら、私にも必要だな」
囁く声と吐息が、触れるか触れないかというほどの微弱な振動をミロの唇に伝えたはずだ。
わざと焦らすように勿体をつけるのは、ミロの得意技だ。
たまには自分が焦らされる側に立つといい。
ささやかな報復。
口付けを期待したミロが瞳を閉じるのを確認すると、私はすっと顔を避けた。
口角に残る赤い染みをさっと舐めとり、唇の端にかるく触れるだけのキスを落とす。
「……以上」
「えっ、それだけ?」
あからさまな失望の色を浮かべたミロが、頓狂な声を上げる。
予想以上の素直さで見事に計略に嵌ってくれたミロが可笑しくて、私は笑いながら頷いた。
「……こいつ……!」
しばらく憮然としていたミロの口の端が上がり、握り締められた拳が私に襲い掛かる。
ふざけ半分の攻撃くらい、かわすのは容易い。
私は上体を反らしその拳に空を切らせた。
しかし、私の余裕は、そこまで。
柔軟性を活かして拳打をかわす場合、不安定な姿勢を強いられた身体は重心を正位置に戻そうと一瞬無防備になる。
それが、本当のミロの狙いだった。
最初の一撃はただの陽動。本命の第二打は、私を殴るためではなく、抱き寄せるためのものだったのだ。
後悔した時には既に遅く、私はミロの腕の中にすっぽりと囚われていた。
耳元で、ミロが悪戯に囁く声が響いた。
「食前酒だけじゃなくて、メインもデザートも、カミュがいいんだけど」
「……悪酔いしたか」
「もう、酔いっぱなし」
味見をするように軽く耳たぶを噛まれ、私はくすぐったさに身を竦めた。
やはり、今日は私の負けらしい。
抱き締められた腕の中で、私はため息をついた。
「……外は嫌だ」
「折角テーブル外に出したんだけどな」
相変わらずの軽口に、文句の一つも言ってやろうとした私の心の動きを察したのだろう。
睨み付けようと見上げた私の視線の先で、ミロの表情がふっと和んだ。
降参。
悔しいが、認めざるをえない。
今日の勝者はミロだった。
この蕩けそうな笑顔に、一体誰が逆らえよう。
「じゃ、とりあえず乾杯しよっか」
ようやく抵抗を諦めた私に、満足そうなミロの提案が降ってくる。
私は眉を顰めた。
グラスはさっきミロが割ってしまったのだ。
乾杯などできようはずもない。
反論しようと開きかけた口は、しかし、言葉を発することもなくミロの唇に塞がれた。
なるほど。
乾杯とは、酒を飲み干すことだった。
食前酒だという二十年物の赤は、ミロの口内で焼けつくほどに熱せられ、まだその名残の存在を主張していた。
かすかに鉄の味がするその酒を飲み干そうと、私はそっとミロのグラスに舌を差し入れた。
初夏の風が気持ちよく吹き渡る候だった。
持ち前の旺盛な好奇心を証明するかのように、次から次へと様々な提案をしてくるミロの、今日の誘いは外での食事だった。
とはいえ、それは一般的な意味での外食を指す訳ではない。
宝瓶宮の庭にテーブルを出しての食事。
これも一応、外食、だ。
毎日同じ顔を見て、同じ人間の作った料理を食べるのだ。
時には気分転換も必要だろう。
幸い天気もよく、涼やかな風に吹かれての食事に反対する理由もなかった。
キッチンで最後の仕上げに取り掛かる私の元に、先程までがたがたと騒ぎながらテーブルを運んでいたミロがやって来た。
「テーブル設置完了!」
「ああ、じゃあグラスとカトラリー持っていってくれ」
テーブルセッティングとワイン選びはミロの仕事だ。
私がとやかく言わなくても、ミロにはそれなりに料理にあったワインを選ぶだけの知識はある。
任せておいても大事はない、筈だ。
「……うわっ……!」
背後から聞こえた耳障りな音と小さな悲鳴に、私は肩を落としため息をついた。
次の買物リストに追加するものができた。
振り返った先には案の定、粉砕したグラスの破片を見下ろし頭を掻いているミロがいた。
「掃除機持ってくるかな」
慣れたものだ。
小言を言われる前に、ミロは床に広がるグラスの残骸を軽々と飛び越え逃げ出していく。
あの敏捷性と反射神経は、グラスが床に接地する前に発揮して欲しかったのだが。
とはいえ、嘆いたところで時間が逆行するわけではない。
彼が戻ってくる前に大きな破片だけでも拾っておこうと、私は床に膝をついた。
粉々に砕け散った硝子が、照明を反射してきらきらと輝く。
儚い生命の終わりを惜しませようと咲く、最後の徒華のようだった。
その美しさに見惚れすぎたのだろう。
不注意だった。
伸ばした指の先に、鋭い痛みが突き刺さる。
反射的に視線を落とすと、人差し指に朱線が走っていた。
しばらく外界を警戒するように流出を躊躇っていた血液が、やがて傷口から盛り上がるように滴り始める。
氷の剥片で切ったときと同様、見た目よりも意外と傷は深いのかもしれなかった。
技の特性にもよるが、私は他の聖闘士よりも血を見る機会が少ない。
そのためか、こうして流れ出る血が珍しいものに思えてしまうのだ。
私はみるみるうちに血が湧き出てくる傷口を、痛みも忘れてぼんやりとみつめていた。
「何やってんだよ」
茫然と紅に染まりゆく手を凝視していた私は、突如かけられた言葉に我に返った。
いつのまにか戻ってきていたミロが、呆れ顔の中にわずかばかりの気遣いをにじませつつ傍に座った。
乱暴に私の手をとると、有無を言わさず患部を口に含ませる。
傷口に硝子の破片が入っていないか調べているのだろう。
甘噛みするように、何度も歯が指先をしごいていく。
掴まれた手を振り払うこともできず、私はミロの為すがままに指を委ねていた。
困った。
治療だということはわかっているのだが。
彼に他意が無いこともわかっているのだが。
あまりにも、ミロは器用なのだ。
指先を這う舌と歯の動きが、痛覚とは別の感覚を刺激しだすのに時間はかからなかった。
普段は身体の奥底に封じ込められたままその存在にも気づかない熱が、徐々に温度を上げていく。
傷口に麻酔がかけられたように痛みは遠のいていき、かわって眩耀たる光が脳内に明滅し始めた。
意識を逸らそうとすればするほど五感だけが鋭敏に研ぎ澄まされ、焦燥にも似た粟立つような気配が徐々に背筋を這い登るように侵蝕していく。
必死で噛みしめた唇の合間から、抑え切れずに吐息が漏れた。
ミロの動きが一瞬止まった。
咥えられたままの指を通して、口の端が持ち上がるのがわかった。
あ。
しまった。
感づかれた。
揶揄するような笑みを浮かべたミロの蒼い瞳を直視できなくて、私は顔を背けた。
ミロの目的が、変わった。
殊更に執拗にミロは私の手をねっとりと舐めまわし始めた。
肉食獣のように長い舌を這わせながらも視線は私に据えたままだということくらい、顔を見るまでもなくわかる。
自分が与える刺激がもたらす些細な変化も見逃すまいと、愉悦に耽っているのだ。
自己嫌悪と羞恥、そして快楽への誘いが、私の中でめまぐるしく乱舞する。
しかし、それも程なく終わりを告げた。
指先に唇を触れさせたままわざわざ聞こえるように舌を鳴らされたとき、私は自らの敗北を悟った。
「……そっちの指は怪我してない」
「あれ、そうだった?」
とぼけた声が憎たらしい。
ようやく出血が止まった私の手を離すと、ミロはぺろりと意味ありげに舌なめずりをした。
「食前酒はこれでいいな。二十年物の赤ワインだ」
口の端に付いた血の痕といい、まるで吸血鬼だ。
ミロの思うがままに翻弄される自分が腹立たしくて、私は彼から視線を外したまま、唇を尖らせていた。
むざむざと血を吸われる無力な犠牲者で終わるのは、あまりに癪だ。
何とか、一矢報いる方途は無いものか。
しばらく必死で思考を巡らせていた私は、悔し紛れの反撃を思いついた。
どれほどの効果があるかはわからない。
が、それでも試してみることにした。
内心の意図を押し隠しつつ、相変わらず勝ち誇ったように笑うミロに向き直る。
蒼い瞳を覗き込むようにおもむろに顔を近づけると、唇に触れる直前で止めた。
「食前酒だというなら、私にも必要だな」
囁く声と吐息が、触れるか触れないかというほどの微弱な振動をミロの唇に伝えたはずだ。
わざと焦らすように勿体をつけるのは、ミロの得意技だ。
たまには自分が焦らされる側に立つといい。
ささやかな報復。
口付けを期待したミロが瞳を閉じるのを確認すると、私はすっと顔を避けた。
口角に残る赤い染みをさっと舐めとり、唇の端にかるく触れるだけのキスを落とす。
「……以上」
「えっ、それだけ?」
あからさまな失望の色を浮かべたミロが、頓狂な声を上げる。
予想以上の素直さで見事に計略に嵌ってくれたミロが可笑しくて、私は笑いながら頷いた。
「……こいつ……!」
しばらく憮然としていたミロの口の端が上がり、握り締められた拳が私に襲い掛かる。
ふざけ半分の攻撃くらい、かわすのは容易い。
私は上体を反らしその拳に空を切らせた。
しかし、私の余裕は、そこまで。
柔軟性を活かして拳打をかわす場合、不安定な姿勢を強いられた身体は重心を正位置に戻そうと一瞬無防備になる。
それが、本当のミロの狙いだった。
最初の一撃はただの陽動。本命の第二打は、私を殴るためではなく、抱き寄せるためのものだったのだ。
後悔した時には既に遅く、私はミロの腕の中にすっぽりと囚われていた。
耳元で、ミロが悪戯に囁く声が響いた。
「食前酒だけじゃなくて、メインもデザートも、カミュがいいんだけど」
「……悪酔いしたか」
「もう、酔いっぱなし」
味見をするように軽く耳たぶを噛まれ、私はくすぐったさに身を竦めた。
やはり、今日は私の負けらしい。
抱き締められた腕の中で、私はため息をついた。
「……外は嫌だ」
「折角テーブル外に出したんだけどな」
相変わらずの軽口に、文句の一つも言ってやろうとした私の心の動きを察したのだろう。
睨み付けようと見上げた私の視線の先で、ミロの表情がふっと和んだ。
降参。
悔しいが、認めざるをえない。
今日の勝者はミロだった。
この蕩けそうな笑顔に、一体誰が逆らえよう。
「じゃ、とりあえず乾杯しよっか」
ようやく抵抗を諦めた私に、満足そうなミロの提案が降ってくる。
私は眉を顰めた。
グラスはさっきミロが割ってしまったのだ。
乾杯などできようはずもない。
反論しようと開きかけた口は、しかし、言葉を発することもなくミロの唇に塞がれた。
なるほど。
乾杯とは、酒を飲み干すことだった。
食前酒だという二十年物の赤は、ミロの口内で焼けつくほどに熱せられ、まだその名残の存在を主張していた。
かすかに鉄の味がするその酒を飲み干そうと、私はそっとミロのグラスに舌を差し入れた。