朝帰り
雨の音が夢うつつのカミュの聴覚を刺激する。
ギリシャの地で雨が降るのは久しぶりだ。
いつまでたっても乾燥しきった風土に慣れないカミュには、乾いた地面が水を吸い込み草木が喉を潤す雨の日がひとときの清涼剤のように感じられた。
苛烈に照りつける太陽に、目を覚まされることもない雨の朝は心地よい。
そう思ったとき、心の中で警鐘が鳴り響いた。
目を覚まされることもない…?
今、何時だ?
手探りで枕元の時計を探し当て、寝ぼけた瞳で文字盤を読み取ったカミュは跳ね起きた。
聖戦が終わり、死んだはずの聖闘士たちが復活して、もう三箇月。
教皇シオンの下で、黄金聖闘士が交代で補佐をするようになって久しい。
今日はカミュが教皇補佐当番の日だった。
だから、昨日は翌朝に備えて早く休むつもりだったのだ。
自分の宮で、ひとりで。
カミュは恨めしそうに、傍らで寝るミロを見た。
幸せそうな寝顔を見せているミロが、そのカミュの思惑をぶち壊した張本人だった。
なんだかんだと理由をつけてカミュを天蠍宮に呼び込み、そのまま帰そうとしなかった。
結果として、カミュは鈍い疼痛の残る身体で補佐に当たらなければならなくなってしまったのだ。
もう一人の当番はサガなのに。
カミュはふかぶかとため息をついた。
自分とミロの関係は、半ば公然となっている。
それでもまだ知らないと思われるのが、13年間不在だった二人。
アイオロスと、サガ。
アイオロスはまだいい。精神的には14歳のままなのだ。
ミロがカミュに抱きついているのを見ても、相変わらず仲がいいな、と、にこにこ笑っているだけだったから。
しかし、サガは違う。
子供のときにはどこにいくにもついて行ったほど、カミュはサガを慕っていた。
その記憶があるだけに、なんとなくミロとの仲を知られるのが気恥ずかしかった。
そうして二人の関係をできるだけ隠そうとするカミュが、ミロには不満だったのだろう。
だから、サガとの補佐当番の前夜に無理やりカミュを引きとめたのだ。
「罰として、朝食抜きだからな」
カミュの苦悩も知らずに眠り続けるミロに、カミュは厳然と宣告した。
実際のところ、朝食を準備しておく時間的余裕もなかった。
急いで服を着たカミュは、扉の陰で息を潜めて外の様子を窺っていた。
アイオロスがトレーニングに行く時間だった。
小雨ぐらいで彼が早朝の日課を変更するとも思えない。
彼が通り過ぎたら、急いで自宮に戻ろう。
そうすれば、誰にも会わずにすむ。
そうすれば、シャワーを浴びて服を着替えて、何事も無く補佐の職に就ける。
やがて、階段を景気よく駆け下りていく気配がした。
予想に違わず、アイオロスが活動を開始したのだろう。
足音が完全に聞こえなくなると、カミュはそろりと外へ滑り出た。
上方に人の姿はない。
誰にも見咎められずに、自宮に帰れそうだ。
カミュはほっとして、微笑を浮かべた。
しかし、それもつかの間。
突然、背後から声がかけられる。
「……カミュ?」
心臓をわしづかみにされたような驚愕に襲われながら、カミュは恐る恐る振り返った。
そこには傘をさして階段を上がってくるサガの姿があった。
自宮が上にあることで、下方への注意がおろそかになっていた浅はかな自分をカミュは呪った。
よりによって、一番会いたくなかった人物と遭遇するとは。
サガは怪訝そうにカミュと天蠍宮を見比べていた。
「ず、ずいぶん早いんですね、サガ」
「ああ、早く目が覚めてしまってね。書庫で本でも読もうと思ったのだが」
明らかに裏返ったカミュの声に、サガはいぶかしげな視線を送り続けた。
「あ、あの、朝食、つくっておいてあげようと思って、ミロに」
スキャンダルが発覚した芸能人の言い訳のように空々しい台詞を、カミュは口走っていた。
訊かれる前に説明することの不自然さなど、狼狽する彼の頭には浮かんでこなかった。
「そう、ご苦労だね」
サガはカミュに並ぶと傘をさしかけた。
「カミュ、傘は?」
「あ、小雨だったから……」
サガは口許だけで笑った。
「少し前まではもっとひどく降っていたがね。まあ、いい。宝瓶宮まで、傘に入っていきなさい」
「……ありがとうございます」
カミュの笑顔は仮面のように凍りついていた。
宝瓶宮までの階段が、これほど長いと思ったことはなかった。
語る言葉も無くただ早く自宮につくことだけを祈るカミュの内心を知ってか知らずか、サガは静かに話しかける。
「もう少しこちらにこないと、傘からはみ出してしまうだろう」
「あ、はい……」
長身の二人が相合傘で歩く以上、多少は濡れることも仕方が無いのだが、それ以上にカミュはできるだけサガから離れようとしていた。
一晩共に過ごしたミロの移り香は、所有の証を公示するかのようにカミュの身にまとわりついて離れない。
接近すれば、容易にサガに感知されるはずだった。
それが恐くて、カミュはサガに近づけなかった。
そんなカミュの様子に、サガは嘆息してみせた。
「やれやれ、昔はあれほど私を慕ってくれたのに。今ではすっかり嫌われてしまったらしいな」
自嘲じみた言葉に、カミュは思わずサガを振り仰いだ。
かすかに寂しげな横顔が、カミュの胸を痛めた。
「そんなこと、ありません。サガのこと、好きです」
それは、本心。
突然失踪したサガのことを忘れたことなどなかった。
サガの穏やかで優美な微笑は、常にカミュの記憶に宝物として鮮明に残っていた。
冥闘士としてのかりそめの生を受けたときも、その運命の過酷さを和らげてくれたのは、サガとの再会の喜びだった。
ただ、今はタイミングが悪い。
朝帰りの現場を捕まえられて平静でいられるほど、カミュは豪胆ではなかった。
「そう、それは嬉しいね」
サガは微笑んだ。
記憶どおりの温かな笑みに、カミュはつられて微笑を返した。
程なく、宝瓶宮にたどりつく。
なんとか気づかれずにすんだか、と、カミュは小さく安堵の息を漏らした。
「ありがとうございました」
軽く一礼し宮に戻ろうとするカミュの腕が、サガに掴まれた。
きょとんとして見上げるカミュの耳元に、サガは顔をよせた。
「着替えるなら、スタンドカラーのシャツにしなさい。目の毒だ」
ささやかれる言葉の意味がわからずあっけにとられたカミュの隙をつき、サガは盗み取るように軽く口付けた。
瞬きも忘れ茫然と立ち尽くすカミュに、サガは謎めいた微笑を残すと階段を上っていった。
「じゃ、またあとで」
平然とした声が、その後姿から降ってきた。
シャワーを浴びようと服を脱いだカミュは、ふと不吉な予感に襲われて鏡に駆け寄った。
「あ……!」
鏡に映る自分の顔が、みるみる羞恥の色に染まる。
首筋に、ミロが残した昨夜の情事の痕がはっきりと残っていた。
初めから、気づかれていたのだ。
カミュはへなへなとその場に崩れ落ちた。
仮病を使ってでも、補佐を休みたくなってきた。
雨の音が夢うつつのカミュの聴覚を刺激する。
ギリシャの地で雨が降るのは久しぶりだ。
いつまでたっても乾燥しきった風土に慣れないカミュには、乾いた地面が水を吸い込み草木が喉を潤す雨の日がひとときの清涼剤のように感じられた。
苛烈に照りつける太陽に、目を覚まされることもない雨の朝は心地よい。
そう思ったとき、心の中で警鐘が鳴り響いた。
目を覚まされることもない…?
今、何時だ?
手探りで枕元の時計を探し当て、寝ぼけた瞳で文字盤を読み取ったカミュは跳ね起きた。
聖戦が終わり、死んだはずの聖闘士たちが復活して、もう三箇月。
教皇シオンの下で、黄金聖闘士が交代で補佐をするようになって久しい。
今日はカミュが教皇補佐当番の日だった。
だから、昨日は翌朝に備えて早く休むつもりだったのだ。
自分の宮で、ひとりで。
カミュは恨めしそうに、傍らで寝るミロを見た。
幸せそうな寝顔を見せているミロが、そのカミュの思惑をぶち壊した張本人だった。
なんだかんだと理由をつけてカミュを天蠍宮に呼び込み、そのまま帰そうとしなかった。
結果として、カミュは鈍い疼痛の残る身体で補佐に当たらなければならなくなってしまったのだ。
もう一人の当番はサガなのに。
カミュはふかぶかとため息をついた。
自分とミロの関係は、半ば公然となっている。
それでもまだ知らないと思われるのが、13年間不在だった二人。
アイオロスと、サガ。
アイオロスはまだいい。精神的には14歳のままなのだ。
ミロがカミュに抱きついているのを見ても、相変わらず仲がいいな、と、にこにこ笑っているだけだったから。
しかし、サガは違う。
子供のときにはどこにいくにもついて行ったほど、カミュはサガを慕っていた。
その記憶があるだけに、なんとなくミロとの仲を知られるのが気恥ずかしかった。
そうして二人の関係をできるだけ隠そうとするカミュが、ミロには不満だったのだろう。
だから、サガとの補佐当番の前夜に無理やりカミュを引きとめたのだ。
「罰として、朝食抜きだからな」
カミュの苦悩も知らずに眠り続けるミロに、カミュは厳然と宣告した。
実際のところ、朝食を準備しておく時間的余裕もなかった。
急いで服を着たカミュは、扉の陰で息を潜めて外の様子を窺っていた。
アイオロスがトレーニングに行く時間だった。
小雨ぐらいで彼が早朝の日課を変更するとも思えない。
彼が通り過ぎたら、急いで自宮に戻ろう。
そうすれば、誰にも会わずにすむ。
そうすれば、シャワーを浴びて服を着替えて、何事も無く補佐の職に就ける。
やがて、階段を景気よく駆け下りていく気配がした。
予想に違わず、アイオロスが活動を開始したのだろう。
足音が完全に聞こえなくなると、カミュはそろりと外へ滑り出た。
上方に人の姿はない。
誰にも見咎められずに、自宮に帰れそうだ。
カミュはほっとして、微笑を浮かべた。
しかし、それもつかの間。
突然、背後から声がかけられる。
「……カミュ?」
心臓をわしづかみにされたような驚愕に襲われながら、カミュは恐る恐る振り返った。
そこには傘をさして階段を上がってくるサガの姿があった。
自宮が上にあることで、下方への注意がおろそかになっていた浅はかな自分をカミュは呪った。
よりによって、一番会いたくなかった人物と遭遇するとは。
サガは怪訝そうにカミュと天蠍宮を見比べていた。
「ず、ずいぶん早いんですね、サガ」
「ああ、早く目が覚めてしまってね。書庫で本でも読もうと思ったのだが」
明らかに裏返ったカミュの声に、サガはいぶかしげな視線を送り続けた。
「あ、あの、朝食、つくっておいてあげようと思って、ミロに」
スキャンダルが発覚した芸能人の言い訳のように空々しい台詞を、カミュは口走っていた。
訊かれる前に説明することの不自然さなど、狼狽する彼の頭には浮かんでこなかった。
「そう、ご苦労だね」
サガはカミュに並ぶと傘をさしかけた。
「カミュ、傘は?」
「あ、小雨だったから……」
サガは口許だけで笑った。
「少し前まではもっとひどく降っていたがね。まあ、いい。宝瓶宮まで、傘に入っていきなさい」
「……ありがとうございます」
カミュの笑顔は仮面のように凍りついていた。
宝瓶宮までの階段が、これほど長いと思ったことはなかった。
語る言葉も無くただ早く自宮につくことだけを祈るカミュの内心を知ってか知らずか、サガは静かに話しかける。
「もう少しこちらにこないと、傘からはみ出してしまうだろう」
「あ、はい……」
長身の二人が相合傘で歩く以上、多少は濡れることも仕方が無いのだが、それ以上にカミュはできるだけサガから離れようとしていた。
一晩共に過ごしたミロの移り香は、所有の証を公示するかのようにカミュの身にまとわりついて離れない。
接近すれば、容易にサガに感知されるはずだった。
それが恐くて、カミュはサガに近づけなかった。
そんなカミュの様子に、サガは嘆息してみせた。
「やれやれ、昔はあれほど私を慕ってくれたのに。今ではすっかり嫌われてしまったらしいな」
自嘲じみた言葉に、カミュは思わずサガを振り仰いだ。
かすかに寂しげな横顔が、カミュの胸を痛めた。
「そんなこと、ありません。サガのこと、好きです」
それは、本心。
突然失踪したサガのことを忘れたことなどなかった。
サガの穏やかで優美な微笑は、常にカミュの記憶に宝物として鮮明に残っていた。
冥闘士としてのかりそめの生を受けたときも、その運命の過酷さを和らげてくれたのは、サガとの再会の喜びだった。
ただ、今はタイミングが悪い。
朝帰りの現場を捕まえられて平静でいられるほど、カミュは豪胆ではなかった。
「そう、それは嬉しいね」
サガは微笑んだ。
記憶どおりの温かな笑みに、カミュはつられて微笑を返した。
程なく、宝瓶宮にたどりつく。
なんとか気づかれずにすんだか、と、カミュは小さく安堵の息を漏らした。
「ありがとうございました」
軽く一礼し宮に戻ろうとするカミュの腕が、サガに掴まれた。
きょとんとして見上げるカミュの耳元に、サガは顔をよせた。
「着替えるなら、スタンドカラーのシャツにしなさい。目の毒だ」
ささやかれる言葉の意味がわからずあっけにとられたカミュの隙をつき、サガは盗み取るように軽く口付けた。
瞬きも忘れ茫然と立ち尽くすカミュに、サガは謎めいた微笑を残すと階段を上っていった。
「じゃ、またあとで」
平然とした声が、その後姿から降ってきた。
シャワーを浴びようと服を脱いだカミュは、ふと不吉な予感に襲われて鏡に駆け寄った。
「あ……!」
鏡に映る自分の顔が、みるみる羞恥の色に染まる。
首筋に、ミロが残した昨夜の情事の痕がはっきりと残っていた。
初めから、気づかれていたのだ。
カミュはへなへなとその場に崩れ落ちた。
仮病を使ってでも、補佐を休みたくなってきた。