無憂宮
望郷


 階段がきしむ耳障りな音に、俺は来客の存在を知った。
 場末の片隅にひっそりと建つ、解体工事費を惜しみ放置されているとしか思えない廃墟寸前のうらぶれた建物。
 その一角が今の俺の家だった。
 かつて師と弟弟子と共に過ごした家とは似ても似つかない生気の欠片も無い部屋は、とりあえず寝る場所を確保するという目的だけはそれでも充分に果たしてくれていた。
 そんな世界から見捨てられたような所にまで訪ねてくる酔狂な人間など、たった一人しかいない。
 住所を教えてもいないのにどこから嗅ぎつけたのか、時折この家のドアをノックするのは氷河だった。
 妙なところで律儀で融通の利かない性質は、一体誰に似たものなのだろう。
 何度断わられても懲りもせず、あいつはまるで馬鹿の一つ覚えのように同じ誘いを繰り返す。
 シベリアに帰ってこないか。
 初めてそう言われたときには耳を疑った。
 一度は海皇に与したこの俺が、女神の聖闘士を育成するためのあの家になど帰れるものか。
 すっかり慣れてしまった問答をまた繰り返すことにうんざりしつつ戸口へ向かった俺は、ドアノブに手をかけたところで動きを止めた。
 ふと違和感を覚えた。
 いつもと違い、足音が二重に聞こえる。
 来客は一人ではないらしい。
 氷河以外にここへ来る可能性がある人物といえば……。
 緊張に、どうしようもなく手が震えた。
 最も会いたい、そして最も会いたくないあの人が、この扉の向こうにいるというのだろうか。
 聖戦が終わり甦ったときに自ら小宇宙を封じてしまった俺には、五感によらずにその存在を感知することなどできはしない。
 次第に大きくなる足音に脅えた俺は、耳を塞ぐこともできずに立ちすくんだ。
 程なくドア一枚隔てた向こうで足音は止んだ。
 乱暴なノックの音に続き、握り締めた手の中でノブが勢いよく回転する。
 慌てて手を放すと、扉の蝶番の甲高い悲鳴が鼓膜に突き刺さった。
 新鮮な外気が待ちかねていたようにどっと室内に流れ込み、そして。
 「なんだ、いるじゃん」
 氷河でも師でもない、だがやはり俺が昔よく聞いたことのある声が降ってきた。
 驚いて声のした方を見上げると、荒涼とした辺りの雰囲気さえ変えてしまえるような陽気な笑顔に出くわした。
 この、氷河よりも濃い色の髪と瞳の持ち主には、嫌というほど見覚えがある。
 「久しぶりだな、アイザック」
 俺の顔に醜く残る傷にも動じた風もない屈託のない挨拶に、シベリアで過ごした日々に一瞬で引き戻されるような錯覚を覚えた。
 「……お久しぶり、です」
 予想外の人物との再会にすっかり混乱した俺はそれだけ言うのがやっとだったが、それでもミロは満足そうににっと笑って頷いた。


 氷河だけなら玄関先で追い帰すこともできたが、生憎来客の一人がミロではそういうわけにはいかない。
 すっかり身に染み付いてしまった習慣は、そう簡単には変えられなかった。
 賑やかすぎて騒々しい客とはいえ、尊敬する師の友人だから、丁重にもてなす必要がある。
 子供の頃ならいざ知らず、ある程度分別がつくようになってからは、少なくとも茶くらいは出すのが兄弟子たる俺の務めだった。
 寝台と小さなテーブルしかない狭い部屋を好奇心も顕わに見回している無作法な来客のために、俺はカップを探した。
 客が来ることなど滅多にないから、自分が普段使う食器以外は全て棚の奥に仕舞い込んでしまっていたのだ。
 もう一人の客人である氷河はといえば、窓辺にもたれて外をぼんやりと眺めているだけで、もてなし支度を手伝おうという気はさらさら無いらしい。
 あいつのことだ。自分が客だからという訳ではなく、ただ単に気が利かないのだろう。
 相変わらずのマイペース振りに久々に感じる苛立ちを何故か無性に懐かしく味わいながら、俺は頭上の棚に手を伸ばした。
 「あ、これか。取ってやるよ」
 カップを取ろうとした俺の頭越しに、長い腕がひょいと伸びてくる。
 俺を爪先立たせる高い棚にも、ミロは軽々と手が届く。
 少し不愉快だった。
 最後にミロと会ってから、もう何年が経つのだろう。
 あれから俺を取り巻く世界は激変し、自分は随分大人になったと思っていたのだが、それでもミロとの間に存在する格差は一向に縮まっていないらしい。
 こんなささやかな事実にも劣等感を刺激される俺は、やはりまだまだガキだということか。
 苦々しい自嘲の笑いを浮かべながら、俺は口の中でもごもごと礼を言うと、ミロからカップを受け取った。


 安物の不味い紅茶にもかかわらず、ミロは平然とカップに口をつける。
普段彼が口にしているのは、茶の味にはうるさいあの人が淹れるこだわりの一杯のはずだ。
 俺も一通りの茶の淹れ方は習ったが、いかんせん茶葉の質が段違いに劣る以上、香りからも水色からもその味の差は飲むまでもなく明らかだ。
 それなのに、ミロは文句一つ言わない。
 それどころか口元にうっすらと笑みさえ浮かべて長閑に茶をすすっていた。
 この荒んだ暮らしをしている俺を憐れんでいるようで、その無反応ぶりがひどく感情を逆撫でする。
 言いたいことがあるのなら、はっきり言ってくれ。
 そう言おうと口を開きかけた俺を制するように、ミロは静かにカップを置いた。
 余裕すら感じさせる蒼い瞳でじっとみつめられると、自分が彼の掌の上でいいように転がされるしかないちっぽけな存在に思えてくる。
 たまらず目を逸らした俺を小さく笑ったミロは、彼には珍しく諭すように静かに話しかけてきた。 
 「俺が今日ここに来たのは何故か、わかるか」
 この人でもこんな落ち着いた会話ができるのだということに少し驚きながら、俺はぶっきらぼうに返事を投げた。
 「……氷河と同じことを言いにきたんじゃないんですか」
 その氷河は、手土産を忘れたとかで、菓子を買いに行かされていた。
 体よく人払いをされている形になっていることに、あいつは気がついているのだろうか。
 この数年間で成長したのは、あいつも同じだ。
 人使いの荒いミロの傲慢な命を受けたにもかかわらず、少しも表情を動かさずに出かけていった氷河からは、その内心を読み取ることなど出来はしなかった。
 「その推測は、近いがかなり遠いな」
 たったこれだけの短い台詞の中に矛盾の塊を押し込んだミロの真意を量りかね、俺は戸惑いを隠そうともせずにミロを見返した。
 「氷河はおまえに帰ってこいと言ってるんだろうが、俺は無理して帰ってこなくていいと言うために来たんだ」
 ミロの言葉がぐさりと胸を刺す。
 帰ってこなくていい。
 その一言が、勘に触った。
 他人にそんなことを言われる筋合いはない。
 こみ上げてくる得体のしれない苦味を、俺は奥歯を噛みしめてやり過ごした。
 不興を悟られないよう、そうして精一杯表情を消そうと試みたのだが、残念ながらその努力は成果を結ばなかったらしい。
 「……不満か?」
 見事に内心を言い当てられ、俺はぎくりと顔を引きつらせた。
 動揺する俺がよほど可笑しいのか、ミロは得意げに肩をそびやかす。
 「帰るなと言われて面白くないんなら、帰りたいって気持ちもあるってことだな」
 「……嵌めたんですか」
 ミロは、意地が悪い。
 人の心を弄んでは、狼狽する相手の姿に愉悦に浸る。
 かつて、あの人もよくその被害を受けていた。
 にやにやと笑うミロに憤然と喰ってかかるその姿が何故だかどこか楽しげで、いつも奇妙な感覚を抱かされたことを鮮明に覚えている。
 だが害を被ったのが俺自身では、ミロの言動は楽しいどころか不快の元でしかない。
 「別にそういうわけではないさ」
 ぐっと睨みつける俺に怯む様子もなく、ミロは余裕綽綽と口の端をかるく持ち上げた。
 「帰ってこいってのはあいつらの我侭、帰らないってのはおまえの我侭。だから、俺はどっちの味方もしない」
 そう言ったミロは一旦言葉を切ると、蒼い瞳からすっと笑みを消した。
 その瞳の強さに、思わず俺の喉がこくりと鳴る。
 不覚にも気圧された俺は、黙って続く言葉を待った。
 「だが、これだけは覚えておけ。あそこは、おまえらの家だ。帰りたくなったらいつでも迎えてくれる、そういう場所がおまえにはあることを忘れるな」
 俺の凍てついた心にも届くようにと配慮してか、殊更真剣な口調で語りかけてきたミロは、羨ましい話だがな、と最後におまけのような呟きを付け加えた。
 そんなミロらしからぬ真摯な説得に、心動かされなかったといえば嘘になる。
 懐かしいあのシベリアの家の光景は、いつだって俺の脳裏に温かな記憶と共に再現される。
 未来への希望に満ち溢れた日々は、間違いなく俺にとって最も幸せな時間だった。
 だが……。
 「……俺には無理です。あの家には帰れません」
 もうすっかり冷めて濁りだした紅茶の表面をみつめながら、俺は何とかかすれた声を絞り出した。
 音に乗せてしまったことにより、その台詞はより一層の現実味をもってずしんと俺の胸に響く。
 聖域に弓を引いた。
 過去は歴然と消えることなく存在し、俺に裏切り者の烙印を押す。
 あの人の教えを無為にしたこの俺には、彼の地に戻ることも、再びあの人にまみえることも許されはしない。
 自虐にも似た発言の予想外のダメージの大きさに、ふっと冷めた笑いが浮かんだ。
 皮相な笑みを貼り付けたまま、俺はミロを見た。
 これから俺が試みるささやかな抵抗は彼にとっても酷かもしれなかったが、今にも壊れそうな自分を守るためには仕方がない。
 そう割り切った俺の唇から、乾いた音が漏れた。
 「……あなたは、許したんですか?」
 あの人を。
 わざと不完全な言い方をしたのだが、洞察力に長けたミロにはこの質問の意図がきちんと伝わっているはずだ。
 俺があの人や氷河を裏切ったように、あの人も裏切っていた。
 俺たちを、ミロを、聖域を、あの人は欺いていた。
 理想の聖闘士と心より尊敬していたあの人が、陰では偽りの教皇を支え女神に背いていた。
 俺が海皇の傘下に入った決定的な理由は、海龍によって告げられたその驚愕の事実だったのだ。
 師に対する俺の崇拝にも似た憧憬は春先の流氷のように脆くも崩れ去り、その反動か憎悪の炎はめらめらと勢いよく燃え上がる。
 俺はあえてその業火を消そうとはしなかった。
 より正確には、どんなに憎んでもあの人を憎みきれない自分が忌々しくて、自身を制御できなくなっていた。
 俺と同じように、いや、ある意味俺よりももっと手酷く裏切られたともいえるミロは、それでもあの人を許すことができたのだろうか。
 もしほんの少しでもわだかまりが残ると言うのなら、シベリアには帰れない俺の心情も理解できるはずだ。
 答えを求めて俺はじっと彼を見据えた。
 しばらく耳の痛くなるような陰鬱な沈黙が続く。
 やがて、意外にもミロはふっと表情を緩めた。
 「許した……っていうのとはちょっと違う、な」
 考えをまとめる時間を稼ぐように冷たいカップを取り上げ一口喉に流し込むと、ミロは窓の外へと顔を向けた。
 薄汚れた硝子の向こうに、過ぎ去った激動の日々を見ているのかもしれない。
 かつてのように穏やかに時が流れる現在に至るまで、彼は彼なりに悩み苦しんできたのだろう。
 そう思わずにはいられないような、わずかばかりの愁いを含んだ表情で遠くを茫と眺めやったまま、ミロは淡々と独り言めかした呟きを続けた。
 「正直、どうでもよくなったかな。相手に死なれて独りで残されてみろ。生きててくれる、ただそれだけで嬉しいもんだぞ」
 そして、ミロはゆっくりと視線を部屋の内に移動させ、俺の瞳を捕まえたところで動きを止めた。
 冴え冴えと落ち着いた蒼の瞳に見据えられると、どうにも居心地が悪い。
 俺は怖気づく自分を懸命に奮い立たせ、何とか逃げ出さずにその透徹とした眼差しを受け止めようとした。
 ここでミロと対峙することが、全てに背を向けてきた俺の転機になるような、そんな気がしていた。
 「……多分、あいつも同じだ。おまえが無事に生きてるってだけで喜んでいるはずだ」
 静かなミロの声に、懐かしくも慕わしい別人の声が重なって聞こえた。
 そう思いたかっただけなのかもしれない。
 そう、あの人に言って欲しいと。
 ふと胸の奥底が熱くなった。
 俺が幾重にも障壁を廻らせ厳重に鍵をかけて仕舞い込んでいた願望を、いつのまにかミロは盗み出していた。
 その挙句、手品のように次々と披露されていくのは、ずっと目を背け続けてきた俺の本心。
 本当は、帰りたくて、あの人に会いたくて、どうしようもなかった。
 そうしなかったのは、自分を拒絶される、ただその可能性に脅えたというだけのこと。
 俺は、脆い。
 認めたくなかったが、それが事実なのだ。
 崩壊した海界に戻ることもできず、このまま許されざる者として独りで生きていこうと、必死で強がっていた自分がひどく滑稽だった。
 泣きたいのか笑いたいのかそれすらわからず、次に装うべき表情を決めあぐねていると、引きつった笑みを強いられ続けた表情筋が疲労を訴えてくる。
 この作り笑いに限界が来つつあることを勘よく察したのか、ミロはすっと脇を向き俺を視界から外してくれた。
 「それにな、おまえがあいつを許してやらないと、あいつは自分を許せない。過去に縛られるのは勝手だが、おまえがつまらんことに意地を張り続けていると俺が迷惑する」
 そのうち一度くらいはあいつに顔を見せに行ってやれ、と言葉を結んだミロは、珍しく滔々と真面目な話をした自分が照れくさくなったのか、やがて誤魔化すように片手でくしゃりと髪をかき回した。
 「……大体、もう聖域と海界は講和したし、あのカノンだって今じゃ聖域で暮らしてるんだぞ。下っ端のおまえが余計なこと気にしてどうすんだよ」
 「下っ端って……」
 いきなり態度を豹変させたミロの軽口に、俺は憮然として思わず口を尖らせた。
 さりげなく失礼な発言は、ミロの得意分野だ。
 今まで俺の目の前にいた成熟した男は何処かへ消え去り、いつものおどけたミロが抑制を解かれたようにその本領を発揮し始める。
 「あ、何なら、スカーレットニードル打ち込んでやろうか? カノンもそれがきっかけで……」
 「……それは止めたほうが……」
 蒼い瞳を悪戯に輝かせるミロの提案に水を差したのは、見計らったかのようにタイミングよく帰って来た氷河だった。
 菓子折りを手にした氷河の顔が幾分しかめられているのは、近くに適当な店がなく買い物が大変だったせいなのか、ミロの技の痛さを思い出しているせいなのか、どちらだろう。
 答えはおそらく両方だなどと思いつつ、俺は紅茶を淹れ直そうと立ち上がった。
 小さな台所に立つ間は、自然と来客に背を向けることになる。
 今の俺には、それが、有難かった。


 その後しばらく益体もない話をつらつらと繰り広げた後、ミロと氷河は帰っていった。
 慣れ親しんだ静寂の中に一人残された俺は、何をするでもなくぼんやりと椅子に座っていた。
 隅々まで楽に見渡せる狭い部屋では、テーブルの上に残されたままの彼らが使った食器が否応もなく視界に飛び込んでくる。
 自分以外の人間が、ここにいたのだ。
 久々に味わう人の気配の名残に、今まで感じたことのない寂しさがどっと押し寄せる。
 ああ、と、俺は深く息を吐いた。
 帰りたい。
 素直にそう思った。
 孤独に苛まれ激しい懐郷の念に駆られた俺は、少しの躊躇いのあと静かに瞳を閉じた。
 シベリアは、遠い。
 あくまで仮定の話だが、もしあそこへ行くのならば空間移動に頼った方がいい。
 実際に行くかどうかはともかくとして、としつこいほどに何度も自分に言い聞かせつつ、俺は小宇宙の封印を解くべくすっと意識を集中させた。
 深層心理の内へ内へと深く潜っていくと、程なくある記憶の情景にたどり着く。
 そこには、厳しくも温かい絆で結ばれた人たちと共に過ごしたあの家があった。
 その扉は大きく開かれていた。
 訪れる者を優しく迎え入れようと、無言の内に誘っているようだった。

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