病臥
カミュがようやく弟子の指導を終え、聖域に戻ってきて数日が経った。
夢にまでみた恋人の帰還を得たミロだが、その表情は浮かない。
気候の激変のためか、師としての役割を終え緊張感が解けたためか、カミュは体調を崩していた。
床について、もう三日は経っていた。
微熱が下がらず、起き上がろうとするとめまいが彼を襲う。
もともと旺盛でない食欲もさらになくなり、日に日に線が細くなっていく。
本の虫のカミュが書物に触れようともしないところからも、その容態の悪さはうかがえた。
医師にも病因がわからず、気休めのような栄養剤を処方するのが精一杯だった。
処方薬を受け取り医師の元を辞すと、ミロは片手に花を抱えて、宝瓶宮を訪れた。
カミュの浅い眠りを妨げないよう静かに扉を開けると、寝室の方からかすかに話し声がする。
ミロが入っていくと、三人の見舞い客が振り返った。
「おう、病人食、持ってきてやったぜ。中華粥だ」
デスマスクがトレイにのせた鍋の蓋をとった。途端に白い湯気と食欲をそそる香りが立ち上る。
「私は薔薇を。あっ、ちゃんと病人に配慮して微香性の華だからな」
「……微香性って、芳香剤かよ」
アフロディーテの言葉に、シュラがぼそりと呟く。
「俺は薬。……ん、なんだ、おまえも花持ってきたのか?」
ミロは手にした花に目を落とす。
花弁の多い東洋の白い花だった。
「ああ、これ? さっき、シャカに渡された。カミュに持ってけって」
「見舞いに白い菊か? それ、葬式用だぞ、東洋じゃ」
呆れたようなデスマスクが、外見に似合わない博識ぶりを披露する。
ミロが花を握り締めた。
「あのやろう……。叩き返してくる!」
「……いいよ、ミロ」
寝台に横たわったカミュが小さく微笑んだ。
瞳は熱に潤み、言葉を紡ぐのも大儀そうだった。
「花の意味など、人が後からつけたものにすぎない。花は無心に咲くだけだ」
「でも……」
不満そうなミロに、シュラが苦笑いを浮かべた。
「ま、もしあいつが嫌がらせしようとするなら、そんな回りくどい方法は取らんだろう」
「確かに。シャカのことだから、見舞いに花を贈るのも初めてだろうし。あんまり深い意味はなさそうだな」
アフロディーテも、妙に納得したようにうなずく。
ようやく怒りを静めたミロは、アフロディーテの薔薇と一緒に、菊を無造作に花瓶に投げ入れた。
三人が帰ると、ミロは寝台のそばの椅子に腰掛けた。この何日かのミロの定位置だ。
ほとんどは静かなカミュの寝顔を見守るだけだが、それでも起きたときには居合わせたくて、その椅子からなかなか腰が上げられなかった。
デスマスクが置いていったトレイをサイドテーブルから取り上げる。
「カミュ、食べれる? 熱かったら、ふうふうしてやろうか?」
「子供じゃないんだが」
カミュは力なく微笑んだ。
その微笑はあまりにはかなくて、ミロは正視できなかった。
そのまま、春雪のごとく消え去りそうにさえ思われた。
「……そんな脅えた顔をするな。少し、休めば治る」
「だって、そう言ってもう何日にもなるし、シャカはあんな花なんかよこすし、昨日なんか教皇まで見舞いに来たし……」
今にも泣きだしそうなミロの手を、カミュはなだめるように握った。
普段よりも熱をはらんだ指の感触に、ミロは違和感を禁じえなかった。
カミュの手は、もっとひんやりと冷たいはずだった。
「シャカに悪気はないだろうし、黄金聖闘士が珍しく臥せっているから、教皇も気を遣ってくださったんだろう」
カミュは瞳を伏せた。
しばらく無言でミロの手を撫でていたが、ふいに口を開く。
「私が死んだら、おまえは、どうなるのかな」
淡々とした他人事のような台詞に、ミロは眼を見開いた。
カミュは相変わらず穏やかな微笑を浮かべている。
透徹としたその表情には、不思議と現実感がなかった。
「カミュ、なんでそんなこと……」
「ちょっと、思っただけだ。大丈夫だろう、おまえは。私がいなくても充分生きていける」
「カミュ!」
ミロは悲鳴のような声を上げた。
そのまま、横臥するカミュに覆いかぶさるようにすがりつく。
「どうした、ミロ?」
「そんなこと、言うな」
ミロの肩が小刻みに震えていた。
怪我なら、数え切れないほどした。
生死を賭けた死闘も、何度もくぐり抜けてきた。
しかし、病気とは無縁だった。
死神が病という姿をとって現れたなら、ミロにはどう抵抗していいのかわからなかった。
カミュを、失うかもしれない。
形容しがたい恐怖が、ミロを押し包んでいた。
カミュは吐息を漏らすと、子供をあやすようにミロの背を軽く叩いてやった。
「……だって、おまえは私より先に死なないって約束してくれただろう、昔」
「そうだけど……。でも、今はそんなの、聞きたくない」
「安心しろ。私が死ぬなら、戦闘で、だ。少なくとも、今ではない」
わかったか、とささやくカミュに、ミロは何度もうなずいた。
背中に感じるカミュの手が暖かくて、動けなかった。
しばらくして、ようやくミロは顔を上げた。
わずかに赤くなった目を、照れたようにこする。
カミュは安堵の笑みを浮かべると、ちらりとサイドテーブルを見遣った。
「折角、デスマスクが作ってくれたんだ。少しは食べないとな」
かすかに無理を感じさせる声だった。
不用意な自分の発言に激しく動揺したミロを気遣ったのだろう。
それでも、ミロは飛びついた。
ほんの少しでもいい。
カミュが快方に向かうなら、なんだって利用するつもりだった。
食欲を無くして久しいカミュが、自ら食べるというのだ。
この機会を逃すわけにはいかなかった。
ミロは鍋の蓋を取った。
すっかり冷めてしまった粥に、ありありと失望の色を浮かべる。
「かまわん。どうせ熱いものは食べられないから」
その心を読み取ったように、カミュが言葉をかける。
ミロはうなずくとゆっくりとカミュを抱き起こし、背にクッションをあてがい支えにしてやる。
「大丈夫?」
「ああ、大分めまいは治まってきたかな」
カミュの一挙手一投足を案じるミロに、カミュは笑ってみせた。
「そう病人扱いするな」
「だって、病人じゃん。熱があって、食欲無くて、それから……。あ、そうだ、食べさせてやろうか?」
ミロは努めて明るい声を上げた。
久しぶりの食事だ、楽しく摂ってほしかった。
元気だったら飛んでくるだろう拳に警戒しつつ破顔するミロに、カミュは一瞥を与えた。
くすりと小さな笑みが浮かぶ。
「そうか。じゃ、頼もう」
冗句に対する思いもかけないカミュの返答に、ミロは呼吸を止めた。
驚いてみつめるミロに、カミュは悪戯っぽい視線を返す。
普段の彼らしくもない戯れに、カミュはミロの気配りへの感謝を込めているのだ。
ミロは口許を緩めた。
冷めた粥を一匙すくうと、ゆっくりとカミュの口に運ぶ。
笑いを含んだ瞳のままカミュは口を開けた。
流し込まれた粥を静かに咀嚼する。
程なく、カミュの頬が熱以外の理由から、やや赤く染まった。
「……やっぱり、自分で食べる」
「なんで? ほら、もう一口、あーんってして」
「もういい」
カミュはミロの手を押さえ、匙を取り上げた。
「結構、恥ずかしいものだぞ。今度はおまえに食べさせてやろう」
「いや、俺、病人じゃないし」
ミロは笑った。
「食後のお薬は、口移しで飲ませてやろうか?」
「……ばか」
久しぶりに聞くはにかんだときのカミュの口癖に、ミロの瞳が和らぐ。
「……早く、よくなれよ」
「そのつもりだ」
視線が交錯した。
病人とも思えない強い瞳に、ミロは放念した。
これなら、病魔に屈することは無い。
そう確信させる瞳だった。
カミュがようやく弟子の指導を終え、聖域に戻ってきて数日が経った。
夢にまでみた恋人の帰還を得たミロだが、その表情は浮かない。
気候の激変のためか、師としての役割を終え緊張感が解けたためか、カミュは体調を崩していた。
床について、もう三日は経っていた。
微熱が下がらず、起き上がろうとするとめまいが彼を襲う。
もともと旺盛でない食欲もさらになくなり、日に日に線が細くなっていく。
本の虫のカミュが書物に触れようともしないところからも、その容態の悪さはうかがえた。
医師にも病因がわからず、気休めのような栄養剤を処方するのが精一杯だった。
処方薬を受け取り医師の元を辞すと、ミロは片手に花を抱えて、宝瓶宮を訪れた。
カミュの浅い眠りを妨げないよう静かに扉を開けると、寝室の方からかすかに話し声がする。
ミロが入っていくと、三人の見舞い客が振り返った。
「おう、病人食、持ってきてやったぜ。中華粥だ」
デスマスクがトレイにのせた鍋の蓋をとった。途端に白い湯気と食欲をそそる香りが立ち上る。
「私は薔薇を。あっ、ちゃんと病人に配慮して微香性の華だからな」
「……微香性って、芳香剤かよ」
アフロディーテの言葉に、シュラがぼそりと呟く。
「俺は薬。……ん、なんだ、おまえも花持ってきたのか?」
ミロは手にした花に目を落とす。
花弁の多い東洋の白い花だった。
「ああ、これ? さっき、シャカに渡された。カミュに持ってけって」
「見舞いに白い菊か? それ、葬式用だぞ、東洋じゃ」
呆れたようなデスマスクが、外見に似合わない博識ぶりを披露する。
ミロが花を握り締めた。
「あのやろう……。叩き返してくる!」
「……いいよ、ミロ」
寝台に横たわったカミュが小さく微笑んだ。
瞳は熱に潤み、言葉を紡ぐのも大儀そうだった。
「花の意味など、人が後からつけたものにすぎない。花は無心に咲くだけだ」
「でも……」
不満そうなミロに、シュラが苦笑いを浮かべた。
「ま、もしあいつが嫌がらせしようとするなら、そんな回りくどい方法は取らんだろう」
「確かに。シャカのことだから、見舞いに花を贈るのも初めてだろうし。あんまり深い意味はなさそうだな」
アフロディーテも、妙に納得したようにうなずく。
ようやく怒りを静めたミロは、アフロディーテの薔薇と一緒に、菊を無造作に花瓶に投げ入れた。
三人が帰ると、ミロは寝台のそばの椅子に腰掛けた。この何日かのミロの定位置だ。
ほとんどは静かなカミュの寝顔を見守るだけだが、それでも起きたときには居合わせたくて、その椅子からなかなか腰が上げられなかった。
デスマスクが置いていったトレイをサイドテーブルから取り上げる。
「カミュ、食べれる? 熱かったら、ふうふうしてやろうか?」
「子供じゃないんだが」
カミュは力なく微笑んだ。
その微笑はあまりにはかなくて、ミロは正視できなかった。
そのまま、春雪のごとく消え去りそうにさえ思われた。
「……そんな脅えた顔をするな。少し、休めば治る」
「だって、そう言ってもう何日にもなるし、シャカはあんな花なんかよこすし、昨日なんか教皇まで見舞いに来たし……」
今にも泣きだしそうなミロの手を、カミュはなだめるように握った。
普段よりも熱をはらんだ指の感触に、ミロは違和感を禁じえなかった。
カミュの手は、もっとひんやりと冷たいはずだった。
「シャカに悪気はないだろうし、黄金聖闘士が珍しく臥せっているから、教皇も気を遣ってくださったんだろう」
カミュは瞳を伏せた。
しばらく無言でミロの手を撫でていたが、ふいに口を開く。
「私が死んだら、おまえは、どうなるのかな」
淡々とした他人事のような台詞に、ミロは眼を見開いた。
カミュは相変わらず穏やかな微笑を浮かべている。
透徹としたその表情には、不思議と現実感がなかった。
「カミュ、なんでそんなこと……」
「ちょっと、思っただけだ。大丈夫だろう、おまえは。私がいなくても充分生きていける」
「カミュ!」
ミロは悲鳴のような声を上げた。
そのまま、横臥するカミュに覆いかぶさるようにすがりつく。
「どうした、ミロ?」
「そんなこと、言うな」
ミロの肩が小刻みに震えていた。
怪我なら、数え切れないほどした。
生死を賭けた死闘も、何度もくぐり抜けてきた。
しかし、病気とは無縁だった。
死神が病という姿をとって現れたなら、ミロにはどう抵抗していいのかわからなかった。
カミュを、失うかもしれない。
形容しがたい恐怖が、ミロを押し包んでいた。
カミュは吐息を漏らすと、子供をあやすようにミロの背を軽く叩いてやった。
「……だって、おまえは私より先に死なないって約束してくれただろう、昔」
「そうだけど……。でも、今はそんなの、聞きたくない」
「安心しろ。私が死ぬなら、戦闘で、だ。少なくとも、今ではない」
わかったか、とささやくカミュに、ミロは何度もうなずいた。
背中に感じるカミュの手が暖かくて、動けなかった。
しばらくして、ようやくミロは顔を上げた。
わずかに赤くなった目を、照れたようにこする。
カミュは安堵の笑みを浮かべると、ちらりとサイドテーブルを見遣った。
「折角、デスマスクが作ってくれたんだ。少しは食べないとな」
かすかに無理を感じさせる声だった。
不用意な自分の発言に激しく動揺したミロを気遣ったのだろう。
それでも、ミロは飛びついた。
ほんの少しでもいい。
カミュが快方に向かうなら、なんだって利用するつもりだった。
食欲を無くして久しいカミュが、自ら食べるというのだ。
この機会を逃すわけにはいかなかった。
ミロは鍋の蓋を取った。
すっかり冷めてしまった粥に、ありありと失望の色を浮かべる。
「かまわん。どうせ熱いものは食べられないから」
その心を読み取ったように、カミュが言葉をかける。
ミロはうなずくとゆっくりとカミュを抱き起こし、背にクッションをあてがい支えにしてやる。
「大丈夫?」
「ああ、大分めまいは治まってきたかな」
カミュの一挙手一投足を案じるミロに、カミュは笑ってみせた。
「そう病人扱いするな」
「だって、病人じゃん。熱があって、食欲無くて、それから……。あ、そうだ、食べさせてやろうか?」
ミロは努めて明るい声を上げた。
久しぶりの食事だ、楽しく摂ってほしかった。
元気だったら飛んでくるだろう拳に警戒しつつ破顔するミロに、カミュは一瞥を与えた。
くすりと小さな笑みが浮かぶ。
「そうか。じゃ、頼もう」
冗句に対する思いもかけないカミュの返答に、ミロは呼吸を止めた。
驚いてみつめるミロに、カミュは悪戯っぽい視線を返す。
普段の彼らしくもない戯れに、カミュはミロの気配りへの感謝を込めているのだ。
ミロは口許を緩めた。
冷めた粥を一匙すくうと、ゆっくりとカミュの口に運ぶ。
笑いを含んだ瞳のままカミュは口を開けた。
流し込まれた粥を静かに咀嚼する。
程なく、カミュの頬が熱以外の理由から、やや赤く染まった。
「……やっぱり、自分で食べる」
「なんで? ほら、もう一口、あーんってして」
「もういい」
カミュはミロの手を押さえ、匙を取り上げた。
「結構、恥ずかしいものだぞ。今度はおまえに食べさせてやろう」
「いや、俺、病人じゃないし」
ミロは笑った。
「食後のお薬は、口移しで飲ませてやろうか?」
「……ばか」
久しぶりに聞くはにかんだときのカミュの口癖に、ミロの瞳が和らぐ。
「……早く、よくなれよ」
「そのつもりだ」
視線が交錯した。
病人とも思えない強い瞳に、ミロは放念した。
これなら、病魔に屈することは無い。
そう確信させる瞳だった。