First kiss
「……俺、カミュが好きなんだけど」
「そうか、私も好きだぞ、おまえのこと」
ミロの一世一代の告白に、カミュは微笑んだ。
それが一週間前のこと。
それから何が変わったか、というと、実は何も変わらなかった。
もともと朝から晩まで共に過ごしていた二人だ。
友人から恋人に昇格したとしても、今まで以上に多くの時間を共有するということは初めから不可能だった。
しかし、恋愛成就の幸福の頂点にいたミロを不安にさせたのは、それだけではなかった。
カミュの態度は、告白以前のそれと全く同じだった。
ひょっとしたら、ミロの恋心はカミュには伝わっていないのかもしれなかった。
あの必死の告白も、ただの友情の確認と思われたのかもしれなかった。
ありうる。充分ありうる。
カミュは、時々めまいを覚えるほどの天然ぶりを披露してくれるのだ。
そこがカミュのかわいいところでもあるのだが、さすがに今回ばかりは困る。
ミロは一人、頭を抱えていた。
今日こそカミュの気持ちを再確認しようとの決意を胸に秘め、宝瓶宮を訪れたミロの足が止まった。
宮主と客が対峙したまま、数瞬の沈黙が部屋を支配する。
「……何? 化粧、してんの?」
ようやく絞り出されたミロのうわずった声に、カミュは呆れた視線を投げた。
「なんの話だ?」
「だって、それ、……口紅?」
カミュは手にした小さなスティックを見た。
得心がいったように首を振る。
「違う。これはリップクリーム。唇が乾燥して困るといったら、アフロディーテがくれた」
ミロはしげしげとカミュをみつめた。
グロスを塗ったように艶やかな唇が、妙になまめかしくて目が離せなかった。
「でも、まずいんだ、これ」
赤い舌がちらっと覗いた。さっと唇を舐めるだけの仕草が、ミロの心臓を激しく打ち鳴らした。
恋人だったら、キスとか、しても、いいよ、な。
自分自身への問いかけに、答えはなかった。
まだ、恋人といってよいものか、自信は持てなかった。
ミロの内心の動揺にも気づかないのか、カミュは不満そうに唇を指で撫でていた。
ふと、その視線がミロに注がれる。
「おまえ、そういう悩みなさそうだな」
「だって、俺、生まれも育ちもギリシャだし。乾燥した空気、慣れてるから」
「……ずるいな」
カミュは心底恨めしそうにミロを見遣ると、人差し指を自分の口許から、ミロの唇に移動させた。
思いがけないカミュの行動に、ミロは息を呑み身を硬くした。
「ほんとだ、乾いてない」
納得がいかない様子でミロの唇をなぞるカミュの手から、ミロは逃げ出した。
それ以上触れられていたら、カミュの意志に関係なく無理やりキスしそうだった。
突然のミロの退避行動に、カミュはいぶかしげな視線を注いでくる。
絡みつくような、真紅の瞳。
その双眸から逃れるため、ミロは努めて明るい声をだした。
「そういえば、昔、蜂蜜塗るといいって聞いたことあるけど……」
「蜂蜜?」
カミュは小首をかしげて復唱した。
「試してみよう。手伝え」
嬉々として台所に向かうカミュを、ミロは止めることはできなかった。
沸き起こる不吉な胸騒ぎを抑えるので精一杯だった。
程なく、カミュは蜂蜜の小瓶を手に戻ってきた。
蓋を開けると、アカシア蜜の甘い香りがふんわりと室内に広がる。
カミュはスプーンで黄金に透き通った液体を軽くかきまぜた。
すくい上げたスプーンから、とろりと雫が垂れ落ちる。
「ほら、ミロ、手出して」
「なんで?」
「手伝えっていっただろ」
ミロは予感が的中したことを悟った。
「ひょっとして、俺が塗るの? カミュの口に?」
わずかに震えるミロの問いかけに、カミュはうなずいた。
「蜂蜜は、べたべたするから嫌なんだ。おまえなら、ハニートースト食べた後、指舐めてたりするし、いいだろう」
鋭い観察眼はもう少し有用な方に向けてほしかったが、もう遅かった。
カミュは期待を込めた目でミロを熟視している。
その瞳を裏切ることはできなかった。
ミロは観念して左手を差し出した。
カミュが蜂蜜を一匙、ミロの手に垂らす。
「じゃ、よろしく」
無邪気に微笑むカミュが顔を差し向けた。
ミロはため息をつくと、じっと蜂蜜に濡れた掌をみつめた。
「……わかった」
ぼそっと呟くと、突然ミロは掌をカミュの口を塞ぐように押し付けた。
予期せぬ動作に目を見開いたカミュが、くぐもった声を上げながら抗議の視線を送ってくる。
ミロが手を離すと、カミュは酸素を求めて激しくあえいだ。
なんとか呼吸を元に戻すと、柳眉を逆立てる。
「何をする!」
「蜂蜜、塗れただろ?」
カミュは頬に手を添えた。
指先に蜜が張り付くのを確認すると、怒りに震える瞳でじろりとねめつけた。
「ああ、塗れたな。口だけじゃなくって顔中に。べたつくのが嫌だからおまえに頼んだのに、逆効果だった!」
ミロは黙って蜂蜜まみれの自分の手を舐めていた。
指先の感覚は鋭敏だ。
指がカミュの口に触れてしまったら、もう自分を抑えられないと思った。
唇を、奪い取りたくなる。
だから、逃げた。
逃げてやったのだ。
にもかかわらず、相変わらずカミュはぶつぶつと文句を言い募っていた。
尽きることの無い叱責に、次第にミロの苛立ちも高まった。
「うるさいな。そんなに言うんだったら、顔についたのも舐めとってやるよ」
カミュは引くはずだった。
こういう冗談に、カミュは弱い。
しかし、続いたカミュの台詞に、ミロは耳を疑った。
「ああ、そうしてくれ」
相変わらずむくれた顔のまま、カミュは挑むように顔を寄せてきた。
売り言葉に買い言葉、かもしれなかった。
もう、どうでもよくなった。
ミロは半ば自棄になって、カミュの頭をぐいと引き寄せた。
頬についた蜂蜜を、舌でぺろりと拭い取る。
自分の手についていたものと同じとは思えないほど甘い蜜が、ミロを狂わせた。
舌先に感じるカミュのぬくもりが、ミロの自制を解き放つ。
ミロは両腕でカミュを抱きすくめると、抵抗する間も与えず、唇を重ねた。
はかなげな薄い唇が、予想外に熱く、予想以上に柔らかいことに、ミロは陶然とした。
初めて味わう、極上の悦楽。
その刹那、世界は動きを止め、色を失くした。
ようやく束縛から解放されたカミュは、不服そうにミロを睨んだ。
ミロは胸の奥までえぐられたような痛みに、深々とため息をついた。
そのまま椅子にくずれ落ち、頭を抱える。
「……おまえが悪いんだからな」
吐き捨てるようにミロは呟いた。
もう終わりだ、と、思った。
やはりカミュはミロのことを友人としてしか見ていなかったのだ。
さもなければ、キスされて睨みつけてくるはずもない。
期せずして知ってしまったカミュの本心に、ミロは打ちのめされていた。
「……悪いのは、おまえだ」
カミュが抗議する小さな声を、ミロは他人事のようにぼんやりと聞き流していた。
「折角口に塗れた蜂蜜、全部取れた……」
その瞬間、意識の片隅がぴくりと反応した。
ミロは俯いていた顔を勢いよく跳ね上げた。
「……何? 怒ってるのは、キスしたからじゃなくて……?」
狼狽したミロの質問に、カミュは不思議そうな顔をした。
「だって、おまえは私が好きなのだろう? 私もおまえが好きだから、それは問題ない。それより……」
「ちょっと待て、ちょっと」
蜂蜜の話に戻ろうとするカミュを、ミロは慌てて押しとどめた。
「その『好き』って、意味わかってる?」
カミュは憮然としてうなずいた。
「恋愛感情の、好き、だろう」
「だって、おまえ、俺が告白しても、今までと何にも変わらないから、友情と勘違いしてるかと……」
「私がおまえを好きだという主観は変わらないんだ。おまえの想いが私に向いているとわかったからといって、どうして私が変わらなくてはならない?」
違うか、と、問いかけるカミュに、ミロは苦笑を漏らした。
ああ、やはり、カミュだ。
一応、彼なりに筋の通った理屈に基づいた行動なのだ。
そして、ミロが愛したのは、この天然ボケの姫君なのだ。
この数日間の悩みが、霧が晴れるように消えていく。
ミロは口の端をにっと持ち上げた。
「蜂蜜、俺の口にたくさんついてんだけどな」
カミュは、ミロの顔を覗き込んだ。瞳が輝く。
「じゃ、塗ってく……れ」
一つのことに集中すると、他が見えなくなるのはカミュの欠点だ。
蜂蜜を塗ることにこだわるあまり、いままで意識しなかったのだろう。
ようやく自分の言葉の意味を理解した様子のカミュは、みるみる頬を染めていく。
「お望みのままに、お姫様」
にやりと笑うミロの軽口に、カミュは眉をひそめて不快の念をあらわにした。
しかし、反駁しようとした口は、その前にミロによってふさがれていた。
カミュの身体を抱きこむミロの腕に、力が込められる。
真紅の瞳がふっと和らいだ。
カミュはそろそろと腕をミロの背に回すと、静かにまぶたを閉じた。
「……俺、カミュが好きなんだけど」
「そうか、私も好きだぞ、おまえのこと」
ミロの一世一代の告白に、カミュは微笑んだ。
それが一週間前のこと。
それから何が変わったか、というと、実は何も変わらなかった。
もともと朝から晩まで共に過ごしていた二人だ。
友人から恋人に昇格したとしても、今まで以上に多くの時間を共有するということは初めから不可能だった。
しかし、恋愛成就の幸福の頂点にいたミロを不安にさせたのは、それだけではなかった。
カミュの態度は、告白以前のそれと全く同じだった。
ひょっとしたら、ミロの恋心はカミュには伝わっていないのかもしれなかった。
あの必死の告白も、ただの友情の確認と思われたのかもしれなかった。
ありうる。充分ありうる。
カミュは、時々めまいを覚えるほどの天然ぶりを披露してくれるのだ。
そこがカミュのかわいいところでもあるのだが、さすがに今回ばかりは困る。
ミロは一人、頭を抱えていた。
今日こそカミュの気持ちを再確認しようとの決意を胸に秘め、宝瓶宮を訪れたミロの足が止まった。
宮主と客が対峙したまま、数瞬の沈黙が部屋を支配する。
「……何? 化粧、してんの?」
ようやく絞り出されたミロのうわずった声に、カミュは呆れた視線を投げた。
「なんの話だ?」
「だって、それ、……口紅?」
カミュは手にした小さなスティックを見た。
得心がいったように首を振る。
「違う。これはリップクリーム。唇が乾燥して困るといったら、アフロディーテがくれた」
ミロはしげしげとカミュをみつめた。
グロスを塗ったように艶やかな唇が、妙になまめかしくて目が離せなかった。
「でも、まずいんだ、これ」
赤い舌がちらっと覗いた。さっと唇を舐めるだけの仕草が、ミロの心臓を激しく打ち鳴らした。
恋人だったら、キスとか、しても、いいよ、な。
自分自身への問いかけに、答えはなかった。
まだ、恋人といってよいものか、自信は持てなかった。
ミロの内心の動揺にも気づかないのか、カミュは不満そうに唇を指で撫でていた。
ふと、その視線がミロに注がれる。
「おまえ、そういう悩みなさそうだな」
「だって、俺、生まれも育ちもギリシャだし。乾燥した空気、慣れてるから」
「……ずるいな」
カミュは心底恨めしそうにミロを見遣ると、人差し指を自分の口許から、ミロの唇に移動させた。
思いがけないカミュの行動に、ミロは息を呑み身を硬くした。
「ほんとだ、乾いてない」
納得がいかない様子でミロの唇をなぞるカミュの手から、ミロは逃げ出した。
それ以上触れられていたら、カミュの意志に関係なく無理やりキスしそうだった。
突然のミロの退避行動に、カミュはいぶかしげな視線を注いでくる。
絡みつくような、真紅の瞳。
その双眸から逃れるため、ミロは努めて明るい声をだした。
「そういえば、昔、蜂蜜塗るといいって聞いたことあるけど……」
「蜂蜜?」
カミュは小首をかしげて復唱した。
「試してみよう。手伝え」
嬉々として台所に向かうカミュを、ミロは止めることはできなかった。
沸き起こる不吉な胸騒ぎを抑えるので精一杯だった。
程なく、カミュは蜂蜜の小瓶を手に戻ってきた。
蓋を開けると、アカシア蜜の甘い香りがふんわりと室内に広がる。
カミュはスプーンで黄金に透き通った液体を軽くかきまぜた。
すくい上げたスプーンから、とろりと雫が垂れ落ちる。
「ほら、ミロ、手出して」
「なんで?」
「手伝えっていっただろ」
ミロは予感が的中したことを悟った。
「ひょっとして、俺が塗るの? カミュの口に?」
わずかに震えるミロの問いかけに、カミュはうなずいた。
「蜂蜜は、べたべたするから嫌なんだ。おまえなら、ハニートースト食べた後、指舐めてたりするし、いいだろう」
鋭い観察眼はもう少し有用な方に向けてほしかったが、もう遅かった。
カミュは期待を込めた目でミロを熟視している。
その瞳を裏切ることはできなかった。
ミロは観念して左手を差し出した。
カミュが蜂蜜を一匙、ミロの手に垂らす。
「じゃ、よろしく」
無邪気に微笑むカミュが顔を差し向けた。
ミロはため息をつくと、じっと蜂蜜に濡れた掌をみつめた。
「……わかった」
ぼそっと呟くと、突然ミロは掌をカミュの口を塞ぐように押し付けた。
予期せぬ動作に目を見開いたカミュが、くぐもった声を上げながら抗議の視線を送ってくる。
ミロが手を離すと、カミュは酸素を求めて激しくあえいだ。
なんとか呼吸を元に戻すと、柳眉を逆立てる。
「何をする!」
「蜂蜜、塗れただろ?」
カミュは頬に手を添えた。
指先に蜜が張り付くのを確認すると、怒りに震える瞳でじろりとねめつけた。
「ああ、塗れたな。口だけじゃなくって顔中に。べたつくのが嫌だからおまえに頼んだのに、逆効果だった!」
ミロは黙って蜂蜜まみれの自分の手を舐めていた。
指先の感覚は鋭敏だ。
指がカミュの口に触れてしまったら、もう自分を抑えられないと思った。
唇を、奪い取りたくなる。
だから、逃げた。
逃げてやったのだ。
にもかかわらず、相変わらずカミュはぶつぶつと文句を言い募っていた。
尽きることの無い叱責に、次第にミロの苛立ちも高まった。
「うるさいな。そんなに言うんだったら、顔についたのも舐めとってやるよ」
カミュは引くはずだった。
こういう冗談に、カミュは弱い。
しかし、続いたカミュの台詞に、ミロは耳を疑った。
「ああ、そうしてくれ」
相変わらずむくれた顔のまま、カミュは挑むように顔を寄せてきた。
売り言葉に買い言葉、かもしれなかった。
もう、どうでもよくなった。
ミロは半ば自棄になって、カミュの頭をぐいと引き寄せた。
頬についた蜂蜜を、舌でぺろりと拭い取る。
自分の手についていたものと同じとは思えないほど甘い蜜が、ミロを狂わせた。
舌先に感じるカミュのぬくもりが、ミロの自制を解き放つ。
ミロは両腕でカミュを抱きすくめると、抵抗する間も与えず、唇を重ねた。
はかなげな薄い唇が、予想外に熱く、予想以上に柔らかいことに、ミロは陶然とした。
初めて味わう、極上の悦楽。
その刹那、世界は動きを止め、色を失くした。
ようやく束縛から解放されたカミュは、不服そうにミロを睨んだ。
ミロは胸の奥までえぐられたような痛みに、深々とため息をついた。
そのまま椅子にくずれ落ち、頭を抱える。
「……おまえが悪いんだからな」
吐き捨てるようにミロは呟いた。
もう終わりだ、と、思った。
やはりカミュはミロのことを友人としてしか見ていなかったのだ。
さもなければ、キスされて睨みつけてくるはずもない。
期せずして知ってしまったカミュの本心に、ミロは打ちのめされていた。
「……悪いのは、おまえだ」
カミュが抗議する小さな声を、ミロは他人事のようにぼんやりと聞き流していた。
「折角口に塗れた蜂蜜、全部取れた……」
その瞬間、意識の片隅がぴくりと反応した。
ミロは俯いていた顔を勢いよく跳ね上げた。
「……何? 怒ってるのは、キスしたからじゃなくて……?」
狼狽したミロの質問に、カミュは不思議そうな顔をした。
「だって、おまえは私が好きなのだろう? 私もおまえが好きだから、それは問題ない。それより……」
「ちょっと待て、ちょっと」
蜂蜜の話に戻ろうとするカミュを、ミロは慌てて押しとどめた。
「その『好き』って、意味わかってる?」
カミュは憮然としてうなずいた。
「恋愛感情の、好き、だろう」
「だって、おまえ、俺が告白しても、今までと何にも変わらないから、友情と勘違いしてるかと……」
「私がおまえを好きだという主観は変わらないんだ。おまえの想いが私に向いているとわかったからといって、どうして私が変わらなくてはならない?」
違うか、と、問いかけるカミュに、ミロは苦笑を漏らした。
ああ、やはり、カミュだ。
一応、彼なりに筋の通った理屈に基づいた行動なのだ。
そして、ミロが愛したのは、この天然ボケの姫君なのだ。
この数日間の悩みが、霧が晴れるように消えていく。
ミロは口の端をにっと持ち上げた。
「蜂蜜、俺の口にたくさんついてんだけどな」
カミュは、ミロの顔を覗き込んだ。瞳が輝く。
「じゃ、塗ってく……れ」
一つのことに集中すると、他が見えなくなるのはカミュの欠点だ。
蜂蜜を塗ることにこだわるあまり、いままで意識しなかったのだろう。
ようやく自分の言葉の意味を理解した様子のカミュは、みるみる頬を染めていく。
「お望みのままに、お姫様」
にやりと笑うミロの軽口に、カミュは眉をひそめて不快の念をあらわにした。
しかし、反駁しようとした口は、その前にミロによってふさがれていた。
カミュの身体を抱きこむミロの腕に、力が込められる。
真紅の瞳がふっと和らいだ。
カミュはそろそろと腕をミロの背に回すと、静かにまぶたを閉じた。