無憂宮
喧嘩


 白羊宮に通じる階段に腰掛けていたミロは、満面の笑みを浮かべて飛び上がった。
 「カミューっ、とムウとシャカ。おかえり!!」
 大きく手を振り、帰って来た友人を迎える。
 「その、あきらかに私たちはついでであるような言い方は、何とかならないのかね」
 不興気に眉をひそめるシャカの袖を、ムウはなだめるように軽く引っ張った。
 「まあ、いいじゃないですか。それとも、あなたはミロに大声で名を呼ばれたいんですか」
 「……いや、遠慮しておこう」
 ミロは二人に構わず、カミュの手をとった。
 「じゃ、行こう、カミュ」
 「どちらへ?」
 慌ただしいミロの様子に、ムウは苦笑しながら尋ねた。
 ミロの性急さはいかにも子供らしく、同い年ながら妙に大人びている彼らには微笑ましく映っていた。
 「昨日、アフロが言ってた、ライラックの花、見に行くんだ」
 聖域の近くに、ライラックが群生した場所があり、今を盛りと華が咲き誇っている。
 昨日、花を愛するアフロディーテは、うっとりするような笑みを浮かべて、そう教えてくれたのだ。
 ミロの答えに、ムウはわずかに首をかしげた。
 シャカが、不思議そうにカミュを見た。
 「今、見てきたではないか」
 「ああ、でも、ミロとの約束は三時だったし」
 ミロが大きく目を見開いた。信じられないように、カミュを凝視する。
 「なに、見てきたって……」
 「今、その花を見てきた。もう道もわかったから、迷わずに行ける」
 悪びれもしないで答えるカミュを、ミロは真っ赤な顔をしてにらみつけた。
 「カミュのばかーっ!」
 耳をつんざくような大声を残し、ミロは走り去っていった。
 あっけにとられて見送るカミュに、ムウは呆れたような瞳を投げた。
 「ミロと、見に行く約束だったのですか?」
 うなずくカミュに、ムウはため息をついた。
 「あなた、少しは社会性とか、人の感情とか、学んだ方がいいですよ。サガにでも聞いてごらんなさい」
 ミロの怒りの原因がわからず、カミュは不承不承ながら、双児宮へと階段を上っていった。
 「……ミロは突然どうしたのだ? 予定通り、花を見に行けばよいではないか」
 「……あなたも、勉強の必要がありそうですね」
 怪訝な顔をしてカミュの後姿を見遣るシャカに、ムウは大きく肩で息をついた。


 「それは、ミロが怒るのも無理はないな」
 一通りの説明を聞いたサガは、苦笑しながらカミュの額を人差し指で軽く突いた。
 カミュは不服そうな表情を浮かべた。
 「でも、ミロと約束をした時間に間に合うように、帰ってきたんですよ、ちゃんと」
 自分は約束を違えたわけではない、今からでも花を見に行く約束は充分果たせるはずだった。
 サガは、どう説明しようか、と思案にくれる様子で、しばらく顎に指をかけていた。
 やがて、サガはカミュを膝の上に乗せた。
 見上げるカミュに、優しく微笑みかける。
 「ミロの目的は、花を見ること自体じゃないんだよ」
 「……どういうことですか?」
 「ミロは、カミュと一緒に、花が見たかったんだよ」
 カミュは小首をかしげた。
 一緒に花が見たいのなら、見に行けばいい。
 なのに、花を見に行く前に、ミロは怒ってしまったのだ。
 サガの言わんとすることが理解できず、カミュは困ったような顔をした。
 「例えばね……」
 すっと腕を伸ばし、サガはカミュを背中越しに抱きしめた。
 「最初の頃、こうするとカミュは、かわいそうなくらい身をこわばらせていただろう?」
 カミュは恥ずかしそうにうなずいた。
 人と接触することが苦手だった頃は、たとえ相手がサガであっても全身が緊張した。
 「でも、今は慣れたから、平気だよね」
 サガの言葉に、再びカミュはうなずいた。
 今では、むしろ、自分を包む温かい腕に幸せを感じている。
 「最初っていうのは、いいことでも悪いことでも、特別なんだよ。初めて美しい花木を見るという感動を、ミロはカミュと共に味わいたかったんじゃないかな」
 満開の花を見てどう思った、とサガは穏やかに尋ねた。
 カミュは鮮明に甦る情景を語った。
 青い空と、照りつく太陽の光に照らされ、そこだけが幻想の世界のようだった。
 薄紫の小花が、けぶるように木を飾っていた。
 ほのかな香りが風に流れて、全身にまとわりつく。
 甘美な数瞬、華に、惑わされた。
 「次に見たとき、それと同じくらい、感動できるかな?」
 サガの言葉に、カミュは目を見張った。
 どんなに美しい情景でも、一度味わってしまった景色だ。
 あれほどまでに心が動かされる保障は、なかった。
 ようやく、わかった。
 ミロは花がもたらす喜び、それを共有したかったのだ。
 それなのに、カミュが先に花を見てしまったから。
 抜け駆けしてしまったから、初めての感動を、ミロと分かち合うことができなくなってしまった。
 「わかったら、謝っておいで」
 サガが、ぽん、と背を押した。


 ミロは一人、道の傍らの岩に腰掛けていた。
 あまりに癪だったため、一人で花を見に行こうとして、迷っていた。
 アフロディーテが教えてくれた道ではなく、近道をしようとしたのが悪かったのかもしれない。
 このまま帰ろうか、とも思ったが、それも腹立たしかった。
 全て、カミュのせいだ。
 カミュが、ミロを置いて、ムウたちと花を見てきてしまったから。
 ミロを、一人にしたから。
 「カミュのばか」
 「……ごめん」
 むくれたミロの独り言に、予想外にも応えがあった。
 顔を上げると、少し哀しげな表情のカミュが近づいて来ていた。
 「カミュのばか」
 「……ごめん」
 しっかりと瞳を合せて、もう一度繰り返す。
 カミュも同じ答えを返した。
 ミロは腰掛けていた岩から飛び降りた。
 「罰。連れてって」
 ミロが手を伸ばした。
 「了解」
 カミュはその手を取り、微笑んだ。
 ライラックの甘い香りが、カミュの髪から漂ってきた。

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