Mauerfall
初夏の陽射しが攻撃するように照り付ける。
青々と葉を茂らせた樹は、容赦ない太陽から地上の生命を守るかのように大地に影を落としていた。
腕を枕に木陰に横たわったミロは、冴え渡る空を見上げた。
どこまでも青い空に、光を集めて煌くような白雲が浮かんでいる。
ちらちらと顔に木漏れ日が射しかかり、ミロは眩しそうに目を細めた。
我知らず口許が緩む。
「何をにやついているんだ?」
ミロは微笑んだまま、声の主に視線を移した。
傍らには、樹幹に背をもたせかけ起座するカミュがいた。
投げ出した脚の上に本を載せ読書にふけっていたのだが、ようやくミロに注意を向ける気になったらしい。
「なんか、やけに景色が綺麗に見えるな、と思って」
カミュは小首を傾げた。
「それは、死期が近いんじゃないのか?」
「ひでー、そうゆうこと言うかな」
「では、どう言えばいい」
カミュはくすりと笑みを刻むと、地面に広がるミロの髪に指を差し入れた。
癖の強いミロの髪はもつれやすい。
指に絡む金糸をほどくのは、カミュの好きな手慰みだった。
「たとえば、愛する人と共にいるからだよ、とかさ」
ミロはにやりと笑うと、悪戯っぽく片目を閉じた。
ミロの髪をもてあそぶ指の動きが止まった。
「……よくそんな歯の浮くような台詞を、臆面もなく言えるな」
髪をほどくカミュの手が、先程よりも乱暴に動き出す。
かすかに紅潮した顔を見るまでもなく、カミュが激しく動揺しているのがわかる。
「だって本心だもん」
けろりと言い放つミロに、カミュはわざとらしいため息をついた。
ついで、ふっと微笑が浮かぶ。
「まあ、確かに、おまえにはまだ死なれては困るがな」
ミロの瞳が輝いた。
続く台詞を、期待を込めた瞳が促してくる。
カミュは金髪から指を引き抜くと、ミロの額を人差し指でかるく弾いた。
「おまえには、私亡きあと、氷河の面倒をみてもらわねばならない。私より先に死なれては計画が狂う」
「そんな理由かよ。だったら、カミュが俺より長生きすりゃいいじゃん」
ミロは両腕を振って反動をつけると、勢いよく上体を起こした。
たまには素直な愛情表現をしてくれるかと期待したのに、と不満そうに言い募るミロを、カミュはじっとみつめた。
「……私は、おまえがいない世界になど生きたくはない」
ぼそりと呟くと、カミュは再び本に顔を戻した。
珍しくカミュの口から発せられた甘い言葉に、ミロは耳を疑った。
慌てて姿勢を正すと、カミュに向き直る。
「え、え? もう一回言ってよ」
「断る」
読書に戻ったカミュは、何事もなかったかのように普段の冷徹な表情を崩さない。
ミロがいくらせがんでも、無視されるのが関の山だった。
しぶしぶながらもそれ以上の追求を諦めたミロは、もう一度空を見上げ、大きくため息をついた。
「死ぬなら、一緒がいいな……」
カミュは無言で本の頁をめくる作業に没頭していた。
一条の太陽光も射さない地。
地上に燦々と降り注ぐ光も、ここまでは届かない。
あの、焼け付くような陽射しは、今となっては幻のようにさえ思われた。
カミュは祈るように組み合わせた手に額をつけ、目を閉じた。
短いが充実していた日々を思い返してみる。
様々な出会いと、別れ。
喜びと哀しみ。
そして、常に心を占めていた最高にして最愛の……。
「よう」
かけられた声に、カミュは瞳を開いた。
目の前には、闇の中にあってもなお輝きを失わない豪奢な金髪の聖闘士がいた。
激しい戦闘を連想させる傷ついた身体にはにつかわしくない、不思議と晴れ晴れとした穏やかな表情は、記憶にあるものと何ら変わりがない。
少し照れたような笑みを浮かべ、ミロはカミュの髪を一房すきとった。
指の間からさらさらと零れ落ちる髪の動きをしばらく凝視すると、ふっと息を吐く。
「……悪かったな。痛かっただろ」
漆黒の冥衣をまとって姿を現したカミュに、ミロは躊躇うことなく技を繰り出したのだった。
記憶が、蘇る。
「ああ、痛かったな」
カミュは淡々と応えた。
「……殺してやろうと、思ったんだ」
ミロはぽつりと呟いた。
「おまえが来てるとわかったら、居ても立ってもいられなくなって」
だから、宮を離れた。
半信半疑のまま階段を駆け下り、懐かしい姿を見た瞬間、ミロの小宇宙は勝手に戦闘態勢に入っていた。
他の誰にも、カミュを倒させたくなかった。
「……私も、できるならおまえの手にかかりたいと思っていた」
カミュは視線を外したまま、独り言のように呟いた。
声にならない慟哭が、痛いほどに伝わってきた。
苦しくて、切なくて、哀しくて。
それでも、他に途はなかった。後戻りのできない途を、ただひたすら進むしかなかった。
しかし、それももうすんだこと。
他にもっと語るべき事柄があるはずだった。
なのに、核心に触れることを恐れるかのように、二人とも押し黙り、動きを封じていた。
沈黙を破ったのは、いつものようにミロの方からだった。
「氷河は、心配ない」
「……そうか」
一瞬だがまみえることのできた愛弟子の姿は、カミュの心に平安をもたらしてくれた。
自分の全てを彼に引き継がせた自信が、ある。
それはカミュが世に在ったことの証だった。
無意味な生では、なかった。
「おまえには礼をいうべきだろうな。氷河を後見してくれて、ありがとう」
ミロは無言で肩をすくめた。
遺児を託すことが、カミュなりのミロへの想いの表し方だった。
どうやら、危惧するまでもなく、その想いは伝わっていたらしい。
「氷河の面倒は、もうみる必要ないから。だから、俺、おまえと一緒に逝ってもいいよな」
ミロの瞳が、かすかな笑みを含んだ。
あの夏の日の会話が、鮮明に蘇ってくる。
眩しい陽射しに目がくらんだ、夏の日の記憶。
堰をきったように溢れ出す思い出に、カミュはのみ込まれた。
胸の奥が温かくなり、自然と口許が緩む。
「仕方ないな。そうしなければ、この壁は壊せないのだろう?」
「そうか、じゃ、この壁に感謝しなくてはな」
カミュはあらゆる者を拒むかのようにそびえたつ壁に一瞥を与えた。
ミロもつられて視線を投げる。
嘆きの壁。
そう呼ばれるこの障壁を希望の象徴に転じることは、黄金聖闘士にのみ成しうる業だった。
最高位の聖闘士全ての、命と引き換えに。
「ミロ」
カミュはミロに向き直った。
はかりしれない苦衷と悲愁を乗り越えたあとに初めて訪れる安らぎが、カミュの全身を包んでいた。
何の気取りも含羞もなく、素直になれる。
ようやく、最期に。
「私はおまえに出会えて、よかった」
静かに告げられた言葉に、ミロは嬉しそうに破顔した。
「それは、俺の台詞だ」
すっと腕を伸ばし、ミロはカミュを抱きしめた。
久々の抱擁に、場違いなまでの幸福感が湧き起こる。
「やっぱり、黒いのより、黄金聖衣のほうが似合うぞ、カミュ」
「ばか」
カミュは微笑んで、ミロの背に腕をまわした。
形のよい真紅の爪が、金髪にうずもれる。
「結局、この髪が指に絡まないことはなかったな」
「生まれ変わったら、ストレートになってやる」
「似合わないから、止めておけ。それに、私の楽しみを奪うつもりか」
ミロはカミュを抱く腕を緩めた。
からかうかのごとき真紅の瞳の奥まで覗き込むように、視線を合わせる。
「じゃ、来世でも俺の髪で遊んでくれるんだ」
「……腐れ縁、だからな」
「お互い様だろ」
にやりと口の端を持ち上げたミロに、カミュも微笑を返した。
どちらからともなく瞳を閉じる。
久方ぶりのキスは、変わらず甘美な味がした。
陽光に見放された地。
全ての終わりと、全ての始まり。
奇跡のような運命を共に生きた黄金の戦士たちに、最後の星宿を果たす時が訪れた。
初夏の陽射しが攻撃するように照り付ける。
青々と葉を茂らせた樹は、容赦ない太陽から地上の生命を守るかのように大地に影を落としていた。
腕を枕に木陰に横たわったミロは、冴え渡る空を見上げた。
どこまでも青い空に、光を集めて煌くような白雲が浮かんでいる。
ちらちらと顔に木漏れ日が射しかかり、ミロは眩しそうに目を細めた。
我知らず口許が緩む。
「何をにやついているんだ?」
ミロは微笑んだまま、声の主に視線を移した。
傍らには、樹幹に背をもたせかけ起座するカミュがいた。
投げ出した脚の上に本を載せ読書にふけっていたのだが、ようやくミロに注意を向ける気になったらしい。
「なんか、やけに景色が綺麗に見えるな、と思って」
カミュは小首を傾げた。
「それは、死期が近いんじゃないのか?」
「ひでー、そうゆうこと言うかな」
「では、どう言えばいい」
カミュはくすりと笑みを刻むと、地面に広がるミロの髪に指を差し入れた。
癖の強いミロの髪はもつれやすい。
指に絡む金糸をほどくのは、カミュの好きな手慰みだった。
「たとえば、愛する人と共にいるからだよ、とかさ」
ミロはにやりと笑うと、悪戯っぽく片目を閉じた。
ミロの髪をもてあそぶ指の動きが止まった。
「……よくそんな歯の浮くような台詞を、臆面もなく言えるな」
髪をほどくカミュの手が、先程よりも乱暴に動き出す。
かすかに紅潮した顔を見るまでもなく、カミュが激しく動揺しているのがわかる。
「だって本心だもん」
けろりと言い放つミロに、カミュはわざとらしいため息をついた。
ついで、ふっと微笑が浮かぶ。
「まあ、確かに、おまえにはまだ死なれては困るがな」
ミロの瞳が輝いた。
続く台詞を、期待を込めた瞳が促してくる。
カミュは金髪から指を引き抜くと、ミロの額を人差し指でかるく弾いた。
「おまえには、私亡きあと、氷河の面倒をみてもらわねばならない。私より先に死なれては計画が狂う」
「そんな理由かよ。だったら、カミュが俺より長生きすりゃいいじゃん」
ミロは両腕を振って反動をつけると、勢いよく上体を起こした。
たまには素直な愛情表現をしてくれるかと期待したのに、と不満そうに言い募るミロを、カミュはじっとみつめた。
「……私は、おまえがいない世界になど生きたくはない」
ぼそりと呟くと、カミュは再び本に顔を戻した。
珍しくカミュの口から発せられた甘い言葉に、ミロは耳を疑った。
慌てて姿勢を正すと、カミュに向き直る。
「え、え? もう一回言ってよ」
「断る」
読書に戻ったカミュは、何事もなかったかのように普段の冷徹な表情を崩さない。
ミロがいくらせがんでも、無視されるのが関の山だった。
しぶしぶながらもそれ以上の追求を諦めたミロは、もう一度空を見上げ、大きくため息をついた。
「死ぬなら、一緒がいいな……」
カミュは無言で本の頁をめくる作業に没頭していた。
一条の太陽光も射さない地。
地上に燦々と降り注ぐ光も、ここまでは届かない。
あの、焼け付くような陽射しは、今となっては幻のようにさえ思われた。
カミュは祈るように組み合わせた手に額をつけ、目を閉じた。
短いが充実していた日々を思い返してみる。
様々な出会いと、別れ。
喜びと哀しみ。
そして、常に心を占めていた最高にして最愛の……。
「よう」
かけられた声に、カミュは瞳を開いた。
目の前には、闇の中にあってもなお輝きを失わない豪奢な金髪の聖闘士がいた。
激しい戦闘を連想させる傷ついた身体にはにつかわしくない、不思議と晴れ晴れとした穏やかな表情は、記憶にあるものと何ら変わりがない。
少し照れたような笑みを浮かべ、ミロはカミュの髪を一房すきとった。
指の間からさらさらと零れ落ちる髪の動きをしばらく凝視すると、ふっと息を吐く。
「……悪かったな。痛かっただろ」
漆黒の冥衣をまとって姿を現したカミュに、ミロは躊躇うことなく技を繰り出したのだった。
記憶が、蘇る。
「ああ、痛かったな」
カミュは淡々と応えた。
「……殺してやろうと、思ったんだ」
ミロはぽつりと呟いた。
「おまえが来てるとわかったら、居ても立ってもいられなくなって」
だから、宮を離れた。
半信半疑のまま階段を駆け下り、懐かしい姿を見た瞬間、ミロの小宇宙は勝手に戦闘態勢に入っていた。
他の誰にも、カミュを倒させたくなかった。
「……私も、できるならおまえの手にかかりたいと思っていた」
カミュは視線を外したまま、独り言のように呟いた。
声にならない慟哭が、痛いほどに伝わってきた。
苦しくて、切なくて、哀しくて。
それでも、他に途はなかった。後戻りのできない途を、ただひたすら進むしかなかった。
しかし、それももうすんだこと。
他にもっと語るべき事柄があるはずだった。
なのに、核心に触れることを恐れるかのように、二人とも押し黙り、動きを封じていた。
沈黙を破ったのは、いつものようにミロの方からだった。
「氷河は、心配ない」
「……そうか」
一瞬だがまみえることのできた愛弟子の姿は、カミュの心に平安をもたらしてくれた。
自分の全てを彼に引き継がせた自信が、ある。
それはカミュが世に在ったことの証だった。
無意味な生では、なかった。
「おまえには礼をいうべきだろうな。氷河を後見してくれて、ありがとう」
ミロは無言で肩をすくめた。
遺児を託すことが、カミュなりのミロへの想いの表し方だった。
どうやら、危惧するまでもなく、その想いは伝わっていたらしい。
「氷河の面倒は、もうみる必要ないから。だから、俺、おまえと一緒に逝ってもいいよな」
ミロの瞳が、かすかな笑みを含んだ。
あの夏の日の会話が、鮮明に蘇ってくる。
眩しい陽射しに目がくらんだ、夏の日の記憶。
堰をきったように溢れ出す思い出に、カミュはのみ込まれた。
胸の奥が温かくなり、自然と口許が緩む。
「仕方ないな。そうしなければ、この壁は壊せないのだろう?」
「そうか、じゃ、この壁に感謝しなくてはな」
カミュはあらゆる者を拒むかのようにそびえたつ壁に一瞥を与えた。
ミロもつられて視線を投げる。
嘆きの壁。
そう呼ばれるこの障壁を希望の象徴に転じることは、黄金聖闘士にのみ成しうる業だった。
最高位の聖闘士全ての、命と引き換えに。
「ミロ」
カミュはミロに向き直った。
はかりしれない苦衷と悲愁を乗り越えたあとに初めて訪れる安らぎが、カミュの全身を包んでいた。
何の気取りも含羞もなく、素直になれる。
ようやく、最期に。
「私はおまえに出会えて、よかった」
静かに告げられた言葉に、ミロは嬉しそうに破顔した。
「それは、俺の台詞だ」
すっと腕を伸ばし、ミロはカミュを抱きしめた。
久々の抱擁に、場違いなまでの幸福感が湧き起こる。
「やっぱり、黒いのより、黄金聖衣のほうが似合うぞ、カミュ」
「ばか」
カミュは微笑んで、ミロの背に腕をまわした。
形のよい真紅の爪が、金髪にうずもれる。
「結局、この髪が指に絡まないことはなかったな」
「生まれ変わったら、ストレートになってやる」
「似合わないから、止めておけ。それに、私の楽しみを奪うつもりか」
ミロはカミュを抱く腕を緩めた。
からかうかのごとき真紅の瞳の奥まで覗き込むように、視線を合わせる。
「じゃ、来世でも俺の髪で遊んでくれるんだ」
「……腐れ縁、だからな」
「お互い様だろ」
にやりと口の端を持ち上げたミロに、カミュも微笑を返した。
どちらからともなく瞳を閉じる。
久方ぶりのキスは、変わらず甘美な味がした。
陽光に見放された地。
全ての終わりと、全ての始まり。
奇跡のような運命を共に生きた黄金の戦士たちに、最後の星宿を果たす時が訪れた。