無憂宮



 星命を占うための地、スターヒル。
 教皇だけが入山を許可されるこの地が、全ての始まりだった。
 皮肉なことだ。
 今ではその悪夢のような地が、他者の存在に絶えず緊張しなくてもよい数少ない場所の一つになっているのだから。
 サガは天空に煌く星を見上げた。
 何度、思ったことだろう。
 平和だった頃に戻りたい。
 何の屈託も無く笑い合えたあの日々に帰りたい。
 自らが壊した珠玉の時。
 聖域の事実上の最高権力者といえども、時を遡らせるほどの力はない。
 そして星も、それを許してはくれないらしかった。


 近づいてくる小宇宙は、警戒の必要の無い存在のものだった。
 いっそかつての再現のように、教皇を弑逆しに来てくれれば楽になれるのだが。
 サガは苦笑しながらも、路なき路を登ってくる聖闘士に手を差し伸べた。
 「よくここがわかったね」
 「今日の予定では、瞑想の前にスターヒルにいらっしゃることになってましたから」
 カミュは差し出された手をしっかり握ると、ようやく頂上に姿を現した。
 瞑想中は何人たりとも瞑想室には立ち入れない。
 それを逆手にとり、サガは瞑想時間をカミュとの逢瀬の時にあてていたのだ。
 カミュは瞑想予定時間を過ぎても戻ってこないサガを案じ、捜しにきたのだろう。
 「ここまで来るのもどうかと思ったんですけど、机の上に予定表が置いたままでしたし。来るなということでしたら、あなたはきっとそんなミスを犯さない、と思って」
 「……君には敵わないね」
 にっこり笑うカミュに、サガは微笑んだ。
 孤独の日々を慰めてくれるたった一つの安らぎに、敵うはずもなかった。


 強い風がカミュの髪を乱した。
 高所特有の遮るものの無い風は、勢いをそがれることもなく容赦なく吹き付けてくる。
 代々の教皇が、ここで、この風に吹かれて立ち尽くしていたのだ。
 星宿に翻弄されながらも、聖域を正しい方向に導こうと、ただ独り、星芒と向き合ってきたのだ。
 教皇ならぬ身には、この風は天からの制裁のように格別にたけり狂うようにさえ思われる。
 サガは身にまとったローブを解くと、烈風から守るようにカミュを包み込んだ。
 守ってやりたかった。
 哀しい瞳をさせたくなかった。
 どちらも成し遂げることができなかったサガに、それでもカミュは優しかった。
 子供のときのように、変わらぬ信頼と愛情を寄せてくれる。
 その想いに値するだけの人間でもない、サガに。
 せめてもの贖罪とばかりに、サガはカミュを抱え込みながら、乱れた髪を手櫛で梳いてやった。
 しばらく大人しくサガに髪を触らせていたカミュは、やがてぽつりと呟いた。
 「ここは、寂しいところですね」
 サガの手が止まった。
 カミュはサガを仰ぎみた。
 真紅の瞳にサガ越しに見える月が映っていた。
 白々と冴え渡る月は、ほんのわずかな表情の変化も見落とさなくてすむほどにカミュを照らしていた。
 「星には近いかもしれませんが、人の息づく地上には随分遠い」
 「……星をも裏切った私には、そのどちらも遠いがね」
 台詞に混じる自嘲の響きは、カミュの琴線に触れてしまったらしい。
 失言を恥じるように見上げたカミュの瞳が潤みだすのに、それほど時間はかからなかった。
 「カミュ?」
 「……すみません」
 透明の雫がまなじりから零れ落ちた。
 さやかに照らす月の光がそのまま結晶化したようなきらめきが頬を伝う。
 「サガが独りで過ごしてきた歳月を思うと、なんだか哀しくて……」
 「君が気に病むことではないよ。まさに自業自得だ」
 泣き顔を見せまいと下を向こうとするカミュの頬に手を添え、サガは涙を拭ってやった。
 「相変わらず泣き虫だね、カミュ。まあ、私は君の泣いた顔も好きだがね」
 カミュの気を引き立てようとことさらに軽口をたたくサガに、カミュは泣き笑いのような笑顔をみせた。
 「子供扱い、しないでください」
 頬に添えられたサガの手をとり、カミュはじっとサガをみつめた。
 ひたむきな視線がまっすぐにサガの瞳に注がれる。
 「私は、あなたのために何ができますか?」
 言葉にこもる真摯な響きに、サガは息を呑んだ。
 そう、もう子供扱いはできない。
 目の前にいるのは、昔のような小さな子供ではないのだ。
 サガの人格の崩壊をせき止め、支えになることのできる唯一無二の存在なのだ。
 藍の瞳が、深い湖のように穏やかに凪ぐ。
 カミュを前にしたときだけに訪れる、ささやかな安息。
 カミュに対し、かつてのように庇護欲をかきたてられるのは、不遜な思い上がりかもしれなかった。
 守られているのは、今となってはカミュではなくサガの方なのだから。
 「……君は全てを知りながらも、私と共に在ると言ってくれた。それで充分過ぎるほどだよ」
 静かに告げられた言葉は、偽りのないサガの本意だった。
 たった独りで償うには、犯した罪は重すぎた。
 共に罪をあがなうと宣言したカミュは、サガがこの世で得る事のできる最も高貴な宝珠なのだ。
 しかし、カミュにはそれはサガの遠慮が言わせる台詞と聞こえたのだろう。
 自分は頼りにしてもらえないのか、と不満そうな表情を隠そうともしない。
 これだけは幼い頃と変わらない勝気な光が、まだかすかに潤む双眸に宿っていた。
 サガは微笑を浮かべた。
 「では、とりあえず、こうさせてもらおうかな」
 サガは腕を伸ばし、カミュを壊れ物のように優しく抱き寄せた。
 腕の中のカミュのぬくもりが、サガの凍てついた心を融かして行く。
 風の音が響く。
 身を寄せ合う二人を、凛とした月だけが、静かに見守っていた。

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