無憂宮
Present


 ふと本から目を上げたサガは、先程と全く変わらない姿勢で本を読んでいる、いや、正確には、読んでいる振りをしているカミュに苦笑をもらした。
 ぼんやりと曇る表情で、視線だけは字面を追わせているらしいが、さっきから同じ箇所を開いたまま指は頁を繰る作業を全く放棄しているのだ。
 サガは音も無く近寄ると、すっとカミュの手から本を取り上げた。
 予想だにしなかったであろう突然の妨害に、カミュが瞳を見張って見上げてくる。
 「今日はもう勉強はおしまいにしよう」
 何もかもわかっている、と言わんばかりの悪戯っぽい微笑に迎えられ、カミュはきまり悪そうに小さく頷いた。
 サガはカミュと向かいあった椅子に腰掛け、芝居がかった仕草で本をぱたんと閉じた。
 勉強は終了、ここからはカミュの心を占めている悩みを解消する時間が始まるのだ。
 「心ここにあらず、という感じだね、カミュ」
 「……ずっと、考えてたんですけど、わからなくて」
 観念した様子のカミュは、サガに縋るような視線を向けた。
 何度と無くサガに、サガだけに注がれてきた視線だ。
 サガに任せたならば、万事うまくいく。
 おそらくカミュの中では、信仰にも似た想いが確立しているのだろう。
 寄せられる信頼が、誇らしくも面映くもある。
 それでも、じっと自分をみつめてくる真紅の瞳が嬉しくて、あたうかぎりその期待には応えてやりたかった。
 「今日、アイオリアに訊かれたんです。ミロの誕生日に何をあげるのかって」
 予想通りの返答に、サガは微笑んだまま黙ってカミュの次の言葉を待った。
 「誰かに何かをあげたことなんてなくて……」
 次第に小さくなっていく声と共に、カミュは俯いた。
 「だから、何をあげたらいいのか、迷ってるんだね」
 サガは優しく、消えた台詞の後をついだ。
 こくんと頷くカミュの頭を、安心させるように静かに撫でてやる。
 生まれて初めてできた友達への、誕生日のプレゼントに頭を悩ませる。
 そんなささやかな苦悩が、カミュには学問などよりはるかに難しく重要な課題なのだ。
 サガの後ばかりをついてまわって離れなかったカミュも、今ではミロに引っ張られるように彼独自の世界を築き上げつつある。
 自分の手元から独り立ちして去っていく子供に、その成長と自立の兆しを祝福する喜びと、予期していた以上に心を覆いつくす寂しさと。
 少々複雑な思いを胸に秘めたまま、サガは小春日和の穏やかな陽射しを思わせる温かい微笑を浮かべた。
 「では、私も一緒に考えよう」
 カミュはまばたきをしてサガをみつめ、ついで、はにかんだように顔をほころばせた。
 カミュが素直に感情を表せるようになったのは、親友のミロのおかげでもある。
 ずっとカミュに笑顔を取り戻させてやりたいと思っていたサガにとっても、ミロの誕生日は感謝の意を示す絶好の機会だった。


 磨羯宮の扉が勢いよく開かれた。
 同時に金髪の子供が駆け込んでくる。
 「シュラ!」
 「……カミュなら来てないぞ」
 弾む鞠のように勢いよく突進してくるミロに、シュラはここ数日間のお約束となった応えを返した。
 よく飽きることがない、と感心するほど共に行動していた遊び相手が、最近は行き先も告げずにふらりとどこかへ行ってしまうらしい。
 数時間で帰って来るとはいえ、その度にミロは十二宮を制覇する勢いでカミュを捜しまわっているのだ。
 すげない返事に毎度のことながらしゅんとしたミロに、シュラは苦笑いを浮かべた。
 いつも元気に跳ねまわっている印象の強いミロだ。
 捨てられた仔犬のようにしょぼくれた表情は、似合わないこと甚だしい。
 少しでも気を引き立ててやろうと、シュラは努めて明るい声をかけた。
 「そんなことより、おまえ、もうじき誕生日だろ。何か欲しいものとかないのか?」
 ミロは唇を尖らせたままシュラを見上げた。
 ふてくされたような声で、ぼそりと呟く。
 「カミュ」
 「……それは俺には如何ともしがたいな」
 蒼い瞳に真剣な色を浮かべて即答するミロに、シュラは笑った。
 笑うしかなかった。


 久しぶりにカミュが天蠍宮を訪ねてきたのは、そんな日が何日か続いた後のことだった。
 大喜びで駆け寄るミロに、カミュは手にした小ぶりなティーポットを差し出した。
 「飲んで」
 ぶっきらぼうに告げられた言葉に、ミロは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせながらポットを覗き込んだ。
 蓋を取ると、白い湯気と香気が立ち上ってくる。
 芳しい香りは、ミロにとっては警戒警報。
 「これってアフロのお茶?」
 おそるおそる問いかけるミロに、カミュは無言で首肯した。
 「えー、やだよ。またアフロの実験台にされるの」
 アフロディーテの薔薇茶は、ときどき予想外の効用を飲者にもたらす。
 先日は犠牲になったデスマスクが、涙が止まらないと泣きながら怒っていたほどだ。
 いかにカミュの頼みとはいえ、ミロが脅えるのも無理はなかった。
 「そんなこと言わないで、飲んでよ。僕も飲むから」
 珍しく必死に頼み込むカミュに、ミロは断る理由を懸命に探したが思いつかなかったらしい。
 二、三度口をぱくぱくと開閉させてはみたものの何も言えなくなり、大きなため息と共にがっくりと肩を落とした。
 それ以上の反論がないのを了承と受け止めたか、カミュは台所からカップを二つ持ち出してきた。
 等分に注いだカップの一つをミロに差し出す。
 「一、二の三で、カミュも一緒に飲むんだからな」
 かすかに震えながら念を押すミロの声に、カミュはしかつめらしくうなずいた。
 程なく、二人は折り重なるように深い眠りに落ちていた。


 ひんやりとした空気が心地よい。
 少し冷たい風と、木々の葉擦れの音。
 遠くで鳥がさやかに鳴いていた。
 ミロはぼんやりと瞼を持ち上げた。
 まだ、夢は続いているらしい。
 目の前には、カミュの髪のように深く紅い世界がけぶるように広がっているのだ。
 まさに、夢のように美しい光景。
 ミロはうっとりと微笑んだ。
 「あ、起きた」
 突然、カミュの声がした。
 覗き込んでくるカミュは、その髪と瞳の色とがあいまって真紅の国に遊ぶ妖精のようだった。
 その姿は夢の中のわりに妙に現実感があり、ミロはついっと手を伸ばした。
 指が温かい頬に触れる。
 本物とまごうばかりの触感が楽しくて、ミロはカミュの頬を軽くつついた。
 「寝ぼけてないで、ちゃんと起きろ」
 少し不愉快そうなカミュの声。
 ミロは飛び起きた。
 夢では、なかった。
 真紅の世界には、まだ不機嫌そうなカミュと、和やかに微笑むサガがいた。
 きょときょとと周囲を見渡したミロは、世界を彩っているのが紅く色づいた木の葉であることをようやく悟った。
 朱、橙、黄、山吹……。
 はるか彼方まで立ち並ぶ木々は、綾なす錦を織り成すかのように艶やかな色の競演を繰り広げている。
 しかしその中でも、今彼らがいる所は、一際異彩を放っていた。
 他のどの葉色よりも深く濃い、鮮烈な真紅の装飾をまとった木々は、この付近にしかなかった。
 サガがカミュの両肩に背後から手を添え、励ますように促す。
 「さ、カミュ。ミロに言いたいことがあるんだろう」
 カミュはほんの少し頬を紅潮させ、小さな声で呟いた。
 「……誕生日、おめでとう、ミロ……」
 細々と紡がれる言葉に、雲間から太陽が姿をみせたようにミロの顔がみるみる輝いていく。
 恥ずかしげに俯くカミュに代わり、サガがミロに声をかけた。
 「この紅葉は、カミュからのプレゼントだよ」
 折角プレゼントをあげるなら、喜んでもらいたい。
 そう考えたカミュとサガは、二人でミロの好きなものを思いつくままに列挙していった。
 しかしどれも決め手に欠ける、と行き詰まり出した頃、サガは閃いたのだ。
 ミロが一番好きなのは、カミュ。
 特にカミュの真紅の髪と瞳がお気に入りで、自分が技を発動するときに伸びる爪が同じ色に染まることを、よく自慢げに語っていた。
 好都合なことに、ミロの誕生日が来る頃には、ちょうど木々が冬支度を始めだす。
 なかでも日本の楓は、カミュの髪色に良く似た優艶たる紅に染まるのだ。
 ギリシャ育ちのミロは見たこともない、東洋の樹木の麗々しい盛装。
 感性に訴えることができそうだった。
 「……とはいえ、本当に美しい真紅を作り出すには、昼夜の気温差が大きいことが必須条件でね。ここしばらく、カミュはこのあたりの気温を下げに通っていたんだよ」
 「それで最近カミュいなかったんだ」
 自分を避けるようなカミュの行動理由にようやく納得したミロは、飛びつくようにカミュに抱きついた。
 「ありがと! カミュ、ダイスキ!」
 「……苦しいんだけど」
 そっけない反応を返しながらも、カミュは嬉しそうに微笑んだ。
 しばらくじゃれあう二人をにこにこと見ていたサガは、やがて少し離れたところから、彼らを呼んだ。
 「私からの贈り物はこっちだよ」
 呼ばれるままに足を向けたミロは、わっと歓声をあげた。
 サガが指差す先には、小さな泉があった。
 岩積みの施されたその泉からは、もうもうたる湯煙がたちのぼっている。
 「ちょっと地面を割ってみたら、たまたま湯脈に当たってね。紅葉を愛でながら湯浴みというのも悪くないだろう?」
 「それって、どっちかっていうと僕よりサガの方が嬉しいんじゃないの……」
 「嫌なら入らなくてもいいけど?」
 からかうサガに、ミロはぶんぶんと首を横に振った。
 いくら火山国とはいえ、偶然温泉を掘り当てられるわけがない。
 紅葉樹と湯脈に恵まれたこの地を捜すのに、二人はどれだけ苦労したことだろう。
 しかもその労力は、ただミロの誕生日を祝うという目的のためだけに捧げられたものなのだ。
 幼いミロでも、その位のことはわかった。
 そして、それがどんなに有難いことかも。
 「そんなことない。サガ、ありがとう!」
 ミロは手早く服を脱ぎ捨てると、ざぶんと温泉に飛び込んだ。
 高い水飛沫が勢いよくあがり、傍らに立つサガとカミュの身まで濡らす。
 「二人とも、何してるの? 入らないの?」
 極上の笑みを浮かべながらミロは水面を漂う紅葉を一枚取り上げると、手の中でもてあそび始めた。
 幸せそうにくつろぐミロに、あっけにとられて取り残されていた二人は、顔を見合わせてくすりと笑った。
 どうやら、彼は二人のプレゼントを気に入ってくれたらしい。
 三人で過ごした誕生日は、ミロだけでなくカミュとサガにとっても、忘れられない一日になっていった。

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