無憂宮
六花


 書斎で書き物をしていたサガの手が止まった。
 微笑を刻んだ口許を、ペン軸の先で、二、三度軽くつつきながら、外の様子を探る。
 近づいてくる気配は、書斎の外でぴたりと動かなくなってしまった。
 出迎えを待たずに玄関を開けることはできるようになった。
 しかし、それ以上はまだ。
 決して無許可で部屋に入ってこようとはしない。
 およそ一般の子供に対するものとは逆の躾だが、人に対して極度に遠慮深い彼には、それくらいでちょうどよい。
 何があっても受け止めてくれる存在がいることを実感してもらうには、それくらいで、ちょうど。
 それでも、大分慣れたとはいえ、まだ扉一枚の壁は乗り越えがたいか。
 ここまで来れたご褒美に、少しだけ、歩み寄り。
 焦ることはない。時間をかけて、ゆっくりと彼の世界を広げていけばよいのだから。
 サガは静かに立ち上がると扉を開けた。
 障壁を取り除いた先には、予測どおりカミュがいた。
 紅い瞳をかすかに潤ませ、じっとサガを見上げてくる。
 「どうした、カミュ?」
 サガは眼前の幼い子供の前に膝をついた。
 心なしか、冷気の名残がカミュの周囲を煙霞のように取り巻いている。
 きつく握り締められ色を無くした小さな手を、サガは両手でくるみ込んだ。
 「こんなに冷たい手をして……」
 気遣わしげな視線を照射され、次第にカミュの氷が融けだす。
 大きな掌の中で、カミュの手から徐々に力が抜けていった。
 しばらく唇を噛みしめ俯いていたカミュは、サガの手の温かさに勇気付けられたか、ようやく口を開いた。
 「サガ、お願いです。シベリアに連れてってください」
 「シベリア?」
 怪訝そうに繰り返すサガに、カミュは決然とうなずいた。


 ホットミルクに、蜂蜜を少し。
 甘い香りが部屋の空気を仄かに染めていく。
 こういう飲み物は、この子たちが聖域に来てから作る機会が多くなった。
 自分が幼い頃には味わうことのなかったぬくもり。
 それを子供たちに与えることで、自分も疑似体験しようとしているのかもしれない。
 わずかばかりの苦笑と共に、サガはカミュを見遣った。
 両手に余るカップを大切そうに抱え、カミュはふうふうと息を吹きかけていた。
 猫舌なのだ。
 それをわかっていても、サガはあえて熱い飲み物を出す。
 そうやって飲み物を冷ましている間に、カミュの心も落ち着いていくことを見越してのことだ。
 思惑通り、カミュを取り巻く冷気が徐々に消えていく。
 表情の険も取れ、いつもの愛らしく稚い顔になったところで、サガは当初の話題に戻ることにした。
 「で、なぜシベリアに行きたいんだい?」
 「雪を、取ってきたいんです」
 「雪?」
 今日のカミュの話は、サガの想定を大きく裏切っていく。
 子供とは思えないほど明敏なカミュの思考は、どこか自分と似ていて察しもつきやすかったのだが。
 今回ばかりは、さすがのサガも話題についていくことができず、復唱するのが精一杯だった。
 「ミロが見たことないっていうから……」
 「それなら、わざわざシベリアまでいかなくても、カミュが小宇宙で作れるだろうに」
 何気なく漏らしたサガの言葉は、今のカミュには禁句だったようだ。
 不注意を自覚する間もなく、カミュの瞳がみるみる潤みだす。
 「やってみたけど、できません。雪じゃなくて氷になっちゃって……」
 震えだした語尾は、音になることもなく呑みこまれた。
 今にも泣き出しそうなカミュの頭を、サガは慌ててあやすように撫でた。
 聖衣の認証を得たとはいえ、まだまだ彼らは聖闘士になって日が浅い。
 最低限の小宇宙のコントロールには問題がないものの、微細な調整には今後の経験と修行が必要だった。
 闘技としてのカミュの小宇宙は、一気呵成に凍気を放つものだ。
 氷点下何十度という温度は容易に作り出せても、零度前後に目標を設定することはかえって難しいのだろう。
 そのうえ、雪を組成する水分量は、乾燥したギリシャの大気中の水蒸気量よりも圧倒的に多い。
 条件が完全に整わない以上、雪を通り越して氷を作りだしてしまうのも、今のカミュでは無理もないといえた。
 紅い髪を撫でながら、サガは思考を巡らせた。
 こうして頭を撫でてやっても、小さい体が強張ることもなくなった。
 それが嬉しくて、ついついサガも手を差し伸べてしまうのだが、彼とてカミュを甘やかしてばかりいるわけではない。
 カミュをシベリアに連れていくことは簡単だ。
 だが、それでは意味がない。
 この幼い聖闘士にとっては、好都合にも良い修行の機会となりうるのだから。
 サガはカミュの頬を両手で挟みこむと、じっと顔を覗き込んだ。
 上目遣いに見上げてくる紅い瞳を見据えて、静かに話しかける。
 「カミュは、ミロが好きなんだよね」
 こくりと、首が小さく縦に振られた。
 「じゃ、ミロのために頑張ってみよう。私も手伝うから」
 もう一度、今度は大きくカミュはうなずいた。
 希望と感謝とが混ざった光を瞳の奥で煌かせ、小さく笑う。
 ようやく見せてくれた笑顔は、雪解けと共に咲く可憐な雪割草のようで、サガの心を和ませてくれた。


 翌日、サガはカミュとミロをつれて海岸を訪れていた。
 冬の海は少しくすんだ色に染まり、夏と変わりがないはずの打ち寄せる波の音が、殊に寂しく響く。
 猛るように吹きつけてくる海風に、ミロは大げさに身を震わせた。
 「ねえ、こんな寒いとこで何するの?」
 「まあ、見てのお楽しみだね」
 サガはくすりと微笑むと、一人、海へと足を踏み入れた。
 背後で子供たちが驚き慌てる声がする。
 追いかけてこようとする二人を軽く手を上げて制すると、サガは瞳を閉じた。
 両手をわずかに広げ黙然と立ち尽くすその姿は、静かに天に祈りを捧げる聖職者のようだ。
 やがて、小宇宙を高めるサガの全身が、金色に淡く霞みだす。
 それを合図に、周囲の海面が異変を察し激しく騒ぎ出した。
 それ自体が意志ある物のように蠢く波が、サガを取り巻くようにそそり立つ。
 サガの瞳が開いた。
 一瞬の閃光と共に、空と海の間に水の架け橋が生じる。
 サガが作り出した竜巻に巻き上げられた海水は、轟音と共に、ただひたすら天を目指して駆け上っていく。
 しばらくして、ようやくサガは小宇宙の展開を収めた。
 水柱は徐々に勢いを失い、サガが浜辺に戻った頃には、従前と変わらぬ穏やかな海原が広がるだけだった。
 「今の、何? 何したの?」
 好奇心の塊のようなミロが、蒼い瞳を輝かせてサガにまとわりついた。
 サガの服の端を引っ張り、性急に答えをせがむ。
 「ちょっと、天気を変えようと思ってね」
 明確な回答を避けたサガは、いなすようにミロの頭を撫でた。
 傍に立つカミュには、その台詞で謎が解けたらしい。
 紅い瞳が、青く晴れ渡る空に向けられた。
 サガは、雨を降らせようとしたのだ。
 上昇気流に乗せられた水は、上空で氷結し雲を作り出す。
 結果として過飽和状態になった水蒸気は、雲の姿で空を漂うことに倦み、地上に戻ってくるはずだ。
 そして、気温が低ければ、氷粒は結晶状態のまま、融けることなく落ちてくる。
 それが、雪の正体。
 雪の原料となる雨の支度は整った。
 その他に必要なのは、雪を雨にしないだけの冷気。
 「あとは、カミュの仕事だよ。任せたからね」
 微笑むサガに、カミュはやや緊張したように笑い返してきた。


 それからしばらくの間は、夏の日々のように浜辺で過ごしていた。
 ミロが作った砂の城に、カミュが上からさらさらとした白砂をかける。
 仲良く遊ぶ二人を微笑ましく見守っていたサガは、風の匂いの変化を感じ、空を見上げた。
 先程まで地上に降り注いでいた太陽の光は、雲に遮られ既に勢いを減じていた。
 やがて、サガの企図したとおり、ぽつりぽつりと雨が降り始める。
 「わ、雨! 帰ろう、サガ」
 砂を撥ね上げながら駆け寄ってくるミロに、サガはやんわりと首を振った。
 いぶかしげなミロを促し、雨宿りのため木陰に移動する。
 「ねえ、カミュは? カミュもこっちに来ないと……」
 振り返ったミロは、大きな蒼い瞳を瞬かせて口をつぐんだ。
 先程のサガのように静かに佇むカミュは、薄青い小宇宙に身を包ませていた。
 仄かな冷気が、カミュの足元の砂上を這うように放射状に広がっていくのが見える。
 事態の説明を求めて、ミロはサガを見上げた。
 サガはミロと目線を合わせるように、傍に腰を下ろした。
 「もう少し、黙って見ていよう」
 長い指を唇の前で立て片目をつぶってみせるサガに、ミロは不承不承ながらも従うことにしたらしい。
 サガと並んで座ると、頬杖をついてカミュを見守りだした。


 そして、雨が本降りになった頃。
 「さ、寒いんだけど……」
 ミロは寒さに歯の根も合わなくなったようだ。
 サガにしがみつくようにして、必死で暖を取ろうとしている。
 カミュの凍気は、雨を雪どころか雹に変えてしまうほどに強まっていた。
 ばらばらと氷の粒が地面を叩く音が、虚しく響く。
 カミュが懸命に抑えようとする小宇宙を嘲笑するかのように、一旦下がった気温はそのまま底辺を彷徨い続けていた。
 そうそう人為的な支配になど屈しないという、自然の頑迷な抵抗だろう。
 カミュの姿が、いつも以上に小さく見えた。
 寄る辺を見失いつつある求道者のように、天を仰いで立ち尽くし途方に暮れている。
 「ああ、もうだめ。耐えらんない」
 サガの隣で、ぼそりと呟きが漏れた。
 視線をカミュからミロに移したサガは、かすかに瞠目し首を傾げた。
 寒さに耐えかねたミロが、熱を得ようと小宇宙を燃やし始めていた。
 よほど寒かったのだろう。
 自身のみならず、その周辺をも暖めるに足るほど、赤くけぶるような靄がミロから漂いだす。
 サガは空を見上げ、ついでカミュを見た。
 カミュも、同じように視線を走らせると、サガを見た。
 天から降りてくる便りは、ミロの小宇宙の影響で、次第に硬さを和らげていく。
 手を差し伸べたカミュの目の前で、氷粒はみるみる融けた。
 あえかに白いそれは、六花片の氷の結晶。
 雪と、呼ばれるものだった。
 掌に残る雪の名残を茫然とみつめるカミュに、サガは穏やかに笑いかけた。
 「まあ、過程はともかく、目標は達成できたんじゃないかな、カミュ」
 ようやく震えが治まった様子のミロが、きょとんとしてサガを見上げる。
 そして、初めて瞳に映る白いものに気がついたらしい。
 「わっ、これ、雪? カミュが言ってたやつ?」
 歓声と共に、ミロは勢いよく立ち上がった。
 先程まで身を縮み込ませていた反動のように飛び跳ねると、両手を広げてカミュに駆け寄る。
 居心地が悪そうなカミュの手をとり、ミロは踊らんばかりにはしゃぎだした。
 「すごい、すごい! 本当に雪だ!」
 明るいミロの声が浜辺に響く。
 その声音につられ、かすかに強張っていたカミュの表情も、屈託のない笑顔になる。
 この儚い雪景色は、融けることなく残っていくのだろう。
 二人の心の中に、いつまでも。
 サガは口許を僅かに緩めて立ち上がると、舞い落ちる雪花の中へと足を踏み出した。
 記憶の風景にその姿をも刻みこもうとするかのように、雪はサガを白く染めようと降りかかってきた。

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