雪景
真っ白い雪原に、修行の声が響く。
予想通りの光景。
ミロは微笑を浮かべて、声の方に歩み寄った。
ただひたすら色を無くした世界に、カミュの真紅の髪は奇跡のように映える。
何処にいても道標になるその姿は、ミロを引きつけて止まない最愛の恋人のものだった。
修行の妨げにならないよう、気配を断ちつつ近づく。
小さな二人の弟子の組み手に注がれる視線は、温かくも厳しい師のそれだった。
ミロの知らないカミュが、そこにいた。
この無人の大地で、過酷な自然の中で、修行に明け暮れる日々。
互いしか存在しない生活の中、他者の介在を許さない密な師弟関係を築き上げていることが容易に見て取れた。
声をかけることが罪悪な様な気がして、ミロは足を止めた。
ふと何かを感じたか、カミュが振り返る。
「ミロ……」
驚きと喜びが混在した笑顔に迎えられ、ミロは苦笑した。
邪魔をしないようにしたつもりだったが、歩みを止めたことでかえって気づかせてしまったらしい。
「あっ、ミロだ!」
弟子たちが互いに繰り出す拳を止めた。
見上げてくる視線だけで、カミュには彼らの意図が伝わるらしい。
カミュがうなずくやいなや、弟子の攻撃目標はミロに移行した。
「いつまでいるの?」
挨拶代わりにパンチを繰り出してきたのは氷河だった。
また腕を上げた。
切れの良くなった拳打をかわしながら、ミロの口の端が持ち上がる。
「一週間位」
「その前に先生に追い出されたりして」
憎まれ口を叩きながら、アイザックが足をなぎ払おうとする。
格闘センスは、まだ兄弟子の方が上か。
連携攻撃が、最大の効果を発揮するように攻めてくる。
「あるかよ、そんなこと」
足場の悪さをものともせず、ミロは跳んだ。
伸身のまま宙返りして二人の背後にまわると、着地と同時に彼らの肩をつかむ。
「まだまだ、ひよこだな」
くるりと回転させられ、二人は派手に雪を跳ね上げて倒れこんだ。
ミロは笑った。手荒な歓迎のおかげで、自然に彼らの世界に溶け込むことが出来た。
暖炉の火がはぜる音だけがした。
さっきまで煩いほどミロにまとわりついていた子供たちが寝静まると、夜の冷たさがひしひしと迫り来るのがわかる。
いつもこの静寂に耐えているのだろうか。カミュは、たった独りで。
「どうした?」
黙り込んだミロに、カミュが訝しげに声をかける。
ミロは肩をすくめてみせた。
自分の前で弱さをさらけ出すのを嫌うカミュに、孤独の感想など訊くことはできない。
「いや、あいつら、大きくなったな、と思って」
「そうだろう? もう居間で眠りこまれると、ベッドまで運んでやるのが大変になってきた」
弟子の成長を語るのが余程嬉しいのか、カミュは幸せそうな笑みを浮かべた。
「この間おまえが来たのは、まだ夏だったからな」
「あれから半年しか経ってないのにな」
聖域にいると、時の流れに疎くなる気がする。
もちろん、陽射しや風の匂いは移り変わる季節を克明に伝えているはずだが、正直に言うとあまり興味はなかった。
カミュが傍にいない日々は、ただ単調に過ぎていく。
時間だけが無為に、次のカミュとの再会を楽しみに生きるミロをおいて過ぎていく。
もっとも、それは、ミロだけ。
シベリアにいるカミュは、毎日が変化と刺激に満ちているはずだった。
つかの間の夏と極寒の冬という、激しく移ろう気候だけが理由ではない。
弟子を育てるカミュの瞳は輝いていた。
日々刻々と成長を遂げていく弟子たちが、カミュ自身をも向上させていく。
ミロを置き去りにして、カミュだけが一人、大人になっていく。
苛立ちともどかしさが、ミロに伸しかかってきていた。拭い去れない暗い闇が、ミロの心奥に生じつつあった。
子供たちが寝た後の時間の埋め方は、次第に上達していった。
初めは閉口していた子供特有の騒がしさも、慣れれば愛おしくさえ思える。
あらゆる音を吸収してしまうかのような雪の季節には、ひとしおだった。
しかし、余計な感傷に浸る間もないほど忙しい時間は、弟子が寝室に下がると途端に終わりを告げる。
同時に嫌というほど寂しさが募ってくるのは、認めたくないが、事実。
孤独を紛らわせるために、本の世界に精神を浮遊させ、遠い聖域にいる恋人に想いを馳せる。
時折の恋人の訪れを、指折り待ちあぐねる。
そうして待ち望んだミロを目の前にしているというのに、カミュは違和感を禁じえなかった。
極わずかながら、蒼い瞳を陰がよぎる。
その正体を掴めないまま、日付が替わった。
明日も修行は続く。
もう寝支度をする時間だった。
小さな家には、来客用の部屋などない。
ミロが泊まるのは、いつもカミュの部屋だった。
ミロのために長椅子をクッションと毛布で仮の寝台に変貌させると、カミュは自分のベッドに身を横たえた。
どうせ、ミロはその即席寝台では眠らない。
寒いとか狭いとか、訳のわからない理由をつけては、カミュの隣に潜り込んでくるのだ。
今日も同じ。
ベッドの脇に人の気配を感じ、カミュはぼんやりと瞳を開けた。
ミロが自分を見下ろしながら、傍に立ち尽くしていた。
「何だ?」
「おやすみのキス、させてよ」
「……勝手にしろ」
カミュは再び瞳を閉じた。
今までの経験上、キスだけで終わるとは、到底思えなかった。
ミロの手がカミュの頬に伸びる。
優しく頬を撫でる手が心地よい。
久々に感じる甘やかな刺激に、痺れるような陶酔が脊髄を駆け上る。
ミロの口付けが頬に落とされた。
次は、どこに?
仄かな期待が吐息となって洩れた。
「……おやすみ」
次は、なかった。
ミロは長椅子に戻って、大人しく毛布にくるまったようだった。
行き場のない熱が、愕然としたカミュの体内を駆け巡る。
眠れなかった。
視線が気になる。
どこに行くにも、追いかけてくる。
いつも以上に傍に寄ってくるくせに、今日のアイザックは何も話しかけようとはしなかった。
何か言いたいことがあるのかもしれない。
ミロや氷河がいては言えないことがあるのかもしれない。
カミュは自室にアイザックを呼び入れた。
「どうかしたのか、アイザック」
カミュは、アイザックと目線を合わせるように身をかがめた。
瞳を覗き込まれて視線を逸らして逃げ出すような少年ではないことくらい、とっくに承知している。
アイザックは、思いを言葉に乗せることをためらうように唇を湿らせ、俯いた。
が、やがて、意を決したように見上げる。
「先生、ミロと何かあったんですか?」
「どうしてそんなことを?」
ほんの少したじろぐ自分を、かろうじて内に押し込める。
この少年は、鋭敏な感性の持ち主だ。
未熟な自分が師として何とか指導を続けていられるのも、この優秀な弟子に負うところが大きいことは自覚していた。
その分、子供だからといって侮れない。
「……なんか、ヘンだから。先生もミロも」
ぶっきらぼうに、ぼそりと呟く声がした。
カミュは苦笑した。
ミロが来て二日程しか経っていないのに、もうアイザックは気づいている。
自分がおかしいとしたら、ミロのせいだ。
ミロが、いつもの彼ではないからだ。
弟子の修行風景を、なにか眩しいものでもみるように遠巻きに眺めている。
そんなミロは、ついぞ見たことがない。
いつだって修行の邪魔だと怒られるほど、口も手も出してくる。
それが常のミロなのに。
アイザックも、そんな賑やかなミロが来るのを楽しみにしていたのだろう。
きっと予想が外れて、困惑しているのだ。
「優しいんだな、おまえは」
カミュは微笑んで、アイザックの頭に手を置いた。
「心配、してくれてるんだろう。ミロのことを」
「……心配してるのは、ミロのことじゃありません」
少しむくれたように口を尖らせ、言葉を落とす。
こちらも、いつもの弟子ではない。
カミュは訝しげにまばたきをした。
「カミュ、ちょっと……」
「じゃ、先生、あとで」
ノックもせずに扉を開けたミロが、アイザックにとっては救いになったようだ。
問い質そうとしたカミュを残し、ほっとしたように部屋を出て行く。
普段どおりなのは、氷河だけか。
カミュはため息と共に、調子を狂わせる元凶となった人物に向き直った。
ミロは遠ざかるアイザックの後姿をちらりと見送ると、後ろ手に扉を閉めた。
世界と隔絶する音が、小さく響く。
「……俺、帰るわ」
「もう?」
思わず上がる驚きの声が、他人のもののように耳に突き刺さる。
一週間はいると言っていたのに、まだ二日しか経っていないのだ。
驚愕も当然だった。
ミロは無言で頷いた。
しかし、それ以上の追及を避けるかのように、瞳を合わせようとしない。
どいつもこいつも。
自分も含めて、皆、一体何をやっているのだろう。
胸の内の氷の炎が、揺らめいた。
「……わかった。帰る前に、少し付きあえ」
柄にもない乱暴な動作で、長い指が窓の外を指し示す。
紡がれる声音だけは、静かなままだった。
小宇宙を使わない純粋な体術のみの勝負では、圧倒的にミロが勝る。
身体能力の高さでは、ミロは聖域でも群を抜いていた。
カミュが次第にミロとの組み手を避けるようになったのは、負けず嫌いな彼にとっては自然の流れだった。
その不得手な勝負を、あえてカミュは挑んできたのだ。
承諾する間も無く、カミュの拳が繰り出される。
反射的に避けたミロの長い髪の先が拳圧で切れ、雪の上に舞った。
それが、戦闘開始の合図だった。
二人は向き合って雪の上に座り込んでいた。
ひとしきりの蹴拳の応酬の名残をうかがわせるのは、激しく息をつく肩の動きだけだった。
白く曇る呼気の玉が、幾つも天に向かって消えていく。
「……おまえ、柔軟性と敏捷性に頼りすぎ。避けるのは巧いけど、あんな不安定な体勢からじゃ、攻撃力は半減するって」
「おまえは避けるの下手すぎ。自分の拳打に自信があるのだろうが、過信は命取りにつながるぞ」
カミュは雪の上に寝転び、瞳を閉じた。
呼吸はまだ荒く、胸が激しく上下していた。
「……相変わらず、だがな」
「おまえもな」
ミロが小さく笑った。
相変わらず、か。
ミロは目を細めて白くけぶる地平線を見遣った。
一面の銀世界が、眩しい。
「……考えすぎ、だったのかな」
カミュは無言のまま、瞳だけでミロを見上げた。
久々に全力で拳を交えたのだ。
弟子を相手にしているときとは比較にならないほど消耗し、口を開くのも億劫なのだろう。
実情はともかく、その沈黙は、ミロの心情の吐露を優しく促してくれた。
口許に自嘲の笑いを浮かべつつ、ミロは淡々と呟いた。
「なんか、おまえ一人でどんどん遠くに行っちゃうような気がしたんだ」
離れて生きる日々が、不安にさせる。
異なりすぎる状況が、怯えを生む。
お互いの全てを知り尽くしたと思っていたのに、いや、だからこそ一層、共に過ごせない時間が心を蝕んでいく。
シベリアは、カミュの世界だった。
ミロはここでは不要の存在。
ミロがいなくても、カミュはその職責を充分に全うできるのだ。
ミロがいなくても。
たった独りでも。
そう、思った。
「……ばかだな」
言葉と同時に、一掴みの雪がミロの顔に投げつけられる。
「何すんだよ」
「目、覚めただろ」
笑みを含んだカミュの瞳が、大仰に睨むミロを悠然と見つめ返していた。
「言葉にして欲しいなら言ってやるが、おまえが聖域で待っていると思うから、私はここで頑張っていられるのだぞ」
ミロの呼吸が、止まった。
ただでさえ息を切らしていたというのに。
全身の体細胞が、酸素を求めて悲鳴を上げだした。
一陣の風が吹いた。
巻き上げられた雪が、容赦なく二人を包み込む。
ミロは濡れそぼった仔犬のように、大げさに身を震わせた。
「寒い。家、戻ろう」
ミロの言葉に、ようやくカミュが上体を起こす。
カミュの背に付いた雪を払ってやりながら、ミロは口の端を持ち上げた。
「気が変わった。聖域に帰るの、もうちょっと後にする。この続きは、今晩な」
「続き?」
闘技はもうミロの勝利で決着がついたはずだと言わんばかりに、カミュは怪訝な顔をした。
その耳元に、ミロは顔を寄せ囁く。
「今度は雪の上じゃなくて、ベッドの上であえがせてやる」
「……おまえ、やっぱり帰れ」
「俺が帰ると、寂しいくせに」
再び雪が猛り狂った。
先程とは異なり、風も無いのに、ミロの周囲にだけ。
ようやく雪の乱が治まり、視界が元に戻ったときには、既にカミュの姿は遠ざかりつつあった。
「冷たいな、相変わらず」
込み上げてくる温かい笑いが、抑え切れない。
雪白の中を行く鮮烈な紅を追いかけ、ミロは走り出した。
真っ白い雪原に、修行の声が響く。
予想通りの光景。
ミロは微笑を浮かべて、声の方に歩み寄った。
ただひたすら色を無くした世界に、カミュの真紅の髪は奇跡のように映える。
何処にいても道標になるその姿は、ミロを引きつけて止まない最愛の恋人のものだった。
修行の妨げにならないよう、気配を断ちつつ近づく。
小さな二人の弟子の組み手に注がれる視線は、温かくも厳しい師のそれだった。
ミロの知らないカミュが、そこにいた。
この無人の大地で、過酷な自然の中で、修行に明け暮れる日々。
互いしか存在しない生活の中、他者の介在を許さない密な師弟関係を築き上げていることが容易に見て取れた。
声をかけることが罪悪な様な気がして、ミロは足を止めた。
ふと何かを感じたか、カミュが振り返る。
「ミロ……」
驚きと喜びが混在した笑顔に迎えられ、ミロは苦笑した。
邪魔をしないようにしたつもりだったが、歩みを止めたことでかえって気づかせてしまったらしい。
「あっ、ミロだ!」
弟子たちが互いに繰り出す拳を止めた。
見上げてくる視線だけで、カミュには彼らの意図が伝わるらしい。
カミュがうなずくやいなや、弟子の攻撃目標はミロに移行した。
「いつまでいるの?」
挨拶代わりにパンチを繰り出してきたのは氷河だった。
また腕を上げた。
切れの良くなった拳打をかわしながら、ミロの口の端が持ち上がる。
「一週間位」
「その前に先生に追い出されたりして」
憎まれ口を叩きながら、アイザックが足をなぎ払おうとする。
格闘センスは、まだ兄弟子の方が上か。
連携攻撃が、最大の効果を発揮するように攻めてくる。
「あるかよ、そんなこと」
足場の悪さをものともせず、ミロは跳んだ。
伸身のまま宙返りして二人の背後にまわると、着地と同時に彼らの肩をつかむ。
「まだまだ、ひよこだな」
くるりと回転させられ、二人は派手に雪を跳ね上げて倒れこんだ。
ミロは笑った。手荒な歓迎のおかげで、自然に彼らの世界に溶け込むことが出来た。
暖炉の火がはぜる音だけがした。
さっきまで煩いほどミロにまとわりついていた子供たちが寝静まると、夜の冷たさがひしひしと迫り来るのがわかる。
いつもこの静寂に耐えているのだろうか。カミュは、たった独りで。
「どうした?」
黙り込んだミロに、カミュが訝しげに声をかける。
ミロは肩をすくめてみせた。
自分の前で弱さをさらけ出すのを嫌うカミュに、孤独の感想など訊くことはできない。
「いや、あいつら、大きくなったな、と思って」
「そうだろう? もう居間で眠りこまれると、ベッドまで運んでやるのが大変になってきた」
弟子の成長を語るのが余程嬉しいのか、カミュは幸せそうな笑みを浮かべた。
「この間おまえが来たのは、まだ夏だったからな」
「あれから半年しか経ってないのにな」
聖域にいると、時の流れに疎くなる気がする。
もちろん、陽射しや風の匂いは移り変わる季節を克明に伝えているはずだが、正直に言うとあまり興味はなかった。
カミュが傍にいない日々は、ただ単調に過ぎていく。
時間だけが無為に、次のカミュとの再会を楽しみに生きるミロをおいて過ぎていく。
もっとも、それは、ミロだけ。
シベリアにいるカミュは、毎日が変化と刺激に満ちているはずだった。
つかの間の夏と極寒の冬という、激しく移ろう気候だけが理由ではない。
弟子を育てるカミュの瞳は輝いていた。
日々刻々と成長を遂げていく弟子たちが、カミュ自身をも向上させていく。
ミロを置き去りにして、カミュだけが一人、大人になっていく。
苛立ちともどかしさが、ミロに伸しかかってきていた。拭い去れない暗い闇が、ミロの心奥に生じつつあった。
子供たちが寝た後の時間の埋め方は、次第に上達していった。
初めは閉口していた子供特有の騒がしさも、慣れれば愛おしくさえ思える。
あらゆる音を吸収してしまうかのような雪の季節には、ひとしおだった。
しかし、余計な感傷に浸る間もないほど忙しい時間は、弟子が寝室に下がると途端に終わりを告げる。
同時に嫌というほど寂しさが募ってくるのは、認めたくないが、事実。
孤独を紛らわせるために、本の世界に精神を浮遊させ、遠い聖域にいる恋人に想いを馳せる。
時折の恋人の訪れを、指折り待ちあぐねる。
そうして待ち望んだミロを目の前にしているというのに、カミュは違和感を禁じえなかった。
極わずかながら、蒼い瞳を陰がよぎる。
その正体を掴めないまま、日付が替わった。
明日も修行は続く。
もう寝支度をする時間だった。
小さな家には、来客用の部屋などない。
ミロが泊まるのは、いつもカミュの部屋だった。
ミロのために長椅子をクッションと毛布で仮の寝台に変貌させると、カミュは自分のベッドに身を横たえた。
どうせ、ミロはその即席寝台では眠らない。
寒いとか狭いとか、訳のわからない理由をつけては、カミュの隣に潜り込んでくるのだ。
今日も同じ。
ベッドの脇に人の気配を感じ、カミュはぼんやりと瞳を開けた。
ミロが自分を見下ろしながら、傍に立ち尽くしていた。
「何だ?」
「おやすみのキス、させてよ」
「……勝手にしろ」
カミュは再び瞳を閉じた。
今までの経験上、キスだけで終わるとは、到底思えなかった。
ミロの手がカミュの頬に伸びる。
優しく頬を撫でる手が心地よい。
久々に感じる甘やかな刺激に、痺れるような陶酔が脊髄を駆け上る。
ミロの口付けが頬に落とされた。
次は、どこに?
仄かな期待が吐息となって洩れた。
「……おやすみ」
次は、なかった。
ミロは長椅子に戻って、大人しく毛布にくるまったようだった。
行き場のない熱が、愕然としたカミュの体内を駆け巡る。
眠れなかった。
視線が気になる。
どこに行くにも、追いかけてくる。
いつも以上に傍に寄ってくるくせに、今日のアイザックは何も話しかけようとはしなかった。
何か言いたいことがあるのかもしれない。
ミロや氷河がいては言えないことがあるのかもしれない。
カミュは自室にアイザックを呼び入れた。
「どうかしたのか、アイザック」
カミュは、アイザックと目線を合わせるように身をかがめた。
瞳を覗き込まれて視線を逸らして逃げ出すような少年ではないことくらい、とっくに承知している。
アイザックは、思いを言葉に乗せることをためらうように唇を湿らせ、俯いた。
が、やがて、意を決したように見上げる。
「先生、ミロと何かあったんですか?」
「どうしてそんなことを?」
ほんの少したじろぐ自分を、かろうじて内に押し込める。
この少年は、鋭敏な感性の持ち主だ。
未熟な自分が師として何とか指導を続けていられるのも、この優秀な弟子に負うところが大きいことは自覚していた。
その分、子供だからといって侮れない。
「……なんか、ヘンだから。先生もミロも」
ぶっきらぼうに、ぼそりと呟く声がした。
カミュは苦笑した。
ミロが来て二日程しか経っていないのに、もうアイザックは気づいている。
自分がおかしいとしたら、ミロのせいだ。
ミロが、いつもの彼ではないからだ。
弟子の修行風景を、なにか眩しいものでもみるように遠巻きに眺めている。
そんなミロは、ついぞ見たことがない。
いつだって修行の邪魔だと怒られるほど、口も手も出してくる。
それが常のミロなのに。
アイザックも、そんな賑やかなミロが来るのを楽しみにしていたのだろう。
きっと予想が外れて、困惑しているのだ。
「優しいんだな、おまえは」
カミュは微笑んで、アイザックの頭に手を置いた。
「心配、してくれてるんだろう。ミロのことを」
「……心配してるのは、ミロのことじゃありません」
少しむくれたように口を尖らせ、言葉を落とす。
こちらも、いつもの弟子ではない。
カミュは訝しげにまばたきをした。
「カミュ、ちょっと……」
「じゃ、先生、あとで」
ノックもせずに扉を開けたミロが、アイザックにとっては救いになったようだ。
問い質そうとしたカミュを残し、ほっとしたように部屋を出て行く。
普段どおりなのは、氷河だけか。
カミュはため息と共に、調子を狂わせる元凶となった人物に向き直った。
ミロは遠ざかるアイザックの後姿をちらりと見送ると、後ろ手に扉を閉めた。
世界と隔絶する音が、小さく響く。
「……俺、帰るわ」
「もう?」
思わず上がる驚きの声が、他人のもののように耳に突き刺さる。
一週間はいると言っていたのに、まだ二日しか経っていないのだ。
驚愕も当然だった。
ミロは無言で頷いた。
しかし、それ以上の追及を避けるかのように、瞳を合わせようとしない。
どいつもこいつも。
自分も含めて、皆、一体何をやっているのだろう。
胸の内の氷の炎が、揺らめいた。
「……わかった。帰る前に、少し付きあえ」
柄にもない乱暴な動作で、長い指が窓の外を指し示す。
紡がれる声音だけは、静かなままだった。
小宇宙を使わない純粋な体術のみの勝負では、圧倒的にミロが勝る。
身体能力の高さでは、ミロは聖域でも群を抜いていた。
カミュが次第にミロとの組み手を避けるようになったのは、負けず嫌いな彼にとっては自然の流れだった。
その不得手な勝負を、あえてカミュは挑んできたのだ。
承諾する間も無く、カミュの拳が繰り出される。
反射的に避けたミロの長い髪の先が拳圧で切れ、雪の上に舞った。
それが、戦闘開始の合図だった。
二人は向き合って雪の上に座り込んでいた。
ひとしきりの蹴拳の応酬の名残をうかがわせるのは、激しく息をつく肩の動きだけだった。
白く曇る呼気の玉が、幾つも天に向かって消えていく。
「……おまえ、柔軟性と敏捷性に頼りすぎ。避けるのは巧いけど、あんな不安定な体勢からじゃ、攻撃力は半減するって」
「おまえは避けるの下手すぎ。自分の拳打に自信があるのだろうが、過信は命取りにつながるぞ」
カミュは雪の上に寝転び、瞳を閉じた。
呼吸はまだ荒く、胸が激しく上下していた。
「……相変わらず、だがな」
「おまえもな」
ミロが小さく笑った。
相変わらず、か。
ミロは目を細めて白くけぶる地平線を見遣った。
一面の銀世界が、眩しい。
「……考えすぎ、だったのかな」
カミュは無言のまま、瞳だけでミロを見上げた。
久々に全力で拳を交えたのだ。
弟子を相手にしているときとは比較にならないほど消耗し、口を開くのも億劫なのだろう。
実情はともかく、その沈黙は、ミロの心情の吐露を優しく促してくれた。
口許に自嘲の笑いを浮かべつつ、ミロは淡々と呟いた。
「なんか、おまえ一人でどんどん遠くに行っちゃうような気がしたんだ」
離れて生きる日々が、不安にさせる。
異なりすぎる状況が、怯えを生む。
お互いの全てを知り尽くしたと思っていたのに、いや、だからこそ一層、共に過ごせない時間が心を蝕んでいく。
シベリアは、カミュの世界だった。
ミロはここでは不要の存在。
ミロがいなくても、カミュはその職責を充分に全うできるのだ。
ミロがいなくても。
たった独りでも。
そう、思った。
「……ばかだな」
言葉と同時に、一掴みの雪がミロの顔に投げつけられる。
「何すんだよ」
「目、覚めただろ」
笑みを含んだカミュの瞳が、大仰に睨むミロを悠然と見つめ返していた。
「言葉にして欲しいなら言ってやるが、おまえが聖域で待っていると思うから、私はここで頑張っていられるのだぞ」
ミロの呼吸が、止まった。
ただでさえ息を切らしていたというのに。
全身の体細胞が、酸素を求めて悲鳴を上げだした。
一陣の風が吹いた。
巻き上げられた雪が、容赦なく二人を包み込む。
ミロは濡れそぼった仔犬のように、大げさに身を震わせた。
「寒い。家、戻ろう」
ミロの言葉に、ようやくカミュが上体を起こす。
カミュの背に付いた雪を払ってやりながら、ミロは口の端を持ち上げた。
「気が変わった。聖域に帰るの、もうちょっと後にする。この続きは、今晩な」
「続き?」
闘技はもうミロの勝利で決着がついたはずだと言わんばかりに、カミュは怪訝な顔をした。
その耳元に、ミロは顔を寄せ囁く。
「今度は雪の上じゃなくて、ベッドの上であえがせてやる」
「……おまえ、やっぱり帰れ」
「俺が帰ると、寂しいくせに」
再び雪が猛り狂った。
先程とは異なり、風も無いのに、ミロの周囲にだけ。
ようやく雪の乱が治まり、視界が元に戻ったときには、既にカミュの姿は遠ざかりつつあった。
「冷たいな、相変わらず」
込み上げてくる温かい笑いが、抑え切れない。
雪白の中を行く鮮烈な紅を追いかけ、ミロは走り出した。