無憂宮
至宝


 カミュが不在の間は、ミロが宝瓶宮の管理を任されていた。
 宮主から言いつけられたのは時々空気を入れ替えることくらいだったが、その用事がなくてもミロは頻繁に宝瓶宮に足を運んでいた。
 自分の宮と同じくらい通い慣れたカミュの宮は、ミロにとっても居心地のよい場所だった。
 幾星霜の時を経て水と氷の聖闘士が守護する宮は、その存在自体に冷涼たる気をはらんでいる。
 そこにいるだけで、遠い北の地で弟子の育成に務めるカミュに、想いを馳せることができるのだ。
 今日も、ミロは宝瓶宮の戸口に立っていた。
 扉を開けると、閉ざされていた宮内の空気に動きが生じる。
 ふと、常にも増した懐かしさがミロを包んだ。
 カミュが宮にいたときのような、凛とした薄蒼い気配がそこはかとなく漂ってきた。
 ミロの表情が輝く。
 カミュが帰ってきているのは、疑いようもなかった。
 時折、カミュは定例報告のために聖域に戻ってくる。
 いつもなら帰郷の予定を前もって伝えてくるのだが、今回はそれは省略したらしい。
 ミロは押さえようとしても押さえきれないはちきれんばかりの笑顔を浮かべ、宮内に足を踏み入れた。
 久々の再会に心を躍らせるミロの目には、いつもの宮の風景が飛び込んできた。
 カミュが読書にふける窓辺の椅子も、ミロが昼寝に使う長椅子も、普段と変わらない位置にある。
 違うのは、宮主本人が長椅子に横たわっていることだった。
 帰ってきてそのまま眠ってしまったのだろう。
 コートを掛布にして、カミュは静かな寝息を立てていた。
 込み上げてくる温かい想いに口許を緩めながら、ミロは眠りを妨げないよう静かに近づいた。
 音を立てずに枕元の床に座り込むと、当代きっての彫刻家が全精力を傾けたかのように整ったカミュの寝顔をじっとみつめる。
 しかし、優しく微笑んでいたミロの瞳は、すぐに翳を帯びた。
 カミュのまなじりに、かすかに濡れた跡があった。
 涙が一筋、こぼれた跡。
 今回のカミュの帰還が、通常のものとは異なる理由からであることを、ミロは瞬時に理解した。
 あまり人に弱音を吐かないカミュのことだ。
 帰郷の予告をしなかったのも、天蠍宮に立ち寄らず真っ直ぐ自宮に向かったのも、心に抱えた苦悩に独りで耐えるためなのだろう。
 ミロはただ、カミュの目覚めを待つことしかできなかった。


 かすかに身じろぐ気配がした。
 眠りの精は、ようやくカミュを解放する気になったらしい。
 ミロが見守るなか、カミュの瞼がぼんやりと持ち上げられた。
 現状認識に戸惑うように幾度かまばたきを繰り返すと、ようやく傍にいるミロの姿に気づいたようだ。
 瞳にさやかな光が灯る。
 「おはよ、お帰り」
 「……ただいま」
 半分寝ぼけたような声でぼそりと挨拶を返すと、カミュはゆっくり起き上がった。
 「いつからいた?」
 「十分くらい前かな」
 起き抜けの不機嫌そうな声は、常と変わらない。
 いや、突然の帰還の理由を追及されないよう、ことさらに不機嫌を装っているのかもしれなかった。
 ミロはさりげなくカミュをちらりと見た。
 どこか悄然とした表情が痛々しい。
 涙の跡に気づいてしまったからそう思うというわけではない。
 拭い去れない疲労感がカミュの周囲を取り巻いているのが、容易に見て取れた。
 平静通りの会話をしよう。カミュが自ら説明してくれるまで、いつもどおりにしよう。
 ミロは努めて笑顔をみせ、明るい声を出した。
 「なあ、カミュ……」
 「しばらく、こっちにいるから」
 投げやりな言葉が、ミロの発言を遮る。
 寝乱れた髪をわずらわしげにかきあげながら、カミュは口許だけで笑った。
 「……いや、ずっとかな。シベリアには、いる必要がなくなりそうだ」
 必死で強がってみせる、今にも泣き出しそうな子供が目の前にいた。
 自嘲的な呟きは、かえって自ら傷を深くするだけなのに。
 シベリアからカミュが不意に戻ってきたのは、これが二度目だった。
 北極圏の過酷な環境と聖闘士の厳しい修行に耐えかねた弟子が逃走したため、カミュがシベリアに留まる理由がなくなったのだ。
 黄金聖闘士は、修行の結果なるものではない。
 もって生まれた星の運命が、その全てだった。
 口さがない神官などから、黄金聖闘士に弟子の育成などできるわけがないと陰口を叩かれているのはそのためだ。
 自らの努力とは無関係に聖闘士に任じられる「天才」に、凡人の指導などできるわけがない。
 年端も行かない少年たちを最高位の聖闘士として奉ってきた神官の間には、決して表に出されることのない反感が根付いている。
 慇懃な態度の裏に巧妙に隠されていた天賦の才への妬みは、カミュの失態を格好の餌食にしつつあった。
 密やかに浴びせられる冷笑に、気づかないほど鈍いカミュではない。
 教皇の期待に応えられず、弟子の信頼を得ることもできず、徒に弟子の生命を散らした不甲斐ない自分を責めることしかできないのだろう。
 「……そっか。まあ、根性がない子供だったんだな。いいじゃないか、次の候補生が決まるまで、こっちでゆっくりしてれば」
 理由はどうあれ、離れていた恋人が自分の傍にいてくれるのは嬉しい。
 少しでも自分の存在が支えになればいいのだが。
 期待を込めて、ミロは微笑んだ。
 次か、とカミュは小さく繰り返した。
 「もう、次は辞退しようと思っている。弟子の指導など、私には所詮無理なのだ」
 カミュは淡々と呟いた。
 自分をみつめるミロの視線に気づき、ふっと乾いた笑みを浮かべる。
 「そう気遣わしげな顔をするな。慰めるつもりなら、いっそ抱いてくれ」
 ミロは瞳を瞬かせた。
 身体を重ねたことがないわけではない。
 むしろカミュがシベリアに赴いてからは、つかの間の再会の度にお互いの熱を求め合っていた。
 それでも、今まではカミュの方から誘いをかけることなど一度もなかったのだ。
 驚きは、隠せなかった。
 「本気で、言ってる?」
 カミュは無言でうなずいた。
 無気力で物憂げな表情だった。
 「わかった。目、閉じろ」
 一つ息を吐き、ミロはゆっくりと立ち上がった。


 一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 言われるままに目を閉じ、闇の中に身を委ねた数瞬後、突然の衝撃がカミュを襲った。
 耳鳴りがし、片頬がびりびりと痺れる。
 そっと頬に手を添えると、その指の刺激だけでも痛みを覚えるほどだった。
 口内にはかすかに血の味が広がる。
 頬を殴られてどこか切ったのだと理解するのに、随分時間がかかった気がした。
 思うようにならない運動神経を総動員させ、カミュは訳もわからずミロを見上げた。
 冷たい蒼い瞳が、カミュを待ち受けていた。
 ぞくりと、身が凍る。
 「ああ、そんなふざけたこと言ってるんなら、弟子に逃げられるのも当然だ。自分に自信がない師匠になんか、俺だってつきたくないね」
 わずかに怒気のこもる声が、カミュの耳に突き刺さる。
 「ついでに言わせてもらうと、抱かれて慰めてもらおうと思うような安っぽい男を恋人にした覚えもない」
 カミュはさっと頬を紅潮させると、顔を背けた。
 心の奥底まで映し出す魔法の鏡でも突きつけられたかのように、醜い自分を嫌でも直視させられる。
 ミロの言うとおりだった。
 自暴自棄になり、一時の安らぎを人肌に求める弱い人間。
 普段のカミュなら唾棄するであろう愚者。
 それがまごうことなき今の自分の姿だった。
 深い自己嫌悪の只中に容赦なく突き落とされ、カミュは唇をかみしめた。
 「じゃあな。独りで自分を憐れんでろ」
 俯いたままのカミュに冷たい言葉を投げつけ、ミロはきびすを返した。
 そのまま、振り返ることなく扉の外に姿を消していった。


 陽も傾き、白い宮の壁が橙色に染まりはじめた頃、ようやくカミュは俯いていた顔を上げた。
 荷解き前でよかった。
 このまま、シベリアに戻ろう。
 もう一度、独りで見つめなおしてみよう。
 師として、何が自分に足りなかったのか。何が必要だったのか。
 次に出会う弟子にとって、良き指導者たるために。
 カミュは床に落ちたコートを手にした。
 軽く埃を払い、腕を通す。
 ミロに挨拶をしてから帰るべきか、それだけはまだ迷っていた。
 ミロの叱責は、鋭い錐のようにカミュの弱さを穿った。
 思い返すだけでも羞恥と屈辱がカミュの心を波立たせる。
 しかし、突き放されたことで、返って立ち直れたことも事実だった。
 もしあの時優しい言葉をかけられていたなら、それに甘えてしまったはずだ。
 きっとカミュは今でも、出口の見えない靄の中で独りうずくまっていたことだろう。
 一言でも、礼を言うべきかもしれない。
 少々気まずさを感じながらも、カミュは結論を下した。
 しばしの別れを告げるように宮内に一瞥を与えると、自らに気合を入れるべく、扉を勢いよく開ける。
 「遅い!」
 いきなりかけられた言葉に、カミュは茫然と立ち尽くした。
 悪戯っぽい笑顔を浮かべたミロが、宮の外壁にもたれかかってカミュを待ち受けていたのだ。
 「もっと早く復活すると思った。さ、飯食い行くぞ、飯。カミュのおごりな」
 「……もしかして……」
 先程の怒りの名残など微塵も感じさせないミロの明るい笑顔に、ようやく合点がいく。
 全て、計算ずくだったのだ。
 ミロの一連の冷厳な言動は全て、落ち込むカミュを立ち直らせるための芝居。
 一種のショック療法だ。
 本人以上にカミュの性格を知りぬいたミロならではの、奇策。
 こんな荒療治を思いつくのも、ミロ以外にはいないだろう。
 ミロだけ、だろう。
 カミュは下を向いた。
 見事に騙された自分が口惜しい。
 だが、不思議と怒る気にもなれず、胸の奥から笑いが込み上げてきた。
 それでも、何とか笑いを押し殺し、沈痛な声を作る。
 「……食事は無理だな。顔を殴られたから、まだ痛む」
 ミロの顔から途端に笑みが消えた。脅えたように、顔を引きつらせる。
 「あー、やりすぎた? お、怒ってる?」
 「怒ってはいないが、お返しに一回殴らせろ」
 ミロは大きくため息をつくと、予想される打撃に備えるべくぎゅっと目を閉じ、頬を差し向けた。
 カミュはミロに近づいた。


 蒼い瞳が驚きに見開かれる。
 頬を殴りつけるのは、拳などではなく。
 かけがえのない恋人への感謝の念を伝えるため、カミュはその柔らかな唇で、甘美な攻撃を仕掛けてきていた。

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