無憂宮
嫉妬


 天蠍宮の扉に合鍵を差し込む。
 この鍵を使うのは、これが最後だ。
 錠が外れる音がした。
 もうこの音を聞くこともない。
 乾いた心に、妙に響いた。


 カミュは手近にあった袋に、置きっ放しになっていた私物を手当たり次第に放り込んでいった。
 読みかけの本。色が気にいらなくて一度しか塗らなかったマニキュア。
 グラスやカップはペアであつらえた物が多かったが、迷ったあげく後にした。
 割ってしまうのは、最後にしよう。
 ガラスが砕け散る音は、今の自分には耐えられそうも無い。
 粉々になるのは、食器だけではすみそうもなかった。
 ざっと目に付く物を入れていっただけで、すぐに袋は一杯になってしまった。
 自分の物をこんなに多く残してあるとは、正直いって意外だった。
 どちらの所有か、にわかには判断のつかない物もたくさんあった。
 それだけ長い時間をこの宮で過ごしてきたということか。
 長い時を、二人で。
 これからはどうやって日々を過ごせばいいのだろう。
 ミロがいない独りの生活は、きっと静か過ぎて物足りないだろう。
 思い描いた自分の姿は、あまりにも寂しい。
 不覚にも涙がこぼれてきた。


 涙に濡れた顔を洗おうと、洗面所に向かう。
 鏡に映る自分の顔は、ひどく醜い。
 泣きはらした瞳は虹彩だけでなく、全体が赤く染まっていた。
 綺麗だ、とミロがいつも囁いてくれた、玲瓏たるカミュの姿はどこにもない。
 そこにいるのは、ただ、嫉妬に狂う哀れな存在。
 こんなに卑小な人間など、飽きられるのも無理はない。
 愛されていると思い込んでいた自分が忌々しかった。
 愛情を失って、こんなにも取り乱す自分が情けなかった。
 蛇口をひねり、奔流に手を伸ばす。
 ほとばしる水の音が、すすり泣く声をかき消してくれた。


 私物の撤収は、あとは寝室を残すのみとなった。
 カミュは扉に手をかけ、深く息をついた。
 ほの暗いこの部屋は、最もミロとの時間を想起させる。
 さっさとすませて帰ろう。
 カミュは力を込めて、勢いよく扉を開け放った。
 見ないようにしようと思っても、嫌でも寝台が目に入る。
 誰もいない寝台は、無意味なほど広い。
 幾夜となく、ミロと愛を交わした寝台。
 もう、カミュを迎えることはない寝台。
 最後に一度だけ、ここから室内を見たくなった。
 見飽きたと思っていた部屋を、目に焼きつけたくなった。
 過去との訣別に、最後に一度だけ。
 おそるおそる、寝台に身を横たえる。
 何の変哲もない天井を目にしただけで、何故か瞳が潤みだす。
 慌てて横を向いたカミュは、枕に残る真紅の髪を見つけた。
 これも、残しておくべきではない。
 カミュは髪を摘み取ろうと手を伸ばした。
 指先が枕に触れる。
 自制の糸が、ぷつんと音を立てて切れた。
 衝動的に、カミュは枕を抱きしめ、顔をうずめた。
 ミロの匂いがする。
 涙がとめどなくあふれてきた。
 枕が濡れると思いつつも、むせび泣きを止めることはできなかった。


 遠くでミロの声がした。
 夢うつつだったカミュの意識が、途端に覚醒する。
 枕を抱えたままだった。
 泣きつかれて、そのまま眠ってしまったらしい。
 ミロが戻る前に私物を片付け出て行くつもりだったのに。
 会いたくはなかったのに。
 自らの愚行に舌打ちしつつ、カミュは起き上がった。
 寝室の扉が開かれミロが顔を覗かせるのと、ほとんど同時だった。
 「……ごめん、すぐ出て行くから」
 「なんで? ……あれ、カミュ、泣いてた?」
 「泣いてない」
 下を向いたまま傍をすり抜けようとするカミュを、ミロは押しとどめた。
 顔を背けようとするカミュの頬を両手で挟み、無理やり自分の方を向かせる。
 蒼い瞳が心配そうに揺れた。
 「やっぱ泣いてたんじゃん。何かあった?」
 「……よくそんなことが言えるな」
 カミュはミロの手を振り払った。
 「とぼけなくてもいい。私は身を引くから、安心しろ」
 「何のこと?」
 怪訝そうに、ミロは首を傾げる。
 これほど演技のうまい男だとは思わなかった。
 まあ、だからこそ心変わりに気づかなかったのかもしれないが。
 カミュは皮相な笑いを浮かべた。
 「さっき、墓地にいたのを見た」
 普段人の出入りが少ない墓地の方に足を向けたのは、ただの気紛れだった。
 しかし、そのおかげで、見たくも無いものを見てしまったのだ。
 彼の胸ほどまでしかない、小さく華奢な女官を抱きしめるミロの姿を。
 日の光を浴びてきらめく豪奢な金髪は、見間違えようも無い。
 思考が止まり、全ての感覚器官が刺激の受容を拒否しだした。
 そこからどうやって離れたのかはわからないが、気がつけば天蠍宮に辿りついていた。
 すべきことを、悟った。
 押し殺したカミュの言葉に、ミロは頭をかいた。
 「ああ、見てたんだ」
 悪びれもしないミロの様子に、カミュの胸の奥が痛いほど切なくなった。
 隠そうともしないということは、浮気ではない。
 彼女への想いが本気なら、自分は舞台から降りるべき存在だ。
 もう、出番は終わったのだから。
 カミュは唇をかみしめた。
 強いて声の震えを押さえつける。
 「後の荷物は、また取りに来るから。世話になったな」
 「ちょっと待てって」
 ミロは視線を合わせずに去ろうとするカミュを背後から抱きしめた。
 二度と自分を抱くことは無いはずのミロの腕が、火のように熱い。
 めまいがするほどの狂おしさに砕け散りそうになる理性を、カミュは懸命にかき集めた。
 「……相手が違うだろう」
 ぼそりと呟くカミュに、ミロは含み笑いを漏らした。
 「何がおかしい」
 「いや、嬉しくてさ。カミュがヤキモチ妬いてくれるなんて、思いもしなかった」
 ミロは相変わらずくつくつと笑いながら、抱きしめる手に力を込めた。
 「あの子ね、うん、いい娘だよ。かわいいし、優しいし。でもさ、一つ大きな欠点があるんだ」
 自分からミロを奪った女性のことなど、聞きたくない。
 身体をこわばらせるカミュの首筋に、ミロは唇を寄せた。
 「あの子は、カミュじゃない」
 「訳のわからないことを……」
 「わかんないかなー。カミュって、頭いいくせに頭悪いよね」
 ミロはカミュの耳元で重々しく囁いた。
 それまでの笑いを含んだ口調とは打って変わった、荘厳な誓いのような囁き。
 「カミュじゃなければ、俺は愛せないんだ」
 吐息混じりの甘い言葉が、脳髄をとろかすように頭の中で反響する。
 それが本心だったなら、どれだけ嬉しいか。
 しかし、その台詞を信じるには、目撃した光景が障害となって立ちふさがる。
 カミュは振り返ると、鋭くミロを睨みつけた。
 「……いい加減なことをいうな。じゃ、あれはどういうつもりだ」
 「慰めてただけなんだけど?」
 偶然すれ違った女官が、涙で目を真っ赤にしているのに気づき、ミロは呼び止めてみた。
 黄金聖闘士からの問いかけに初めは恐縮していた女官だが、しつこく聞いてみると、飼っていた猫が死に墓地の片隅に埋めにいく途中だという。
 固く乾いた土は、女の細腕で掘り返すのは困難だ。
 そこで、ミロは墓作りの手伝いを買って出たのだった。
 「お墓ができたら、彼女また泣き出しちゃってねー。泣いてるカミュを慰めるには、こうやって抱きしめるのが一番だろ? だから……というわけだ」
 ミロは小さな子供をあやすように優しく笑うと、カミュを束縛していた腕を解いた。
 自分を抱く腕に支えられるように立っていたカミュは、一気に脱力して床に座り込んだ。
 「……よかった……」
 呆けたように床をみつめるカミュの口から、安堵の呟きが洩れる。
 ミロは顔を輝かせると、傍らに膝をついた。
 「そんなに俺と別れなくてすんだのが嬉しいんだ?」
 下から顔を覗き込むようにして、喜色を満面に浮かべ問いかけるミロに、カミュはかぶりを振った。
 「……グラスを割らずにすんだ」
 「……何だよ、それ」
 憮然としたミロは、カミュの両肩に手を置くと、ゆっくりと床に押し倒した。
 お得意の、にやりと口の端を持ち上げた不敵な笑いを浮かべて、そのまま覆いかぶさるように顔を近づけてくる。
 「慰め第二段階に入ってもいい?」
 「抱きしめただけでは彼女が泣き止まなかったら、やはりそうしていたのか?」
 墓穴を掘った。
 動揺が再び鎌首を持ち上げてくる。
 そんなカミュの内心が伝わったのか、カミュを見下ろす蒼い瞳がふっと和らいだ。
 海底から天を見上げている気がした。
 たゆたう水を通して全てを浄化する光が惜しげもなく注がれ、気泡が水中を駆け上るようにカミュの身から情念が解き放たれていく。
 完敗を、悟った。
 「ううん、これはカミュ専用」
 「……それなら、許可しよう」
 仰臥したカミュの位置からは、ミロの頭越しにすっかり馴染んでしまった寝室の天井が見える。
 カミュは微笑んだ。
 見飽きたはずの天井が、やけに綺麗に見えた。

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