無憂宮
爽風


 腕一杯に抱えた本を落とさないよう細心の注意を払いつつ、私はさらなる一冊を求め書架に手を伸ばした。
 困難に直面したとき、私はいつも書物に拠り所を求めてきた。
 幼い日に既に最高位の聖闘士の称号を得てしまった私には、教え導いてくれる師などもう随分長い間存在しない。
 師と仰いだ人は皆、私の前から姿を消してしまった。
 だから、まだほんの小さな子供の頃から、私の師はこの書庫の蔵書だったのだ。
 覚えの悪い生徒の探究心を満足させるまで文句一つ言わず辛抱強く付き合ってくれる書物は、私にとって理想的な導き手だった。
 なにより、書庫に収蔵された彼らは突然失踪することもない。
 混乱と迷走の中に置き去りにされるのは二度と御免だ。
 泣きたくなるほどに懐かしく慕わしい面影がさっと脳裏を過ぎり去り、かすかな胸の痛みを覚えた私は唇をかるく噛んだ。
 過去から自分を解き放つべく殊更に高く顔を上げ、目当ての一冊を書棚から抜き出す。
 その瞬間、息をのんだ。
 思わず手にした本を取り落としそうになり、それでもかろうじて腕の中に積み上げた本を崩さないようバランスを保つ。
 落ち着きを取り戻してもう一度視線を戻したが、やはり同じだった。
 そこには、目があった。
 背板のない本棚なのだから、冷静になってみれば何の不思議もなかった。
 本がなくなりぽっかりと穴が空いた部分から、書棚の向こう側にいるミロがこちらを覗き込んでいるのだ。
 「……そんなところで何をしている」
 いつから彼はここにいたのだろうと思いつつ、笑いを湛えた蒼い瞳に私は冷たく聞いてやった。
 しかしそんな冷遇も、彼にはすっかり耐性がついてしまっているのだろう。
 一向にこたえた風もなく、ミロは無邪気な子供のように首を傾げてみせた。
 「書庫にいるんだから、調べ物とか読書とか?」
 自分の今現在の行動を問われたというのに、その返答が何故疑問形なのか。
 決して彼の答えが正解ではないのもわかっていたが、追及するだけ疲労を覚えるのも目に見えていた。
 ただでさえ忙しいというのに、無駄なことに費やす時間などない。
 数日後には再びシベリアに赴き新たな弟子の育成に携わることになっているため、今はその準備で手一杯だった。
 無視を決め込んだ私は、今抜き取ったばかりの本を、抱えた書物の山の天辺に置こうとした。
 しかし、少々欲張りすぎたか、既に自分の抱えられる限界近くに達しているのだろう。
 積み重ねた書物の高さを一冊分増やすかわりに全てを地上に投げ出してしまいそうになり、慌てた私はつい手にした本を取り落としてしまった。
 「……重くない?」
 いつのまにやら近くに来ていたミロが、くすくすと笑いながら床から本を拾い上げる。
 「そう思うなら手伝え」
 私が抱え持つ本の半分でも彼が持ってくれたなら随分助かる。
 勝手は承知の上だが、相手がミロなのだから別に構わないだろうと、私は抱えた本を差し向けた。
 「ああ、少し持ってやるよ」
 その台詞にほっとしたのも束の間だった。
 「そうだな。じゃ、上から五冊目のこれと七冊目のこれ、それから……」
 「これ以上不安定にさせるな!」
 嫌がらせだ。
 積み上げた書籍の中から彼が一冊抜き取るごとに、抱えた本が崩れんばかりにぐらりと傾く。
 本の塔を死守しようと血相を変える私が余程おかしいのか、ミロはくつくつと喉を鳴らした。
 「冗談。ちゃんと手伝ってやるから、その代わり今から俺に付き合えよ」
 「……私はこの本を読んでしまいたいのだが」
 「次は十二冊目にしようか?」
 ささやかな抵抗は歯牙にも掛けられなかった。
 天真爛漫と言ってもいいほど明るく晴れやかなミロの笑顔に、敗北を悟った私は深い溜息をつくしかなかった。


 自宮に書庫から借りてきた本を置き、十二宮の階段を下る。
 隠れるところとてない炎天下、ギリシャの陽射しが久方ぶりに我が身を焼いた。
 かつては慣れていたはずのこの刺激は、私がシベリア暮らしを続けている間に、より一層疎ましいものに変化を遂げたようだ。
 彼の地で目にする光球と同じものだなどとは到底思えない、灼熱の恒星。
 懐かしさを味わうというよりも、むしろ鋭く肌に突き刺さる陽射しに苦痛を覚えつつ、私は空を見上げた。
 ここまで照り付けなくてもよいのではないか。
 そう文句の一つでも言いたくなったのだが、逆に一瞬で白日の光に眩惑され、瞼の奥がじんじんと痛くなるほどの明るさに苛まれる始末だ。
 自業自得ともいえる軽挙に一瞬で視力を奪われた私の耳に、事情を察したらしいミロが小さく笑う声が飛び込んでくる。
 内心癪でたまらなかったが、ここでミロに突っかかったところで彼を喜ばせるのが関の山だ。
 私は平静を装いつつ、階段を下りる作業に専念することにした。
 しばらくすれば、目はまた元に戻る。
 見えない目の不便さを、少しの間我慢しさえすればいい。
 そう思いつつ、私は己の失態を誤魔化そうとミロに声をかけてみた。
 「何処へ行くつもりだ?」
 「海」
 珍しくもない。
 わざわざ読書の時間を割いてまで付き合う理由があったのだろうか。
 「では、聖域を出たら、海岸まで空間移動すればいいな」
 それならば小一時間もミロに付き合えば解放してもらえそうだ。
 上手くすれば、今日中に全ての本にざっと目を通すことができるだろう。
 内心でほくそ笑んだ私は、しかし、続くミロの返答にすぐさま打ちのめされることになる。
 「いや、自転車で行くから」
 「……は?」
 余りに予想外な展開は、一切の思考を放棄させるらしい。
 思わず立ち止まった私は、まだぼんやりと霞んだままの目を見開き、声のする方を呆けたようにみつめた。
 「おまえ、さっき俺に付き合うって言ったよな」
 ゆるゆると明瞭になっていく視界の中、言質をとったと言わんばかりに笑うミロの姿が、次第に鮮明な像を結び始めた。


 自転車は、最近のミロのお気に入りなのだという。
 どこぞのタベルナの主人と意気投合し、どういう経緯かは知らないが、裏庭に打ち捨てられたままの自転車を貰ったということらしい。
 相変わらず調子の良い男だ。
 悩みなどないようにいつも陽気に笑っている彼は、初対面の相手ともすぐに旧知の間柄のように打ち解けられる。
 それを羨ましいと思わないでもなかったが、自分には到底無理なことだと、もう随分昔に諦めはついていたはずだった。
 しかし、それでも尚理不尽な嫉妬のようなものを感じてしまうのは、今私が抱えている悩みごとに起因するのかもしれない。
 ミロならば。
 彼ならば、私などよりも、もっともっとずっと上手に振舞うのだろう。
 こんな愚にもつかない、しかし私にとっては重大な悩みに煩わされることもないのだろう。
 私はミロに気づかれないよう、そっとその横顔を盗み見た。
 しばしば生ける太陽神像とも評される彫りの深い端正な面立ちは、幼い頃からよく見知った私でさえもときに見惚れることがある。
 この風貌に加え、親しみやすい気質、さらには勇壮な黄金聖闘士として名を馳せた彼なら、弟子に尊敬されるよい師となるに違いない。
 私とは、大違いだ。
 いくら修行地が酷寒のシベリアだからといって、それは何の言い訳にもならない。
 弟子に逃げられ続けているという厳然たる事実は、全て私の至らなさの表れでしかなかった。
 そうして際限ない自己嫌悪の中にとっぷりと落ち込みそうになっていた私を現実に引き戻したのは、やはりミロの声だった。
 「乗れよ、カミュ」
 どこからか自転車を引っ張り出してきたミロは、すでにサドルにまたがり得意気に笑っていた。
 なるほど、廃棄寸前だったというだけのことはある古びた自転車だ。
 「……私は荷物扱いか」
 促されるままに、渋々ながらも私は後ろの荷台にまたがった。
 「迅速かつ丁重にお届けするから、ご安心を。じゃ、行くぞ」
 一方的に宣言したミロはペダルを漕ぎ始める。
 少し、驚いた。
 意外にも滑らかな走りだった。
 貰い受けた後、丁寧に油を差し錆を落として磨き上げたのだろう。
 さすがに車体の古さは隠せないものの、使用には何ら支障がないまでによく手入れされていた。
 日頃は大雑把なミロの意外に繊細な一面を見せられたような気がして、私は躊躇いながらもそっと彼の身体に腕を廻してみた。
 見知らぬ他人ではないことを両腕に感じる温もりで確かめ、心中密かにほっとすると、ようやく周囲に気を配る余裕も出てきた。
 空気をゆっくりと切り裂いていくことで生じたさやかな風が、悪戯に髪をなぶっては頬を優しく撫でていく。
 その風に吹き流されるように、私たちを取り巻く景色が次から次へと後ろに飛び去っては消えていった。
 世界を支配する時間軸から私たち二人だけが放り出され自由気ままに動き回ることを許されたような、不思議な昂揚感がふわりと私を包み込む。
 日頃、移動といえば、歩くか、さもなければ光速で飛んでしまう私にとっては、新鮮な感覚だった。
 その早すぎも遅すぎもしない心地よさに浸った私は、静かにミロの背に額をつけると目を閉じた。
 こうしてミロの体温と心臓の鼓動と躍動する筋肉とをあますところなく感じていると、視線を合わせなくてすむ体勢のおかげもあってか、何故だか妙に素直になれる気がした。
 「……ミロ」
 「何?」
 「……少し、愚痴を聞いてもらってもいいか」
 「いいよ」
 私にしては珍しいほどに弱気な発言なのだが、平生と何も変わらないミロの口調がありがたい。
 その声に励まされるように、私はぽつりと独り言めいた言葉を落とした。
 「……どうも私は弟子の指導に向いていないらしい」
 こういった情けない心情を吐露するのは初めてだった。
 ずっと胸に抱えていた鬱屈がようやく出口をみつけ、堰を切ったように迸る。
 私は言葉を選ぶこともせず、心に過ぎるまま次から次へと繰言を並べていった。
 ミロはいつものように茶化すこともせず、黙って私の話を聞いてくれているようだった。
 憂鬱な泣き言はミロを通り過ぎ、そのまま風の中に霧散する。
 音声にして表に出すことで、静かに聞いてくれる相手がいることで、心の底に澱んでいたものが少しずつ消えていったのかもしれない。
 ひとしきりミロの背に弱音を吐いた私は、いつのまにやら肩の荷が下りる、とまではいかなくても随分軽くなったのを感じ、口を噤んだ。
 やがて、しばらく続く沈黙に話し手の交代時期の訪れを悟ったか、ミロは穏やかに言葉を発した。
 「俺は、結構カミュは師匠向きだと思うがな」
 「……おまえは私の話を聞いていなかったのか?」
 一週間も経たないうちに相次いで弟子に逃げられている私の、どこに適性があるというのか。
 やや語気を強めた私に、ミロは前を向いたままかぶりを振った。
 「聞いてたよ。で、そんなすぐに逃げ出す奴らにこそ弟子の資格はないと思った」
 聖闘士になろうとするのなら、行く手に過酷な運命が待ち受けているのは必定だ。
 それなのに、たった数日の修行で音を上げるような子供なら、誰が師となったところで聖闘士に育て上げるのは至難の技だろう。
 「それならいっそ早く見切りをつけて逃げ出してくれた方が、お互いの時間と労力の節約になっていいじゃないか」
 そう言って、ミロは悪戯っぽくくすりと笑った。
 「それに、そうしたらカミュはまた俺の傍に戻ってきてくれる訳だし」
 「……おまえを弟子に持つ気はないが」
 「それなら、俺がおまえを弟子にしてやるから大丈夫……」
 私は不遜な軽口を最後まで聞かずに、ミロにすがりついていた腕を解きその背を力一杯叩いてやった。
 大仰に咳き込み痛がるふりをするミロを労わってやりもせずに黙殺していると、ついで彼はすっと声の調子を変えてきた。
 「……な、カミュ。ただ、一つ忠告していい?」
 打って変わった抑えた声にいささか虚を突かれた私は、思わず粛と耳をすませた。
 「俺たちってさ、普段は周りが黄金ばっかだから気がつかないけど、やっぱりちょっと特殊、なんだよな」
 潜在的に有する巨大な小宇宙も、それを苦もなく御する器量も、全ては天賦の才だ。
 だから、凡人である相手にも自分と同じものを要求するのは、あまりに酷だ。
 「おまえは熱心なあまり、度が過ぎることがあるからな。ことによると相手がついてこれなくなるかもしれんぞ」
 今後見込みのある子供に巡り会ったなら、その辺をちょっと気に掛けてみたらどうだ、と、ミロはあくまで穏やかに言葉を結んだ。
 淡々と語るミロの一言一言が、私のみぞおちのあたりに熱を帯びて打ち込まれるような気がした。
 日頃の浮かれた言動からともすれば忘れがちになってしまうのだが、彼は冷徹な観察者の一面をも常に有していた。
 そして意識してかしないでか、彼が快活な笑みの下に隠したその成熟した横顔を目にするたびに、私は師を前にした幼い自分に返ったような気分にさせられていた。
 幼馴染の友人なのに、常にミロとは対等な存在でありたいのに、つい彼に師事するように頼ってしまう自分が滑稽で、訳も無く笑えてくる。
 込み上げてくる笑いを噛み殺すようにして俯いたままミロの背にもたれる私に、彼は勘よく何かを察したのかもしれない。
 ミロは今度は一段と陽気な声を上げた。
 「ほら、この自転車だってさ、俺が全力で漕いだら絶対壊れるだろ。一応これでも加減してるんだぜ」
 いつものミロの人を引きつけずにはいられない楽しげな声音を、私は目を閉じたままうっとりと聞いていた。
 「おまえにしたって、さっき太陽に喧嘩売って負けたしな。要はレベルが違いすぎるって、そういうこと」
 太陽と喧嘩したつもりは毛頭なかったが、とりあえず今だけは反論を差し控えることにした。
 少し躊躇した後、私は再びミロの身体に腕を廻した。
 「ミロ」
 「ん?」
 「……さっきの……」
 意を決してはみたもののつい言いよどんでしまった私は、それ以上口にすることができなかった。
 私の言葉を遮るように、ミロが歓声を上げたのだ。
 「カミュ、あれ見ろよ!」
 片手をハンドルから離したミロが前方を指差す。
 私はミロの肩からひょいと顔を覗かせて、彼が指し示す方を見た。
 光の海、だった。
 眼下に広がる海原は強い陽射しを受け、無数の星を散りばめたように絢爛と輝いていた。
 ちょうど海に繋がる坂道をゆっくりと下り始めていたこともあり、その光の洗礼を受けるべく逆らいがたい力で真っ直ぐ吸い寄せられていくような、そんな錯覚が私を襲う。
 荘厳なまでの美しさに眩惑された私は、何故だかそのまま光に溶け込んでしまいそうな自分が無性に恐くなり、ミロに取りすがる腕に我知らずぎゅっと力を込めていた。
 「自転車で走り回っててみつけた絶景ポイントなんだ。綺麗だろ」
 ミロは褒め言葉をせがむ幼子さながら、私の腕をぽんぽんとせっつくように叩いた。
 その子供じみた仕草は私を現実へと引き戻す魔法だったのか、程なく私の内の恐怖は見る影もなく姿を消していく。
 ひそかに安堵した私は、催促を繰り返すミロの手にそっと自分の手を重ね置いた。
 「……そうだな」
 「だろ? おまえが帰ってきたら、一緒に見に来ようと思って」
 たった一言の同意に満足してくれたようで、振り返ったミロは嬉しそうににっと笑った。
 闊達なその笑顔に私もまた誘われるように微笑を返すと、ミロの瞳が一層の光彩を放つ。
 「あ、で、おまえ、今、何か言いかけてなかった?」
 ああ、と、私は視線をさっと泳がせた。
 「……忘れた。思い出したら、教えてやる」
 嘘だった。
 言いさした言葉は、そのまま舌の上に転がっていた。
    さっきの台詞ではないが、時折はおまえを師と仰いでみるのも悪くないかもしれない───
 幼き日以来ずっと私には師と呼べる人はいないと、そう思っていたのだが、その認識は誤りだった。
 私を導いてくれる師は、今この瞬間も、友の顔をして私を見守り支えていてくれる。
 今まで少しも気づかずに享受していたその幸せを、私はいくらかでも未来の弟子に還元してやりたいと思った。
 すっかり自信を失くしていたというのに、こうして再び弟子と向き合う意欲が湧いてきたのは、疑いようもなくミロのおかげだ。
 だが、この想いを素直にミロに伝えるには、生憎と私は少々ひねくれ過ぎている。
 私はふと口元を緩ませると、感謝の念を言葉に乗せるかわりに、かけがえのない師友を背中から思い切り抱きしめ、その豊かな黄金の髪に顔をうずめた。
 前方に待ち受ける銀雪の大地のごとく煌めく海は、もう少しも恐くなかった。

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