無憂宮
睡郷


 子供たちにとって、ミロの訪問は素敵なイベントとして位置づけられているのだろう。
 修行に明け暮れる日々の中、陽気な来客の存在は、単調な生活を活気づかせてくれる格好の刺激剤だった。
 太陽が昇らない今の季節には、殊に。
 見慣れているはずのカミュでさえ、その輝かんばかりの笑顔の眩しさに、時折目がくらむ。
 ほんとうに、時折、だが。


 「こら、暴れるなら、外でやれ!」
 喚声を上げながら取っ組み合っていた三人は、カミュの一喝にピタリと動きを止めた。
 久々に姿を見せた太陽も、次第にその存在は当然のものとなり、ありがたみは薄れていく。
 ミロが遊びに来ると、大抵の場合、カミュはこうして一度は怒声を上げることになる。
 この金髪の刺激剤は、少々効果が強すぎるのだ。
 まるで、弟子がもう一人増えたような感じだ。
 それも、手に負えない悪童が、一人。
 暖炉の前に敷かれた毛足の長いラグは、弾力性に富みかなりの衝撃を吸収してくれる。
 その結果、三人の騒動はますます加熱することとなった。
 初めは軽い拳の繰り出し合いだけだったはずだ。
 しかし、余りにも易々と拳打をかわされた氷河がきっかけとなり、事態は変わる。
 氷河の捨て身の体当たり攻撃を契機に、掴み合いの大騒ぎに発展したのだ。
 じゃれあう子犬のような、と言えばまだ聞こえはいいのだが、どう贔屓目に見ても、明らかに大きすぎる犬が一匹混ざり、その表現を不適切なものにする。
 叱責を恐れるようにびくびくと上目遣いに見上げてくる様子は、一層犬に似ているのだが。
 ともすれば緩みそうになる口許を懸命に引き締めながら、カミュは努めて厳しい声を発した。
 「ミロ、うるさい。アイザック、氷河、風呂の支度ができたから入ってきなさい」
 「はい、先生!」
 日頃の教育の賜物か、それとも、カミュの怒りの矛先をかわすためか。
 二人の弟子はカミュの言葉に従い、迅速な行動を示した。
 腕組みして立つカミュの脇をすり抜け、小走りに居間から退散する。
 一方、残されたミロは、床に座ったまま、カミュを見上げた。
 「俺は、どうすればいいのかな?」
 笑顔がかすかにひきつっていた。
 一身にカミュの怒りを引き受ける覚悟ができたのだろう。
 とはいえ、内心の動揺は虚勢では隠し切れない。
 垂れた耳とうなだれた尾まで見えるような気がした。


 ミロに科せられた罰は、拍子抜けするほどささやかなものだった。
 「……本当に、それだけでいいの?」
 あっけにとられたようなミロに、カミュは微笑んで頷いてみせた。
 「子供たちがよくここで居眠りするんだが、それがとても気持ちよさそうでな。一度、やってみたかったんだ」
 暖炉の前に身を横たえながら、カミュは幸せそうに瞼を閉じた。
 カミュの命令は、仮眠を取るから、弟子が風呂から上がるまでに起こせ、というものだった。
 ちらちらと燃えさかる炎が、カミュの相貌を優しく照らす。
 穏やかな寝顔だけは、幼い頃と変わらない。
 強固な意志を湛えた瞳が閉じられると、途端に無邪気な子供のようにあどけない表情になる。
 確かに、この寝顔を弟子に見せたなら、師としての威厳など保てないかもしれない。
 そして、この寝顔を見る特権は、自分だけが独占したい。
 ミロはくすりと笑った。
 「寝るなら、膝枕してやろっか」
 「おまえの足など、枕にはならん。硬いし、高すぎる」
 「じゃ、腕枕」
 いくらラグの上とはいえ、床にごろ寝などという無作法な振る舞いに、カミュは慣れていない。
 寝やすい体勢を求めて試行錯誤していたカミュは、一瞬躊躇したが、すぐに考えを改めたらしい。
 ミロがシベリアに来るのは、それほど頻繁というわけではない。
 三十分にも満たない仮眠の間くらい、我を張ることもないと思ったのだろう。
 紅い瞳に了解と催促の意を込めて、カミュはミロをじっと見上げてきた。
 言葉の少ないカミュの瞳は昔から雄弁で、ミロもまたその双眸に浮かぶ感情を読み取る術に長けていた。
 いつも、これくらい素直だといいんだが。
 ミロは内心で苦笑しながらも、カミュの傍に横たわった。
 差し出した腕の上に、すぐに慣れ親しんだ重みを感じる。
 心地よい重量感。
 「うん、これならいい」
 カミュは満足気に呟くと、うっとりと瞳を閉じた。
 「そんなに気に入ったんなら、腕一本、置いてってやろうか」
 ミロの軽口に、カミュの口許が和んだ。
 瞳を隠したまま、独り言のような囁きが洩れる。
 「遠慮する。こんな枕があったなら、ずっとこうしていたくなって修行に差し支える……」
 カミュの頬に朱が上ったように見えたのは、暖炉の傍だからだろうか。
 胸に迫る台詞に不意打ちされ、ミロは息を止め、カミュを凝視した。
 が、残念ながら、その一瞬の沈黙は、カミュを自制の塊に引き戻してしまったらしい。
 陶然とまどろむような表情は、すぐに無理に作ったようなしかつめらしい顔に塗り替えられた。
 「ちゃんと起こせよ」
 「はい、はい」
 暖炉の火に暖められた空気が、まろやかにカミュを包み込む。
 炎がはぜる音に混じってほのかな寝息が聞こえてくるまで、それほど時間はかからなかった。
 弟子の指導も家事も、シベリアでは全てカミュが一人でこなしているのだ。
 任務以外では基本的に自由が認められているミロたちよりも、はるかに多忙な生活を送るカミュには、こんなつかの間の安らぎでさえ得がたいものなのだろう。
 久々に至近距離にある秀麗な横顔を、ミロはみつめた。
 光焔に照らされる長い睫が、白皙の美貌に翳を落とす。
 白いラグに広がる紅い髪も、わずかに綻ぶ唇も、炎の色に艶やかに染まる。
 ミロの胸の内に灯った火が、切ないほどの愛おしさをかきたてた。
 「おやすみ、カミュ。いい夢を……」
 腕の中の眠り姫を起こさないよう細心の注意を払いながら、ミロはカミュの頬にそっと口付けた。


 居間に入ろうとしたアイザックの動きが止まった。
 突然立ち止まった背中に、その後についてタオルで髪を乾かしながら歩いていた氷河が突き当たる。
 「何だよ、アイザック」
 「……氷河、毛布持ってこい」
 「何で?」
 「いいから」
 不機嫌そうな声に、氷河はその突然の不興の原因を探ろうと居間を覗き込んだ。
 絡み合うように床に広がる紅い髪と金の髪が、抽象画のような色彩の綾を織りなしているのが見えた。
 暖炉の傍で、師とその友人が寄り添うように伏しているのだ。
 「……寝てるの?」
 「毛布!」
 素朴な氷河の疑問に答えはなく、かわりに怒ったような督促の声が返ってくる。
 それでも、ふてくされたところで、所詮兄弟子には逆らえない。
 氷河は不承不承ながらも毛布を持ってくると、つっけんどんにアイザックに手渡した。
 アイザックはやや唇を尖らせながら、横たわる二人に近づいた。
 抱き合わんばかりに密着して共寝する二人から視線を逸らしつつ、毛布を広げる。
 幸せな夢でも見ているのか、かすかに口許に笑みを刻んだ二人の寝顔は、ふわりと掛けられた毛布に覆い隠された。

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