無憂宮
仲裁


 カミュがサガを避け始めた。
 あれほどサガの後ろにぴったりくっついて離れようとしなかったカミュが、サガの姿を見とめると逃げ出すように隠れてしまう。
 「おまえ、カミュになんかした?」
 アイオロスのどこまで本気かわからない質問に鉄拳で応えると、サガはため息をついた。
 全く心当たりがなかった。


 双児宮の扉が小さく叩かれた。
 午後七時。
 いつもなら、カミュが勉強を教えてもらいにくる時間だった。
 サガは安堵の息をつくと、玄関に向かった。
 自分を避けていると思ったのは、考えすぎだったのかもしれない。
 しかし、その安心もつかのまだった。
 扉の向こうにいたのは、赤毛ではなく、金髪の子供。
 横積みにした本を十冊以上も抱えて、ふてくされたような顔をしている。
 「ミロ、どうした?」
 小さな子供には重そうな本を受け取りながら、サガは怪訝そうに尋ねた。
 ミロと本というのは、あまり見たことが無い取り合わせだった。
 「カミュが、サガんとこ持ってけって」
 サガは本に目を落とした。
 背表紙に並ぶタイトルは、確かに、自分がカミュに貸していたものだった。
 「もう読んだのかな。どうしてカミュが自分で来ないんだろう?」
 「サガ、カミュとケンカした?」
 ミロが恐れを知らない瞳で、まっすぐサガを見上げる。
 喧嘩とは対等の立場の存在がいて初めて成立する交流方法だ。
 八つも歳の離れた子供とでは、どうあがいても喧嘩にはならないだろうが、ミロにとってはサガも対等な喧嘩相手らしい。
 苦笑しつつ、サガはミロを室内に促した。
 仔犬のようにソファに飛び跳ねて座ると、ミロは床につかない足をぶらぶらと揺らした。
 「カミュは何か言っていたかい? 私にはまったく覚えが無いんだが」
 「何にも言わない。だからおかしいんだ」
 サガは眉をひそめた。
 ミロはサガの反応を気にせず続ける。
 「いっつもサガサガうるさいのに、サガのサの字も言わなくなって。僕がサガの話をしても、無視するんだ」
 「そう……」
 サガは顎に指をかけて、記憶をまさぐった。
 つい二日前には普通に話していたのだ。
 それ以降に、なにかカミュの機嫌を損なうようなことをした覚えもない。
 人見知りが激しいカミュを、格別にサガは気にかけていた。
 全幅の信頼を寄せて見上げてくる紅い瞳がなくなると、サガも漠然とした喪失感に襲われていた。
 「僕さ、サガとカミュが仲直りできるように協力してあげようか?」
 サガはミロを見た。
 ミロの蒼い瞳が、心配そうな色を浮かべていた。
 小さな子供が、不思議と頼もしく見えた。
 「そうだね、お願いするよ」
 微笑んで、サガはミロに握手を求めた。
 対等の存在として認めた証の動作に、カミュの親友は誇らしげに笑うと、しっかり手を握り返してきた。


 ミロの次の行く先は、宝瓶宮だった。
 十二宮の階段を上ったり降りたりしているのだが、苦にはならなかった。
 カミュの様子がおかしいと、自分もなぜか調子が悪い。
 今までどおり、サガも交えて皆で楽しくやっていきたかった。
 「おかえり、届けてくれた?」
 出迎えたカミュがそっけなく迎える。
 ミロが両手を広げて持って行った本がないことを見せてやると、カミュは微笑んだ。
 「ありがとう」
 「ねえ、カミュ、サガが……」
 「何か飲む?」
 わざとらしい話題の転換に、ミロは肩をすくめた。
 「ねえ、カミュってば」
 食い下がるミロに、カミュはようやく向き直った。
 何を訊かれようとしているのか理解している証拠に、真紅の瞳がかすかに揺れ動く。
 「サガと、ケンカしたの?」
 カミュは俯いた。
 紅の髪がはらりと落ちかかり、表情を隠した。
 「……そうじゃない」
 可聴域ギリギリのか細い声がした。
 「じゃ、なに?」
 ミロは俯くカミュの瞳を下から覗き込んだ。
 ミロの視線はまっすぐにカミュを射抜く。
 カミュはかわすこともできず、目を閉じることもできず、困ったようにみつめかえした。
 「カミュ?」
 ミロの追及の手は休まることをしらない。
 蠍座特有の粘り強さに、ようやくカミュは敗北を悟った。
 ぽつり、と言葉が唇から落とされる。
 「サガを困らせてるから」
 「そりゃ、困るさ。カミュがサガを避けてるんだもん」
 カミュは頭を振った。
 「そうじゃなくて、僕が傍にいるとサガを困らせるから、近づかないようにしてるんだ」
 ミロは蒼い瞳に疑問を浮かべた。
 彼が知るかぎり、サガもアイオロスも面倒見がよく、邪険にされたことなど一度もない。
 「考えすぎじゃないの?」
 「ううん、聞いちゃったんだ……」
 途切れ途切れに語られるカミュの言葉に、ミロは眼を見張った。
 終わりまで聞くのを待たずに、再び外へ飛び出していく。
 ミロの驚異的な瞬発力に、制止する間もなく取り残されたカミュは、ただ茫然としていた。


 火時計の火が、更にひとつ消えた頃。
 ミロは戻ってこないものと考え、一人で紅茶を淹れていたカミュに、突然ミロの声が響く。
 (カミュ、ちょっと家に来てよ)
 (なんで?)
 (なんでも。さっき、本運んでやったろ? 言うこと聞いてよ)
 大きな借りを作ってしまったことを少し後悔しながら、カミュは茶器を名残惜しげに見た。
 綺麗な鮮紅色に抽出された茶を一口だけ飲むと、カミュは足取りも重く出て行った。


 天蠍宮には、思いがけない先客がいた。
 扉を開けてその姿を認知したカミュは、顔をひきつらせるとそのままきびすを返そうとした。
 「カミュ!」
 背中にささるミロの声を無視して立ち去ろうとしたカミュの足は、突然床に釘付けにされた。
 「ミロ……。これ、解いて」
 搾り出すようなカミュの声が哀願する。
 カミュに発動されたのは、ミロの声だけではなかった。
 ミロのリストリクションにより動きを奪われたカミュは、その場に立ち尽くすしかなかった。
 「いや」
 「ミロ!」
 「サガとアイオロスの話、聞いたら解いてあげる」
 カミュは恐る恐る、唯一動く首だけを廻らせた。
 先客   サガとアイオロスがゆっくりと近づいてくる。
 カミュは観念したようにがっくりと床をみつめた。
 アイオロスがカミュの前にしゃがみこむと、大きな手でカミュの頭をぐりぐりと撫でまわす。
 「ミロから聞いた。おまえが最近おかしかったのは、こないだの俺とサガの話を聞いたからだって?」
 カミュはますます俯いた。
 脳裏に記憶がまざまざと蘇ってくる。
 偶然、闘技場から戻る二人を見かけて、駆け寄ろうとしたときだ。
 風に乗ってかすかに聞こえる声に、カミュは動揺した。
 話題は、カミュのことだった。
 アイオロスが笑いながらサガを振り返っていた。
 「カミュは本当におまえに懐いてるよな。ああやってサガだけにしか懐かないのも、ちょっと困りものだがな」
 サガは苦笑を浮かべていた。
 「……そうだな」
 その一言が、カミュを凍りつかせた。
 自分がサガを困らせているとは、気づきもしなかった。
 特別に与えられていた寵愛は、ただの自分の思い込みだったのかもしれない。
 笑顔の下で、サガは実は迷惑していたのでは……。
 斜面を転げ落ちる雪玉のように、悪方向への想像は果てしなく広がる。
 結果として、カミュはサガの顔を見ることすらできなくなってしまった。
 「おまえは聞いてなかったかもしれないけど、あの会話には続きがあるんだぞ」
 アイオロスが立ち上がった。
 つられて見上げるカミュは、困惑した顔のサガと目が合い、またさっと下を向く。
 「あとはサガから聞けや」
 選手交代とでもいうように、アイオロスはサガの肩をぽんと叩いた。
 今度はサガがカミュの前に片膝をついた。
 藍の双眸にみすくめられ、カミュは瞳を伏せた。
 サガが静かに語りかける。
 久々に聞く穏やかな声は、いつもにもまして耳に心地よく響き、それがまたカミュを哀しくさせた。
 「私にしかカミュが懐かないのは困るよ、確かに。君ももっと多くの人と交わるべきだ」
 カミュは唇をかみしめた。
 やはり、サガを困らせている。
 わかっていても、面と向かって言われるのは、辛い。
 泣きそうになるのを懸命にこらえ、カミュはぎゅっと目を閉じた。
 「でもね、私はそれが嬉しいんだ、カミュ。君が他の誰よりも私を慕ってくれるのがね」
 カミュの動かない手を握り、サガは荘厳な誓約のように告げた。
 真っ暗になった世界に響くサガの言葉に、カミュは弾かれたように目を開けた。
 最初に網膜に飛び込んできたのは、優しいサガの微笑。
 「……っていう結論部分を、おまえは聞き逃したわけ」
 アイオロスが訳もなく照れたように鼻の頭を掻いている。
 ミロは満足そうな笑みを浮かべると、ようやく技を解いてくれた。
 やっと動くようになった腕を、カミュはそのままサガの首に巻きつけた。
 「サガ、サガ……」
 サガの肩に顔をうずめてしゃくりあげるカミュの頭を、サガは優しく撫でてやった。
 「ほら、もう泣かない」
 サガの言葉にうなずきはするものの、カミュの嗚咽は当分治まりそうもなかった。
 サガはカミュの頭越しにミロを見ると、感謝の意を込めて片目をつぶってみせた。
 ミロもウインクを返す。
 ようやく仲直りしてくれた親友と兄貴分の笑顔が、ミロの気分を高揚させた。
 「よかった。これでもう本持ってけって言われなくてもすむ」
 冗談めかしたミロの言葉に、カミュは頭を上げた。
 「あ、あれ、まだ読んでないから……」
 「まさか、今度は双児宮から宝瓶宮に運べっての?」
 声をうわずらせるミロに、目を泣き腫らしたカミュはうなずいた。
 「手伝ってくれるよ、ね」
 ミロが大げさにため息をついた。
 アイオロスが豪快に笑った。
 カミュとサガが顔を見合わせて微笑んだ。
 久々に幸せを実感した夜だった。

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