無憂宮



 教皇の間から下りてきたミロの足取りは乱暴だった。
 希望に溢れて階段を上り、それが叶わず落胆して下りていく。
 時折、見られる光景だった。
 最上に位置する双魚宮からは、その様子がよくわかる。
 今回も、ミロの望みは却下されたのだろう。
 アフロディーテは口許に笑みを漂わせながら、薔薇に鋏を入れた。
 ぱちんと澄んだ音がして、一輪の花が優美な手に受け止められた。
 そっと顔を寄せると、豊かな芳香が鼻腔をくすぐる。
 この香りを、届けてやりたい。
 アフロディーテは、微笑を浮かべながら立ち上がった。
 視界の端に動くものをみとめたか、ちょうど庭先を通過しようとするミロがこちらを向いた。
 視線が、ぶつかる。
 不機嫌そうな蒼い瞳に、アフロディーテは笑いかけた。
 「ミロ、お茶に付き合わないか?」
 「悪い。俺、今、そういう気分じゃない」
 言葉ほど悪いと思っている様子もなく、ミロは速度を緩めないまま歩み去ろうとした。
 が、その足が止まった。
 そのまま踏み出していたなら、危ないところだった。
 足の着地予定地点には、深々と一輪の薔薇が突き刺さっていた。
 顔を引きつらせたミロが、恐る恐るといった様子で顔を上げる。
 「悪いな。私が、そういう気分なんだ」
 憤懣たる視線をさらりと受け流し、アフロディーテは嫣然と微笑んだ。
 咲き誇る大輪の薔薇にも似た、見る者に君臨する笑みだった。


 「相変わらず強引だよな、アフロ」
 渋々ながらも円卓についたミロが毒づく。
 しかし、アフロディーテは意に介した風もなく、お茶の支度をする手を休めない。
 「カミュがいたなら、あの子を誘ってるよ。いないんだから、ミロに相手してもらわないとね」
 優美な曲線を描くティーポットに、きっちりと茶葉を量り入れ、熱湯を注ぐ。
 一連の手際の良い動作は、手馴れたものだ。
 そういえば、カミュはお茶の入れ方をアフロディーテに教わったと言っていた。
 そう思って見ると、どことなく所作が似ている気がした。
 しばらく会えない恋人のイメージが重なり、ミロは深々と息を落とした。
 切なさが、募る。
 程なく、ミロの前に鮮紅色の茶が支度された。
 「綺麗な水色だろ」
 「……なんか、嫌がらせ?」
 予想外の感想に瞳を見張るアフロディーテに、ミロはむくれたように続けた。
 「カミュの髪みたいに紅い色じゃん、これ。今、俺が教皇の間から帰ってきた理由、わかってんだろ」
 アフロディーテはやんわりと微笑むと、小首を傾げてみせた。
 麗人の無邪気な仕草には、大抵の人間ならば怒気を和らげるはずだ。
 もっとも、残念ながらミロは、少数の例外に属している。
 幼い頃からお互いの性質を熟知しているのだ。今更、ごまかしようもなかった。
 ミロは口を尖らせた。
 「シベリア訪問、また却下された……」
 黄金聖闘士は、基本的には聖域で女神を守護する役目を担っている。
 光速で移動できるのだからどこにいてもいいと、ミロなどは思うのだが、やはり下位聖闘士や雑兵への範を示す必要があるのだろう。
 勅命以外の理由で長期間聖域を離れるときには、教皇への届出が義務付けられているのだ。
 それはあくまで届出制であり、申請さえすれば、ほぼ確実に認可されるはずであった。
 しかし、立て続けの申請を戒めるためか、最近はミロの希望は却下され続けていた。
 今も、その懇請を突っぱねられて、悄然と帰っていくところだったのだ。
 だからといって、紅茶の水色にまで文句をつけるのは、完全な八つ当たりだ。
 それはアフロディーテにも充分わかっているはずだ。
 そして、それを年上の友人に対する甘えと寛容に受け止めてもらえるだろうことも、ミロは承知していた。
 だからこそのわがままだった。
 「このまえシベリアに行ったのは、2ヶ月前だったな。当然だろう。カミュだって遊んでいるわけじゃない。頻繁に行ったら迷惑だ」
 呆れたように口許にカップを運んだアフロディーテの台詞にも、ミロは負けじと言い返す。
 「だけど、俺が行けば、カミュも弟子も喜ぶんだぞ。修行の成果も上がるだろ?」
 アフロディーテは無言で肩をすくめてみせた。
 ミロのご都合主義の屁理屈は、年々精度が上がっていく。
 素直ではない恋人を口説くのにかけた並々ならぬ時間の産物だろう。
 ミロの詭弁を聞き流すように、アフロディーテは芳しい紅茶の香りを堪能していた。
 が、突然、思い出したようにくすくすと笑い出す。
 「しかし、あの子が弟子をとるなんてね」
 アフロディーテは心底おかしそうに目を細めた。
 彼にとって、カミュはいつまでたっても幼く頼りない子供なのだろう。
 ままごとのような修行風景を想像しているに違いなかった。
 カミュがいたなら不満気に唇を尖らせているところだが、あいにくミロは恋人に対するそんな軽口に気分を害するほど繊細ではない。
 一毫も動じずに笑い返す。
 「頑張ってるよ、あいつ。弟子にもずいぶん懐かれてるし。なんか、まるで……」
 続く言葉は、ミロの喉元で無理やり押し留められた。
 笑顔がそのまま凍りつく。
 アフロディーテは長い睫を伏せ、気がつかない振りをしてくれた。
 音になる前に呑み込まれたのは、人名だった。
 まだ幼い自分たちにとり、第二の師ともいえた二人の黄金聖闘士の名は、いつの頃からか禁句になっていた。
 その名を口にしても、どこからも応えが返ってこないことに気づいてしまって以来、ずっと。
 記憶の片隅に封印しつつあった苦い思い出が、のそりと鎌首を持ち上げようとしていた。


 重く圧し掛かる沈黙から救ってくれたのは、やはりアフロディーテだった。
 先程までと少しも変わらない穏やかで楽しげな声が、咲き初めの蕾のような唇から紡がれる。
 「そうそう、カミュはちゃんと爪のお手入れ続けてるかい?」
 芝居がかった仕草で、長い指をピアニストのようにひらひらと揺らめかせると、悪戯っぽく微笑む。
 やはり、この美貌の聖闘士には敵わない。
 自分の思うがままに奔放に生きているようにみえて、その陰では他者に対する繊細な配慮を絶やさない。
 人付き合いの苦手なカミュが、からかわれることを予測していながらも、アフロディーテのお茶の誘いに素直に応じているのはそのためだろう。
 ミロは照れ隠しのような笑みを浮かべてみせた。
 「やっぱ、あれ、アフロの入れ知恵なんだ?」
 シベリアに行ってから、カミュの爪は真紅に染まるようになっていた。
 その髪と瞳と同じ艶麗な色は、形の良い爪によく似合い、カミュの魅力を一層際立たせていた。
 「カミュのことだ。弟子にばかり構って、自分のための時間なんて無くしてしまいそうだろ? ああやって自分と向き合う時間を強制的に取らせないと、ね」
 蠱惑的に片目をつぶってみせるアフロディーテを、ミロはあっけに取られてみつめた。
 ネイルケアは、手間と時間がかかる作業だ。
 多忙なカミュがどうしてこんなに大変な習慣を身につけたのか、短気なミロには少しもわからなかった。
 訊いても、カミュは微笑むだけで、何も答えようとはしなかった。
 しかし、その背景にこんな配慮があったとは。
 「……アフロ、結構いろんなこと考えてんだな」
 「一応、褒め言葉と受け取っとくよ。ありがと」
 艶冶に微笑むアフロディーテは、ついで悪戯を思いついた子供のようにくつくつと喉を鳴らした。
 「まあ、ネイルに関しては、他にも理由はあるんだけど。それは本人から聞くんだね」
 「次にカミュに会えるの、いつになるかわかんないんだぜ。今、教えてよ」
 「やだ。カミュに嫌われたくないし」
 そっけなく言い捨てると、アフロディーテは立ち上がった。
 程なく奥の部屋から、小さな籠を下げて戻ってくる。
 「お茶に付き合ってくれた礼だ。お使い、頼まれてよ」
 朗らかな声で矛盾したことを言われ、ミロは勢いよくテーブルに突っ伏した。
 天板に打ち付けかすかに赤くなった額を押さえつつ、ミロはその原因となった人物にしかめっ面を向けた。
 「なんで礼がお使いになるんだよ!」
 噛み付かんばかりに吠えるミロも、アフロディーテにはどこ吹く風だ。
 鼻歌でも歌いだしそうな調子で、籠の中の物を次々とテーブルに並べていく。
 「薔薇の鉢植えだろ、紅茶だろ、それから……」
 ことん、とかすかな音をたてて置かれた小瓶が、ミロから言葉を奪った。
 瞠目するミロに、アフロディーテが満足そうにうなずく。
 「新色のネイルカラー。シベリアまで、よろしく」
 ミロは、目を見開いてアフロディーテをみつめた。
 「……だって、俺、シベリア行き却下されたばっか……」
 「うーん、ホントは自分で行こうと思ってたんだけどね。カミュ先生の授業参観もしたかったし」
 長い指が、籠の中から一枚の紙を取り出し、ミロの目の前でひらひらと振ってみせた。
 「シベリア訪問許可書。譲ってあげるから、行ってきてよ」


 「……まったく、落ち着きの無い子だ」
 アフロディーテは優雅に微笑みながら、二杯目の紅茶を口にしていた。
 事の成り行きが呑み込めてからのミロの行動は素早かった。
 ひったくるように許可書を受け取ると、テーブル上の土産を籠に押し込み、耳をつんざくような大声で感謝の言葉を叫びつつ、そのまま駆け出していったのだ。
 よほど嬉しかったのだろう、カミュに会えるということが。
 幼い恋を微笑ましく思い返していたアフロディーテの視線が、ふと床に落ちた。
 「ああっ、もう、ミロの奴!」
 慌てすぎて籠に詰めそこなったのか、そこにはカミュに届けるはずのネイルカラーが転がっていた。
 拾い上げて憮然としていたアフロディーテの口許に、ふっと笑みが浮かんだ。
 蓋を外し、左手の人差し指の爪に、さっと筆を走らせる。
 真紅に染まった爪をためつすがめつ見て、苦笑が漏れた。
 「やっぱり、似合わないな、私にこの色は」
 この色は、カミュの色だ。
 脳裏にまざまざと記憶が蘇る。
 爪に初めて色をのせてやったとき、カミュは自分の爪をしげしげと見つめ、嬉しそうに呟いたのだ。
 「なんだか、ミロみたいだ」
 小宇宙を最大限に高めると、ミロの爪は蠍の主星のように赤く染まる。
 言われてみれば、確かに似ていた。
 紅い爪を気に入った様子のカミュを、アフロディーテは笑っていつものように茶化そうとした。
 「じゃ、こうして爪を塗っていれば、ずっとミロと一緒にいるみたいだね、カミュ」
 「……そう、かもしれない」
 いつもなら不興気に睨んでくるだろう軽口にも、カミュは静かな微笑みをみせた。
 その表情は痛々しいほど綺麗で、アフロディーテの口をつぐませた。
 カミュが、たった一人で遠い土地に赴くことが決まった頃だった。
 寂しさと不安とを、無理やり内に押し込めていたのだろう。
 ほんの少しでも支えになるのなら、なんだって利用するがいい。
 アフロディーテは餞別代わりに爪の手入れの仕方を教え、カミュもまた熱心に耳を傾けていた。
 もう、随分前のことだ。
 今となっては、カミュは一人で立派に師としての務めを果たしているらしい。
 それでも、カミュの爪は依然として紅く染まったまま。
 そうやって、常にミロを傍に感じようとしているのだ。
 決して語られることはないであろうネイルの理由は、アフロディーテとカミュだけの秘密だった。
 「……本当に、つくづく可愛いよ、二人とも」
 アフロディーテは微笑むと、窓の外に視線を投げた。
 咲き誇る薔薇が、静かに風に揺らいでいた。
 真紅の花弁は、どこかカミュを思わせる色だった。

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