2004 カミュ誕
書庫にこもったカミュが出てこないのは、いつものことだ。
しかし、今日は特別な日。
普段ならカミュの読書の邪魔をしないミロも、痺れを切らして書庫の扉を開けた。
書架にもたれて本に目を落とすカミュの姿は、すぐに見つかった。
子供の頃から見慣れた姿だ。
本を探しているだけのはずが、当初の目的を忘れ読書に夢中になってしまうらしい。
「いつまで立ち読みしてんだよ」
書物が最大の恋敵というのは、複雑な心境だ。
嫉妬の対象として認識するには馬鹿馬鹿しい気もするが、カミュの興味を惹くという意味では、決して侮れない存在だった。
「ああ、懐かしい本を見つけたのでな。つい……」
ようやく顔を上げたカミュは、本を閉じると、表紙をミロに向けた。
珍しいことだ。
どうせおまえには興味がないだろう、と、読んでいる本の話をミロにすることなど滅多にないのに。
ミロは湧き起こる好奇心と共に、題字に目を走らせた。
「『幸福の王子』……?」
カミュは微笑んでうなずいた。
「子供の頃、サガが読んでくれただろう。覚えてないか?」
本を朗読するサガの穏やかな声が、どこからともなく聞こえた気がした。
それは、自らの持てる全てを人々に分け与えた王子と燕の話だった。
サガは本から何かを感じ取ってくれればそれでよいと考えていたのか、読み終えても特に感想を求めることはなかった。
それでも今にして思えば、地上の人々のために全力を尽くせと、その話を通じて幼い彼らに伝えたかったのだろう。
記憶の海に引き込まれつつあったミロを尻目に、カミュは楽しげな笑みを浮かべていた。
訝しがるミロに、カミュは微笑んだまま説明を与える。
「宝石など知らなかったから、サファイアの瞳の黄金の王子像のイメージが、どうしても浮かばなくてな。サガに訊いたら、聖衣をまとったミロみたいな感じ、と教えてくれた」
それで余計に印象深いんだ、と、カミュは懐かしげな視線を本に注いだ。
遠くをぼんやりと眺めるような優しい瞳に映っているのは、宝物のように輝いていた幼い日々の情景だろう。
幸せな子供時代の思い出に、サガの姿は欠かせなかった。
それはミロも同じだが、カミュの心にサガが占める比率は、ミロのそれより圧倒的に高いはずだ。
あの頃、カミュは、ミロよりもサガの方を好きだった。
ほんの少し、嫉妬。
それは本に対するものか、サガに対するものか。
わからないまま、ミロは頭を振った。
豪奢な金の髪が揺れ、黄金の像に比肩する輝きを放ち出す。
「俺が王子? 止めてくれよ。俺は燕になりたかったんだから」
「燕?」
「そ、ずっとカミュ王子の傍にいて、王子に尽くす燕」
カミュは真紅の瞳を瞬かせた。
深みのあるルビーのような瞳が、かすかに揺らめく。
「嗜虐的な奴だな。おまえは私の瞳をくり抜く気か」
「違うって! 何でそうなるかな」
「あの燕は、王子の宝石や黄金を剥がして人々に届けるのだぞ。幼い私には非常に恐ろしい鳥に思えた」
あながち冗談ともいえない表情で、カミュは憮然としてミロを見返してきた。
相変わらず、カミュは独特の感性の持ち主だ。
何とか自分に関心を向けさせようとしたミロの口説き文句を、するりとかわしてしまう。
無自覚なだけに平然としているのが、怒るに怒れない。
ミロはため息をつくと、ポケットに手を入れた。
もう少し、ロマンティックな渡し方をしたかったんだけどな。
相手がカミュでは、小細工も趣向も無駄なような気がした。
すっかり馴染んでしまった呆れたような苦笑を浮かべ、ミロはポケットから手を抜き出した。
「ミロ燕はそんなことしないさ。それどころか、カミュ王子に贈り物を届けるんだ」
差し出された掌の上には、綺麗にリボンがかけられた白い小箱があった。
「誕生日おめでとう、カミュ」
いつも、そうだった。
その日が自分の誕生日ということに気がつくのは、ミロが祝いの言葉を述べてくれたときだった。
やはり忘れていたとでも言いたげなミロの苦笑が悔しくて、来年こそは、と思うのだが、この点に関しては、自分の記憶力は全く当てにならなかった。
……それとも、ミロからの祝福を期待しているから、無意識に覚えようとしないのだろうか。
人間の脳というのは、複雑すぎてまだまだ未知の領域だという。
いつぞや読んだ本の一文に深く納得しながら、カミュはミロに促されるままに包装を解いた。
小箱の蓋を開けたカミュの動きが止まる。
「きれいだろ。絶対カミュに似合うと思って」
そこにあったのは、小ぶりなピアスだった。
光を浴びて深遠たる輝きを放つ紅い石はルビーだろう。
宝石に疎いカミュでも、それくらいの見分けはつく。
「うん、やっぱり似合う。どう、気にいった?」
躊躇うカミュを余所に、ミロはカミュの耳元にピアスを添えて悦に入っていた。
「……確かに綺麗だが、これは受け取れない」
ミロの満面の笑みが、途端に失望に取って代わられる。
折角の贈り物を拒絶され傷ついた様子のミロに、カミュは慌てて言葉をつなげた。
「だって、私の耳にピアスの穴は開いていないだろう? これがイヤリングだったら喜んでもらうのだが……」
「そんなのダメだって。カミュ、絶対すぐなくすに決まってる」
背筋を、ぞくりと悪寒が走った。
装飾品をつけ慣れないカミュのことだ。
落としやすいイヤリングでは、確かにミロの懸念は現実のものとなる公算が高い。
とはいえ、カミュの耳にピアスホールがないことくらい、ミロは知っているはずだ。
それを承知の上で、贈り物に選んだのがピアスということは。
カミュの足が、我知らず一歩下がった。
が、背中に書架がぶつかり、それ以上の退路を阻む。
ミロは口の端を持ち上げた。
「穴が無いなら、開けてみせよう、アンタレス」
字余りの句でも詠うような抑揚をつけて、ミロは笑った。
指先に伸びる真紅の爪が、無気味な存在感をたたえて光り始める。
「う、嘘だろ。ちょっと……、ミロ……?」
かろうじて浮かべてみせた笑顔がひきつるのがわかった。
ミロの笑みを含んだ蒼い瞳は、獲物を捉えた肉食動物のように鋭い眼光を放っていた。
その瞳に絡みとられたように、身がすくむ。
見方によっては酷薄にもなるにやりとした笑みは、ミロと対峙した敵の恐怖を煽るのだろう。
まさか、自分がその立場に立たされるとは思いもしなかった。
それも、自分の誕生日に。
背に感じる棚に並ぶのが事典級の重厚な本だったのは、良かったのか、悪かったのか。
これ以上後ろに下がれないかわりに、書架が倒れることもない。
目前に迫る危機からの逃避だろうか。
とりとめもなく場違いなことを思っている間に、ミロの腕が伸ばされた。
捕まった。
相変わらず嬉しそうな笑顔のミロは、両腕を書架につくと、その間にカミュを閉じ込めた。
「本気じゃないよ、な……」
哀願にも似た確認の声は、自分でも情けないほどうわずっていた。
「俺は、いっつも本気だけど?」
そう言って、ミロはカミュの耳元に顔を近づけた。
ぺろりと耳朶を熱い舌が撫でる。
「な、何?」
「消毒。動くなよ」
ミロは、ずるい。
カミュが耳を触られるのに弱いことも、嫌というほどわかっているのに。
やはり、ミロは嗜虐趣味だ。
舌の動く淫靡な音が、妖しく耳をくすぐる。
全身から力が抜け、カミュは書架に背をつけたまま、ずるずると床に崩れ落ちていった。
風で髪がかき乱された。
下から見上げてくる子供たちは、目ざとかった。
普段は髪に隠されている部位のささやかな変化も見逃さない。
「先生、その耳の紅いの、何? すっごくきれい!」
「ああ、これ?」
カミュは少し困ったように微笑んだ。
「……幸福の王子からの贈り物、かな」
二人の弟子たちは、きょとんとして顔を見合わせた。
それ以上の質問を微笑でやんわりと遮ると、カミュはそっと耳に指を添えてみた。
息づくはずもない貴石が、なぜかほのかな熱を孕んでいるように感じられた。
書庫にこもったカミュが出てこないのは、いつものことだ。
しかし、今日は特別な日。
普段ならカミュの読書の邪魔をしないミロも、痺れを切らして書庫の扉を開けた。
書架にもたれて本に目を落とすカミュの姿は、すぐに見つかった。
子供の頃から見慣れた姿だ。
本を探しているだけのはずが、当初の目的を忘れ読書に夢中になってしまうらしい。
「いつまで立ち読みしてんだよ」
書物が最大の恋敵というのは、複雑な心境だ。
嫉妬の対象として認識するには馬鹿馬鹿しい気もするが、カミュの興味を惹くという意味では、決して侮れない存在だった。
「ああ、懐かしい本を見つけたのでな。つい……」
ようやく顔を上げたカミュは、本を閉じると、表紙をミロに向けた。
珍しいことだ。
どうせおまえには興味がないだろう、と、読んでいる本の話をミロにすることなど滅多にないのに。
ミロは湧き起こる好奇心と共に、題字に目を走らせた。
「『幸福の王子』……?」
カミュは微笑んでうなずいた。
「子供の頃、サガが読んでくれただろう。覚えてないか?」
本を朗読するサガの穏やかな声が、どこからともなく聞こえた気がした。
それは、自らの持てる全てを人々に分け与えた王子と燕の話だった。
サガは本から何かを感じ取ってくれればそれでよいと考えていたのか、読み終えても特に感想を求めることはなかった。
それでも今にして思えば、地上の人々のために全力を尽くせと、その話を通じて幼い彼らに伝えたかったのだろう。
記憶の海に引き込まれつつあったミロを尻目に、カミュは楽しげな笑みを浮かべていた。
訝しがるミロに、カミュは微笑んだまま説明を与える。
「宝石など知らなかったから、サファイアの瞳の黄金の王子像のイメージが、どうしても浮かばなくてな。サガに訊いたら、聖衣をまとったミロみたいな感じ、と教えてくれた」
それで余計に印象深いんだ、と、カミュは懐かしげな視線を本に注いだ。
遠くをぼんやりと眺めるような優しい瞳に映っているのは、宝物のように輝いていた幼い日々の情景だろう。
幸せな子供時代の思い出に、サガの姿は欠かせなかった。
それはミロも同じだが、カミュの心にサガが占める比率は、ミロのそれより圧倒的に高いはずだ。
あの頃、カミュは、ミロよりもサガの方を好きだった。
ほんの少し、嫉妬。
それは本に対するものか、サガに対するものか。
わからないまま、ミロは頭を振った。
豪奢な金の髪が揺れ、黄金の像に比肩する輝きを放ち出す。
「俺が王子? 止めてくれよ。俺は燕になりたかったんだから」
「燕?」
「そ、ずっとカミュ王子の傍にいて、王子に尽くす燕」
カミュは真紅の瞳を瞬かせた。
深みのあるルビーのような瞳が、かすかに揺らめく。
「嗜虐的な奴だな。おまえは私の瞳をくり抜く気か」
「違うって! 何でそうなるかな」
「あの燕は、王子の宝石や黄金を剥がして人々に届けるのだぞ。幼い私には非常に恐ろしい鳥に思えた」
あながち冗談ともいえない表情で、カミュは憮然としてミロを見返してきた。
相変わらず、カミュは独特の感性の持ち主だ。
何とか自分に関心を向けさせようとしたミロの口説き文句を、するりとかわしてしまう。
無自覚なだけに平然としているのが、怒るに怒れない。
ミロはため息をつくと、ポケットに手を入れた。
もう少し、ロマンティックな渡し方をしたかったんだけどな。
相手がカミュでは、小細工も趣向も無駄なような気がした。
すっかり馴染んでしまった呆れたような苦笑を浮かべ、ミロはポケットから手を抜き出した。
「ミロ燕はそんなことしないさ。それどころか、カミュ王子に贈り物を届けるんだ」
差し出された掌の上には、綺麗にリボンがかけられた白い小箱があった。
「誕生日おめでとう、カミュ」
いつも、そうだった。
その日が自分の誕生日ということに気がつくのは、ミロが祝いの言葉を述べてくれたときだった。
やはり忘れていたとでも言いたげなミロの苦笑が悔しくて、来年こそは、と思うのだが、この点に関しては、自分の記憶力は全く当てにならなかった。
……それとも、ミロからの祝福を期待しているから、無意識に覚えようとしないのだろうか。
人間の脳というのは、複雑すぎてまだまだ未知の領域だという。
いつぞや読んだ本の一文に深く納得しながら、カミュはミロに促されるままに包装を解いた。
小箱の蓋を開けたカミュの動きが止まる。
「きれいだろ。絶対カミュに似合うと思って」
そこにあったのは、小ぶりなピアスだった。
光を浴びて深遠たる輝きを放つ紅い石はルビーだろう。
宝石に疎いカミュでも、それくらいの見分けはつく。
「うん、やっぱり似合う。どう、気にいった?」
躊躇うカミュを余所に、ミロはカミュの耳元にピアスを添えて悦に入っていた。
「……確かに綺麗だが、これは受け取れない」
ミロの満面の笑みが、途端に失望に取って代わられる。
折角の贈り物を拒絶され傷ついた様子のミロに、カミュは慌てて言葉をつなげた。
「だって、私の耳にピアスの穴は開いていないだろう? これがイヤリングだったら喜んでもらうのだが……」
「そんなのダメだって。カミュ、絶対すぐなくすに決まってる」
背筋を、ぞくりと悪寒が走った。
装飾品をつけ慣れないカミュのことだ。
落としやすいイヤリングでは、確かにミロの懸念は現実のものとなる公算が高い。
とはいえ、カミュの耳にピアスホールがないことくらい、ミロは知っているはずだ。
それを承知の上で、贈り物に選んだのがピアスということは。
カミュの足が、我知らず一歩下がった。
が、背中に書架がぶつかり、それ以上の退路を阻む。
ミロは口の端を持ち上げた。
「穴が無いなら、開けてみせよう、アンタレス」
字余りの句でも詠うような抑揚をつけて、ミロは笑った。
指先に伸びる真紅の爪が、無気味な存在感をたたえて光り始める。
「う、嘘だろ。ちょっと……、ミロ……?」
かろうじて浮かべてみせた笑顔がひきつるのがわかった。
ミロの笑みを含んだ蒼い瞳は、獲物を捉えた肉食動物のように鋭い眼光を放っていた。
その瞳に絡みとられたように、身がすくむ。
見方によっては酷薄にもなるにやりとした笑みは、ミロと対峙した敵の恐怖を煽るのだろう。
まさか、自分がその立場に立たされるとは思いもしなかった。
それも、自分の誕生日に。
背に感じる棚に並ぶのが事典級の重厚な本だったのは、良かったのか、悪かったのか。
これ以上後ろに下がれないかわりに、書架が倒れることもない。
目前に迫る危機からの逃避だろうか。
とりとめもなく場違いなことを思っている間に、ミロの腕が伸ばされた。
捕まった。
相変わらず嬉しそうな笑顔のミロは、両腕を書架につくと、その間にカミュを閉じ込めた。
「本気じゃないよ、な……」
哀願にも似た確認の声は、自分でも情けないほどうわずっていた。
「俺は、いっつも本気だけど?」
そう言って、ミロはカミュの耳元に顔を近づけた。
ぺろりと耳朶を熱い舌が撫でる。
「な、何?」
「消毒。動くなよ」
ミロは、ずるい。
カミュが耳を触られるのに弱いことも、嫌というほどわかっているのに。
やはり、ミロは嗜虐趣味だ。
舌の動く淫靡な音が、妖しく耳をくすぐる。
全身から力が抜け、カミュは書架に背をつけたまま、ずるずると床に崩れ落ちていった。
風で髪がかき乱された。
下から見上げてくる子供たちは、目ざとかった。
普段は髪に隠されている部位のささやかな変化も見逃さない。
「先生、その耳の紅いの、何? すっごくきれい!」
「ああ、これ?」
カミュは少し困ったように微笑んだ。
「……幸福の王子からの贈り物、かな」
二人の弟子たちは、きょとんとして顔を見合わせた。
それ以上の質問を微笑でやんわりと遮ると、カミュはそっと耳に指を添えてみた。
息づくはずもない貴石が、なぜかほのかな熱を孕んでいるように感じられた。