2005 カミュ誕
いつかは訊かれる質問だと思っていた。
だから、その時に備えて、答え方もひそかに練習していた。
あくまでさりげなく、そんなこと全く些細なことであるというように、さらりと受け流す。
ほんの少しの感情も出さないようにと、鏡に向かって自分の顔とにらめっこしながら、繰り返し模範解答の研究をしてきたのだ。
そう、それは、本当に大したことではない。
自分の誕生日を知らない。
ただ、それだけのこと。
自分が生まれた日付など覚えていなくても、世界には何の影響も無い。
それでも地上に太陽は惜しみなく降り注ぐし、花は色とりどりに咲き乱れ、鳥は美しい声で高らかに歌う。
そして、自分は今もこうしてつつがなく生きている。
だから、カミュの誕生日はいつかとミロが訊いてきたとき、ようやく日頃の修練の成果を発揮できることに安堵しつつ、素っ気無く答えたのだ。
「知らない」
たった一言。
練習どおり、完璧にやってのけた。
眉一つ動かさず、視線をそらすこともなく、声が上擦ることもなく。
予想されるあらゆる事態に備えて事前に対応策を講じておくのは、戦略の基本だ。
今回も、こんな日常の一こまとはいえ、学んだことを実践できるのが嬉しい。
質問を投げかけてきたミロは、僕の答えを理解できなかったのか、ぽかんと口を開けて呆けていた。
このミロの表情も、予想していた通りだ。
おそらく次には、何故自分の誕生日を知らないのかと、顔中に疑問符を貼り付けて僕を質問責めにするのだろう。
「え、え? だって、自分の誕生日だよ。何で知らないの? 毎年、誕生日には、おめでとうってお祝いしてもらって、それから……」
大きな蒼い瞳を更に落っこちそうな程に見開いて、身を乗り出したミロは懸命に言い募る。
まさに予期した通りの反応だ。
目の前の彼の表情が余りに予想と違わないために、これは僕の脳内での予行演習の続きだろうかとの錯覚さえ覚える程だ。
ミロにとっては、にわかに信じがたいことなのだろう。
聖域に来るまでの彼の思い出話を聞くと、それも無理はなかった。
彼にとって誕生日とは、皆に祝福される幸せな一日なのだ。
そんな大切で特別な日なら、どう忘れようとしたって忘れられっこない。
そして、彼の短所の一つは、自分の価値観は他者にも当然当てはまると信じて疑いもしないことだ。
皆が皆、彼のように家族に愛されて幸せに暮らしてきたわけではない。
少なくとも、僕は、違う。
そういった耳に優しくない事実を突きつけるのは無邪気な彼には酷かもしれなかったが、仕方がないことだと割り切ろうと思った。
どうしても自分が抱いてしまう、羨望、という感情を切り捨てるには、そうするしかない。
胸の内を覗かせないよう、瞳に精一杯力を込めて無表情を貫くと、僕はミロを見返した。
「誕生日を祝ってもらったこと、ないから」
淡々と事実だけを告げる僕の言葉に、唇をわずかに尖らせたミロは、ぎゅっと両の手を握り締めた。
関節が白く浮き出ているところを見ると、よほど力を込めて握っているのだろう。
きっと今頃、訊いてはならない質問をしたと後悔しているはずだ。
これも、予想通り。
これで二度と、こんな馬鹿げた質問をしてくることはあるまい。
根は善良で、しかも妙なところで熱くなる彼のことだ。
上手くすれば、僕の前で誕生日の話題をしないようにと、他の聖闘士たちにもふれ回ってくれるかもしれない。
同情を受けるのは嫌いだが、適当な日を誕生日と偽ってごまかし続ける方が、はるかに苦痛だ。
そもそもキリストでもない普通の人間の誕生日を祝う習慣があることですら、聖域に来て初めて知ったのだ。
それを不幸だと思ったことなど、一度もない。
それなら事実を伝えてしまった方がいい。
その上で、憐れみを含んだ言葉や配慮など必要ないと、きっぱりとはねつけてしまえばいい。
こう考えた僕の思考過程に誤りは無いはずだ。
ミロの性格を考慮に入れて周到に構築した理論によると、この話題はここで打ち切られるという結論が導き出されていた。
その、予定だった。
それなのに。
僕は自分の目を疑った。
ここに鏡があったなら、ひょっとしたら、さっきまでのミロと同じくらい驚いた顔をした自分を見たかもしれない。
それくらい眼前の光景は衝撃的だった。
ミロが、泣いていた。
瞳の蒼がそのまま水滴になって溶け出してしまったように、ぼろぼろぼろぼろ大粒の涙が次から次へと零れだす。
何の前触れもなく振り出したいつ止むともわからない涙の雨は、僕の視線を釘付けにして離さなかった。
「……なぜ泣く?」
ミロのこんな反応は全く想定外の事態だ。
突然の彼の涙の理由も自分がとるべき最善の対応もわからず、僕は小さな声で恐る恐る質してみた。
「だって……」
依然として泣きじゃくりながら、ミロは何事か口の中で呟いていた。
俯くミロの口元に耳を寄せてみると、かろうじてか細い声が聞き取れる。
耳に飛び込んできた台詞は、不可思議なものだった。
「だって、誕生日をお祝いしてもらったことないなんて、そんなの寂しすぎるよ」
僕の耳にはそう聞こえた。
おそらく聞き間違えたのだろう。
そんな馬鹿馬鹿しい理由で、聖闘士たる者が泣くはずもない。
それも、他人の事、なのに。
僕は、じっとミロをみつめた。
どうしたらよいのか見当もつかず、どこかの栓が壊れたように泣き続けるミロを、ただ見守ることしかできなかった。
ミロは、嫌いだ。
時折、僕の予想を裏切って突拍子もないことをしでかすから。
綿密に計算しつくされたはずの行動原理を木っ端微塵に粉砕されて、その度に途方に暮れる自分も嫌い。
現に今も、僕はミロの涙を止める術を、何一つ考え出せないでいるのだ。
そうして無力感に打ちのめされている僕と反比例するかのように、散々涙を流したミロは、いつのまにか落ち着きを取り戻しつつあるらしい。
しゃくりあげる声が次第に小さくなり、頬を伝い落ちる涙の量も少なくなってきた。
やがて、拳でぐいと涙を拭うと、ミロは勢いよく顔を上げた。
「よし、決めた!」
「……何を?」
質問ばかりしている自分が馬鹿みたいだが、ミロの意図するところがさっぱりわからないのだから仕方がない。
努めて平静を装いつつ尋ねると、ミロはにこりと笑った。
ついさっきまで大泣きしていた人物とも思えない、希望に満ちた明るい笑顔。
気遣ってやるまでもなく、ミロはもうこんなに元気になっている。
突如泣き出した彼をどう慰めようかと心を砕いていたことを、僕は一瞬激しく後悔した。
そんな僕の内心も知らぬげに、ミロは陽気に言葉を続けた。
「カミュの誕生日はいつか、教皇に訊いてくる。星の位置だとかなんとかで、きっと教皇ならわかるって!」
「……え?」
「じゃ、行ってくるね!」
「ちょっと待て……!」
長い髪をふわりとなびかせて駆け出そうとするミロの服の端をつかみ、僕は必死で彼を止めた。
ミロの無鉄砲さは、ある意味脅威だ。
女神の名の下全聖闘士を統べる教皇に、こんなつまらないことで突撃をかけようとする者など、聖域中を捜しても彼しかいまい。
血相を変えて追いすがる僕に、ミロは不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの? 何で止めるの?」
……何故わからない?
そう言いたくなるのをぐっと堪え、僕は彼の行動を阻止する効果的な言葉をぶつけてやろうと口を開いた。
が、その台詞は音になる前に喉奥で消えた。
僕が言葉を発するよりも、ミロの方が早かったのだ。
「カミュの誕生日がいつかわかんなきゃ、お祝いできないじゃん」
今年も、来年も、これからずっと、僕がカミュの誕生日をお祝いしてあげるから。
そう言って、ミロは笑った。
黄金色の髪のきらめきを反映したような眩しいほどの笑みを浮かべ、まっすぐに僕をみつめる。
これほどにこにこと幸せそうな笑顔を向けられると、見ているこちらが恥ずかしい。
いたたまれなくなった僕は下を向き、握ったままだったミロの服の裾をそっと放した。
やっぱり、ミロは嫌いだ。
無分別で、単純で、あまりに素直で。
おまけに、僕の感情を遠慮の欠片もなく波立たせる。
その結果、感情を律そうとする努力も空しく、僕は情けないほどにうろたえてしまうのだ。
不意に目の奥が熱くなり、僕は奥歯を噛みしめた。
何だろう、これは。
ついぞ味わったことのない生体反応。
息が詰まるように苦しくて、胸がしくしくと痛い。
まさか、この僕が、泣いている?
ぼんやりと霞みだした視界が不快でますます視線を落とすと、向かい合って立つミロの足先が見えた。
このまま僕の異変に気づかずに、教皇の元なりどこへなりと行ってくれ。
垣間見えるミロの爪先に向かって、僕は心中ひそかに念じた。
しかし、いつものことながら、ミロは僕の願い通りには行動してくれない。
それどころか、まるで嫌がらせのように、最もしてほしくない行為を選択するのだ。
「ねえ、泣いてるの? もしかして、お腹痛い?」
折角泣き顔を見られないように顔を背けているのに、そんなことにもお構いないようで、彼は下からわざわざ僕の顔を覗き込んできた。
心配そうに見上げてくる蒼い瞳が、相変わらず霧に包まれたようにぼやけた視界の中で、道標のように輝いて見える。
それはとても綺麗なのだけれど、その双眸にみつめられると、どうにも落ち着かなかった。
何でもいい。
何か答えないことには、彼は僕を解放してくれないだろう。
焦った僕の口から、思わず声が出ていた。
「……違う」
「じゃ、どうして?」
「……ミロのせいだ」
「え、僕、何か悪いことした?」
眉をひそめたミロは、途端に顔を曇らせた。
山の天気よりも変わりやすい彼の表情の推移に、僕はほんの少しだけ罪悪感を抱いた。
彼の泣き顔も憂い顔も、全て僕の言葉が原因だ。
何とか彼にいつもの笑顔を、彼に一番似合う表情を取り戻させてやりたかった。
とはいえ、こんなにとめどなく涙が溢れてくる今の自分の状態では、事態の解決方法としてあまり難しいことは考えられない。
そうかといって、真相は決して告げられるものではない。
カミュの誕生日を祝ってあげる。
そのミロの一言が泣きたくなるほど嬉しかったのだなどと、恥ずかしくて口が裂けても言えるものか。
だから、僕は必死にごまかす手段を考えた。
考えて考えて、頭が痛くなるほど考えているうちに、ふとした思い付きが心を過ぎる。
僕は、咄嗟にその嘘にすがりついた。
「……ミロが泣いたから。涙は、うつるんだよ。風邪みたいに」
もらい泣きということもあるのだから、あながち偽りとも言えないかもしれない。
ただ、少なくとも今の状態を正確には言い表してはいないことは、僕が一番よく知っていた。
それしか思いつかなかったとはいえあまりに愚か過ぎる台詞に、抑えきれずに羞恥心が湧き起こる。
涙とは別の理由で顔が赤くなった僕に、それでもミロは無邪気に微笑んでくれた。
「そうなんだ。カミュっていろんなこと知ってるんだね。やっぱり頭いいや」
嫌味にも聞こえる発言だが、どうやらその表情を見る限り、ミロは本気で感心してくれているようだ。
とりあえず、助かった、らしい。
緊張し過ぎたのだろう。拍子抜けした僕は一気に脱力した。
あまりの虚脱状態に足の力がすとんと抜け、床にしゃがみこみたくなる。
だが、そうさせてはもらえなかった。
ふらりと身体がかしぐと同時に、腕を伸ばしたミロが、僕をしっかりと抱きとめていたのだ。
僕の背にぎゅっと腕を廻したミロは、いつも賑やかな彼らしくもなく、耳元で穏やかに囁いた。
「ごめん。僕はもう泣かないから、カミュも泣かないで」
そう言いながら、ミロの手が静かに僕の頭を撫でた。
まるで幼い子供をあやすように、優しく優しく、そっと僕の髪を梳きとる。
同い年のミロに子供扱いされるなんて、不愉快極まりない。
普段の僕なら、激昂して彼を突き飛ばしていたはずだ。
でも、なぜか今はそうする気にはなれなかった。
どういうわけだか、髪を滑るミロの小さな手が心地よくて、振りほどくことができなかった。
僕はミロの肩口に顔を埋めたまま、しばらくじっとしていた。
ミロの身体は温かくて、こうしてぴったりとくっついているとほっとする。
肌を通して伝わってくる彼の心音の響きに耳を傾けながら、僕は自分の鼓動をそれに重ねようと、静かに呼吸を繰り返していた。
涙は、いつのまにか乾きつつあった。
数日後、教皇に愚問を呈した向こう見ずな黄金聖闘士がいたらしい。
そしてそれ以来、二月七日は、僕の特別な日となった。
いつかは訊かれる質問だと思っていた。
だから、その時に備えて、答え方もひそかに練習していた。
あくまでさりげなく、そんなこと全く些細なことであるというように、さらりと受け流す。
ほんの少しの感情も出さないようにと、鏡に向かって自分の顔とにらめっこしながら、繰り返し模範解答の研究をしてきたのだ。
そう、それは、本当に大したことではない。
自分の誕生日を知らない。
ただ、それだけのこと。
自分が生まれた日付など覚えていなくても、世界には何の影響も無い。
それでも地上に太陽は惜しみなく降り注ぐし、花は色とりどりに咲き乱れ、鳥は美しい声で高らかに歌う。
そして、自分は今もこうしてつつがなく生きている。
だから、カミュの誕生日はいつかとミロが訊いてきたとき、ようやく日頃の修練の成果を発揮できることに安堵しつつ、素っ気無く答えたのだ。
「知らない」
たった一言。
練習どおり、完璧にやってのけた。
眉一つ動かさず、視線をそらすこともなく、声が上擦ることもなく。
予想されるあらゆる事態に備えて事前に対応策を講じておくのは、戦略の基本だ。
今回も、こんな日常の一こまとはいえ、学んだことを実践できるのが嬉しい。
質問を投げかけてきたミロは、僕の答えを理解できなかったのか、ぽかんと口を開けて呆けていた。
このミロの表情も、予想していた通りだ。
おそらく次には、何故自分の誕生日を知らないのかと、顔中に疑問符を貼り付けて僕を質問責めにするのだろう。
「え、え? だって、自分の誕生日だよ。何で知らないの? 毎年、誕生日には、おめでとうってお祝いしてもらって、それから……」
大きな蒼い瞳を更に落っこちそうな程に見開いて、身を乗り出したミロは懸命に言い募る。
まさに予期した通りの反応だ。
目の前の彼の表情が余りに予想と違わないために、これは僕の脳内での予行演習の続きだろうかとの錯覚さえ覚える程だ。
ミロにとっては、にわかに信じがたいことなのだろう。
聖域に来るまでの彼の思い出話を聞くと、それも無理はなかった。
彼にとって誕生日とは、皆に祝福される幸せな一日なのだ。
そんな大切で特別な日なら、どう忘れようとしたって忘れられっこない。
そして、彼の短所の一つは、自分の価値観は他者にも当然当てはまると信じて疑いもしないことだ。
皆が皆、彼のように家族に愛されて幸せに暮らしてきたわけではない。
少なくとも、僕は、違う。
そういった耳に優しくない事実を突きつけるのは無邪気な彼には酷かもしれなかったが、仕方がないことだと割り切ろうと思った。
どうしても自分が抱いてしまう、羨望、という感情を切り捨てるには、そうするしかない。
胸の内を覗かせないよう、瞳に精一杯力を込めて無表情を貫くと、僕はミロを見返した。
「誕生日を祝ってもらったこと、ないから」
淡々と事実だけを告げる僕の言葉に、唇をわずかに尖らせたミロは、ぎゅっと両の手を握り締めた。
関節が白く浮き出ているところを見ると、よほど力を込めて握っているのだろう。
きっと今頃、訊いてはならない質問をしたと後悔しているはずだ。
これも、予想通り。
これで二度と、こんな馬鹿げた質問をしてくることはあるまい。
根は善良で、しかも妙なところで熱くなる彼のことだ。
上手くすれば、僕の前で誕生日の話題をしないようにと、他の聖闘士たちにもふれ回ってくれるかもしれない。
同情を受けるのは嫌いだが、適当な日を誕生日と偽ってごまかし続ける方が、はるかに苦痛だ。
そもそもキリストでもない普通の人間の誕生日を祝う習慣があることですら、聖域に来て初めて知ったのだ。
それを不幸だと思ったことなど、一度もない。
それなら事実を伝えてしまった方がいい。
その上で、憐れみを含んだ言葉や配慮など必要ないと、きっぱりとはねつけてしまえばいい。
こう考えた僕の思考過程に誤りは無いはずだ。
ミロの性格を考慮に入れて周到に構築した理論によると、この話題はここで打ち切られるという結論が導き出されていた。
その、予定だった。
それなのに。
僕は自分の目を疑った。
ここに鏡があったなら、ひょっとしたら、さっきまでのミロと同じくらい驚いた顔をした自分を見たかもしれない。
それくらい眼前の光景は衝撃的だった。
ミロが、泣いていた。
瞳の蒼がそのまま水滴になって溶け出してしまったように、ぼろぼろぼろぼろ大粒の涙が次から次へと零れだす。
何の前触れもなく振り出したいつ止むともわからない涙の雨は、僕の視線を釘付けにして離さなかった。
「……なぜ泣く?」
ミロのこんな反応は全く想定外の事態だ。
突然の彼の涙の理由も自分がとるべき最善の対応もわからず、僕は小さな声で恐る恐る質してみた。
「だって……」
依然として泣きじゃくりながら、ミロは何事か口の中で呟いていた。
俯くミロの口元に耳を寄せてみると、かろうじてか細い声が聞き取れる。
耳に飛び込んできた台詞は、不可思議なものだった。
「だって、誕生日をお祝いしてもらったことないなんて、そんなの寂しすぎるよ」
僕の耳にはそう聞こえた。
おそらく聞き間違えたのだろう。
そんな馬鹿馬鹿しい理由で、聖闘士たる者が泣くはずもない。
それも、他人の事、なのに。
僕は、じっとミロをみつめた。
どうしたらよいのか見当もつかず、どこかの栓が壊れたように泣き続けるミロを、ただ見守ることしかできなかった。
ミロは、嫌いだ。
時折、僕の予想を裏切って突拍子もないことをしでかすから。
綿密に計算しつくされたはずの行動原理を木っ端微塵に粉砕されて、その度に途方に暮れる自分も嫌い。
現に今も、僕はミロの涙を止める術を、何一つ考え出せないでいるのだ。
そうして無力感に打ちのめされている僕と反比例するかのように、散々涙を流したミロは、いつのまにか落ち着きを取り戻しつつあるらしい。
しゃくりあげる声が次第に小さくなり、頬を伝い落ちる涙の量も少なくなってきた。
やがて、拳でぐいと涙を拭うと、ミロは勢いよく顔を上げた。
「よし、決めた!」
「……何を?」
質問ばかりしている自分が馬鹿みたいだが、ミロの意図するところがさっぱりわからないのだから仕方がない。
努めて平静を装いつつ尋ねると、ミロはにこりと笑った。
ついさっきまで大泣きしていた人物とも思えない、希望に満ちた明るい笑顔。
気遣ってやるまでもなく、ミロはもうこんなに元気になっている。
突如泣き出した彼をどう慰めようかと心を砕いていたことを、僕は一瞬激しく後悔した。
そんな僕の内心も知らぬげに、ミロは陽気に言葉を続けた。
「カミュの誕生日はいつか、教皇に訊いてくる。星の位置だとかなんとかで、きっと教皇ならわかるって!」
「……え?」
「じゃ、行ってくるね!」
「ちょっと待て……!」
長い髪をふわりとなびかせて駆け出そうとするミロの服の端をつかみ、僕は必死で彼を止めた。
ミロの無鉄砲さは、ある意味脅威だ。
女神の名の下全聖闘士を統べる教皇に、こんなつまらないことで突撃をかけようとする者など、聖域中を捜しても彼しかいまい。
血相を変えて追いすがる僕に、ミロは不思議そうに小首を傾げた。
「どうしたの? 何で止めるの?」
……何故わからない?
そう言いたくなるのをぐっと堪え、僕は彼の行動を阻止する効果的な言葉をぶつけてやろうと口を開いた。
が、その台詞は音になる前に喉奥で消えた。
僕が言葉を発するよりも、ミロの方が早かったのだ。
「カミュの誕生日がいつかわかんなきゃ、お祝いできないじゃん」
今年も、来年も、これからずっと、僕がカミュの誕生日をお祝いしてあげるから。
そう言って、ミロは笑った。
黄金色の髪のきらめきを反映したような眩しいほどの笑みを浮かべ、まっすぐに僕をみつめる。
これほどにこにこと幸せそうな笑顔を向けられると、見ているこちらが恥ずかしい。
いたたまれなくなった僕は下を向き、握ったままだったミロの服の裾をそっと放した。
やっぱり、ミロは嫌いだ。
無分別で、単純で、あまりに素直で。
おまけに、僕の感情を遠慮の欠片もなく波立たせる。
その結果、感情を律そうとする努力も空しく、僕は情けないほどにうろたえてしまうのだ。
不意に目の奥が熱くなり、僕は奥歯を噛みしめた。
何だろう、これは。
ついぞ味わったことのない生体反応。
息が詰まるように苦しくて、胸がしくしくと痛い。
まさか、この僕が、泣いている?
ぼんやりと霞みだした視界が不快でますます視線を落とすと、向かい合って立つミロの足先が見えた。
このまま僕の異変に気づかずに、教皇の元なりどこへなりと行ってくれ。
垣間見えるミロの爪先に向かって、僕は心中ひそかに念じた。
しかし、いつものことながら、ミロは僕の願い通りには行動してくれない。
それどころか、まるで嫌がらせのように、最もしてほしくない行為を選択するのだ。
「ねえ、泣いてるの? もしかして、お腹痛い?」
折角泣き顔を見られないように顔を背けているのに、そんなことにもお構いないようで、彼は下からわざわざ僕の顔を覗き込んできた。
心配そうに見上げてくる蒼い瞳が、相変わらず霧に包まれたようにぼやけた視界の中で、道標のように輝いて見える。
それはとても綺麗なのだけれど、その双眸にみつめられると、どうにも落ち着かなかった。
何でもいい。
何か答えないことには、彼は僕を解放してくれないだろう。
焦った僕の口から、思わず声が出ていた。
「……違う」
「じゃ、どうして?」
「……ミロのせいだ」
「え、僕、何か悪いことした?」
眉をひそめたミロは、途端に顔を曇らせた。
山の天気よりも変わりやすい彼の表情の推移に、僕はほんの少しだけ罪悪感を抱いた。
彼の泣き顔も憂い顔も、全て僕の言葉が原因だ。
何とか彼にいつもの笑顔を、彼に一番似合う表情を取り戻させてやりたかった。
とはいえ、こんなにとめどなく涙が溢れてくる今の自分の状態では、事態の解決方法としてあまり難しいことは考えられない。
そうかといって、真相は決して告げられるものではない。
カミュの誕生日を祝ってあげる。
そのミロの一言が泣きたくなるほど嬉しかったのだなどと、恥ずかしくて口が裂けても言えるものか。
だから、僕は必死にごまかす手段を考えた。
考えて考えて、頭が痛くなるほど考えているうちに、ふとした思い付きが心を過ぎる。
僕は、咄嗟にその嘘にすがりついた。
「……ミロが泣いたから。涙は、うつるんだよ。風邪みたいに」
もらい泣きということもあるのだから、あながち偽りとも言えないかもしれない。
ただ、少なくとも今の状態を正確には言い表してはいないことは、僕が一番よく知っていた。
それしか思いつかなかったとはいえあまりに愚か過ぎる台詞に、抑えきれずに羞恥心が湧き起こる。
涙とは別の理由で顔が赤くなった僕に、それでもミロは無邪気に微笑んでくれた。
「そうなんだ。カミュっていろんなこと知ってるんだね。やっぱり頭いいや」
嫌味にも聞こえる発言だが、どうやらその表情を見る限り、ミロは本気で感心してくれているようだ。
とりあえず、助かった、らしい。
緊張し過ぎたのだろう。拍子抜けした僕は一気に脱力した。
あまりの虚脱状態に足の力がすとんと抜け、床にしゃがみこみたくなる。
だが、そうさせてはもらえなかった。
ふらりと身体がかしぐと同時に、腕を伸ばしたミロが、僕をしっかりと抱きとめていたのだ。
僕の背にぎゅっと腕を廻したミロは、いつも賑やかな彼らしくもなく、耳元で穏やかに囁いた。
「ごめん。僕はもう泣かないから、カミュも泣かないで」
そう言いながら、ミロの手が静かに僕の頭を撫でた。
まるで幼い子供をあやすように、優しく優しく、そっと僕の髪を梳きとる。
同い年のミロに子供扱いされるなんて、不愉快極まりない。
普段の僕なら、激昂して彼を突き飛ばしていたはずだ。
でも、なぜか今はそうする気にはなれなかった。
どういうわけだか、髪を滑るミロの小さな手が心地よくて、振りほどくことができなかった。
僕はミロの肩口に顔を埋めたまま、しばらくじっとしていた。
ミロの身体は温かくて、こうしてぴったりとくっついているとほっとする。
肌を通して伝わってくる彼の心音の響きに耳を傾けながら、僕は自分の鼓動をそれに重ねようと、静かに呼吸を繰り返していた。
涙は、いつのまにか乾きつつあった。
数日後、教皇に愚問を呈した向こう見ずな黄金聖闘士がいたらしい。
そしてそれ以来、二月七日は、僕の特別な日となった。