2006 カミュ誕
ミロの我侭に振り回されるのはいつものことだった。
もっとも彼に言わせるとそれはお互いさまらしいのだが、少なくとも私の認識では、日常の些細な出来事で衝突したとき、結局我が意を通すのは常にミロの方だ。
今回も同様。
いや、今の私は少々立場が弱いため、いつも以上に、と言うべきだろうか。
何をするでもなくただ長椅子にもたれる姿勢を強いられるという苦痛にさらされつつ、私は密かに小さな溜息をついていた。
幼馴染からそのままずるずると腐れ縁を続けている私達は、幼い頃からずっと互いの誕生日を二人で一緒に祝ってきた。
しかし、この習慣も今年限りで終わりを告げる。
一方的にそう宣言したのは、私だった。
弟子の育成のためシベリアに赴いた以上、誕生日だからと暢気に聖域に帰るわけにはいかないし、だからといって修行地までミロに能天気に遊びに来られても迷惑だ。
もう子供ではないのだし、誕生日だからと大げさに祝う必要もない。
心の中で祝いの言葉でも述べておいてくれれば、それで充分。
祝ってもらう当の本人がそう言うのだから何ら不都合はないと、そう思ったのだ。
私は至極真っ当なことを言っているはずであったし、今でもその意識に変わりはない。
だが、残念ながらミロにはなかなか納得してもらえず、彼はすっかり機嫌を損ねてしまっていた。
公務という正当な理由があるというのに、どうしてミロは我侭を言って私を困らせるのだろう。
幼い弟子よりもはるかに聞き分けのないミロに苛立ちを覚えないでもなかったが、その一方で、それだけ誕生日を共に過ごそうと楽しみにしてくれていたという彼の気持ちのありがたさも、少しはわかるような気もした。
だからその妥協策として、私はいまだかつてないほどの厚遇をミロに申し出た。
定例報告のため聖域に戻る機会を利用し、貴重な時間をミロに捧げることにしてやったのだ。
誕生日を共に過ごすことはできないが、その埋め合わせに、この数時間だけは何なりとミロの希望を叶えてやろう。
私がおもむろにそう告げると、ミロは余程驚いたのか、言葉もなくただ蒼い瞳を見開いた。
無論私にできる範囲内でという留保付ではあるものの、日頃寛大さとはほど遠い私にしては破格の待遇なのだから、当然と言えば当然だろう。
そして、その結果がこれだ。
与えられた時間の処し方をしばらく案じていたミロは、やがてにやりと口の端を持ち上げると悪戯な瞳で私を見た。
何かを企むその瞳の輝きに、どんな無理難題を押し付けられるのかと戦々恐々と続く言葉を待った私は、やがて先程のミロ以上に驚かされることとなる。
「……それが、本当におまえの希望なのか?」
否定の返事を期待しつつ恐る恐る問い返した私に、ミロは満面の笑みで頷いてみせた。
「ああ。じゃ、時間もったいないし、早速取り掛かるかな」
いそいそと別室に下がったミロは、すぐに諸道具を抱えて戻ってきた。
室内をくるりと見渡し、視線を窓辺で止めると、ミロは小さく頷く。
「そこの、窓際のソファに座ってよ」
促されてもなおも躊躇い動こうとしない私に、ミロが追い討ちをかけてきた。
「カミュ、どうした? ほら、早く」
「しかし、ミロ……」
「いいじゃん、別に脱げって言ってるわけじゃないんだし」
心置きなく却下できるという意味では、いっそそう言ってくれた方がましだったかもしれない。
依然として惑う私にお構いなく手際よく準備を整えたミロは、瞳をややすがめて私を見据えた。
「俺の望みを何でも叶えてくれるんじゃなかったのか。自分の発言には責任持てよな、先生」
ぐうの音も出なかった。
まさに口は災いの元だ。
確かに、そんな要望を告げられるとは思ってもいなかったとはいえ、彼の希望を叶えると言い出したのは私自身なのだ。
原因が自分にあるだけに、忌々しさの持って行き場がないのが口惜しい。
自棄気味になった私は、ミロの希望 絵を描くからじっとして を叶えるべく、重い足を踏み出した。
落書き程度の絵なら目にしたことがあったから、ミロがそこそこ画才に恵まれていることは承知していた。
だが、彼が本格的に油絵を描くようになっているとは、ついぞ知らなかった。
私が不在の間に、彼は彼で新しいことに挑戦しようとしているのかもしれない。
自己修養に励むのは結構なことだ。
しかし、まさかその余波が私に及ぶとは思いもしなかった。
私はちらりとミロを盗み見た。
キャンバスを前にしたミロの表情はとても穏やかで、彼が楽しんで絵を描いているということが容易に見てとれる。
とはいえ、対象を観察すべくこちらに注がれる眼差しは、獲物の動きを何一つ見逃すまいとする肉食獣のように鋭くて、少し怖い。
外貌のみならず心の奥底までもミロの蒼い視線に絡み取られているような、そんな錯覚すら覚えてしまい、無性に落ち着かなくなってしまう。
動きを禁じられていることとあいまってか意味もなく気圧されてしまう自分が不愉快で、私はわざと沈黙を破ってみた。
「ミロ」
「何だ? あ、動くなよ」
「……どうにも退屈なのだが、せめて本くらい読ませてくれないか」
「我慢しろ」
すげない返事だった。
私は既に幾度目かわからなくなった溜息をついた。
何もしない、ということは、貧乏性の気のある私には存外に辛いものだった。
この時間があったなら、本の一冊でも読むことができるはずだ。
そう思うと時間を無為に消費しているような気がしていたたまれなかったが、これもミロの気持ちを踏みにじった私への罰なのかもしれないと思うと、やはり甘受せざるをえないのだろう。
他にすることもできることもなく、渋々ながらも抵抗を諦めた私はぼんやりと窓外を眺めやった。
青い青い、綺麗に晴れ渡った空が広がっていた。
常に厚い雪雲に覆われ鈍色にくすむシベリアの上空とは大違いだ。
極北の荒涼とした景色を思い浮かべると、すぐに幼い弟子の笑顔が連想される。
今頃、あの子たちはどうしているだろう。
ふとしたときに心を過ぎるのはいつのまにやら弟子のことばかりになってしまっている自分を発見し、私はかすかに苦笑いを浮かべた。
思えば、こうして心を自由気ままに浮遊させるような、何の気負いもないのんびりとした心境に至るのは久々だった。
シベリアに赴任して以来、めまぐるしい速度で月日は流れていった。
弟子の修行も慣れない家事も、我が事だけを気にかけていればよかった聖域での生活とは異なり、この数ヶ月というもの次から次へと追い立てられるように暮らしてきたような気がする。
思うようにいかない弟子の指導に気ばかり焦ってみたり、最近の私は少々余裕を欠いているのかもしれない。
時間だけがたっぷりとある今のこの状況は、期せずして自己分析のよい機会となったようだ。
空虚な一時が自省を促してくれたおかげで、今まで見過ごしてきた大切な何かを拾い上げることができたような気がする。
たまには、こうして立ち止まってみるのも悪くないものだ。
雪と氷に閉ざされた彼の地に戻ってからもこの教訓を忘れまいと、私は心ひそかに決意すると、その警句を胸にしっかりと刻み込むべく静かに瞳を閉じた。
「……起きたか」
かすかにミロの声がした。
何故だろう。彼は今、聖域にいるはずなのに。シベリアにいるはずなどないのに。
夢うつつに訝しく思うと同時に、謎は解けた。
異分子は、私の方だ。
久々に聖域に戻っていたことをすっかり忘れていた私は慌てて跳ね起き、現状を把握しようとせわしなく周囲を見渡した。
見慣れた造作は天蠍宮のそれだ。
天井近くまで届く窓から室内深く差し込む陽光は、既に冬の夕暮れ特有の穏やかな温もりを帯びていた。
ほのかに漂う溶き油の匂いに鼻腔をくすぐられ、私はようやく思い出した。
私はここで、ミロの絵のモデルをさせられていたのだった。
それなのに、同じ姿勢を取り続ける退屈さと温かい陽射しに包まれた窓辺の長椅子の心地よさに、いつのまにやら眠りこんでしまっていたらしい。
自分の犯した失態に舌打ちしつつミロを見遣ると、彼はにやにや笑いながら手にしたクロッキー帳をぱたんと閉じた。
惰眠をむさぼる私を起こしもしないで、ずっと彼は絵筆を動かし続けていたのだろうか。
無防備に眠り込む様を全て見られていたのかと思うと、途端に羞恥に顔が火照る。
気恥ずかしさに逃げ出したくなる自分を何とか誤魔化そうと、私はわざとぶっきら棒に尋ねた。
「絵は描けたのか」
「ああ、できたよ。まだ乾いてないけど」
ミロはイーゼルに据えられたままのキャンバスをうっとりと目を細めてみつめた。
「艶やかな赤、食いつきたくなるくらいいい色が出た。見る?」
「……別にいい」
「まあ、そう言うなよ」
ミロはキャンバスを手にすると、私に見えるように掲げてみせた。
自分を描いた絵など見る気も起きなかったが、ミロがあまりに嬉しそうに促すので仕方がない。
不承不承目を遣った私は、しかし、ミロの描いた絵を視界に入れるや呆気に取られてしまった。
「美味そうだろ」
けろりと言い放つミロの声に、私はちらりと視線を脇に逸らした。
テーブルの上に、たった今キャンバス上に目にしたものと同じ光景を見た。
白磁の果物鉢にうずたかく盛られた種々の果実。
その中央には艶やかな赤い林檎が、奇妙な存在感を放って鎮座していた。
訳もわからず再びミロに向き直ると、彼はお得意の口の端を吊り上げる意地の悪い笑い方で私を迎え撃った。
「……俺、カミュを描くなんて、一言も言わなかったけど?」
私は記憶を掘り起こした。
希望を叶えてやると言った私に、ミロは何と答えたのだったか。
じゃ、絵を描くから、その辺に座ってじっとしてて――。
脳裏に再現された映像が正確なものだとすれば、確かに絵の対象物について、ミロは何も口にしていなかった。
しかし、たとえそうであったとしても、あの状況では私をモチーフにするつもりなのだと解するのが自然だろう。
すっかり彼に嵌められたことに遅まきながら気づいた私は、視線で凍れとばかりにミロを冷たくねめつけた。
「では、私に動くなと言ったのは……」
「ああ、少しくらいからかってやろうと思ってな。でも、おかげでいい休息になったろ?」
次から次へと沸き起こる文句をぶつけてやろうと臨戦態勢にあった私の舌は、ミロの最後の一言に、麻酔針でも打ち込まれたようにぴたりと動きを止めた。
何かがひっかかる。
違和感の原因を突き止めようと、私は数時間前のミロとのやりとりを思い返してみた。
再会して、久闊を叙す間もなく、すぐに誕生日の過ごし方などという瑣末なことで口論になりかけ、そして……。
この一日の行動を振り返る私の耳に、「おまえ、何イライラしてんだよ」というミロの呆れ声が鮮明に甦って聞こえてきた。
その瞬間、全てを理解した。
「一足早い誕生日プレゼント、お気に召していただけたかな?」
私が事態を把握したことを察したらしく、ミロはそう言って蠱惑的に片目を瞑ると屈託なく笑ってみせた。
ゆっくりと静かに流れる時間。
それが、ミロからの誕生日祝いだった。
師という責任ある立場と自分の能力の落差に苛立ち焦り、必要以上に神経を尖らせていた近頃の私には最も欠けていたものだ。
もっとも、日々に忙殺され余裕すら失いかけていた私は、たとえミロにそう指摘されたところで聞く耳は持たなかっただろう。
さすがに長年の付き合いだけに、ミロは私をよく知っている。
どうすれば荒んだ己の危うさを上手く私に悟らせることができるか、彼は瞬時に計略を廻らせ見事にその目的を果たしたのだ。
ミロに感謝をすべきなのはわかっていた。
だが、そこで素直になれないのが、自分でも嫌気がさすほど天邪鬼な私だった。
「……随分と安上がりに済ませたものだな」
彼に礼を述べるどころか、憎まれ口がぽろりと口から零れ落ちる。
すぐに深い後悔が沸き起こってきたが、詮無きことだ。
本当はそんな嫌味など言うつもりはなかったとはいえ、一旦発せられてしまった言葉はもはや取り消しようがない。
少し哀しげに眉をひそめたミロの顔を正視できなくて、ちくちくと自己嫌悪に苛まれた私はくるりと後ろを向いた。
いつもミロは私の暴言をさらりと受け流し、その陰に隠れた意図を上手く察してくれるのだが、今回ばかりはさしもの彼も限界かもしれない。
とうとう彼に愛想を尽かされたやもしれぬという恐怖と、益体もない捻くれた自尊心とが、胸の内で激しくせめぎあう。
その戦いの結末は、呆れるほどすぐに出た。
彼に気づかれないように、私はこっそりと片手をきつく握り締めた。
皮膚に食い込む爪の痛みを味わいつつ静かに一つ深呼吸すると、感情を込めないように苦心しながら、私は何もない白い壁に向かってぼそりと呟いた。
「……仕方がないから、せめてその絵だけでも貰ってやる。きちんと額装して、二週間後、シベリアまで届けに来い」
一瞬、静寂が下りた。
だが、そんな私自身も凍ってしまいたくなるような苦悶の時も、束の間だった。
張り詰めていた緊張の糸が緩み、無意識に強張らせていた全身から力が抜けていくのをぼんやりと感じた。
おそらく、今、私の背後で、ミロは心底嬉しそうに顔を輝かせているのだろう。
辺りの空気さえもみるみる暖色に染め変えられていくような気がして、私は誰が見ている訳でもないのに殊更に渋面を作った。
「……わかった。二週間後、二月七日に、届けに行くよ」
背中越しに聞いたミロの声は、必要以上に日付を強調していた。
私が指定した期日の意味を、彼が正確に理解したという証だ。
かすかに笑いを含んだその声がどうしようもなくくすぐったくて、私はただ目の前の壁を敵か何かのように睨むことしかできなくなっていた。
ミロの我侭に振り回されるのはいつものことだった。
もっとも彼に言わせるとそれはお互いさまらしいのだが、少なくとも私の認識では、日常の些細な出来事で衝突したとき、結局我が意を通すのは常にミロの方だ。
今回も同様。
いや、今の私は少々立場が弱いため、いつも以上に、と言うべきだろうか。
何をするでもなくただ長椅子にもたれる姿勢を強いられるという苦痛にさらされつつ、私は密かに小さな溜息をついていた。
幼馴染からそのままずるずると腐れ縁を続けている私達は、幼い頃からずっと互いの誕生日を二人で一緒に祝ってきた。
しかし、この習慣も今年限りで終わりを告げる。
一方的にそう宣言したのは、私だった。
弟子の育成のためシベリアに赴いた以上、誕生日だからと暢気に聖域に帰るわけにはいかないし、だからといって修行地までミロに能天気に遊びに来られても迷惑だ。
もう子供ではないのだし、誕生日だからと大げさに祝う必要もない。
心の中で祝いの言葉でも述べておいてくれれば、それで充分。
祝ってもらう当の本人がそう言うのだから何ら不都合はないと、そう思ったのだ。
私は至極真っ当なことを言っているはずであったし、今でもその意識に変わりはない。
だが、残念ながらミロにはなかなか納得してもらえず、彼はすっかり機嫌を損ねてしまっていた。
公務という正当な理由があるというのに、どうしてミロは我侭を言って私を困らせるのだろう。
幼い弟子よりもはるかに聞き分けのないミロに苛立ちを覚えないでもなかったが、その一方で、それだけ誕生日を共に過ごそうと楽しみにしてくれていたという彼の気持ちのありがたさも、少しはわかるような気もした。
だからその妥協策として、私はいまだかつてないほどの厚遇をミロに申し出た。
定例報告のため聖域に戻る機会を利用し、貴重な時間をミロに捧げることにしてやったのだ。
誕生日を共に過ごすことはできないが、その埋め合わせに、この数時間だけは何なりとミロの希望を叶えてやろう。
私がおもむろにそう告げると、ミロは余程驚いたのか、言葉もなくただ蒼い瞳を見開いた。
無論私にできる範囲内でという留保付ではあるものの、日頃寛大さとはほど遠い私にしては破格の待遇なのだから、当然と言えば当然だろう。
そして、その結果がこれだ。
与えられた時間の処し方をしばらく案じていたミロは、やがてにやりと口の端を持ち上げると悪戯な瞳で私を見た。
何かを企むその瞳の輝きに、どんな無理難題を押し付けられるのかと戦々恐々と続く言葉を待った私は、やがて先程のミロ以上に驚かされることとなる。
「……それが、本当におまえの希望なのか?」
否定の返事を期待しつつ恐る恐る問い返した私に、ミロは満面の笑みで頷いてみせた。
「ああ。じゃ、時間もったいないし、早速取り掛かるかな」
いそいそと別室に下がったミロは、すぐに諸道具を抱えて戻ってきた。
室内をくるりと見渡し、視線を窓辺で止めると、ミロは小さく頷く。
「そこの、窓際のソファに座ってよ」
促されてもなおも躊躇い動こうとしない私に、ミロが追い討ちをかけてきた。
「カミュ、どうした? ほら、早く」
「しかし、ミロ……」
「いいじゃん、別に脱げって言ってるわけじゃないんだし」
心置きなく却下できるという意味では、いっそそう言ってくれた方がましだったかもしれない。
依然として惑う私にお構いなく手際よく準備を整えたミロは、瞳をややすがめて私を見据えた。
「俺の望みを何でも叶えてくれるんじゃなかったのか。自分の発言には責任持てよな、先生」
ぐうの音も出なかった。
まさに口は災いの元だ。
確かに、そんな要望を告げられるとは思ってもいなかったとはいえ、彼の希望を叶えると言い出したのは私自身なのだ。
原因が自分にあるだけに、忌々しさの持って行き場がないのが口惜しい。
自棄気味になった私は、ミロの希望
落書き程度の絵なら目にしたことがあったから、ミロがそこそこ画才に恵まれていることは承知していた。
だが、彼が本格的に油絵を描くようになっているとは、ついぞ知らなかった。
私が不在の間に、彼は彼で新しいことに挑戦しようとしているのかもしれない。
自己修養に励むのは結構なことだ。
しかし、まさかその余波が私に及ぶとは思いもしなかった。
私はちらりとミロを盗み見た。
キャンバスを前にしたミロの表情はとても穏やかで、彼が楽しんで絵を描いているということが容易に見てとれる。
とはいえ、対象を観察すべくこちらに注がれる眼差しは、獲物の動きを何一つ見逃すまいとする肉食獣のように鋭くて、少し怖い。
外貌のみならず心の奥底までもミロの蒼い視線に絡み取られているような、そんな錯覚すら覚えてしまい、無性に落ち着かなくなってしまう。
動きを禁じられていることとあいまってか意味もなく気圧されてしまう自分が不愉快で、私はわざと沈黙を破ってみた。
「ミロ」
「何だ? あ、動くなよ」
「……どうにも退屈なのだが、せめて本くらい読ませてくれないか」
「我慢しろ」
すげない返事だった。
私は既に幾度目かわからなくなった溜息をついた。
何もしない、ということは、貧乏性の気のある私には存外に辛いものだった。
この時間があったなら、本の一冊でも読むことができるはずだ。
そう思うと時間を無為に消費しているような気がしていたたまれなかったが、これもミロの気持ちを踏みにじった私への罰なのかもしれないと思うと、やはり甘受せざるをえないのだろう。
他にすることもできることもなく、渋々ながらも抵抗を諦めた私はぼんやりと窓外を眺めやった。
青い青い、綺麗に晴れ渡った空が広がっていた。
常に厚い雪雲に覆われ鈍色にくすむシベリアの上空とは大違いだ。
極北の荒涼とした景色を思い浮かべると、すぐに幼い弟子の笑顔が連想される。
今頃、あの子たちはどうしているだろう。
ふとしたときに心を過ぎるのはいつのまにやら弟子のことばかりになってしまっている自分を発見し、私はかすかに苦笑いを浮かべた。
思えば、こうして心を自由気ままに浮遊させるような、何の気負いもないのんびりとした心境に至るのは久々だった。
シベリアに赴任して以来、めまぐるしい速度で月日は流れていった。
弟子の修行も慣れない家事も、我が事だけを気にかけていればよかった聖域での生活とは異なり、この数ヶ月というもの次から次へと追い立てられるように暮らしてきたような気がする。
思うようにいかない弟子の指導に気ばかり焦ってみたり、最近の私は少々余裕を欠いているのかもしれない。
時間だけがたっぷりとある今のこの状況は、期せずして自己分析のよい機会となったようだ。
空虚な一時が自省を促してくれたおかげで、今まで見過ごしてきた大切な何かを拾い上げることができたような気がする。
たまには、こうして立ち止まってみるのも悪くないものだ。
雪と氷に閉ざされた彼の地に戻ってからもこの教訓を忘れまいと、私は心ひそかに決意すると、その警句を胸にしっかりと刻み込むべく静かに瞳を閉じた。
「……起きたか」
かすかにミロの声がした。
何故だろう。彼は今、聖域にいるはずなのに。シベリアにいるはずなどないのに。
夢うつつに訝しく思うと同時に、謎は解けた。
異分子は、私の方だ。
久々に聖域に戻っていたことをすっかり忘れていた私は慌てて跳ね起き、現状を把握しようとせわしなく周囲を見渡した。
見慣れた造作は天蠍宮のそれだ。
天井近くまで届く窓から室内深く差し込む陽光は、既に冬の夕暮れ特有の穏やかな温もりを帯びていた。
ほのかに漂う溶き油の匂いに鼻腔をくすぐられ、私はようやく思い出した。
私はここで、ミロの絵のモデルをさせられていたのだった。
それなのに、同じ姿勢を取り続ける退屈さと温かい陽射しに包まれた窓辺の長椅子の心地よさに、いつのまにやら眠りこんでしまっていたらしい。
自分の犯した失態に舌打ちしつつミロを見遣ると、彼はにやにや笑いながら手にしたクロッキー帳をぱたんと閉じた。
惰眠をむさぼる私を起こしもしないで、ずっと彼は絵筆を動かし続けていたのだろうか。
無防備に眠り込む様を全て見られていたのかと思うと、途端に羞恥に顔が火照る。
気恥ずかしさに逃げ出したくなる自分を何とか誤魔化そうと、私はわざとぶっきら棒に尋ねた。
「絵は描けたのか」
「ああ、できたよ。まだ乾いてないけど」
ミロはイーゼルに据えられたままのキャンバスをうっとりと目を細めてみつめた。
「艶やかな赤、食いつきたくなるくらいいい色が出た。見る?」
「……別にいい」
「まあ、そう言うなよ」
ミロはキャンバスを手にすると、私に見えるように掲げてみせた。
自分を描いた絵など見る気も起きなかったが、ミロがあまりに嬉しそうに促すので仕方がない。
不承不承目を遣った私は、しかし、ミロの描いた絵を視界に入れるや呆気に取られてしまった。
「美味そうだろ」
けろりと言い放つミロの声に、私はちらりと視線を脇に逸らした。
テーブルの上に、たった今キャンバス上に目にしたものと同じ光景を見た。
白磁の果物鉢にうずたかく盛られた種々の果実。
その中央には艶やかな赤い林檎が、奇妙な存在感を放って鎮座していた。
訳もわからず再びミロに向き直ると、彼はお得意の口の端を吊り上げる意地の悪い笑い方で私を迎え撃った。
「……俺、カミュを描くなんて、一言も言わなかったけど?」
私は記憶を掘り起こした。
希望を叶えてやると言った私に、ミロは何と答えたのだったか。
じゃ、絵を描くから、その辺に座ってじっとしてて――。
脳裏に再現された映像が正確なものだとすれば、確かに絵の対象物について、ミロは何も口にしていなかった。
しかし、たとえそうであったとしても、あの状況では私をモチーフにするつもりなのだと解するのが自然だろう。
すっかり彼に嵌められたことに遅まきながら気づいた私は、視線で凍れとばかりにミロを冷たくねめつけた。
「では、私に動くなと言ったのは……」
「ああ、少しくらいからかってやろうと思ってな。でも、おかげでいい休息になったろ?」
次から次へと沸き起こる文句をぶつけてやろうと臨戦態勢にあった私の舌は、ミロの最後の一言に、麻酔針でも打ち込まれたようにぴたりと動きを止めた。
何かがひっかかる。
違和感の原因を突き止めようと、私は数時間前のミロとのやりとりを思い返してみた。
再会して、久闊を叙す間もなく、すぐに誕生日の過ごし方などという瑣末なことで口論になりかけ、そして……。
この一日の行動を振り返る私の耳に、「おまえ、何イライラしてんだよ」というミロの呆れ声が鮮明に甦って聞こえてきた。
その瞬間、全てを理解した。
「一足早い誕生日プレゼント、お気に召していただけたかな?」
私が事態を把握したことを察したらしく、ミロはそう言って蠱惑的に片目を瞑ると屈託なく笑ってみせた。
ゆっくりと静かに流れる時間。
それが、ミロからの誕生日祝いだった。
師という責任ある立場と自分の能力の落差に苛立ち焦り、必要以上に神経を尖らせていた近頃の私には最も欠けていたものだ。
もっとも、日々に忙殺され余裕すら失いかけていた私は、たとえミロにそう指摘されたところで聞く耳は持たなかっただろう。
さすがに長年の付き合いだけに、ミロは私をよく知っている。
どうすれば荒んだ己の危うさを上手く私に悟らせることができるか、彼は瞬時に計略を廻らせ見事にその目的を果たしたのだ。
ミロに感謝をすべきなのはわかっていた。
だが、そこで素直になれないのが、自分でも嫌気がさすほど天邪鬼な私だった。
「……随分と安上がりに済ませたものだな」
彼に礼を述べるどころか、憎まれ口がぽろりと口から零れ落ちる。
すぐに深い後悔が沸き起こってきたが、詮無きことだ。
本当はそんな嫌味など言うつもりはなかったとはいえ、一旦発せられてしまった言葉はもはや取り消しようがない。
少し哀しげに眉をひそめたミロの顔を正視できなくて、ちくちくと自己嫌悪に苛まれた私はくるりと後ろを向いた。
いつもミロは私の暴言をさらりと受け流し、その陰に隠れた意図を上手く察してくれるのだが、今回ばかりはさしもの彼も限界かもしれない。
とうとう彼に愛想を尽かされたやもしれぬという恐怖と、益体もない捻くれた自尊心とが、胸の内で激しくせめぎあう。
その戦いの結末は、呆れるほどすぐに出た。
彼に気づかれないように、私はこっそりと片手をきつく握り締めた。
皮膚に食い込む爪の痛みを味わいつつ静かに一つ深呼吸すると、感情を込めないように苦心しながら、私は何もない白い壁に向かってぼそりと呟いた。
「……仕方がないから、せめてその絵だけでも貰ってやる。きちんと額装して、二週間後、シベリアまで届けに来い」
一瞬、静寂が下りた。
だが、そんな私自身も凍ってしまいたくなるような苦悶の時も、束の間だった。
張り詰めていた緊張の糸が緩み、無意識に強張らせていた全身から力が抜けていくのをぼんやりと感じた。
おそらく、今、私の背後で、ミロは心底嬉しそうに顔を輝かせているのだろう。
辺りの空気さえもみるみる暖色に染め変えられていくような気がして、私は誰が見ている訳でもないのに殊更に渋面を作った。
「……わかった。二週間後、二月七日に、届けに行くよ」
背中越しに聞いたミロの声は、必要以上に日付を強調していた。
私が指定した期日の意味を、彼が正確に理解したという証だ。
かすかに笑いを含んだその声がどうしようもなくくすぐったくて、私はただ目の前の壁を敵か何かのように睨むことしかできなくなっていた。