2006 April fool
十二宮の階段に差し掛かった頃から、俺の宮に招いてもいない客が断りもなく入り込んでいるのはわかっていた。
一緒に飲みに繰り出していたデスマスクが、「ま、ヨロシク言っといてくれ」とからかうように俺の背をどやしつける。
腹立たしいが、早々に自宮に辿り着いてしまう奴にしてみれば所詮他人事なのだ。
その楽しそうな声に見送られ、思い切り顔をしかめた俺はひたすら階段を上り続けた。
宮を一つ通り過ぎるにつれ、心なしか空気が冷え込む。
原因を標高の変化に求めるのは自己欺瞞にすぎないとわかっていた。
自分の宮だというのに「お邪魔します」と言いたい気分で、忍び込むようにそろそろと扉を開ける。
「……遅かったな」
間髪入れずに聞き慣れた声がした。
「あー、来てたんだー。久しぶりだなー、カミュ」
台本を読み上げるような棒読み声がかすかに上擦っているのに気づいたのか気づいていないのか、カミュは平然と頷くとグラスを掲げてみせた。
「悪いが、勝手にやらせてもらっている」
悪いだなんて、そんな健気なこと少っしも思ってないくせに、白々しい。
きっと奴の中の『状況に応じた会話マニュアル』から、良さげな台詞を引っ張り出してきてみただけなのだ。
それが証拠に、あいつが美味そうに喉を潤しているのは、俺の取って置きのシャトー・ラトゥール。
ワインセラーの奥底にわざわざ隠しておいた瓶を目ざとくみつけて開けてるあたりが、その殊勝な台詞の誠意を激しく疑わせる。
とはいえ、そろそろカミュが聖域に帰ってくる時期だというのを見越したうえで外出していた俺は、どうしても強気になりきれなかった。
いつもいつも、カミュは気紛れのようにふらりと帰ってくる。
俺がカミュの帰りを焦れるほどに待ち望んでいるというのに、いつだってカミュは何の前触れもなくやって来ては涼しい顔をして去っていく。
そうして常に主導権を取られているのが悔しくて、だから、たまには待つ気分を味わわせてやろうと、俺は殊更に今夜ささやかな嫌がらせのように出かけていたのだ。
そんな屈折した思いに気づかせるのも癪だったから、俺は全く気にしていない風を装い笑ってみせた。
「ああ、つまみは? 冷蔵庫の中に何かあったかな」
俺はカミュに背を向け、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
あまり中身が充実しているとはいえない庫内から冷気が漂ってくる。
鼻先がほんの少しひんやりと冷えるような気がしたときだった。
来た。
俺は小さく溜息をついた。
冷蔵庫に向かっていない背中がふわりと温かさに包まれた。
背後からするりと伸びてきた腕が、俺の前できつく組み合わされる。
俺は肩口に乗せられた紅い頭を横目でちらりと見た。
「……なに? 食欲じゃなくて性欲なわけ?」
「いや、食欲だ」
この密着した体勢でこの冷静な声音というのが不思議になるほど淡々と呟きながら、カミュは俺の髪に顔を埋め首筋に甘く歯を立てる。
「蠍の活き造りが食べたい」
「……ここで?」
カミュらしくもない性急さに、俺は少しうろたえた。
「散々待たされたからな」
おまえが待ったのはたかだか数時間だろうが、と、憎まれ口が舌の先まで出かかった。
こっちはいつも数日、数週間、ときには数ヶ月もおあずけを喰わされ、シベリアに行ったきり帰ってこないカミュはひょっとして俺を忘れてしまったのだろうかと、益体もない不安に駆られているというのに。
だが、少しでも口を開いたなら、そんな抗議の声どころか、カミュを喜ばせるような情欲に駆られた甘ったるい吐息しか出なくなりそうで、俺はただ唇を噛みしめるしかなかった。
その沈黙を同意ととったか、カミュの指が俺の服の合間から器用に滑り込んでくる。
そろりそろりと肌を撫でる指の冷たさに一瞬身が竦んだが、すぐにそのくすぐったいような感触に脳内麻薬がどくどくと音を立てて流れ出ていくのがわかった。
艶めいた誘惑にふらふらと吸い寄せられていく自分を抑えられなくなるのも、時間の問題だろう。
せめて今日くらいは焦らしてやろうと思っていたのに、結局カミュにいいように翻弄されるしかない自分にはほとほと呆れる。
どうせ、硬い床を背にするのも、あとで床を掃除するのも、全て俺だ。
ずるずると床に組み敷かれながらも、それでもささやかな抵抗とばかりに、俺は開いたままの冷蔵庫の扉を軽く蹴った。
ぱたんと扉が閉まるのを耳だけで確認すると、俺は間近に迫るカミュの瞳を見据えてにやりと笑ってやった。
「……待機時間が長かったってことは、それだけ期待してもいいんだろうな?」
「おまえが私を待たせたという謝意をどう表してくれるかにもよるな」
やはりにやりと口角を引き上げたカミュの表情は、ぞくぞくするほど色っぽい。
より惚れた方が恋愛では優位を占めるというならば、俺は永久にカミュを振り回すことなどできっこないのだろう。
カミュはずるいよな、などとぼんやりと思いつつ、俺は渋々ながらも瞳を閉じてやることにした。
十二宮の階段に差し掛かった頃から、俺の宮に招いてもいない客が断りもなく入り込んでいるのはわかっていた。
一緒に飲みに繰り出していたデスマスクが、「ま、ヨロシク言っといてくれ」とからかうように俺の背をどやしつける。
腹立たしいが、早々に自宮に辿り着いてしまう奴にしてみれば所詮他人事なのだ。
その楽しそうな声に見送られ、思い切り顔をしかめた俺はひたすら階段を上り続けた。
宮を一つ通り過ぎるにつれ、心なしか空気が冷え込む。
原因を標高の変化に求めるのは自己欺瞞にすぎないとわかっていた。
自分の宮だというのに「お邪魔します」と言いたい気分で、忍び込むようにそろそろと扉を開ける。
「……遅かったな」
間髪入れずに聞き慣れた声がした。
「あー、来てたんだー。久しぶりだなー、カミュ」
台本を読み上げるような棒読み声がかすかに上擦っているのに気づいたのか気づいていないのか、カミュは平然と頷くとグラスを掲げてみせた。
「悪いが、勝手にやらせてもらっている」
悪いだなんて、そんな健気なこと少っしも思ってないくせに、白々しい。
きっと奴の中の『状況に応じた会話マニュアル』から、良さげな台詞を引っ張り出してきてみただけなのだ。
それが証拠に、あいつが美味そうに喉を潤しているのは、俺の取って置きのシャトー・ラトゥール。
ワインセラーの奥底にわざわざ隠しておいた瓶を目ざとくみつけて開けてるあたりが、その殊勝な台詞の誠意を激しく疑わせる。
とはいえ、そろそろカミュが聖域に帰ってくる時期だというのを見越したうえで外出していた俺は、どうしても強気になりきれなかった。
いつもいつも、カミュは気紛れのようにふらりと帰ってくる。
俺がカミュの帰りを焦れるほどに待ち望んでいるというのに、いつだってカミュは何の前触れもなくやって来ては涼しい顔をして去っていく。
そうして常に主導権を取られているのが悔しくて、だから、たまには待つ気分を味わわせてやろうと、俺は殊更に今夜ささやかな嫌がらせのように出かけていたのだ。
そんな屈折した思いに気づかせるのも癪だったから、俺は全く気にしていない風を装い笑ってみせた。
「ああ、つまみは? 冷蔵庫の中に何かあったかな」
俺はカミュに背を向け、冷蔵庫の中を覗き込んだ。
あまり中身が充実しているとはいえない庫内から冷気が漂ってくる。
鼻先がほんの少しひんやりと冷えるような気がしたときだった。
俺は小さく溜息をついた。
冷蔵庫に向かっていない背中がふわりと温かさに包まれた。
背後からするりと伸びてきた腕が、俺の前できつく組み合わされる。
俺は肩口に乗せられた紅い頭を横目でちらりと見た。
「……なに? 食欲じゃなくて性欲なわけ?」
「いや、食欲だ」
この密着した体勢でこの冷静な声音というのが不思議になるほど淡々と呟きながら、カミュは俺の髪に顔を埋め首筋に甘く歯を立てる。
「蠍の活き造りが食べたい」
「……ここで?」
カミュらしくもない性急さに、俺は少しうろたえた。
「散々待たされたからな」
おまえが待ったのはたかだか数時間だろうが、と、憎まれ口が舌の先まで出かかった。
こっちはいつも数日、数週間、ときには数ヶ月もおあずけを喰わされ、シベリアに行ったきり帰ってこないカミュはひょっとして俺を忘れてしまったのだろうかと、益体もない不安に駆られているというのに。
だが、少しでも口を開いたなら、そんな抗議の声どころか、カミュを喜ばせるような情欲に駆られた甘ったるい吐息しか出なくなりそうで、俺はただ唇を噛みしめるしかなかった。
その沈黙を同意ととったか、カミュの指が俺の服の合間から器用に滑り込んでくる。
そろりそろりと肌を撫でる指の冷たさに一瞬身が竦んだが、すぐにそのくすぐったいような感触に脳内麻薬がどくどくと音を立てて流れ出ていくのがわかった。
艶めいた誘惑にふらふらと吸い寄せられていく自分を抑えられなくなるのも、時間の問題だろう。
せめて今日くらいは焦らしてやろうと思っていたのに、結局カミュにいいように翻弄されるしかない自分にはほとほと呆れる。
どうせ、硬い床を背にするのも、あとで床を掃除するのも、全て俺だ。
ずるずると床に組み敷かれながらも、それでもささやかな抵抗とばかりに、俺は開いたままの冷蔵庫の扉を軽く蹴った。
ぱたんと扉が閉まるのを耳だけで確認すると、俺は間近に迫るカミュの瞳を見据えてにやりと笑ってやった。
「……待機時間が長かったってことは、それだけ期待してもいいんだろうな?」
「おまえが私を待たせたという謝意をどう表してくれるかにもよるな」
やはりにやりと口角を引き上げたカミュの表情は、ぞくぞくするほど色っぽい。
より惚れた方が恋愛では優位を占めるというならば、俺は永久にカミュを振り回すことなどできっこないのだろう。
カミュはずるいよな、などとぼんやりと思いつつ、俺は渋々ながらも瞳を閉じてやることにした。