2006 Christmas
そんな都合のいいことが起こるはずなどない。
それは充分過ぎるほどに承知していた。
奇蹟を期待するなど愚かで自分勝手な妄想だと、これが余人の行動ならば、わずかばかりの軽侮と憐憫と共に一笑に付したことだろう。
だが、私は岬に向かっていた。
はやる気持ちを押さえ、小宇宙を燃焼させ一瞬の内に移動してしまいたくなる誘惑を退け、ただひたすらに足を運んでいた。
クリスマスの奇蹟というものが本当に存在するのなら、私の望みは一つしかない。
一歩ごとに高鳴り行く心臓の鼓動だけを感じながら、スニオン岬に辿りつく。
私は異様に乾く唇を噛みしめつつ、岬の牢獄へと続く道とも呼べない路を下りた。
海面を滑り巻き上げた飛沫と共に、強い風が吹き付ける。
その身を切るような冷たい風は、吉兆と受け止めるにはいささか荒みすぎていた。
岸辺に下りたった私は、激しく打ち寄せる波に洗われる牢獄を恐る恐る覗き込んだ。
刻々と夕闇が迫り始めていた。
薄暗がりに支配されつつある牢獄の中には、しかし、息づく者の気配など何一つなかった。
ああ、やはり。
思わず嘆息した。
わかっていたのに。
奇蹟など起きはしないと、私が一番よく知っていたのに。
それでも万に一つの望みに縋ってしまったのは、偏に私の弱さ故だ。
異教の救世主の降誕祭を祝うべく、つい先程まで教皇に従い近隣の村々を慰問していた、その影響で、私は儚い望みへと駆り立てられた。
キリスト教の祝祭にのっとったこの慰問活動は、そもそもは女神信仰を糊塗し聖域を伝説の中に封じ込めるべく始められたものだ。
その偽装意図は成功したようで、現在となっては私たちの訪問の本来の意味を知る村人などほとんど存在しないだろう。
だから、教皇の祝福を受けようと集う村人の姿は、純粋な信仰の発露と言うにふさわしい敬虔なものだった。
その真摯な姿を目にするうちに、クリスマスの奇蹟により私までもが全ての罪を許されるような、そんな身勝手な幻想を抱いてしまったのだ。
しかし、当然のことながら奇蹟は起こらず、突如牢から姿を消した弟が戻ってくることはなかった。
我ながら何と浅はかなことだろう。
女神でさえもなしえなかったカノンの救済を、異教の救世主が叶えられるはずもない。
女神でさえも。
胸の奥がざわりと波立った。
数ヶ月前、聖域に女神が降誕した。
待望の女神降臨だったが、その御姿に拝謁した私の心を過ぎったのは、紛れもなく失望だった。
あまりに脆弱で、泣き笑うことでしかその意を伝えることすらできない幼き赤子。
聖戦までどれほどの時が与えられているのかはわからないが、果たしてそれまでに、本当にこの赤子が我らを導くほどの成長を遂げることができるのか。
この生まれたばかりの女神に全幅の信頼を寄せることが、どうしても私にはできなかった。
こうして植えられた不信の種を芽吹かせたのは、私の内なる懊悩だ。
時折、聖闘士にあるまじき悪しき誘惑が私の心を過ぎることに、しばらく前から気付いていた。
修行不足の私に課せられた試練なのだと、当初は一層の鍛練に励むことで退けられる雑念程度に考えていた。
しかし、残念ながらその成果は思わしくなく、まるで傍近くに誰かがいるのではと錯覚するほどに、声の響きは日に日に現実感を増していく。
私は次第に不安と焦燥を覚え始めた。
一人になることが恐くなった。
夜の闇に脅えるようになった。
そんな私の異変にカノンが気付いたのは、やはり血を分けた兄弟だからだろうか。
私を堕落させようとするこの不可視の者の存在は、いつしかカノンの知るところとなり、あろうことか彼はあの忌まわしき誘惑と同じ台詞を私に囁くようになった。
双子だけに、カノンの声は私とよく似ている。
繰り返し繰り返し耳にするにつれ、それはカノンの言などではなく、私自身が発する呟きのように聞こえ始めてきた。
胸の奥底の光も届かぬ深い闇の中、その存在にすら気付かないほどに巧妙に隠しおおせていた願望が、ずるりと引きずりだされ白日の下に晒されるような恐怖が私を支配する。
私が甘言を囁く弟を遠ざけたのは、当然の成り行きといえよう。
しばしの我慢だと、私は自分に言い聞かせた。
女神が降誕されたなら、全てが解決するはずだ。
この胸の内に巣食う邪念はすぐに消え去り、牢に幽閉したカノンを解放する日も程なく訪れるだろう。
そんな私の楽観的な期待は、しかし、やがて無残に打ち砕かれる。
私の状況は何も好転しなかった。
私を見捨てしまわれたように、女神は何の恩寵も与えてはくださらない。
何故に。
いくら問うても応えのない叫びが、徐々に私を蝕んでいくのがわかった。
認めがたいことだが、確かに私は女神に怨嗟の念を抱き始めていた。
キリストを裏切り磔刑に追いやったのが弟子であったように、私が、聖闘士であるこの私が、尊崇し忠誠を誓うべき女神に背こうというのだろうか。
その、何が悪い。
突如脳髄を揺るがすように響き渡る声に、心臓をいきなり氷の手に鷲掴みされたような戦慄が走った。
そう認めてしまえばよいと、躊躇う必要などないと、胸の内に囁く声が甘露のごとき響きを伴いリフレインする。
がらんとした牢獄をみつめながら、私は悄然と立ち尽くしていた。
聖域に戻った頃には、空は既に瞬く星を散りばめた闇色へと変わり、夕暮れの茜空の名残はすっかり姿を消していた。
地上に視線を落とした私は、こちらに近づいてくる小さな人影に気付いた。
天空を去った夕陽が人に身をやつしたならば、定めしこのような姿になるのだろう。
そう思ってしまうほどに鮮麗な紅髪をなびかせ、駆け寄ってくるのはカミュだ。
稚い彼は、私が心の奥に抱える闇を知らない。
彼が私に向ける眼差しには、疑いの欠片も存在しない。
カミュの紅い瞳に映る私は、あくまで優しい保護者であり尊敬する聖闘士なのだろう。
私はその役割を、完全にとはいえなくてもできる限りは果たしているつもりだった。
私は微笑を浮かべ、ますます速度を上げるカミュを抱きとめようと地に膝をついた。
広げた腕の中に、間髪いれずカミュが飛び込んでくる。
「サガ、お帰りなさい」
「ただいま、カミュ」
いつもの会話だ。
しかし、今日はいつもと違うことに、カミュはつと顔を上げ不思議そうに私の瞳を覗きこんできた。
怪訝な表情を浮かべたカミュの唇が開きかけ、躊躇うようにまた閉じる。
「……どうかしたのかい」
「……何か、あったんですか?」
じっと私をみつめるカミュの瞳には、ひどく気遣わしげな色が浮かんでいた。
「どうして」
「何だか悲しそうだから」
私は真紅の瞳に映りこむ自分の顔をみた。
稀有な色彩に染まった私の表情は、一見したところ普段と何ら変わりはなかった。
だが、カミュには、この幼い無垢な瞳には、私にはわからない何かが見えてでもいるのだろうか。
そう思い至った瞬間、背筋がぞくりと凍りついた。
もしもその仮定が正鵠を射たものならば、私の内なる邪心を彼が感じ取るのも、そう遠いことではないのかもしれない。
澄んだ紅の瞳が無性に恐くなった。
照魔鏡のようなその瞳に映し出される自分から逃れようと、私は咄嗟にカミュを抱きしめた。
「サガ……?」
「……すまない、カミュ。しばらくこうさせてもらえるかい」
わずかに声が震えるのを隠せなかった。
努めて平静を保とうと、私はカミュを抱く腕にそっと力を込めた。
と、それと呼応するように、そろそろとカミュの腕が私の背に伸びてくる。
理由もわからないままに慰めようとでもしてくれているのか、その手は何度も何度も私の背を優しく撫でた。
か細く頼りない腕が、何故だか随分と力強く私を支えていてくれるような錯覚を覚える。
私は子供特有の陽の香りのする柔らかいぬくもりに顔を埋めた。
救世主が赤子の姿で降臨する、その意味がやっとわかった。
無限の未来を宿す穢れなきその幼い身体は、希望の具現なのだ。
だから、年を経るごとに心に惑いを宿す愚かな私たちは、その眩いばかりの光明にひれ伏し縋ってしまうのだろう。
私は小さく息を吐いた。
いつも私を頼ってばかりいる幼子に救われるというのも皮肉だが、おかげで随分と気分が和らいだのは事実だった。
「カミュ」
常の落ち着きを取り戻した自分の声に安堵した私は、カミュを抱きしめる腕の力を緩めた。
「一つ、頼みがあるんだが」
「何ですか?」
平生の私に戻ったためか、カミュは安心したように甘えた瞳を向けてきた。
大丈夫だ。
もうこの瞳に脅える必要など、どこにもない。
私は微笑んだ。
「雪を、降らせてもらえるかな」
「雪……? あ、わかった、ホワイトクリスマス、ですね」
嬉しそうに笑うカミュに、私は無言で頷いた。
そう、そのカミュだけが有する氷の小宇宙で、見渡す限りを美しい銀世界に変えてほしい。
そして、全ての醜いものを、その純美たる真白い雪で覆いつくしてほしいのだ。
私の内の邪悪なる魂も含めた、厭わしき存在全てを浄化するように。
この隠された意図に、幸いカミュは少しも気付いていないようだった。
少し離れて立つカミュは、雪を降らせるべくかるく両手を広げて天を仰いでいた。
私はわずかに目を細めてカミュをみつめた。
まるで祈りを捧げるようなその姿は、一種の荘厳さすら漂わせている。
声をかけることも憚られただ黙って見守るうちに、いつの間にか私もまた誘われるように天に祈っていた。
願わくば、この先も永遠に秘したまま、私の邪見が闇に葬りさられんことを。
内心を気取られぬよう殊更に穏やかな微笑を浮かべた私の頬に、はやくも一片の雪が舞い降りる。
触れるや溶けるあえかな雪の快さに、私はそっと瞳を閉じた。
そんな都合のいいことが起こるはずなどない。
それは充分過ぎるほどに承知していた。
奇蹟を期待するなど愚かで自分勝手な妄想だと、これが余人の行動ならば、わずかばかりの軽侮と憐憫と共に一笑に付したことだろう。
だが、私は岬に向かっていた。
はやる気持ちを押さえ、小宇宙を燃焼させ一瞬の内に移動してしまいたくなる誘惑を退け、ただひたすらに足を運んでいた。
クリスマスの奇蹟というものが本当に存在するのなら、私の望みは一つしかない。
一歩ごとに高鳴り行く心臓の鼓動だけを感じながら、スニオン岬に辿りつく。
私は異様に乾く唇を噛みしめつつ、岬の牢獄へと続く道とも呼べない路を下りた。
海面を滑り巻き上げた飛沫と共に、強い風が吹き付ける。
その身を切るような冷たい風は、吉兆と受け止めるにはいささか荒みすぎていた。
岸辺に下りたった私は、激しく打ち寄せる波に洗われる牢獄を恐る恐る覗き込んだ。
刻々と夕闇が迫り始めていた。
薄暗がりに支配されつつある牢獄の中には、しかし、息づく者の気配など何一つなかった。
ああ、やはり。
思わず嘆息した。
わかっていたのに。
奇蹟など起きはしないと、私が一番よく知っていたのに。
それでも万に一つの望みに縋ってしまったのは、偏に私の弱さ故だ。
異教の救世主の降誕祭を祝うべく、つい先程まで教皇に従い近隣の村々を慰問していた、その影響で、私は儚い望みへと駆り立てられた。
キリスト教の祝祭にのっとったこの慰問活動は、そもそもは女神信仰を糊塗し聖域を伝説の中に封じ込めるべく始められたものだ。
その偽装意図は成功したようで、現在となっては私たちの訪問の本来の意味を知る村人などほとんど存在しないだろう。
だから、教皇の祝福を受けようと集う村人の姿は、純粋な信仰の発露と言うにふさわしい敬虔なものだった。
その真摯な姿を目にするうちに、クリスマスの奇蹟により私までもが全ての罪を許されるような、そんな身勝手な幻想を抱いてしまったのだ。
しかし、当然のことながら奇蹟は起こらず、突如牢から姿を消した弟が戻ってくることはなかった。
我ながら何と浅はかなことだろう。
女神でさえもなしえなかったカノンの救済を、異教の救世主が叶えられるはずもない。
女神でさえも。
胸の奥がざわりと波立った。
数ヶ月前、聖域に女神が降誕した。
待望の女神降臨だったが、その御姿に拝謁した私の心を過ぎったのは、紛れもなく失望だった。
あまりに脆弱で、泣き笑うことでしかその意を伝えることすらできない幼き赤子。
聖戦までどれほどの時が与えられているのかはわからないが、果たしてそれまでに、本当にこの赤子が我らを導くほどの成長を遂げることができるのか。
この生まれたばかりの女神に全幅の信頼を寄せることが、どうしても私にはできなかった。
こうして植えられた不信の種を芽吹かせたのは、私の内なる懊悩だ。
時折、聖闘士にあるまじき悪しき誘惑が私の心を過ぎることに、しばらく前から気付いていた。
修行不足の私に課せられた試練なのだと、当初は一層の鍛練に励むことで退けられる雑念程度に考えていた。
しかし、残念ながらその成果は思わしくなく、まるで傍近くに誰かがいるのではと錯覚するほどに、声の響きは日に日に現実感を増していく。
私は次第に不安と焦燥を覚え始めた。
一人になることが恐くなった。
夜の闇に脅えるようになった。
そんな私の異変にカノンが気付いたのは、やはり血を分けた兄弟だからだろうか。
私を堕落させようとするこの不可視の者の存在は、いつしかカノンの知るところとなり、あろうことか彼はあの忌まわしき誘惑と同じ台詞を私に囁くようになった。
双子だけに、カノンの声は私とよく似ている。
繰り返し繰り返し耳にするにつれ、それはカノンの言などではなく、私自身が発する呟きのように聞こえ始めてきた。
胸の奥底の光も届かぬ深い闇の中、その存在にすら気付かないほどに巧妙に隠しおおせていた願望が、ずるりと引きずりだされ白日の下に晒されるような恐怖が私を支配する。
私が甘言を囁く弟を遠ざけたのは、当然の成り行きといえよう。
しばしの我慢だと、私は自分に言い聞かせた。
女神が降誕されたなら、全てが解決するはずだ。
この胸の内に巣食う邪念はすぐに消え去り、牢に幽閉したカノンを解放する日も程なく訪れるだろう。
そんな私の楽観的な期待は、しかし、やがて無残に打ち砕かれる。
私の状況は何も好転しなかった。
私を見捨てしまわれたように、女神は何の恩寵も与えてはくださらない。
何故に。
いくら問うても応えのない叫びが、徐々に私を蝕んでいくのがわかった。
認めがたいことだが、確かに私は女神に怨嗟の念を抱き始めていた。
キリストを裏切り磔刑に追いやったのが弟子であったように、私が、聖闘士であるこの私が、尊崇し忠誠を誓うべき女神に背こうというのだろうか。
突如脳髄を揺るがすように響き渡る声に、心臓をいきなり氷の手に鷲掴みされたような戦慄が走った。
そう認めてしまえばよいと、躊躇う必要などないと、胸の内に囁く声が甘露のごとき響きを伴いリフレインする。
がらんとした牢獄をみつめながら、私は悄然と立ち尽くしていた。
聖域に戻った頃には、空は既に瞬く星を散りばめた闇色へと変わり、夕暮れの茜空の名残はすっかり姿を消していた。
地上に視線を落とした私は、こちらに近づいてくる小さな人影に気付いた。
天空を去った夕陽が人に身をやつしたならば、定めしこのような姿になるのだろう。
そう思ってしまうほどに鮮麗な紅髪をなびかせ、駆け寄ってくるのはカミュだ。
稚い彼は、私が心の奥に抱える闇を知らない。
彼が私に向ける眼差しには、疑いの欠片も存在しない。
カミュの紅い瞳に映る私は、あくまで優しい保護者であり尊敬する聖闘士なのだろう。
私はその役割を、完全にとはいえなくてもできる限りは果たしているつもりだった。
私は微笑を浮かべ、ますます速度を上げるカミュを抱きとめようと地に膝をついた。
広げた腕の中に、間髪いれずカミュが飛び込んでくる。
「サガ、お帰りなさい」
「ただいま、カミュ」
いつもの会話だ。
しかし、今日はいつもと違うことに、カミュはつと顔を上げ不思議そうに私の瞳を覗きこんできた。
怪訝な表情を浮かべたカミュの唇が開きかけ、躊躇うようにまた閉じる。
「……どうかしたのかい」
「……何か、あったんですか?」
じっと私をみつめるカミュの瞳には、ひどく気遣わしげな色が浮かんでいた。
「どうして」
「何だか悲しそうだから」
私は真紅の瞳に映りこむ自分の顔をみた。
稀有な色彩に染まった私の表情は、一見したところ普段と何ら変わりはなかった。
だが、カミュには、この幼い無垢な瞳には、私にはわからない何かが見えてでもいるのだろうか。
そう思い至った瞬間、背筋がぞくりと凍りついた。
もしもその仮定が正鵠を射たものならば、私の内なる邪心を彼が感じ取るのも、そう遠いことではないのかもしれない。
澄んだ紅の瞳が無性に恐くなった。
照魔鏡のようなその瞳に映し出される自分から逃れようと、私は咄嗟にカミュを抱きしめた。
「サガ……?」
「……すまない、カミュ。しばらくこうさせてもらえるかい」
わずかに声が震えるのを隠せなかった。
努めて平静を保とうと、私はカミュを抱く腕にそっと力を込めた。
と、それと呼応するように、そろそろとカミュの腕が私の背に伸びてくる。
理由もわからないままに慰めようとでもしてくれているのか、その手は何度も何度も私の背を優しく撫でた。
か細く頼りない腕が、何故だか随分と力強く私を支えていてくれるような錯覚を覚える。
私は子供特有の陽の香りのする柔らかいぬくもりに顔を埋めた。
救世主が赤子の姿で降臨する、その意味がやっとわかった。
無限の未来を宿す穢れなきその幼い身体は、希望の具現なのだ。
だから、年を経るごとに心に惑いを宿す愚かな私たちは、その眩いばかりの光明にひれ伏し縋ってしまうのだろう。
私は小さく息を吐いた。
いつも私を頼ってばかりいる幼子に救われるというのも皮肉だが、おかげで随分と気分が和らいだのは事実だった。
「カミュ」
常の落ち着きを取り戻した自分の声に安堵した私は、カミュを抱きしめる腕の力を緩めた。
「一つ、頼みがあるんだが」
「何ですか?」
平生の私に戻ったためか、カミュは安心したように甘えた瞳を向けてきた。
大丈夫だ。
もうこの瞳に脅える必要など、どこにもない。
私は微笑んだ。
「雪を、降らせてもらえるかな」
「雪……? あ、わかった、ホワイトクリスマス、ですね」
嬉しそうに笑うカミュに、私は無言で頷いた。
そう、そのカミュだけが有する氷の小宇宙で、見渡す限りを美しい銀世界に変えてほしい。
そして、全ての醜いものを、その純美たる真白い雪で覆いつくしてほしいのだ。
私の内の邪悪なる魂も含めた、厭わしき存在全てを浄化するように。
この隠された意図に、幸いカミュは少しも気付いていないようだった。
少し離れて立つカミュは、雪を降らせるべくかるく両手を広げて天を仰いでいた。
私はわずかに目を細めてカミュをみつめた。
まるで祈りを捧げるようなその姿は、一種の荘厳さすら漂わせている。
声をかけることも憚られただ黙って見守るうちに、いつの間にか私もまた誘われるように天に祈っていた。
願わくば、この先も永遠に秘したまま、私の邪見が闇に葬りさられんことを。
内心を気取られぬよう殊更に穏やかな微笑を浮かべた私の頬に、はやくも一片の雪が舞い降りる。
触れるや溶けるあえかな雪の快さに、私はそっと瞳を閉じた。