2008 カミュ誕
灰色の雲が低く空を覆っていた。
生憎の天気だ。
海原を吹き抜ける風は、行く手を遮る邪魔者を発見したと言わんばかりに砂浜にたたずむ人間を容赦なく弄る。
水気を含んでじっとりと重い浦風が全身に纏わりつく感触は、決して心地のよいものではない。
吹きすさぶ風にさらされる度、肌や髪はべたべたと粘りを帯びていき、さらには染み付いた独特の潮の香りに酔いそうになる。
気分転換を図ろうとカミュを海まで連れ出したのだが、逆効果だっただろうか。
怯えるミロの内心を読み取ったように、カミュはやんわりと頭を揺らしてみせた。
「……シベリアの海に似ているな」
「……そうか?」
「ああ。だが、不思議だな。目に映る景色はひどく似ているのに、印象としてはあそこまで寂しくはない」
一旦言葉を切ったカミュは、ミロからはるか彼方の水平線へと視線を移すとぽつりと呟いた。
「おまえが一緒にいるから、なのかもしれないな」
きっとおまえなら、私などよりももっとずっと上手くやるのだろうな。
淡々と言葉を海に投げ落とすカミュに対し、ミロは何と声をかけるべきかわからずただ沈黙を守った。
カミュの声に含まれていた感情は、妬みでも苛立ちでもない。
それならば、まだ活力の源となりうるから、まだいい。
だが、今のカミュを支配している情を一言で言うなら、諦めだ。
無力感に打ちひしがれ、カミュは一歩も足を踏み出すこともできず立ち竦んでいた。
シベリアから帰ってきて以来、ずっとそうだった。
カミュの帰還の一報を聞いた当初は、喜ばしいことだとミロは無責任に思った。
カミュが聖域に戻ってくれば、少なくとも自分は楽しい。
周囲からは幼い頃から少しも変わらぬその親密ぶりに呆れられていたが、カミュと食事を共にし他愛もない話に興じる日々に飽きたことはない。
再びカミュがシベリアに赴くまで、そんないつもの日常が続くことを疑いもしなかった。
だが、日が経つにつれ、今回は少々事情が違うらしいと嫌でも思わされることになる。
再会して既に一月近くが経つが、カミュは陰鬱な表情のまま、ろくに微笑みすらしなかったのだ。
カミュの帰還の理由は、シベリアにいる必要がなくなったから、すなわち弟子がいなくなったから、だった。
今までにも何度かあったことだ。
これまでは全て修行に耐え切れないと判断したカミュが、自らの意志で打ち切ったものだったらしい。
ところが、今回は過酷な環境に音を上げた子供が、カミュの留守中に逃げ出したのだ。
目印になるものなど何もない雪原の中、あてどもなくさまよったであろう子供をカミュがみつけたときには、既にその小さな体はすっかり冷たくなっていたという。
そんな酷な形で修行を強制的に終わらせられたカミュは、自分の指導力にすっかり自信をなくしていた。
いや、元々、自信など欠片もなかったのだ。
そもそも黄金聖闘士は、後進の育成に当たることなど期待されてはいないはずだった。
生まれながらに小宇宙に目覚めている黄金聖闘士は、やはり特殊な選ばれた存在なのだ。
眠っている小宇宙を目覚めさせる術が体感としてわからないのは当然で、そんな彼らが指導者として向いているはずがない。
弟子を取ることがあるにしても、それはあくまで黄金聖闘士自身の希望によるもので、カミュのように辞令を受けて任ぜられることなど稀だった。
カミュを厄介事に巻き込んだのは、氷の闘技を操るというその特殊性故だ。
現役の聖闘士に、氷系の小宇宙を宿す者はカミュ以外に存在しない。
来る聖戦に備え、必然的にカミュに白羽の矢が立ったのは不幸としかいえないだろう。
ミロが知るカミュは、幼い子供を指導するには不器用で真面目すぎる。
稚い子供を相手にするとなれば、鷹揚に構え遠くから見守るくらいの余裕が必要だろうが、生憎とカミュにはそんな気楽な資質が欠けていた。
指導に全身全霊を傾けるが故に、思うように成果を上げられないとなれば、味わう必要もない焦りと自己嫌悪に苛まれてしまう。
それが自分ばかりか弟子までも苦しめると気付きつつも、逃れる術もない罠にはまったように悪循環を繰り返す。
ちょうど、今のカミュのように。
痛々しげにみつめるミロと視線を合わせることなく、カミュは静かに口を開いた。
「……また、新しい弟子を取ることになったのだが」
「もう止めちまえよ」
「そういう訳にはいかない」
そんな苦しい思いをしてまで職責を果たす必要はないと目を吊り上げるミロを宥めるように、カミュはうっすらと笑みを浮かべた。
ひどく寂しげな微笑みだったがそれすらも久々に見た気がして、ミロは押し黙った。
「さすがに教皇も私の相次ぐ失態に思われるところがあったのか、次の弟子は候補の中から私自身が自由に選べばよいということになってな」
口許に力ない笑みをたたえたまま、カミュは独り言のように続けた。
「……だが、それはそれで迷うのだ」
「何で? 今までみたいに出来の悪いガキを勝手に押し付けられるより、おまえが自分で見込みのある弟子を厳選した方が、どう考えたっていいだろう?」
「私の元に来れば、その有望な子供の将来を絶つことになるかもしれない」
悲観的予測を、カミュは妙にきっぱりと言ってのけた。
「……それが、恐いのだ」
ぽつりと付け加えるように呟いたカミュは、それだけ言うことが一苦労でもあったかのように足元に視線を落とした。
俯くカミュの表情は、風に乱された髪に隠されてうかがい知ることはできなかった。
ミロは唇を噛んだ。
親友が苦しむ様を見るのは辛い。
カミュをこれほどまでに苦しめる、まだ見ぬ弟子も、教皇も、シベリアの大地も、全てが憎かった。
激情は、そのまま言葉となってほとばしった。
「だったら、俺が選ぶ」
訝しげに顔を上げたカミュを、ミロは睨むような強い眼差しで見据えた。
「俺が、おまえの弟子を選んでやるよ」
万が一、また不幸な結果を招くようなことがあったなら、そのときはその子供を選んだミロを責めればいい。
カミュが自分を責めて己に突きつける矛先は、全てミロが盾となり受けてやる。
言葉の裏に忍ばせたミロの思いは、真っ直ぐにカミュに届いたのか。
しばらく呆気に取られていたようにミロをみつめていたカミュは、やがてぎこちない笑みの形に口許を歪めた。
「……すまない」
その表情は申し訳なさげにとはいえ確かに笑っているのに、何故だか今にも泣きだしそうな顔にしか見えなかった。
捨てられた仔犬の保護施設のようだ。
扉を開けた瞬間、ミロはそう思った。
聖域の片隅に位置する、さほど大きくない土壁の建物。
その一角に、次代を担う聖闘士の育成のため世界各国から集められた孤児たちを収容した部屋があった。
幼い子供たちは修行地が定まるまで、一時ここに留め置かれるのだ。
部屋に足を踏み入れるや呼吸さえ苦しくなるような重苦しさを感じるのは、決して人口密度の高さだけが理由ではないだろう。
髪も肌の色もまちまちの子供たちは、皆一様に怯えた顔をして、三々五々の集団を作って身を寄せ合っていた。
これから自分たちを待ち受ける運命の意味もわからない彼らにとっては、全身を覆う不安と緊張に押しつぶされないようにするために、人肌の温もりが支えとして必要なのだろう。
憐憫を覚えるこの情景が聖域に連れて来られたばかりの一般的な子供の姿だとすれば、やはり自分たちは特殊なのだと思わざるをえなかった。
物心ついた頃から漠然と感じていた自分は他の子供たちとは少し違うのかもしれないという違和感が、ここに至ってようやく消え、安住の地を得た喜びに皆むしろ水を得た魚のようにはしゃいで飛び回っていた記憶がある。
いや、そんなことよりも、今はカミュの弟子候補を捜すのが先決だ。
ここに来た本来の目的を思いだしたミロは、部屋の端からゆっくりと視線を巡らせた。
突然入ってきたミロに怯えたのか視線が合いそうになると慌てて目を伏せる者、抱えた膝にずっと顔を埋めたまま訪問者の存在に気付きもしない者。
どの子供も問題外だ。
落胆を覚えつつ反対側の壁近くまで目線を移動させたミロは、そこでわずかに片眉を持ち上げた。
一人だけ、集団からぽつんと離れた子供がいた。
狭い窓枠に器用に腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めている痩せた少年だ。
興味をそそられたミロはゆっくりと近づいた。
「よう」
声をかけると、子供はふて腐れたような顔で振り向いた。
気の強そうなその表情が、何故だかミロにはひどく面白く思われた。
不審気な子供の瞳を見据えつつ、ミロは単刀直入に問うた。
「おまえ、なんで聖闘士になりたいんだ?」
「別に、なりたくなんかないよ」
ぶっきら棒に答えた子供は不愉快そうに唇を突き出した。
「勝手に連れて来られて、修行しろって言われてるだけ。すごく迷惑」
「そうか、迷惑か」
ミロはくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。
馬鹿にされているとでも思ったのか、子供はみるみる頬を紅潮させてきっとミロを睨みつける。
相手を問わない向こう見ずとも言える気の強さが、妙にミロの気に入った。
ミロは口の端を持ち上げた。
「おまえ、寒いの平気?」
唐突なミロの質問に、子供は呆けたように瞬きを繰り返した。
「……なあ、返品する気、ない?」
「ないな」
微笑みながらきっぱりと拒絶するカミュの表情は、ひどく嬉しそうだ。
少し離れたところで修行に打ち込む愛弟子の姿から視線を片時も外そうともしないカミュの横顔に、ミロはわざと大きな溜息をついてやった。
カミュがミロの選んだ新しい弟子を連れシベリアへ旅立ってから、半月ほどが過ぎていた。
自分の人選は本当に正しかったのか、その後の顛末が知りたくて、様子見がてらシベリアを訪れたミロが目にしたのは意外な光景だった。
師の指示に素直に従い熱心に訓練に励む弟子という、理想的な修行風景。
初対面のミロに対してみせたあのつっけんどんな反抗的態度など、今の少年からは跡形もなく消えていた。
代わりに彼に備わっていたのは、カミュに対する隠そうともしない憧憬だ。
自分が聖域で相対したのは別人だったかとミロを戸惑わせたほどに、あれほど小生意気だった子供はすっかり真面目で修行熱心な優等生へと態度を豹変させていた。
ここまで彼を変貌させたのは、敬愛する師に気に入られたい、ただその一念だろう。
弟子候補として初めてカミュに引き会わせたとき、この子供はわずかに頬を染めて彼の師となる少年を眩しげにみつめていた。
カミュほどの見事な紅毛と真紅の瞳は、やはり珍しいからだろう。
何かに魅入られたような不躾な視線の意味をそう解することで、ミロは突如胸の奥でざわめきだした不穏な感覚を無理矢理抑えつけていたのだが、どうやら違ったらしい。
幼い子供の一目惚れにも似たカミュへの崇拝は、思い返せば既にあの頃から始まっていたのだ。
それは、ミロにとってあまり面白いことではなかった。
下位聖闘士の育成には、最低五年は要するという。
五年も経てば、あの子供も今のミロたちとそれほど変わらない年齢になるはずだ。
それはとりもなおさず、弟子が恋情という甘く苦い想いを味わう多感な年頃になるまで、カミュはこの人里離れた土地で教え子の育成に当たるということを意味していた。
師に対する尊崇の念がその頃には恋心に転じないと、一体誰が保証できよう。
将来的にはミロのライバル足りうるかもしれない子供を自ら選んでしまったことを後悔したが後の祭りで、先のカミュへの問いかけはそれを再確認するだけのものに他ならなかった。
ミロの気持ちも知らぬげに、カミュは暢気に笑う。
「おまえが私にあの子を アイザックを紹介してくれたのは、ちょうど私の誕生日だったな。一度もらった誕生日祝いを返すなどという非礼は、いくら相手がおまえでも私にはできない」
「誕生日祝いなら、他にやっただろ。おまえの希望だった何とか言う本とかさ」
「ああ、あの本も面白かった。悪いが、あれも返すつもりはないな」
しれっと言い放ったカミュは、ついで柔らかく目を細めミロをみつめた。
「……本当に、おまえには感謝している」
「なんだよ、急に」
「アイザックはとても見込みのある子供だ。そればかりか、私の拙い指導にも懸命に応えようとしてくれる。あの子のおかげで、初めて指導が楽しいと思えるようになったくらいだ」
優しげな瞳でそう弟子を手放しで褒めるカミュに、ミロは訝しげに尋ねた。
「……で、それと俺と何の関係があるんだよ?」
「わからないか? 素晴らしい贈り物をありがとうと言っているのだ。今まで私が貰った中でも一、二を争うほどに嬉しい誕生日祝いだったぞ」
屈託なく笑うカミュは欲目ではなくとても綺麗だと、ミロは思った。
こんなに綺麗に笑えるくらい、今の生活が充実しているのだろう。
ここに、ミロはいないというのに。
胸の奥に走ったちくりと刺すような痛みに、ミロはわずかに顔を歪めた。
「……俺はちょっと後悔してるんだけどな」
カミュはわずかに目を見開き物問いたげな表情をした。
ミロは小雪交じりの風に乱される髪をわずらわしげに片手でかき上げた。
「そうだな。じゃ、そのお返しって訳じゃないけど、今度の俺の誕生日祝いはかなり期待させてもらっていいか?」
「……おまえの弟子を、私に選べと?」
少し考えるように小首を傾げたカミュに、ミロは苛立たしげに大きくかぶりを振った。
「違う、違う。弟子なんか全く取る気ないって。俺、子供嫌いだし」
「おまえはとても子供嫌いには見えんがな。まあ、いい。それで、何が望みだ?」
生真面目に問うカミュの瞳を、ミロはじっとみつめた。
「おまえ」
「……は?」
「カミュが欲しい。何度も言わせるなよ」
ミロの言う「好き」はもはや子供の抱く好意ではないのだと、カミュにはもう今までに何度も伝えていた。
その度に冗談を言うなと冷たくあしらわれていたのだが、幼いライバル候補の出現がカミュをシベリアに取られてしまうという焦燥感を駆り立て、ミロを強欲にさせていた。
誕生日祝いと引き換えになどできるものではないと、重々承知しているにもかかわらずそうねだる自分が浅ましくて、ミロは薄く笑った。
「冗談。でも、ま、カミュが好きなのは本当だから、せいぜい期待しないで待って……」
「おまえの誕生日ということは、まだ半年以上先だな」
言い訳じみたミロの台詞を、カミュは途中で遮った。
カミュには珍しい性急な口ぶりに呆気に取られるミロの表情がおかしいのか、真紅の瞳が悪戯っぽく揺れる。
「……そんなに先で、いいのか?」
「え?」
一瞬耳を疑ったミロは、ぽかんと口を開けてカミュをみつめた。
風と一緒に口の中に飛び込んできた雪片が解ける間もなく、駄目押しのようなカミュの次の言葉が届く。
「私は今でも構わないが」
「……え?」
「風が出てきたな、家へ戻ろう。 アイザック!」
ミロを残し弟子に向かって歩き出したカミュの横顔は、紅の髪色を反映してかわずかに朱に染まっているように見えた。
ミロはその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる背を見送った。
嬉しそうにカミュに駆け寄ってくる弟子の笑顔が、ぼんやりと霞む。
ミロは頭の中でカミュの台詞を再現してみた。
「……えええっ!」
ようやく、理解した。
次第次第に足元から最大級の喜びが込み上げてくるが、焦がれるほどに望んだ願いの実現は、あまりに唐突過ぎて現実感がない。
つい先程まで閉口していたはずの身を切るような風の冷たさすら忘れ、ミロは家路を急ぐ師弟の後ろ姿をただ茫然とみつめていた。
灰色の雲が低く空を覆っていた。
生憎の天気だ。
海原を吹き抜ける風は、行く手を遮る邪魔者を発見したと言わんばかりに砂浜にたたずむ人間を容赦なく弄る。
水気を含んでじっとりと重い浦風が全身に纏わりつく感触は、決して心地のよいものではない。
吹きすさぶ風にさらされる度、肌や髪はべたべたと粘りを帯びていき、さらには染み付いた独特の潮の香りに酔いそうになる。
気分転換を図ろうとカミュを海まで連れ出したのだが、逆効果だっただろうか。
怯えるミロの内心を読み取ったように、カミュはやんわりと頭を揺らしてみせた。
「……シベリアの海に似ているな」
「……そうか?」
「ああ。だが、不思議だな。目に映る景色はひどく似ているのに、印象としてはあそこまで寂しくはない」
一旦言葉を切ったカミュは、ミロからはるか彼方の水平線へと視線を移すとぽつりと呟いた。
「おまえが一緒にいるから、なのかもしれないな」
きっとおまえなら、私などよりももっとずっと上手くやるのだろうな。
淡々と言葉を海に投げ落とすカミュに対し、ミロは何と声をかけるべきかわからずただ沈黙を守った。
カミュの声に含まれていた感情は、妬みでも苛立ちでもない。
それならば、まだ活力の源となりうるから、まだいい。
だが、今のカミュを支配している情を一言で言うなら、諦めだ。
無力感に打ちひしがれ、カミュは一歩も足を踏み出すこともできず立ち竦んでいた。
シベリアから帰ってきて以来、ずっとそうだった。
カミュの帰還の一報を聞いた当初は、喜ばしいことだとミロは無責任に思った。
カミュが聖域に戻ってくれば、少なくとも自分は楽しい。
周囲からは幼い頃から少しも変わらぬその親密ぶりに呆れられていたが、カミュと食事を共にし他愛もない話に興じる日々に飽きたことはない。
再びカミュがシベリアに赴くまで、そんないつもの日常が続くことを疑いもしなかった。
だが、日が経つにつれ、今回は少々事情が違うらしいと嫌でも思わされることになる。
再会して既に一月近くが経つが、カミュは陰鬱な表情のまま、ろくに微笑みすらしなかったのだ。
カミュの帰還の理由は、シベリアにいる必要がなくなったから、すなわち弟子がいなくなったから、だった。
今までにも何度かあったことだ。
これまでは全て修行に耐え切れないと判断したカミュが、自らの意志で打ち切ったものだったらしい。
ところが、今回は過酷な環境に音を上げた子供が、カミュの留守中に逃げ出したのだ。
目印になるものなど何もない雪原の中、あてどもなくさまよったであろう子供をカミュがみつけたときには、既にその小さな体はすっかり冷たくなっていたという。
そんな酷な形で修行を強制的に終わらせられたカミュは、自分の指導力にすっかり自信をなくしていた。
いや、元々、自信など欠片もなかったのだ。
そもそも黄金聖闘士は、後進の育成に当たることなど期待されてはいないはずだった。
生まれながらに小宇宙に目覚めている黄金聖闘士は、やはり特殊な選ばれた存在なのだ。
眠っている小宇宙を目覚めさせる術が体感としてわからないのは当然で、そんな彼らが指導者として向いているはずがない。
弟子を取ることがあるにしても、それはあくまで黄金聖闘士自身の希望によるもので、カミュのように辞令を受けて任ぜられることなど稀だった。
カミュを厄介事に巻き込んだのは、氷の闘技を操るというその特殊性故だ。
現役の聖闘士に、氷系の小宇宙を宿す者はカミュ以外に存在しない。
来る聖戦に備え、必然的にカミュに白羽の矢が立ったのは不幸としかいえないだろう。
ミロが知るカミュは、幼い子供を指導するには不器用で真面目すぎる。
稚い子供を相手にするとなれば、鷹揚に構え遠くから見守るくらいの余裕が必要だろうが、生憎とカミュにはそんな気楽な資質が欠けていた。
指導に全身全霊を傾けるが故に、思うように成果を上げられないとなれば、味わう必要もない焦りと自己嫌悪に苛まれてしまう。
それが自分ばかりか弟子までも苦しめると気付きつつも、逃れる術もない罠にはまったように悪循環を繰り返す。
ちょうど、今のカミュのように。
痛々しげにみつめるミロと視線を合わせることなく、カミュは静かに口を開いた。
「……また、新しい弟子を取ることになったのだが」
「もう止めちまえよ」
「そういう訳にはいかない」
そんな苦しい思いをしてまで職責を果たす必要はないと目を吊り上げるミロを宥めるように、カミュはうっすらと笑みを浮かべた。
ひどく寂しげな微笑みだったがそれすらも久々に見た気がして、ミロは押し黙った。
「さすがに教皇も私の相次ぐ失態に思われるところがあったのか、次の弟子は候補の中から私自身が自由に選べばよいということになってな」
口許に力ない笑みをたたえたまま、カミュは独り言のように続けた。
「……だが、それはそれで迷うのだ」
「何で? 今までみたいに出来の悪いガキを勝手に押し付けられるより、おまえが自分で見込みのある弟子を厳選した方が、どう考えたっていいだろう?」
「私の元に来れば、その有望な子供の将来を絶つことになるかもしれない」
悲観的予測を、カミュは妙にきっぱりと言ってのけた。
「……それが、恐いのだ」
ぽつりと付け加えるように呟いたカミュは、それだけ言うことが一苦労でもあったかのように足元に視線を落とした。
俯くカミュの表情は、風に乱された髪に隠されてうかがい知ることはできなかった。
ミロは唇を噛んだ。
親友が苦しむ様を見るのは辛い。
カミュをこれほどまでに苦しめる、まだ見ぬ弟子も、教皇も、シベリアの大地も、全てが憎かった。
激情は、そのまま言葉となってほとばしった。
「だったら、俺が選ぶ」
訝しげに顔を上げたカミュを、ミロは睨むような強い眼差しで見据えた。
「俺が、おまえの弟子を選んでやるよ」
万が一、また不幸な結果を招くようなことがあったなら、そのときはその子供を選んだミロを責めればいい。
カミュが自分を責めて己に突きつける矛先は、全てミロが盾となり受けてやる。
言葉の裏に忍ばせたミロの思いは、真っ直ぐにカミュに届いたのか。
しばらく呆気に取られていたようにミロをみつめていたカミュは、やがてぎこちない笑みの形に口許を歪めた。
「……すまない」
その表情は申し訳なさげにとはいえ確かに笑っているのに、何故だか今にも泣きだしそうな顔にしか見えなかった。
捨てられた仔犬の保護施設のようだ。
扉を開けた瞬間、ミロはそう思った。
聖域の片隅に位置する、さほど大きくない土壁の建物。
その一角に、次代を担う聖闘士の育成のため世界各国から集められた孤児たちを収容した部屋があった。
幼い子供たちは修行地が定まるまで、一時ここに留め置かれるのだ。
部屋に足を踏み入れるや呼吸さえ苦しくなるような重苦しさを感じるのは、決して人口密度の高さだけが理由ではないだろう。
髪も肌の色もまちまちの子供たちは、皆一様に怯えた顔をして、三々五々の集団を作って身を寄せ合っていた。
これから自分たちを待ち受ける運命の意味もわからない彼らにとっては、全身を覆う不安と緊張に押しつぶされないようにするために、人肌の温もりが支えとして必要なのだろう。
憐憫を覚えるこの情景が聖域に連れて来られたばかりの一般的な子供の姿だとすれば、やはり自分たちは特殊なのだと思わざるをえなかった。
物心ついた頃から漠然と感じていた自分は他の子供たちとは少し違うのかもしれないという違和感が、ここに至ってようやく消え、安住の地を得た喜びに皆むしろ水を得た魚のようにはしゃいで飛び回っていた記憶がある。
いや、そんなことよりも、今はカミュの弟子候補を捜すのが先決だ。
ここに来た本来の目的を思いだしたミロは、部屋の端からゆっくりと視線を巡らせた。
突然入ってきたミロに怯えたのか視線が合いそうになると慌てて目を伏せる者、抱えた膝にずっと顔を埋めたまま訪問者の存在に気付きもしない者。
どの子供も問題外だ。
落胆を覚えつつ反対側の壁近くまで目線を移動させたミロは、そこでわずかに片眉を持ち上げた。
一人だけ、集団からぽつんと離れた子供がいた。
狭い窓枠に器用に腰かけ、ぼんやりと窓の外を眺めている痩せた少年だ。
興味をそそられたミロはゆっくりと近づいた。
「よう」
声をかけると、子供はふて腐れたような顔で振り向いた。
気の強そうなその表情が、何故だかミロにはひどく面白く思われた。
不審気な子供の瞳を見据えつつ、ミロは単刀直入に問うた。
「おまえ、なんで聖闘士になりたいんだ?」
「別に、なりたくなんかないよ」
ぶっきら棒に答えた子供は不愉快そうに唇を突き出した。
「勝手に連れて来られて、修行しろって言われてるだけ。すごく迷惑」
「そうか、迷惑か」
ミロはくつくつと喉の奥を鳴らして笑った。
馬鹿にされているとでも思ったのか、子供はみるみる頬を紅潮させてきっとミロを睨みつける。
相手を問わない向こう見ずとも言える気の強さが、妙にミロの気に入った。
ミロは口の端を持ち上げた。
「おまえ、寒いの平気?」
唐突なミロの質問に、子供は呆けたように瞬きを繰り返した。
「……なあ、返品する気、ない?」
「ないな」
微笑みながらきっぱりと拒絶するカミュの表情は、ひどく嬉しそうだ。
少し離れたところで修行に打ち込む愛弟子の姿から視線を片時も外そうともしないカミュの横顔に、ミロはわざと大きな溜息をついてやった。
カミュがミロの選んだ新しい弟子を連れシベリアへ旅立ってから、半月ほどが過ぎていた。
自分の人選は本当に正しかったのか、その後の顛末が知りたくて、様子見がてらシベリアを訪れたミロが目にしたのは意外な光景だった。
師の指示に素直に従い熱心に訓練に励む弟子という、理想的な修行風景。
初対面のミロに対してみせたあのつっけんどんな反抗的態度など、今の少年からは跡形もなく消えていた。
代わりに彼に備わっていたのは、カミュに対する隠そうともしない憧憬だ。
自分が聖域で相対したのは別人だったかとミロを戸惑わせたほどに、あれほど小生意気だった子供はすっかり真面目で修行熱心な優等生へと態度を豹変させていた。
ここまで彼を変貌させたのは、敬愛する師に気に入られたい、ただその一念だろう。
弟子候補として初めてカミュに引き会わせたとき、この子供はわずかに頬を染めて彼の師となる少年を眩しげにみつめていた。
カミュほどの見事な紅毛と真紅の瞳は、やはり珍しいからだろう。
何かに魅入られたような不躾な視線の意味をそう解することで、ミロは突如胸の奥でざわめきだした不穏な感覚を無理矢理抑えつけていたのだが、どうやら違ったらしい。
幼い子供の一目惚れにも似たカミュへの崇拝は、思い返せば既にあの頃から始まっていたのだ。
それは、ミロにとってあまり面白いことではなかった。
下位聖闘士の育成には、最低五年は要するという。
五年も経てば、あの子供も今のミロたちとそれほど変わらない年齢になるはずだ。
それはとりもなおさず、弟子が恋情という甘く苦い想いを味わう多感な年頃になるまで、カミュはこの人里離れた土地で教え子の育成に当たるということを意味していた。
師に対する尊崇の念がその頃には恋心に転じないと、一体誰が保証できよう。
将来的にはミロのライバル足りうるかもしれない子供を自ら選んでしまったことを後悔したが後の祭りで、先のカミュへの問いかけはそれを再確認するだけのものに他ならなかった。
ミロの気持ちも知らぬげに、カミュは暢気に笑う。
「おまえが私にあの子を
「誕生日祝いなら、他にやっただろ。おまえの希望だった何とか言う本とかさ」
「ああ、あの本も面白かった。悪いが、あれも返すつもりはないな」
しれっと言い放ったカミュは、ついで柔らかく目を細めミロをみつめた。
「……本当に、おまえには感謝している」
「なんだよ、急に」
「アイザックはとても見込みのある子供だ。そればかりか、私の拙い指導にも懸命に応えようとしてくれる。あの子のおかげで、初めて指導が楽しいと思えるようになったくらいだ」
優しげな瞳でそう弟子を手放しで褒めるカミュに、ミロは訝しげに尋ねた。
「……で、それと俺と何の関係があるんだよ?」
「わからないか? 素晴らしい贈り物をありがとうと言っているのだ。今まで私が貰った中でも一、二を争うほどに嬉しい誕生日祝いだったぞ」
屈託なく笑うカミュは欲目ではなくとても綺麗だと、ミロは思った。
こんなに綺麗に笑えるくらい、今の生活が充実しているのだろう。
ここに、ミロはいないというのに。
胸の奥に走ったちくりと刺すような痛みに、ミロはわずかに顔を歪めた。
「……俺はちょっと後悔してるんだけどな」
カミュはわずかに目を見開き物問いたげな表情をした。
ミロは小雪交じりの風に乱される髪をわずらわしげに片手でかき上げた。
「そうだな。じゃ、そのお返しって訳じゃないけど、今度の俺の誕生日祝いはかなり期待させてもらっていいか?」
「……おまえの弟子を、私に選べと?」
少し考えるように小首を傾げたカミュに、ミロは苛立たしげに大きくかぶりを振った。
「違う、違う。弟子なんか全く取る気ないって。俺、子供嫌いだし」
「おまえはとても子供嫌いには見えんがな。まあ、いい。それで、何が望みだ?」
生真面目に問うカミュの瞳を、ミロはじっとみつめた。
「おまえ」
「……は?」
「カミュが欲しい。何度も言わせるなよ」
ミロの言う「好き」はもはや子供の抱く好意ではないのだと、カミュにはもう今までに何度も伝えていた。
その度に冗談を言うなと冷たくあしらわれていたのだが、幼いライバル候補の出現がカミュをシベリアに取られてしまうという焦燥感を駆り立て、ミロを強欲にさせていた。
誕生日祝いと引き換えになどできるものではないと、重々承知しているにもかかわらずそうねだる自分が浅ましくて、ミロは薄く笑った。
「冗談。でも、ま、カミュが好きなのは本当だから、せいぜい期待しないで待って……」
「おまえの誕生日ということは、まだ半年以上先だな」
言い訳じみたミロの台詞を、カミュは途中で遮った。
カミュには珍しい性急な口ぶりに呆気に取られるミロの表情がおかしいのか、真紅の瞳が悪戯っぽく揺れる。
「……そんなに先で、いいのか?」
「え?」
一瞬耳を疑ったミロは、ぽかんと口を開けてカミュをみつめた。
風と一緒に口の中に飛び込んできた雪片が解ける間もなく、駄目押しのようなカミュの次の言葉が届く。
「私は今でも構わないが」
「……え?」
「風が出てきたな、家へ戻ろう。
ミロを残し弟子に向かって歩き出したカミュの横顔は、紅の髪色を反映してかわずかに朱に染まっているように見えた。
ミロはその場に立ち尽くしたまま、遠ざかる背を見送った。
嬉しそうにカミュに駆け寄ってくる弟子の笑顔が、ぼんやりと霞む。
ミロは頭の中でカミュの台詞を再現してみた。
「……えええっ!」
ようやく、理解した。
次第次第に足元から最大級の喜びが込み上げてくるが、焦がれるほどに望んだ願いの実現は、あまりに唐突過ぎて現実感がない。
つい先程まで閉口していたはずの身を切るような風の冷たさすら忘れ、ミロは家路を急ぐ師弟の後ろ姿をただ茫然とみつめていた。