2008 ミロ誕
美味いものを食いたいとか心ゆくまで惰眠を貪りたいとか、そんな原始的な欲はあっても、俺は基本的には物欲というものと縁がないらしい。
誕生日に欲しいものはないかと訊かれても、特にこれといって思いつくものもなく、街をぶらぶらしているうちにそのうち何かみつかるだろうと高をくくってみたのだが、やはりカミュに財布を取り出させるほど食指が動くようなものは何一つなかった。
「早く決めてくれなければ、そのうち店が閉まってしまう。このままでは食事を御馳走するぐらいしかできなくなるぞ」
作戦を練り直そうと一旦カフェに腰を落ち着けると、カミュは呆れたような瞳を俺に投げかける。
その視線をかるく肩をすくめてかわしながら、俺は泡が落ち着いた頃を見計らってコーヒーに口をつけた。
舌先に粉がまとわりつくギリシャコーヒー独特のざらついた感覚が、カミュは苦手なはずだった。
にもかかわらずカミュもコーヒーを頼んでいるということは、今日が誕生日の俺に付き合ってくれているつもりなのだろうか。
それにしても、祝ってもらうはずが、何故折角の誕生日に怒られなければいけないのかわからない。
しかも、半日ぶらついた結果俺たちが得たものといえば、なんだかんだでカミュが自分用に、より正確には自分と弟子たちのために買った物ばかりだというのに。
俺にしてみれば、久々にシベリアから戻ってきたカミュと一緒に出歩くということ自体が充分楽しいイベントだったから、別に不満を言う筋合いでもなかったが、ちょっとばかり拗ねてみたくもなったのも道理だろう。
「そうは言うけどさ、とりたてて欲しいものがないんだから仕方ないだろ。ま、いいじゃん。おまえと違って俺はその気になればいつだって買いに来れるんだし」
周囲に雪と氷しかないような辺鄙なところで、カミュは小さな子供二人との共同生活を送っているのだ。
のんびりと買い物なんて、こうしてたまに聖域に帰って来たときぐらいにしかできないはずだ。
「確かにな」
あっさりと認めたカミュは、隣の椅子に置いた今日の戦利品にちらりと目をやった。
椅子の上には、紙袋が二つ。
ひとつは市街に出てくるたびにいつも立ち寄るカミュお気に入りの書店のものだが、もうひとつは俺にしては意外な店のものだった。
「なあ、なんでカメラなんか欲しかったんだ? おまえ、写真の趣味なんかあったか?」
「趣味ではないな。生憎と私は芸術的素養に欠けている」
確かに、常々カミュは右脳より左脳の方が圧倒的に優位に立っているとは思っていたが、自覚はあったらしい。
「じゃ、なんで?」
執拗な問いかけに、カミュはふと目を細めた。
俺には決して注がれることのない慈愛に満ちた眼差しは、師匠としてのカミュがみせるものだ。
別段俺にはカミュの弟子になりたいという願望はないが、こんな優しげな顔を向けられているのだと思うと、時折あの小生意気な弟子たちが無性に妬ましくなる。
「……あの子たちを撮ってやりたいと思ってな」
予想通りと言うべきか、このカミュらしくもない買い物の陰にはやはり弟子の存在があるらしい。
脳裏に修行風景を思い描いているのだろう。
カミュは自慢の弟子が可愛くてたまらないと顔にはっきり書きながら、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「子供の成長というのは驚くほどでな。あの子たちが一日一日で遂げる変化は目を見張るものがある。だから、その過程を記録として残しておいてやりたいのだ」
それは、きっといい思い出になるだろう。
二人の子供にとっても、カミュ自身にとっても。
近い将来、大量の写真を携えて帰ってきたカミュから嫌というほど弟子自慢を聞かされ閉口する自分の姿が見えた、ような気がした。
「……そりゃ、いいな」
「そう思うか?」
台詞を言葉どおりに受け取ってくれたようで、カミュは瞳を輝かせる。
俺は曖昧に頷いてみせた。
直感的に理解した。
この誤解は、解かないほうがいい。
「ああ。だって考えてもみろよ。俺たちは子供の頃の写真なんて、一枚も残ってないんだぜ」
物心ついた頃には、既に俺たちは聖域にいた。
旧態依然とした聖域では俗世間的なものは極力排除されていたし、俺たち黄金聖闘士は別格の存在として腫れ物に触るような特別待遇を受けていたから、思い出作りに写真を撮ってやろうなどと考えてくれる大人なんて周囲には誰一人いやしなかった。
いや、そもそも、俺たちだって普段は全く普通の人間と変わらないということすら、理解されていたのかどうか。
そういう意味では決して恵まれてはいなかったはずだが、自分達を不幸だと思ったことなどないのは、ずっとカミュが傍にいたからだろう。
カミュにシベリア赴任の命が下るまで、俺は一度だって寂しさなんか味わったことがなかった。
「言われてみれば、確かにそうだな」
相槌を打ったカミュは、ついでわずかに眉をひそめた。
「……写真があったらよかったと、思うか?」
「ま、多少は」
それは事実だ。
懐かしく子供時代を振り返ろうと思っても、俺たちには思い出を喚起するよすがとなるものは記憶しかない。
歳月の経過とともに美化されたり風化したりで、どのくらい真実を語っているのかわからないという、限りなく不確かなものしかないのだ。
かるく肩をすくめる俺に、少し思案顔になったカミュはやがて何を思ったか周囲を見渡した。
店内はそれほど賑わっている訳でもなく、しかも俺たちは背の高い観葉植物に半ば隠されたような奥まった座席を陣取っていたから、あたりに人の気配はない。
一体、何を警戒したのだろう。
「何だよ?」
無言で立ち上がり俺の傍にやって来たカミュは、意味ありげに微笑んだ。
「その不満を、少しは解消してやれるかもしれない」
囁くと同時に、カミュは片手で髪を押さえながらゆっくりと顔を近づけてくる。
いくら人目がないとはいえ、外でキスでもしようものなら髪と同じくらい真っ赤になって怒り出すカミュらしくもない。
突然のカミュの行動に驚いた俺は、茫然と頭上を見上げたまま動けなくなっていた。
視界がぼやけて紅に染まる。
と思う間もなく、触れた。
「……え?」
反射的に閉じかけた瞼が再び持ち上がった。
てっきりキスしてもらえるものと思い込んでいたのだが、カミュの意図は違ったらしい。
熱の有無を確認でもするかのように、カミュは俺の額に自分のそれをくっつけていた。
思わず息を飲んだ。
触れ合う額から、怒涛のようにイメージが流れ込んでくる。
映画のフィルムを早送りして見ているようなその映像全ての風景に、見覚えがあった。
そして、そこに共通して登場する一人の人物にも。
癖が強く収まりの悪い金髪と、尊大なまでに勝気な表情。
怒ったり泣いたり笑ったり、めまぐるしいまでの感情の推移を露にしていたその子供は、みるみるうちに馴染み深い外見にと成長していく。
これは、俺だ。
幼い頃から今までの、カミュの記憶に残るありとあらゆる俺の姿なのだ。
やがて、脳裏に繰り広げられる映像は、実際に今目にしているこのカフェのものと重なった。
そろそろと身を起こしたカミュは、瞠目する俺に向かい少し照れたように微笑みかけた。
「生憎写真ほど正確ではないが、幸い私は記憶力がいい。おまえが過去を思い出したくなったなら、いつでも私が知る限りの情報を提供してやろう」
「……あ、ああ、ありがとな」
十数年分の記憶を一気に見せられたためか、頭が少しぼんやりとしていた。
そのせいで、なにか大切なことを見過ごしているような気がしてならない。
「悪い。俺の記憶も見せてやりたいが、カミュの輪郭ははっきりしてるけど、背景とかはぼけぼけだ」
「そんなことか。構わない、気にするな」
口先だけの会話を続けつつかろうじて平静を保ちながら、意識を目覚めさせようとかるく頭を揺らし、コーヒーを一口飲む。
熱い液体が喉を通り抜けていく感覚が走る。
胃の腑まで落ちたとき、その反動でまるでシーソーのように花火か何かが打ち上げられた気がした。
ああ、わかった。
さすがカフェイン効果はてき面だ。
「……なあ、カミュ」
「なんだ?」
「……結局、弟子には写真を残してやるが、俺には記憶を読ませてくれるんだよな」
「そういうことになるな」
それがどうしたと言わんばかりに、カミュは不審気に眉根を寄せる。
俺はもう一口コーヒーを飲んだ。
さっきまであんなに苦かったはずなのに、砂糖をたっぷり入れたみたいにやけに甘い。
「……要するに、弟子とはそのうち離れるから写真って物が必要だけど、俺とはずっと一緒にいるからそんなものいらないって、ことだよな」
俺の指摘に虚を突かれたようにカミュは目を見張った。
動揺を抑えようとしたのか、カミュもまたカップに口を付ける。
俺と違ってあちらは苦かったようで、わずかに顔が歪んだ。
「……おまえとは、宮が近いからな」
苦し紛れのようにそれだけ言うと、カミュはもう一度苦々しげにコーヒーを飲む。
不自然なまでに俺と視線を合わせようとしない、その仏頂面を見ていると、無性に笑いが込み上げてきた。
大人気なくも半ば本気で弟子を羨んでいた自分が馬鹿馬鹿しくてたまらない。
だって、俺の方が、あいつらより恵まれている。
あいつらよりも、俺の方がよっぽどカミュの傍にいるじゃないか。
「カミュ、俺、欲しいものみつけた」
唐突に話題が変わったことに救いをみたのか、ほっとしたようにカミュは顔を上げる。
俺はテーブルの向こうに手を伸ばすとカメラの入った袋を取り上げた。
「おい、それは……」
「ん、欲しいのはカメラじゃないから、安心しろ」
抗議の視線を無視して、買ったばかりのカメラの梱包を解く。
万事に慎重なカミュらしく購入にあたり散々説明を受けていたから、店員も熱心な客に親しみを覚えてくれたらしく、フィルムを何本かサービスしてくれていた。
早速その好意を使わせてもらうことにしてカメラにフィルムをセットすると、俺は徐にファインダーを覗いた。
レンズ越しに困惑顔のカミュが見える。
カメラマンよろしくカメラを構えてみせながら俺は含み笑いをもらした。
「思ったんだけどさ。確かにおまえの記憶は正確だけど、あくまでおまえの視点から、なんだよな」
「だから?」
「二人一緒の映像がないんだよ」
「……ああ」
納得したように頷くカミュに、俺はカメラから顔を上げにこりと微笑みかけた。
「だから、一緒に写真撮ろう。俺の誕生日祝いに。いいだろ?」
俺の提案は予想外だったらしい。
意外そうに紅い瞳を見開いたカミュは、ゆっくりと瞬きをした。
「折角の誕生祝いが、そんなものでいいのか」
「ああ、むしろそんなものがいい」
無欲だ、とでも思ったのだろうか。
しばらく呆れたように俺をみつめていたカミュは、やがて深々と息を吐いた。
「とりたてて断る理由はみつからないな」
「ありがとな、大事にする。で、引き伸ばしてパネルにして……」
「……ミロ」
「すみません、冗談です」
ここに至って機嫌を損ねられでもしたらたまらない。
にっこりと愛想良く笑った俺はカメラを手に立ち上がると、カミュの気が変わらないうちに写真を撮ってもらおうと店員を呼んだ。
結局、そのフィルム一本は俺の誕生日で使いきってしまった。
こっちで現像しておくから、という口実でシベリアに戻るカミュからフィルムを預かったのは、出来上がった写真を真っ先に俺が見たかったからだ。
一枚一枚繰るごとに、カメラを向けられることに慣れてないせいか、初めはぎこちなかったカミュの表情も次第に打ち解けたものになっていく。
遠くシベリアにいるカミュが、今まさに隣にいるような気がした。
この薄っぺらい紙の中に、確かに楽しかったひとときがそのまま閉じ込められているのだ。
これを見る度に、いつでもその瞬間に立ち帰ることができる。
そう考えると、写真も悪くない。
数日前の幸福な時間に引き戻されつつ写真を捲る指は、やがて最後の一葉に辿りつく。
そこに映っているものを確認すると、思わず微笑が漏れた。
これが、俺が現像を引き受けたもう一つの理由だ。
もうフィルムはないと、あのときカミュにはそう言ったのだが、実は、嘘だった。
密かに一枚だけ残しておいたフィルムは、すやすやと眠るカミュの寝顔を撮るために使わせてもらった。
カミュの幸せそうな寝顔を見るのが俺は好きだった。
いつも夜を共にする度に、眠るのがもったいなくなって無理して起きていたりしてしまうほど、少し疲労感をにじませた、だが満ち足りた表情で眠るカミュにはひどく惹きつけられるものがあった。
「だけど、これはあいつには見せられないな」
さすがに無防備に眠りこけるカミュの写真を勝手に撮ったなどと知られたら、激怒されかねない。
だが、これはあくまで俺の誕生日祝いなんだから、ちょっとしたわがままぐらい許してもらうことにしよう。
一方的にそう決めた俺は、写真の中のカミュに微笑みかけると、写真の束を丁寧に揃え、大切に机の引き出しにしまい込んだ。
美味いものを食いたいとか心ゆくまで惰眠を貪りたいとか、そんな原始的な欲はあっても、俺は基本的には物欲というものと縁がないらしい。
誕生日に欲しいものはないかと訊かれても、特にこれといって思いつくものもなく、街をぶらぶらしているうちにそのうち何かみつかるだろうと高をくくってみたのだが、やはりカミュに財布を取り出させるほど食指が動くようなものは何一つなかった。
「早く決めてくれなければ、そのうち店が閉まってしまう。このままでは食事を御馳走するぐらいしかできなくなるぞ」
作戦を練り直そうと一旦カフェに腰を落ち着けると、カミュは呆れたような瞳を俺に投げかける。
その視線をかるく肩をすくめてかわしながら、俺は泡が落ち着いた頃を見計らってコーヒーに口をつけた。
舌先に粉がまとわりつくギリシャコーヒー独特のざらついた感覚が、カミュは苦手なはずだった。
にもかかわらずカミュもコーヒーを頼んでいるということは、今日が誕生日の俺に付き合ってくれているつもりなのだろうか。
それにしても、祝ってもらうはずが、何故折角の誕生日に怒られなければいけないのかわからない。
しかも、半日ぶらついた結果俺たちが得たものといえば、なんだかんだでカミュが自分用に、より正確には自分と弟子たちのために買った物ばかりだというのに。
俺にしてみれば、久々にシベリアから戻ってきたカミュと一緒に出歩くということ自体が充分楽しいイベントだったから、別に不満を言う筋合いでもなかったが、ちょっとばかり拗ねてみたくもなったのも道理だろう。
「そうは言うけどさ、とりたてて欲しいものがないんだから仕方ないだろ。ま、いいじゃん。おまえと違って俺はその気になればいつだって買いに来れるんだし」
周囲に雪と氷しかないような辺鄙なところで、カミュは小さな子供二人との共同生活を送っているのだ。
のんびりと買い物なんて、こうしてたまに聖域に帰って来たときぐらいにしかできないはずだ。
「確かにな」
あっさりと認めたカミュは、隣の椅子に置いた今日の戦利品にちらりと目をやった。
椅子の上には、紙袋が二つ。
ひとつは市街に出てくるたびにいつも立ち寄るカミュお気に入りの書店のものだが、もうひとつは俺にしては意外な店のものだった。
「なあ、なんでカメラなんか欲しかったんだ? おまえ、写真の趣味なんかあったか?」
「趣味ではないな。生憎と私は芸術的素養に欠けている」
確かに、常々カミュは右脳より左脳の方が圧倒的に優位に立っているとは思っていたが、自覚はあったらしい。
「じゃ、なんで?」
執拗な問いかけに、カミュはふと目を細めた。
俺には決して注がれることのない慈愛に満ちた眼差しは、師匠としてのカミュがみせるものだ。
別段俺にはカミュの弟子になりたいという願望はないが、こんな優しげな顔を向けられているのだと思うと、時折あの小生意気な弟子たちが無性に妬ましくなる。
「……あの子たちを撮ってやりたいと思ってな」
予想通りと言うべきか、このカミュらしくもない買い物の陰にはやはり弟子の存在があるらしい。
脳裏に修行風景を思い描いているのだろう。
カミュは自慢の弟子が可愛くてたまらないと顔にはっきり書きながら、ひどく嬉しそうに微笑んだ。
「子供の成長というのは驚くほどでな。あの子たちが一日一日で遂げる変化は目を見張るものがある。だから、その過程を記録として残しておいてやりたいのだ」
それは、きっといい思い出になるだろう。
二人の子供にとっても、カミュ自身にとっても。
近い将来、大量の写真を携えて帰ってきたカミュから嫌というほど弟子自慢を聞かされ閉口する自分の姿が見えた、ような気がした。
「……そりゃ、いいな」
「そう思うか?」
台詞を言葉どおりに受け取ってくれたようで、カミュは瞳を輝かせる。
俺は曖昧に頷いてみせた。
直感的に理解した。
この誤解は、解かないほうがいい。
「ああ。だって考えてもみろよ。俺たちは子供の頃の写真なんて、一枚も残ってないんだぜ」
物心ついた頃には、既に俺たちは聖域にいた。
旧態依然とした聖域では俗世間的なものは極力排除されていたし、俺たち黄金聖闘士は別格の存在として腫れ物に触るような特別待遇を受けていたから、思い出作りに写真を撮ってやろうなどと考えてくれる大人なんて周囲には誰一人いやしなかった。
いや、そもそも、俺たちだって普段は全く普通の人間と変わらないということすら、理解されていたのかどうか。
そういう意味では決して恵まれてはいなかったはずだが、自分達を不幸だと思ったことなどないのは、ずっとカミュが傍にいたからだろう。
カミュにシベリア赴任の命が下るまで、俺は一度だって寂しさなんか味わったことがなかった。
「言われてみれば、確かにそうだな」
相槌を打ったカミュは、ついでわずかに眉をひそめた。
「……写真があったらよかったと、思うか?」
「ま、多少は」
それは事実だ。
懐かしく子供時代を振り返ろうと思っても、俺たちには思い出を喚起するよすがとなるものは記憶しかない。
歳月の経過とともに美化されたり風化したりで、どのくらい真実を語っているのかわからないという、限りなく不確かなものしかないのだ。
かるく肩をすくめる俺に、少し思案顔になったカミュはやがて何を思ったか周囲を見渡した。
店内はそれほど賑わっている訳でもなく、しかも俺たちは背の高い観葉植物に半ば隠されたような奥まった座席を陣取っていたから、あたりに人の気配はない。
一体、何を警戒したのだろう。
「何だよ?」
無言で立ち上がり俺の傍にやって来たカミュは、意味ありげに微笑んだ。
「その不満を、少しは解消してやれるかもしれない」
囁くと同時に、カミュは片手で髪を押さえながらゆっくりと顔を近づけてくる。
いくら人目がないとはいえ、外でキスでもしようものなら髪と同じくらい真っ赤になって怒り出すカミュらしくもない。
突然のカミュの行動に驚いた俺は、茫然と頭上を見上げたまま動けなくなっていた。
視界がぼやけて紅に染まる。
と思う間もなく、触れた。
「……え?」
反射的に閉じかけた瞼が再び持ち上がった。
てっきりキスしてもらえるものと思い込んでいたのだが、カミュの意図は違ったらしい。
熱の有無を確認でもするかのように、カミュは俺の額に自分のそれをくっつけていた。
思わず息を飲んだ。
触れ合う額から、怒涛のようにイメージが流れ込んでくる。
映画のフィルムを早送りして見ているようなその映像全ての風景に、見覚えがあった。
そして、そこに共通して登場する一人の人物にも。
癖が強く収まりの悪い金髪と、尊大なまでに勝気な表情。
怒ったり泣いたり笑ったり、めまぐるしいまでの感情の推移を露にしていたその子供は、みるみるうちに馴染み深い外見にと成長していく。
これは、俺だ。
幼い頃から今までの、カミュの記憶に残るありとあらゆる俺の姿なのだ。
やがて、脳裏に繰り広げられる映像は、実際に今目にしているこのカフェのものと重なった。
そろそろと身を起こしたカミュは、瞠目する俺に向かい少し照れたように微笑みかけた。
「生憎写真ほど正確ではないが、幸い私は記憶力がいい。おまえが過去を思い出したくなったなら、いつでも私が知る限りの情報を提供してやろう」
「……あ、ああ、ありがとな」
十数年分の記憶を一気に見せられたためか、頭が少しぼんやりとしていた。
そのせいで、なにか大切なことを見過ごしているような気がしてならない。
「悪い。俺の記憶も見せてやりたいが、カミュの輪郭ははっきりしてるけど、背景とかはぼけぼけだ」
「そんなことか。構わない、気にするな」
口先だけの会話を続けつつかろうじて平静を保ちながら、意識を目覚めさせようとかるく頭を揺らし、コーヒーを一口飲む。
熱い液体が喉を通り抜けていく感覚が走る。
胃の腑まで落ちたとき、その反動でまるでシーソーのように花火か何かが打ち上げられた気がした。
ああ、わかった。
さすがカフェイン効果はてき面だ。
「……なあ、カミュ」
「なんだ?」
「……結局、弟子には写真を残してやるが、俺には記憶を読ませてくれるんだよな」
「そういうことになるな」
それがどうしたと言わんばかりに、カミュは不審気に眉根を寄せる。
俺はもう一口コーヒーを飲んだ。
さっきまであんなに苦かったはずなのに、砂糖をたっぷり入れたみたいにやけに甘い。
「……要するに、弟子とはそのうち離れるから写真って物が必要だけど、俺とはずっと一緒にいるからそんなものいらないって、ことだよな」
俺の指摘に虚を突かれたようにカミュは目を見張った。
動揺を抑えようとしたのか、カミュもまたカップに口を付ける。
俺と違ってあちらは苦かったようで、わずかに顔が歪んだ。
「……おまえとは、宮が近いからな」
苦し紛れのようにそれだけ言うと、カミュはもう一度苦々しげにコーヒーを飲む。
不自然なまでに俺と視線を合わせようとしない、その仏頂面を見ていると、無性に笑いが込み上げてきた。
大人気なくも半ば本気で弟子を羨んでいた自分が馬鹿馬鹿しくてたまらない。
だって、俺の方が、あいつらより恵まれている。
あいつらよりも、俺の方がよっぽどカミュの傍にいるじゃないか。
「カミュ、俺、欲しいものみつけた」
唐突に話題が変わったことに救いをみたのか、ほっとしたようにカミュは顔を上げる。
俺はテーブルの向こうに手を伸ばすとカメラの入った袋を取り上げた。
「おい、それは……」
「ん、欲しいのはカメラじゃないから、安心しろ」
抗議の視線を無視して、買ったばかりのカメラの梱包を解く。
万事に慎重なカミュらしく購入にあたり散々説明を受けていたから、店員も熱心な客に親しみを覚えてくれたらしく、フィルムを何本かサービスしてくれていた。
早速その好意を使わせてもらうことにしてカメラにフィルムをセットすると、俺は徐にファインダーを覗いた。
レンズ越しに困惑顔のカミュが見える。
カメラマンよろしくカメラを構えてみせながら俺は含み笑いをもらした。
「思ったんだけどさ。確かにおまえの記憶は正確だけど、あくまでおまえの視点から、なんだよな」
「だから?」
「二人一緒の映像がないんだよ」
「……ああ」
納得したように頷くカミュに、俺はカメラから顔を上げにこりと微笑みかけた。
「だから、一緒に写真撮ろう。俺の誕生日祝いに。いいだろ?」
俺の提案は予想外だったらしい。
意外そうに紅い瞳を見開いたカミュは、ゆっくりと瞬きをした。
「折角の誕生祝いが、そんなものでいいのか」
「ああ、むしろそんなものがいい」
無欲だ、とでも思ったのだろうか。
しばらく呆れたように俺をみつめていたカミュは、やがて深々と息を吐いた。
「とりたてて断る理由はみつからないな」
「ありがとな、大事にする。で、引き伸ばしてパネルにして……」
「……ミロ」
「すみません、冗談です」
ここに至って機嫌を損ねられでもしたらたまらない。
にっこりと愛想良く笑った俺はカメラを手に立ち上がると、カミュの気が変わらないうちに写真を撮ってもらおうと店員を呼んだ。
結局、そのフィルム一本は俺の誕生日で使いきってしまった。
こっちで現像しておくから、という口実でシベリアに戻るカミュからフィルムを預かったのは、出来上がった写真を真っ先に俺が見たかったからだ。
一枚一枚繰るごとに、カメラを向けられることに慣れてないせいか、初めはぎこちなかったカミュの表情も次第に打ち解けたものになっていく。
遠くシベリアにいるカミュが、今まさに隣にいるような気がした。
この薄っぺらい紙の中に、確かに楽しかったひとときがそのまま閉じ込められているのだ。
これを見る度に、いつでもその瞬間に立ち帰ることができる。
そう考えると、写真も悪くない。
数日前の幸福な時間に引き戻されつつ写真を捲る指は、やがて最後の一葉に辿りつく。
そこに映っているものを確認すると、思わず微笑が漏れた。
これが、俺が現像を引き受けたもう一つの理由だ。
もうフィルムはないと、あのときカミュにはそう言ったのだが、実は、嘘だった。
密かに一枚だけ残しておいたフィルムは、すやすやと眠るカミュの寝顔を撮るために使わせてもらった。
カミュの幸せそうな寝顔を見るのが俺は好きだった。
いつも夜を共にする度に、眠るのがもったいなくなって無理して起きていたりしてしまうほど、少し疲労感をにじませた、だが満ち足りた表情で眠るカミュにはひどく惹きつけられるものがあった。
「だけど、これはあいつには見せられないな」
さすがに無防備に眠りこけるカミュの写真を勝手に撮ったなどと知られたら、激怒されかねない。
だが、これはあくまで俺の誕生日祝いなんだから、ちょっとしたわがままぐらい許してもらうことにしよう。
一方的にそう決めた俺は、写真の中のカミュに微笑みかけると、写真の束を丁寧に揃え、大切に机の引き出しにしまい込んだ。