無憂宮
2009 ミロ誕


 誕生日は特別な日なのだと、そう幼いカミュに教えてくれたのはミロだった。
 その言葉通り、特別な日を迎えた自分は世界の王なのだと言わんばかりに、秋のとある一日、ミロはいつも以上に欲望に忠実だった。
 「これちょうだい」とカミュの分のデザートにまで遠慮なく手を伸ばしてみたり、「遊びに行こう」と強引にカミュを遠くまで連れ出してみたり、普段なら途中で引っ込めてしまうであろうささやかなわがままを好き放題貫き通す。
 もっとも、そんなミロの要求は全て他愛もないものだったし、おまけに見ているこちらまで嬉しくなってしまうような幸せ一杯の笑みまでついてくるのだから、カミュも別段渋ることもなくミロのしたいようにさせていた。
 そんな誕生日を幾度も経てきたからだろう。
 「だって、俺、誕生日だから」と笑顔を向けられてしまうと、カミュはどうしてもその要求を拒めなかった。
 習慣というものは恐ろしい。
 長ずるにつれミロの希望が少々無邪気とは言い難いものになってきてからも、誕生日という魔法の言葉はカミュから一切の抵抗を削いでしまうのだ。
 現に、ミロの二十回目の誕生日となる今日もそうだった。
 寝起きのまだぼんやりとした頭で、カミュは枕に頭をうずめたまま数時間前の出来事を振り返った。
 一分一秒をも惜しむように、日付が変わる瞬間を時計とにらめっこしながら待っていたミロは、時計の針が全て重なるや、にっと笑みを浮かべた。
 その笑顔は、悪戯を思いついたやんちゃな子供のような、と表することもできそうだが、蒼い瞳の奥に宿る妖しい光がそんな可愛らしい表現を許さない。
 「……誕生日おめでとう、ミロ」
 今年の彼は一体何を望むのだろうと、戦々恐々としながら祝いを述べたカミュは、次の瞬間には憂慮が単なる危惧に終わらないことを悟った。
 「ありがと、カミュ!」
 言葉だけは素直に礼を返しつつも、その態度はとても感謝しているとは思えない。
 自分がすっかり成長したことも知らない大型犬がいまだ仔犬の気分のままじゃれついてくるように、呼吸もままならないほどの激しいキスをいきなり浴びせられ、カミュはそのままベッドに押し倒された。
 待っていたのは、いつもよりも随分と過剰な愛情表現だった。
 人一倍刺激に敏感なカミュの特に弱い部分を、ミロは執拗に責め立てた。
 与えられる刺激は熱を産み、神経細胞を直接撫でられているようなぞくぞくとする快感はすぐに全身へと広がっていく。
 身体中どこもかしこも熱くて、底知れぬ性感の波に浚われ自分が崩壊してしまいそうな恐怖すら覚えたカミュは、切れ切れになりそうな理性を必死につなぎ止めながら、涙さえ滲ませ止めてくれるよう懇願したほどだ。
 それなのに、ミロはただ楽しそうに笑うだけで、カミュの身体に指や舌をひたすらに這い回らせ続けた。
 ミロの腕の中から逃れようとしては引き戻され、意味のある言葉ひとつ紡ぐこともできず、発情期の獣のような淫らな喘ぎ声をもらすしかないカミュは、一体何度果てさせられたことだろう。
 思い返すだけで顔に血が上るのを感じながら、カミュはゆっくりと上体を起こした。
 まだ今日という日は始まったばかりなのだ。
 今日だけは暴君たることを許された男は、果たして次は何をご所望になるのだろうか。
 さしあたり、次に最も可能性が高いのは食欲を満たすことだろう。
 何といっても昨夜の運動量は尋常ではなかったのだから、腹も減っているはずだ。
 当然のようにそこまで考えた自分に羞恥を覚えながら、誕生日にふさわしい朝食のメニューに思いを巡らせたカミュは、そこでようやく異変に気づいた。
 「……ミロ?」
 周囲を見渡してみたが、ミロの姿はどこにもなかった。
 シャワーでも浴びているのかとも思ったが、そんな気配もない。
 気まぐれな男だということは幼い頃から嫌と言うほど知っているが、誕生日に単独行動とはおよそミロらしくないものだ。
 この日のミロはいつだって、カミュに望みを叶えてもらう特権を行使しようと手ぐすねひいて待ちかまえているはずだ。
 不審にかられたカミュは、申し訳程度にシーツを身体に巻き付け寝台を降りた。
 かすかに漂うコーヒーの香りに誘われ台所を覗くと、ミロの痕跡があった。
 テーブル上に飲みかけのコーヒーカップを放置していくなど、カップに色素が沈着しようが一向に頓着ないミロの仕業に間違いない。
 カミュはカップを取り上げ、ついでサーバーに手を伸ばした。
 カップの方は随分冷めてしまっていたが、一応カミュの分も淹れてくれたのか、サーバーに残る一杯分のコーヒーはまだ十分温かい。
 この分なら、ミロが出ていってからまだそれほど時間は経っていないのだろう。
 決めた。
 ミロの行方を捜す。
 「……仕返しだ。昨夜は好き放題してくれたからな」
 ただ好奇心に負けたからというのではないし、彼の大切な誕生日に一人放置されて退屈だからでもない。
 これは、報復なのだ。
 そう自分に言い聞かせながら、カミュはミロのカップに残る冷たいコーヒーを一息で飲み干した。


 カミュが後を追ってくるとは思っていないのか、別にそれでも構わないと思っているのか、理由は定かではないが、ミロは特に自分の気配を消そうとしてはいなかった。
 おかげで、気取られないように小宇宙を辿れば、目指す姿をみつけるのは簡単だった。
 ミロが訪れていたのは、隣県の小さな海辺の街だった。
 朝市に行こうとしたのだろうか、街の一角、テントを張り巡らせたような簡易な店がひしめく界隈に、ミロは迷いのない足取りで踏み込んでいく。
 豊かな金髪を背に垂らした長身は雑踏の中でもよく目立ち、尾行は容易だ。
 安堵したカミュは、人混みに紛れて距離を置くと、その背中を見逃さないよう注意を払った。
 客を呼び込む活気に満ちた声や人の波、種々の食べ物の香りが混ざったような匂いに酔いそうになる。
 あまりカミュが得意とは言えない場所だ。
 しかし、そんな息苦しくなるような熱気も、ミロは全く苦にならないらしい。
 そこかしこの店を冷やかしながら朝市をくぐり抜けていくミロは、財布を出した様子もないのに、いつの間にかオレンジを手にしていた。
 カミュにしてみれば手品でも見せられている心境だ。
 調子のいい笑顔と親しみやすい会話術で相手の懐に飛び込むのが上手いミロのこと、大方、誕生日祝いに、とでも言って店主にねだり、首尾良く好物の果実をせしめたのだろう。
 本当に不思議な男だと、カミュは思う。
 快活な性格で誰からも愛され慕われるのに、幼い頃からそんなミロが執着するのは、カミュ一人なのだ。
 融通が利かなくて理屈っぽい、決して他人に好かれるとは言い難い自分の難儀な性格には我ながら呆れるばかりだが、それでも、ミロが好きだと言ってくれるから、カミュは自己嫌悪の塊にならなくてすんだということも、口にこそ出したことはないがよくわかっている。
 カミュは唇を噛みしめた。
 認めよう。
 周囲の人間は皆、ミロが一方的にカミュに惚れ込んでいると思っているようだが、それは違う。
 その証拠に、例えば仮に相手を失ったとき、よりダメージを被るのは、恐らくミロではなくカミュの方だ。
 だから、誕生日という年に一度の特別な日にミロが自分と過ごさないのは、嫌なのだ。
 嫌で嫌でたまらないから、こうして後を追いかけてしまうのだ。
 思いの他に独占欲の強い自分を発見したカミュは、ふっと自嘲の笑みを漏らしつつ先を行くミロの背をみつめた。
 朝市はただの通り道にすぎなかったらしく、彼はすでに次の目的地に向かっていた。
 時折周囲の風景を確認するように見回しながら、ついでミロが入っていったのは意外な場所だった。
 先程までの喧騒とは打って変わった静謐な空間。
 墓地だ。
 以前にも来たことがあるのか、朝日に照らされ整然と並ぶ白い石碑の合間を、ミロは迷う素振りも見せずに進んでいく。
 市とは異なり人海に紛れることもできず、カミュは少し躊躇ったが、程なく意を決するとかなりの距離を置いて後に続いた。
 ミロはどの墓に用があるのか、それさえわかれば後日再訪して確認することもできる。
 そう考えて追いかけるカミュの視線の先で、やがてミロは足を止めた。
 墓所の最奥付近の、周囲のものよりも一回り大きい立派な墓石だ。
 いや、違う。
 ミロがじっと視線を注ぐのは、正確にはその傍ら、恐らくは子供のものと思われる小さな墓だった。
 彫像のように微動だにせず立ちつくすミロを訝り、カミュは少し、また少しと足音を立てずに近づいた。
 幸い付近には、墓参の客を労うように涼しげな影を落とす立木がある。
 その陰に隠れるようにして、カミュは懸命に首を伸ばしミロの様子を窺った。
 どれだけの時間、そうして世界から忘れ去られたように直立していただろう。
 「……いつまで隠れてるつもりだ?」
 振り返りもせずにミロは問う。
 やはり、気づかれていていたのか。
 一瞬心臓が震えたが、ミロの後を追いかけてからずっと、こうなることを予期していたような気もした。
 むしろ、もう下手な尾行を続けなくてもいいと思うとほっとする。
 ひとつ息を吐くと、カミュは木陰から抜け出した。
 降り注ぐ陽のまぶしさに一瞬目が眩む。
 わずかに目を眇めつつ、それでもできるだけ平然と聞こえるよう願いながら、カミュは口を開いた。
 「すまない、つい……」
 「ああ、わかってる」
 ついでミロは悪戯っぽく口の端を持ち上げた。
 「というか、追いかけてきてくれたらいいな、と思ってた」
 長年の付き合いの友人とはいえ、さすがにその思考の全てを掌握している訳ではない。
 真意を測りかね眉をひそめるカミュに、ミロは微笑を浮かべたまま再び背を向けた。
 その瞳がみつめるのは、やはり先程の墓石だ。
 「……誰の墓か、訊いてもいいか」
 「どうぞ」
 答える代わりに、ミロは一歩横に退いた。 
 墓石に刻まれた字句をカミュ自身で読めということだろう。
 促されるままに近づいたカミュは墓碑名に目を向けた。
 そこに記された文字は容易に読めた。
 しかし、その意味を理解することは、脳のどこかが頑なに拒んでいた。
 しばしの沈黙の後、ようよう一つの答えを受け入れるしかないと悟ったカミュは、ゆっくりとミロに視線を転じた。
 「……ミロ、これは……」
 「ん、俺の墓」
 墓石に刻まれていた名は、確かにミロのものだ。
 生年も、正しい。
 だが、没年は誕生のわずか五年後となっていた。
 墓石を、ついでミロをじっと凝視するカミュに、十年以上前に既にその墓の下で眠っていることになっている青年は、クイズの答えでも教えるようにさらりと続けた。
 「この辺、俺の故郷なんだけどさ」
 この地方では、聖域からそれほど遠くないという事情からか、事故や事件で幼い子供が行方不明になると『聖闘士になった』という言い方をする習慣があるという。
 もちろん聖域はあくまで神話の世界の存在だと一般的には思われているのだから、不幸な出来事に遭遇してしまったのだと彼らが理解していない訳ではない。
 ただ、いなくなった子供は聖闘士になり女神を守護しているのだと、そう信じることで、残された家族は幾らかなりとも心の平穏を保つことができるのだ。
 黄金聖闘士になるべく聖域に連れて来られたミロも、事情も告げられずに残された家族からすれば『聖闘士になった』子供なのだろう。
 「でも、俺は本当に聖闘士になっただろ。だったら家族に会いに行ってもいいんじゃないかと思って、俺、ガキの頃師匠に聞いたんだよな」
 せがまれたミロの師は、少し困ったような顔をして、こう言ったそうだ。
    いいだろう。ただし、大人になったら、だ。それまでは立派な聖闘士になれるよう、修行に励め。
 煌びやかな黄金聖衣をまとって会いに行ったなら、家族もきっと喜んでくれる。
 そう考えたミロは、二十歳になる日を心待ちにしていたのだ。
 「……そうか。それは初めて聞いたな」
 「ああ、初めて言う」
 ミロは少し照れたように笑った。
 ミロとは異なり、どういう訳かカミュには聖域に来る前の記憶がない。
 まるですっぽりと抜け落ちてしまったような記憶のファイルの最初に綴じ込まれているのは、サガに手を引かれて十二宮の階段を上っている情景だ。
 そんなカミュに、幼いなりにミロは気を遣っていたのだろう。
 いや、もしかしたら、今も、なのかもしれない。
 だから、ミロは何も言わずに一人で帰郷したのだ。
 もしかしたら、前夜いつになくカミュに無茶を強いたのも、このためだったのかもしれない。
 それでも、十数年ぶりの再会にほんの少し感じてしまう気後れから、どこかでカミュが同行してくれることを願い、わざと気配を残したまま移動したのだろう。
 全く、手のかかる男だ。
 カミュは微笑んだ。
 初めから素直に一緒に行ってくれと言えばいいのに、どうしても言えなかったのだろう。
 「では、今から家族に会いに行くのか?」
 「いや、行かない」
 予想外の返事に、カミュはわずかに眉を持ち上げた。
 ミロは再び小さな墓石を見た。
 「今会ったって、そう遠くない未来に聖戦があるだろ。そのときまた悲しませるより、もう俺はいないものと諦めていてくれた方がいい」
 その方が、ずっといい。
 小さな声でそうミロは繰り返した。
 かけるべき言葉もみつからず、ただ黙ってみつめるカミュに、ついでミロは気分を変えるように笑いかけた。
 「でもさ、俺たち黄金ってつくづく罪作りだよな。転生で聖闘士になる運命だってのに、普通の子供として生まれてくるんだからな」
 自分たちの存在は、少なくとも一つの家族から幼児を奪う結果の上にあるものだ。
 そういうミロの口元は笑っていたが、瞳が少し寂しげに陰っていた。
 冗談めかしてはいるが、それもまた家族の前に姿を現すことをためらう理由の一つなのだろう。
 「……そうかもしれないな」
 カミュはちらりとミロの墓を見た。
 十年以上前に建てられたものであろうに、よく手入れがされている。
 その墓を見ながら、カミュは早口で続けた。
 「だが、そうして家族が悲しむことができるのも、平和が保たれているからだろう。戦乱の中にあっては、死を悼む余裕すら持てないかもしれない」
 私たちは、その平和を維持するために存在しているのだ。
 自分にも言い聞かせるようにそう言い切ったカミュは、口を噤むとじっとミロを見た。
 詭弁だと、思う。
 それでも、それでミロの気が少しでも晴れるのならば、どんな理論武装だろうと施してやりたかった。
 その想いが伝わったのだろう。
 かるく目を見張ったミロは、その蒼い瞳でまじまじとカミュをみつめ、ついでふうと大きく息を吐いた。
 「……敵わないな、カミュには」
 笑うミロの顔からは、一切の曇りが消えていた。
 誕生日にふさわしい、光が溢れんばかりの屈託ない笑顔だ。
 やはり、ミロにはこの表情がよく似合う。
 眩しさに、カミュはそれとなく目を伏せた。
 そんなカミュの様子に気付かないのか、ただ気付かない振りをしているのか、ミロは何事もなかったかのように太陽に向かいひとつ大きく伸びをした。
 「さ、朝食食べ行こうぜ。今日、誕生日なんだから、俺の好きなものでいいよな」
 「誕生日でなくとも、おまえはいつも好物しか食べないだろうが」
 「だって、どうせなら美味しいもの食べたいじゃん」
 快活な笑い声を上げながら、先に立ってミロは歩き出す。
 と、数歩行ったところで、その足が止まった。
 「どうした、ミロ」
 「いや……」
 心ここにあらずといった様子でうわ言のように呟いたミロは、ぺろりと唇を舐めた。
 「やっぱ、ちょっとここで待ってて」
 訝るカミュの返事も待たず、ミロは大股で足を進めた。
 不審に駆られその背を見送ったカミュは、視界の端に入り込んできた第三者の存在に気付いた。
 ちょうど墓所の門を、中年の女性がくぐり抜けてくるところだった。
 両腕に花を抱えたところを見ると、誰かの墓参りなのだろう。
 真っ直ぐこちらへ向かってくるその女性とすれ違うには墓地の小路は少々狭かったようで、ミロは傍らに避けて道を譲っていた。
 待避の礼を言われたらしく、すれ違いさま二言三言会話を交わした彼らは、それぞれ反対方向を目指し歩き出す。
 こちらに来る女性を通してやろうと先程のミロのように脇に避けて待っていると、彼女はカミュににこりと笑いかけた。
 「ありがとう。いい朝ね」
 「あ、……はい」
 話しかけられるとは思わず、まごついたカミュの様子がおかしいのか、蒼い瞳が楽しげに細められる。
 その笑顔をどこかで見たことがあるような気がして、カミュはわずかに首を傾げた。
 既視感の正体は、わからない。
 だが思案しているうちに、女性が花束に加え瑞々しいオレンジをも手にしていたことに気づいた。
 束ねられた金色の髪が豊かに波打つ後ろ姿をしばし呆然と見送ったカミュは、その行き先を見届けもせず、ミロを追いかけ走り出した。
 立ち止まってこちらを眺めていたミロは、カミュが追いつく前にくるりと背を向けてしまった。
 だが、彼が反転するその瞬間、その口元がかすかに綻んでいたことを、カミュは見逃さなかった。

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