無憂宮
2011 ミロ誕


 例年のこととは言え、誕生日祝いに何が欲しいと聞かれても、なかなか即答はできないものだ。
 前もって考えておかないからだと呆れ顔でたしなめられるのもいつものことで、その度に俺は「来年はそうする」と笑ってごまかしていた。
 とはいえ、俺とて考えていないことはないのだ。
 人並みの物欲はあるから、欲しい物だってそれなりにある。
 ただ、それがカミュからもらう誕生日祝いともなれば話は別だ。
 遠く離れて暮らす恋人を常に傍に感じられるような、大切な人に誕生日を祝ってもらった記念になるような、特別な何か。
 秋が深まり俺がこの世に生を受けた日が近づくにつれ、そんな宝物となりうる物はないかと考えを巡らせてみたりはするのだが、これといった物はなかなか思いつかない。
 結果、当て所もなく二人でふらふら街を歩いてみたり、一緒に美味い食事を楽しんだり、毎年毎年誕生日とはいえ普段と全く同じ過ごし方になるのが常だった。
 カミュと一緒というだけで貴重な時間だったから、それはそれで不満はなかったのだが、しかし今年は違う。
 珍しく早々に欲しい物を決めた俺は、意気揚々と希望を述べた。
 「……それが、本当におまえの欲しい物なのか」
 「ああ」
 意表を突かれたのか、かるく瞳を見開いていたカミュは、ついで深々と溜息を吐いた。
 「……落胆したぞ、ミロ」
 「何で!」
 驚くのは今度は俺の方だ。
 戸惑う俺を、カミュは険しい顔で睨みつけてきた。
 「眼鏡を必要とするほど目が悪くなるなど、黄金聖闘士の名折れだ。恥を知れ」
 「……は?」
 一瞬冗談を言っているのかと思ったが、柳眉を逆立てるカミュの表情は真剣そのものだ。
 「目の焦点が合わなくなるのは、毛様体筋の柔軟性が落ちたからだ。道具に頼るより、まずは筋肉を鍛えるのだな」
 「……カミュ、ちょっと待て」
 誕生日を祝ってもらうどころか滔々と説教を食らうはめになりそうで、慌ててカミュを押し止める。
 「俺の目は別に悪くないって。あれだ、ファッションだよ、ファッション」
 徹底した実用主義のカミュのことだ。
 眼鏡に視力矯正以外の役割があるということに、全く考えが及ばなかったのだろう。
 戸惑いながらも俺の説明を咀嚼したカミュは、ようやく事情が飲み込めたようで、照れくさそうに笑った。
 「そうか、それならおまえの好きにすればいい」
 「ああ、そうさせてもらうな」
 めでたく了承を取り付けた俺は、カミュを伴い早速買い物にでかけた。
 眼鏡が欲しいと思い始めて以来、俺は既に何件かの店を巡り、候補をかなり絞っていた。
 当たり前のことだが、一年に誕生日は一日しかないのだ。
 ああでもないこうでもないと迷いつつ店をはしごするのも楽しいかもしれないが、俺はそれよりも他のもっと有益なことに時間をとっておきたい。
 幸い鈍感なカミュはそんな俺の密やかな努力には気づかないようで、俺に促されるままに素直に店まで着いてきてくれた。
 大々的な外資企業の参入で街並みはかなり変容を遂げたようだが、まだまだこの国は小ぢんまりとした職人気質の店の方が圧倒的に多い。
 俺がカミュを連れていったのも、親子だけでやっている小さな、だが拘りの眼鏡を揃える店だった。
 「いらっしゃいませ」
 すっかり顔馴染みになった若い店員が親しげな笑みを向けてくるのを、かるく目で制する。
 一応事情は説明しておいたから、店員は訳知り顔で小さく頷くと、それ以上俺たちに無闇に近づいてこようとはしなかった。
 今まで眼鏡をかける必要などなかったから、こういった店に入るのも初めてなんだろう。
 宝飾品のように整然と眼鏡が並ぶ店内を、カミュは物珍しげに見回していた。
 こういうとき、俺は密やかな自己満足に浸ることができる。
 カミュは頭もいいし博識なのだが、社会経験に乏しいせいか時折常識外れの言動で周囲を驚かせたりもする。
 俺だって威張れるほど世慣れている訳ではないが、少なくともカミュよりはましだという自信があったから、こうして彼を色々なところに連れていき経験値を積ませるのはカミュと一番親しい自分の務めだと、勝手に決意していたのだ。
 目に映る全ての事象を記憶に焼き付けようとでもするような生真面目な横顔を見ていると、カミュの初めての体験を共有したという、この事実だけでも十分に誕生日祝いをもらったような気分になる。
 だが、あまり傍でみつめすぎていては、さすがに不審がられてしまう。
 少し未練を残しながらも無理矢理視線を断ち切った俺は、さりげなく眼鏡のひとつを手にした。
 「カミュ」
 振り向いた顔に、すっと眼鏡をかけてやる。
 「何だ?」
 薄いブルーのレンズの向こうで、紫色になったカミュの瞳が怪訝そうに俺を見る。
 「これ、どうかと思って」
 「おまえの眼鏡を探しているのだぞ。私がかけてどうする?」
 乱暴に扱って壊してはならないとでも思っているのか、カミュはぎこちない手つきで眼鏡を外そうとした。
 「俺はもうかけてみたって。他の奴がかけたらどんな風に見えるか知りたいんだよ。ほら、店員だって眼鏡だろ」
 カウンターの向こうを指さすと、さりげなく会話に聞き耳を立てていた店員が、こちらを向いてにこりと笑いかけてくる。
 そう言えば、彼は日替わりで毎日違う眼鏡をかけているという話だった。
 先日来店したときと少し印象が違うのは、そのせいか。
 もしかしたらカミュも、眼鏡をかけると普段とは雰囲気が変わって見えたりするのだろうか。
 期待しながら目で促すと、カミュはようやく納得したらしく、そっと眼鏡の位置を元に戻してくれた。
 紅い瞳が、再び紫がかった色になる。
 その背を押して鏡の前に連れていくと、鏡の中のカミュは幾分緊張気味に見慣れない自分の姿を凝視していた。
 「どうだ?」
 「……おまえが気に入ったのなら、良いのではないか」
 確かに、気に入った。
 薄いスクエア型のレンズと視界を邪魔しない細い銀フレームは俺にもそれなりに似合っていたと思うが、その俺よりももっとずっとカミュの方がよく馴染んでいた。
 こうして見ると、気の強さを窺わせる鋭い瞳が、眼鏡でワンクッション置くせいか幾分和らいで見える気もする。
 カミュも満更ではないことは、その必要以上にぶっきら棒な口調からもわかる。 
 決まりだ。
 「そうか、じゃ、これにする」
 カミュの顔からそっと外した眼鏡を、俺は神への供物のように恭しく捧げ持った。
 「支払いよろしく、カミュ」
 「どういたしまして。誕生日おめでとう、ミロ」
 おどける俺の手から、カミュは眼鏡を取り上げた。
 声は平然としているのに妙におっかなびっくりな手つきが、ひどくアンバランスで滑稽だった。


 一時間ほど外をぶらついて戻ってくると、眼鏡はすでに仕上がり俺たちの帰りを待っていた。
 他にもたくさん仕事はあるだろうに最優先で仕上げてくれた店主に丁寧に礼を言って、再び外へ出る。
 陳列した商品に配慮し幾分照明を落とした店内の薄暗さに慣れてしまっていたから、秋とは言えまだまだ眩しい陽射しが一層強く眼を焼く気がした。
 カミュも手をかるく目のあたりに添えて影を作り、陽光に目が慣れるのを待っているようだった。
 俺は早速誕生日祝いにもらった眼鏡を取り出した。
 このレンズは偏光グラスな上、うっすらと色が着いている。
 陽射しを遮る効果を期待できるはずだった。
 「カミュ、早速これかけていいか?」
 「ああ、もちろん。むしろ使ってくれた方が贈った甲斐がある」
 「ん、ありがとな」
 お言葉に甘えることにして、眼鏡の細い弦を両手でそっと持つ。
 「カミュ」
 「何だ」
 呼びかけに応じてこちらを向いたカミュに、俺はひょいと眼鏡をかけてやった。
 「……何だ?」
 「眼鏡かけてみた。いいって言ったろ?」
 「私ではなく、おまえがかけろと……」
 すぐさま眼鏡を外そうとするカミュの手を押さえ、オレはすかさず言い募った。
 これは俺がもらった誕生日プレゼントなのだ。
 それをどう使おうと、俺の勝手だ。
 あくまで正当な所有権の行使をしているにすぎないのだと嘯く俺に、カミュは少し戸惑ったように言い淀む。
 「しかし……」
 「おまえだって、それかけてた方が目が楽だろ」
 薄青いレンズの向こうで、カミュは何度か瞬きを繰り返した。
 カミュの瞳は、元々綺麗な紅い色をしている。
 紅玉のようだと、幼い頃から俺はその美しい瞳をいつも褒めていたのだが、カミュ本人はあまり気に入っていないらしい。
 人とは違ったその色が珍しがられるから、というだけが理由ではないらしいと知ったのは、最近のことだ。
 カミュの瞳が紅いのは、生まれつき色素が薄いから、なのだそうだ。
 それだけなら取り立てて害はないようにも思えるが、そのせいで人よりも光の刺激に弱いとなれば話は別だ。
 思い返せば子供の頃から、カミュは外で遊ぶよりも屋内で本を読む方を好んでいた。
 強いギリシャの陽射しが目に負担を強いていたのかもしれないと、そう考えれば今更ながらに納得がいく。
 羞明とかいうその厄介な症状を何とか和らげてやることはできないかと考え、辿り着いたのが眼鏡だった。
 とはいえ、今まで二十年近く、そんな物がなくとも過ごしてきたのだ。
 せっかく俺が勧めたとしても、カミュの中では不要品として位置づけられてしまいかねない。
 そこで俺は一計を案じたのだ。
 とにもかくにも現物を手に入れてしまえば、さすがのカミュも捨てるとは言い出さないだろう。
 しかも、それが誕生日プレゼントという特別な品では、尚更だ。
 こうして俺は、間近に迫る俺自身の誕生日を利用して、カミュに眼鏡をかけることの快適さに気づかせてやろうとしたのだった。
 「だが、ミロ……」
 カミュは眼鏡の弦に指をかけたまま眉をひそめた。
 なおも渋りながらも眼鏡を外すのをためらっているのは、この方が楽だろうという俺の指摘が図星だった証だ。
 ここぞとばかりに俺は畳みかけた。
 「おまえ、誕生日なんだから俺の好きにすればいいって言ったよな。おまえがそれかけてデートしてくれたら、誕生日祝いはそれでいいって。気が済まないって言うなら、あとで他の祝い方してくれればいいし」
 意味ありげににいと口角を持ち上げてやると、不埒な申し出をされたと思ったのか、カミュの頬にさっと赤みが差した。
 それ以上我を張ると後で悔いることになるのは自分だと、俺との付き合いの長いカミュは十分にわかっているはずだった。
 「……わかった。ただ一応言っておくが、私はおまえにやったこの眼鏡を、あくまで借りているだけなのだからな」
 無償無期限の使用貸借など、実質的にはほとんど贈与のようなものだ。
 しかし、その形式論が、カミュが己を納得させる最後の拠り所なのだろう。
 「ん、了解」
 真面目な顔をして頷いてやると、カミュはようやく割り切ることができたらしい。
 見慣れたはずの風景も眼鏡をかけたままだと違うのか、カミュはきょろきょろと物珍しげに周囲を見回す。
 「何だ? 何か面白い物でも見えるのか」
 からかい半分に問いかけると、カミュはわずかに首を傾げた。
 「そうではないが……全て青みがかって見えるのだ」
 カラーレンズ越しに見ているのだから当然だろう。
 そう言おうとした矢先だった。
 「おまえの瞳で見たら、世界はこんな綺麗に見えるのかと思ってな」
 続くカミュの台詞は、俺の足から一気に力を奪った。
 天才と何とかは紙一重とはよく言ったものだ。
 カミュは生来頭はいいのだが、時に、本当に極たまに、俺なんかよりもはるかにずっと馬鹿だ。
 冷静になれば彼もすぐに自分の過ちに気づくのだが、普段の賢明な言動とのギャップもあり、時折こうして何気なく落とされる爆弾の破壊力は絶大なものだった。
 「どうした、ミロ」
 ふらふらとその場にしゃがみ込んで笑いをこらえる俺の頭上から、カミュの声が降ってくる。
 きっかり十数えた後、勢いよく立ち上がった俺は、無言のままカミュの手を取って走り出した。
 訳もわからないままに、それでもカミュが黙って俺に着いてきてくれたのは、今日が俺の誕生日だからなのかもしれない。
 そんなささやかな喜びを味わいながら、人垣の合間をすり抜けて表通りを突っ切り、たまたま目に付いた狭い路地裏に向かう。
 剥き出しの配管に邪魔されすれ違うこともできないような狭いスペースまで辿り着くと、俺はようやくカミュに向き直った。
 「どうした、猫でもいたのか?」
 唐突な俺の行動を訝るカミュの、ひどく間の抜けた言葉が決定打だった。
 「全く、反則的に可愛いな、おまえ!」
 カミュの肩をとんと軽く突き飛ばし、よろけたところを壁についた両腕の間に閉じこめる。
 「カミュ……」
 ここまで一気に走ったからというのとは明らかに違う理由で、呼吸が少し荒くなる。
 自分の言行がきっかけになったとは夢にも思っていないのだろうが、かきたてられた俺の欲は伝わったようで、壁に退路を断たれたカミュはわずかにたじろいで周囲を見渡した。
 背の高い建物に挟まれた、およそ人が通ることなど想定されていない裏路地だ。
 燦然と日に照らされる表通りを行く人々は、こんな薄暗い所に人間がいることになど、ほとんど気づきはしないだろう。
 「キスだけ、な」
 誕生日を迎えたとはいえ、今すぐ触れたい抱きしめたいキスをしたいという衝動を抑えられるほど、俺は大人にはなれないし、なりたくもない。
 下手に抵抗しても俺を煽るだけだと思ったのか。
 せがむような俺の言葉は、カミュを諦めの境地に誘う呪文の効力を果たしてくれたようだ。
 眼鏡の奥で、カミュは大人しく瞼を閉じてくれた。
 ありがたく唇を頂こうと、そろそろと顔を寄せる。
 と、カミュの瞳が再び見開かれた。
 「ミロ」
 「ん、後で……」
 「いや、今すぐでないと困る」
 折角の艶めいた雰囲気をぶち壊され、渋々ながら俺は少しカミュから離れた。
 「何だよ?」
 「……壊れない、だろうか?」
 カミュの声に極微量に含まれる不安を感じ取った俺は、じっと彼をみつめた。
 眼鏡の向こうで、カミュの紫に染まった瞳が困ったように揺れている。
 どうやら、この華奢な眼鏡が口づけの拍子に壊れてしまうことを恐れているらしい。
 ふっとかるく息を吐いた俺は、にやりと笑ってみせた。
 「試してみろよ。おまえが大人しくしてたら、平気だろ」
 そう言いながら顎に指をかけてやると、いつもなら拘束されるのを嫌がって顔を背けてしまうカミュが、今日は黙ってされるがままになっていた。
 どうやら、よほど眼鏡が大事らしい。
 少し眼鏡に嫉妬を覚えながら、それでも外にも関わらずカミュが抵抗らしい抵抗をみせないというこの珍しい機会を堪能させてもらおうと、そろそろと二人の距離を縮める。
 「ミロ」
 が、あと少しというところで、俺はまたカミュに止められてしまった。
 「今度は何だよ?」
 さすがに声に少し苛立ちが混じるのを隠せない。
 だが、カミュは平然としたものだった。
 「今言っておきたいのだが」
 「何を?」
 ぶっきら棒な問いかけに、カミュは眼鏡の奥の瞳を悪戯っぽく細めた。
 「誕生日おめでとう」
 「……ありがとう」
 予想外の祝辞に俺の中の荒ぶりが一瞬陰を潜めた、その瞬間だった。
 くいと頭ごと引き寄せられた俺の唇に、前触れもなく柔らかいものが押しつけられる。
 「……え……?」
 唇に、甘い痺れがまとわりつく。
 茫然とする俺から、名残のような吐息を置き土産に離れていくのは、カミュだった。
 俺と目が合うと、勝ち誇った笑みを浮かべ、舌先でさっと唇を舐める。
 「確かに、大人しくさえしていれば、眼鏡を壊さなくても大丈夫らしいな」
 ついで、指先でかるく眼鏡を押し上げたカミュは、くるりと踵を返した。
 「せっかくいい品を手に入れたのだ。日のある内に外を歩きたい。付き合え」
 背中越しにそう言い捨てると、カミュは俺の返事も待たずにさっさと表通りに向かって歩き出す。
 「おい、こら、カミュ」
 呼びかけてみたが、俺の声が全く聞こえていないのか、その歩みが鈍ることもない。
 「……今日は俺の誕生日だっての、忘れてるんじゃないだろうな」
 ぼそりと呟いた俺の声は、自分で聞いても随分と楽しげなものだった。
 カミュが眼鏡を必要とするのは、太陽が燦然と輝く昼間だけだと、彼は自分で言っているのだ。
 それならば夜になったなら眼鏡は外すつもりなのだから、壊してしまう心配もない。
 多少乱暴な振る舞いに及んでも許される、ということだろう。
 少々飛躍した結論だが、夜に向けての楽しみがまた一つ増えた気がする。
 「待ってろよ、カミュ」
 光の中に溶け込んでいこうとするカミュの背に一方的に宣戦布告すると、先を行く彼を追いかける。
 走り出した足が今にも踊りだしそうにはしゃぐが、抑える気にはならなかった。

CONTENTS