2012 ミロ誕
聖闘士の頂点に立つ黄金聖闘士は、女神を、そして十二宮を守護する存在だ。
その存在理由の故か、俺たちは聖域もしくはその周辺地域に滞在することが常となっている。
もちろん時には任務等で聖域を離れることはあったが、小宇宙の消費量を抑えるために飛行機等を利用する白銀聖闘士などと違い、その場合でも基本的には自力で移動することになっているのもその表れだろう。
光速移動の方が圧倒的に速いのだから当然といえば当然なのだが、だからこそ俺たちは普通の人々が羨ましい。
飛行機や鉄道など、速く遠くへ行きたいと願う人の心が何世紀もかけて作り上げた技術の成果を体感してみたいと思うのは、俺だけではないはずだ。
少なくとも、ここにそんな人間が、俺以外にももう一人。
「どうした、ミロ、にやけた顔をして」
「いや、気持ちいいなと思って」
「……そうだな」
他人の顔のことを批判できる訳がない。
少しだけ開けた列車の窓から吹き込む風に長い髪をなぶらせながら、カミュは機嫌のいい猫のようにうっとりと目を細めていた。
一週間ほど前のことだ。
他の人間なら気づかないだろうが、俺にははっきりとわかる程度に顔に喜色を浮かべたカミュがふらりと天蠍宮にやってきた。
「ミロ、旅行に行くからつき合え」
「なんだよ、突然」
そんな楽しげなお誘いならむしろこちらから飛びつきたいところだったが、カミュには珍しいあまりの唐突さに、わざとらしくも呆れてみせる。
しかし俺の消極的な反応になどお構いなく、ひどく得意げにカミュは笑った。
「十二時間の鉄道旅行だ。幸い個室の予約がとれたのでな」
「へえ、で、どこに行くんだ?」
半日とは随分の長旅だ。
俺たちならばそれだけ時間をかければ月にだって行けるんじゃないか、なんて馬鹿なことを結構真剣に思いながら尋ねる。
旅に誘われた以上、その質問は至極当然な疑問のはずだ。
だが、予想外なことにカミュは困ったように眉をひそめた。
「……どこだろうな」
「知らないのかよ!」
どうやらカミュは、長時間列車に、しかも個室に乗っていられるという点にだけ惹かれて飛びついたらしい。
カミュにしてみれば、目的地などどこでもよかったのだろう。
とはいえ、その気持ちもわからなくはない。
滞在を楽しみたければそこまで光速で移動してしまえばいい俺たちにとっては、移動過程だけでも十分旅行になりうるのだ。
それに正直なところ、そこが雪と氷に閉ざされたシベリアだろうと亜熱帯のジャングルだろうと、俺にはどうでもいい話だった。
カミュと一緒にいられる限りという最も重要な条件をクリアしている以上、断る理由などどこにもない。
こうして首尾よく俺の承諾を取り付けたカミュは、さすがに目的地を知らないということで少し気まずげだったが、それでもこの日は空けておけと命令口調で言い放ち意気揚々と宮を後にした。
旅の支度をしなければならないなどと面倒くさそうに呟きつつ、その背中は言葉とは裏腹に随分と楽しげだ。
遠ざかるカミュを見送りながら、俺は自然と微笑んでいた。
もちろん、その日は空いていた。
だってカミュが指定したその日は、俺の誕生日なのだ。
カミュはそんなこと一言も言っていなかったが、この唐突な旅企画は俺への誕生日プレゼントであることに間違いはない。
俺の誕生日を忘れられないものにしようと、カミュは一生懸命考えて、列車の旅という魅力的な企画を思いついたのだろう。
生まれてきた日を祝うために、こんなにも心を砕いてくれる人がいる。
しかもそれが親友にして最愛の恋人だなんて、これを幸せと呼ばないで何と言うのだ。
どこかくすぐったいような、無尽蔵に溢れてくる愛しさを胸の奥に大切に抱きながら、一週間後の誕生日が来るのが楽しみでならなかった。
純白のミルクの中に一滴のインクを落としたように、楽しみの中に生じた疑念は、旅が進むにつれ次第次第に不気味な存在感を放ちだしていた。
もしかして、いや、そんなはずがない。
必死で打ち消してはみたものの、カミュが鞄の中から本を取りだしたとき、疑惑は確信に変わった。
「……なんで読書?」
俺がいるのに、という一言はかろうじて飲み込んだ。
言うまでもなく、読書とは本と自分の中に浸る業だ。
どれほど傍にいようと他人の存在など無用となる、完全なる自己完結行為だ。
向かい合って座っていると膝が当たりそうなこの狭いコンパートメントで読書に耽るということは、俺を黙殺しようとしてるも同然だった。
だが、わずかに棘を含んだ俺の問いかけに、カミュは悪びれもせずに答えた。
「列車でこうして本を読むのが夢だったのだ。おまえも読みたいのなら、何か貸すが」
「……いや、いい」
あまりにけろりとした受け答えに、カミュに悪気がないのがわかりすぎるほどにわかったから、それ以上何も言えなくなってしまった。
俺は窓枠に片肘をついて景色を眺めるふりをした。
ちらりと横目で見やると、カミュは再び本に目を落としていた。
この調子では、多分ものの数分もしないうちに書物の世界に没入し、俺の声も一切耳に入らなくなってしまうだろう。
もはや疑いようもなかった。
カミュは、今日が俺の誕生日だということを忘れている。
今更ながら思い返してみれば、そもそもこの旅も、たまたま切符がとれたからと誘われたものだ。
ということは、偶然列車に空きがあったから今日になったというだけで、カミュにしてみればこの旅行は明日でも昨日でもいつだってよかったのだ。
一つのことに集中するとそれだけで頭が一杯になってしまう不器用なカミュのことだ。
今回は初めての鉄道旅行という試みに記憶も思考も全て使ってしまい、俺の誕生日に思いを馳せる余裕などなくなってしまったのだろう。
何だかんだいいつつ例年覚えていてくれるから、今年は俺も誕生日をアピールすることはなかったのだが、どうやらそれが裏目にでたらしい。
カミュは別に、俺の誕生日を祝ってくれるつもりで旅に誘ったのではなかったのだ。
窓の外、延々と続く緑の草木の中に点在する羊を数えながら、俺は気づかれないようにそっと溜息をついた。
もう子供じゃないんだから誕生日なんかどうでもいいじゃないかと必死で自分に言い聞かせてみたが、心密かに期待していた分、落胆の度合いは半端ない。
俺はカミュの誕生日を忘れたことなんて一度もないのに、カミュにとっては俺の誕生日など大して意味がないものだったのだ。
ひょっとしたらカミュは俺をそれほど好きではないんだろうか、幼馴染みからの腐れ縁と諦め惰性で付き合っているだけなんだろうかなどと、考えれば考えるほど思考は陰に落ちていく。
誕生日という一年で一番喜ばしい日であるべき今日、感じるのはただ寂しさばかりだった。
羊の数は眠れぬ夜の呪文のようなものだ。
その効果は走る列車内でも遺憾なく発揮されるらしく、気づけば俺は眠ってしまっていたらしい。
眠りの国の外側から聞こえる小さな物音に現実に引き戻されたのだが、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
椅子に座っているはずなのに動いているという不思議な感覚と心地よい振動、そしてすっかり慣れてしまった規則正しい走行音に、しばらくしてようやく列車旅行中だったということを思い出す。
カミュはといえば、やはり本を読みながら眠ってしまったらしく、本を膝の上に置いたまましどけない寝顔を晒していた。
じっとみつめていると、ふと苦笑いが込み上げてきた。
ずるいなと、いつも思う。
普段生真面目な表情を崩さない分、眠っているときのカミュの無防備な顔は余計に可愛らしく思えるのだ。
無垢な、と言ってもいい穏やかな寝顔をみつめていると、誕生日を忘れられていたことなんて、もうどうでもよくなってくる。
誕生日は覚えてくれていなくても、カミュが一緒に旅行に行きたいと思ってくれるのは、この俺なのだ。
それで、十分だ。
そうして現実に戻ってきた俺は、個室の扉を繰り返し叩く音に起こされたのだということにやっと気づいた。
ノックに急かされるようにして扉を開けると、そこには愛想の良い笑みを浮かべた制服姿の男が立っていた。
「おくつろぎ中失礼します。乗車券を拝見――」
カミュを起こすのも可哀想だと唇の前で指を一本立ててみせると、事情を察したのか車掌は慌てて口を噤んだ。
さて、困った。
乗車券と言われても、今回の旅を取り仕切っているのはカミュなのだ。
随員にすぎない俺は乗車券がどこにあるのか知らないのだが、みつからなければカミュを起こすことにして、とりあえず心当たりを探してみることにした。
まずは上着だ。
壁に設えられたコート掛けに歩み寄った俺は、カミュがいつも大事なものをいれる上着の内ポケットを探った。
やはり、そこには何かがあった。
手に触った物をまとめて取り出してみる。
封筒と箱だった。
「……あ」
思ったとおり、封筒には乗車券が入っていた。
だがそれ以上に俺の目を引いたのは箱の方だった。
腕時計とか万年筆とかが入っていそうな長方形の小ぶりな箱なのだが、綺麗に包装され丁寧にリボンまでかけられているのだ。
どう見てもこの箱は贈り物だ。
これが誰に、どんな意図を以て贈られるものか、想像力が豊かでなくても容易にわかる。
全く、カミュという奴は。
俺の誕生日だということに気付いていないかのように今までそのことに一切触れなかったのは、俺が少しがっかりしたところでサプライズをしかけようとでも企んでいるからなんだろう。
全く、カミュという奴は、こんなにも長く付き合っているというのに、少しも俺を飽きさせないなんて。
最高だ。
だらしなくにやける顔を懸命に引き締めながら、俺は当初の目的を果たすべく、小箱を丁寧にポケットに戻すと車掌の方に向き直った。
「……確かに」
乗車券を確認した車掌は、ついでわずかに俺を見上げた。
「失礼ですが、お客様のお名前は、カミュ様でしょうか」
「へ? あ、ああ……」
俺の後ろで熟睡している眠り姫がそうだと説明するのも面倒で曖昧に頷くと、車掌は心得顔で懐から何やら紙片を取り出した。
「楽団長から伝言がございます」
聞き慣れない言葉に一瞬戸惑ったが、すぐにこの列車の食堂車両は随分豪勢で、楽団の生演奏を聴きながら食事を楽しめるという触れ込みだったことを思い出す。
だが、その楽団長とやらが、一体何を?
訝る俺の目の前に、車掌はすっとカードを差し出してきた。
「こちら、御夕食時に演奏する曲のリストです」
恭しく差し出す仕草につられてつい紙片を受け取ってしまった俺は、何気なくリストに目を落とした。
心臓が、震えた。
「ご希望と相違ございませんか、どうぞ今一度ご確認くださいませ」
車掌の声は、現実感を失い遠くの方でかすかに聞こえるだけだった。
一時ほんの少しとはいえカミュに不満を抱いたことを、心底後悔した。
どうやら俺は、自分が思っていた以上にカミュに愛されていたらしい。
カミュが希望したとかいう曲のリストには、誕生日を祝う歌が何曲も挙げられていた。
全て俺のために、カミュが苦心して選んでくれたものだった。
聖闘士の頂点に立つ黄金聖闘士は、女神を、そして十二宮を守護する存在だ。
その存在理由の故か、俺たちは聖域もしくはその周辺地域に滞在することが常となっている。
もちろん時には任務等で聖域を離れることはあったが、小宇宙の消費量を抑えるために飛行機等を利用する白銀聖闘士などと違い、その場合でも基本的には自力で移動することになっているのもその表れだろう。
光速移動の方が圧倒的に速いのだから当然といえば当然なのだが、だからこそ俺たちは普通の人々が羨ましい。
飛行機や鉄道など、速く遠くへ行きたいと願う人の心が何世紀もかけて作り上げた技術の成果を体感してみたいと思うのは、俺だけではないはずだ。
少なくとも、ここにそんな人間が、俺以外にももう一人。
「どうした、ミロ、にやけた顔をして」
「いや、気持ちいいなと思って」
「……そうだな」
他人の顔のことを批判できる訳がない。
少しだけ開けた列車の窓から吹き込む風に長い髪をなぶらせながら、カミュは機嫌のいい猫のようにうっとりと目を細めていた。
一週間ほど前のことだ。
他の人間なら気づかないだろうが、俺にははっきりとわかる程度に顔に喜色を浮かべたカミュがふらりと天蠍宮にやってきた。
「ミロ、旅行に行くからつき合え」
「なんだよ、突然」
そんな楽しげなお誘いならむしろこちらから飛びつきたいところだったが、カミュには珍しいあまりの唐突さに、わざとらしくも呆れてみせる。
しかし俺の消極的な反応になどお構いなく、ひどく得意げにカミュは笑った。
「十二時間の鉄道旅行だ。幸い個室の予約がとれたのでな」
「へえ、で、どこに行くんだ?」
半日とは随分の長旅だ。
俺たちならばそれだけ時間をかければ月にだって行けるんじゃないか、なんて馬鹿なことを結構真剣に思いながら尋ねる。
旅に誘われた以上、その質問は至極当然な疑問のはずだ。
だが、予想外なことにカミュは困ったように眉をひそめた。
「……どこだろうな」
「知らないのかよ!」
どうやらカミュは、長時間列車に、しかも個室に乗っていられるという点にだけ惹かれて飛びついたらしい。
カミュにしてみれば、目的地などどこでもよかったのだろう。
とはいえ、その気持ちもわからなくはない。
滞在を楽しみたければそこまで光速で移動してしまえばいい俺たちにとっては、移動過程だけでも十分旅行になりうるのだ。
それに正直なところ、そこが雪と氷に閉ざされたシベリアだろうと亜熱帯のジャングルだろうと、俺にはどうでもいい話だった。
カミュと一緒にいられる限りという最も重要な条件をクリアしている以上、断る理由などどこにもない。
こうして首尾よく俺の承諾を取り付けたカミュは、さすがに目的地を知らないということで少し気まずげだったが、それでもこの日は空けておけと命令口調で言い放ち意気揚々と宮を後にした。
旅の支度をしなければならないなどと面倒くさそうに呟きつつ、その背中は言葉とは裏腹に随分と楽しげだ。
遠ざかるカミュを見送りながら、俺は自然と微笑んでいた。
もちろん、その日は空いていた。
だってカミュが指定したその日は、俺の誕生日なのだ。
カミュはそんなこと一言も言っていなかったが、この唐突な旅企画は俺への誕生日プレゼントであることに間違いはない。
俺の誕生日を忘れられないものにしようと、カミュは一生懸命考えて、列車の旅という魅力的な企画を思いついたのだろう。
生まれてきた日を祝うために、こんなにも心を砕いてくれる人がいる。
しかもそれが親友にして最愛の恋人だなんて、これを幸せと呼ばないで何と言うのだ。
どこかくすぐったいような、無尽蔵に溢れてくる愛しさを胸の奥に大切に抱きながら、一週間後の誕生日が来るのが楽しみでならなかった。
純白のミルクの中に一滴のインクを落としたように、楽しみの中に生じた疑念は、旅が進むにつれ次第次第に不気味な存在感を放ちだしていた。
もしかして、いや、そんなはずがない。
必死で打ち消してはみたものの、カミュが鞄の中から本を取りだしたとき、疑惑は確信に変わった。
「……なんで読書?」
俺がいるのに、という一言はかろうじて飲み込んだ。
言うまでもなく、読書とは本と自分の中に浸る業だ。
どれほど傍にいようと他人の存在など無用となる、完全なる自己完結行為だ。
向かい合って座っていると膝が当たりそうなこの狭いコンパートメントで読書に耽るということは、俺を黙殺しようとしてるも同然だった。
だが、わずかに棘を含んだ俺の問いかけに、カミュは悪びれもせずに答えた。
「列車でこうして本を読むのが夢だったのだ。おまえも読みたいのなら、何か貸すが」
「……いや、いい」
あまりにけろりとした受け答えに、カミュに悪気がないのがわかりすぎるほどにわかったから、それ以上何も言えなくなってしまった。
俺は窓枠に片肘をついて景色を眺めるふりをした。
ちらりと横目で見やると、カミュは再び本に目を落としていた。
この調子では、多分ものの数分もしないうちに書物の世界に没入し、俺の声も一切耳に入らなくなってしまうだろう。
もはや疑いようもなかった。
カミュは、今日が俺の誕生日だということを忘れている。
今更ながら思い返してみれば、そもそもこの旅も、たまたま切符がとれたからと誘われたものだ。
ということは、偶然列車に空きがあったから今日になったというだけで、カミュにしてみればこの旅行は明日でも昨日でもいつだってよかったのだ。
一つのことに集中するとそれだけで頭が一杯になってしまう不器用なカミュのことだ。
今回は初めての鉄道旅行という試みに記憶も思考も全て使ってしまい、俺の誕生日に思いを馳せる余裕などなくなってしまったのだろう。
何だかんだいいつつ例年覚えていてくれるから、今年は俺も誕生日をアピールすることはなかったのだが、どうやらそれが裏目にでたらしい。
カミュは別に、俺の誕生日を祝ってくれるつもりで旅に誘ったのではなかったのだ。
窓の外、延々と続く緑の草木の中に点在する羊を数えながら、俺は気づかれないようにそっと溜息をついた。
もう子供じゃないんだから誕生日なんかどうでもいいじゃないかと必死で自分に言い聞かせてみたが、心密かに期待していた分、落胆の度合いは半端ない。
俺はカミュの誕生日を忘れたことなんて一度もないのに、カミュにとっては俺の誕生日など大して意味がないものだったのだ。
ひょっとしたらカミュは俺をそれほど好きではないんだろうか、幼馴染みからの腐れ縁と諦め惰性で付き合っているだけなんだろうかなどと、考えれば考えるほど思考は陰に落ちていく。
誕生日という一年で一番喜ばしい日であるべき今日、感じるのはただ寂しさばかりだった。
羊の数は眠れぬ夜の呪文のようなものだ。
その効果は走る列車内でも遺憾なく発揮されるらしく、気づけば俺は眠ってしまっていたらしい。
眠りの国の外側から聞こえる小さな物音に現実に引き戻されたのだが、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
椅子に座っているはずなのに動いているという不思議な感覚と心地よい振動、そしてすっかり慣れてしまった規則正しい走行音に、しばらくしてようやく列車旅行中だったということを思い出す。
カミュはといえば、やはり本を読みながら眠ってしまったらしく、本を膝の上に置いたまましどけない寝顔を晒していた。
じっとみつめていると、ふと苦笑いが込み上げてきた。
ずるいなと、いつも思う。
普段生真面目な表情を崩さない分、眠っているときのカミュの無防備な顔は余計に可愛らしく思えるのだ。
無垢な、と言ってもいい穏やかな寝顔をみつめていると、誕生日を忘れられていたことなんて、もうどうでもよくなってくる。
誕生日は覚えてくれていなくても、カミュが一緒に旅行に行きたいと思ってくれるのは、この俺なのだ。
それで、十分だ。
そうして現実に戻ってきた俺は、個室の扉を繰り返し叩く音に起こされたのだということにやっと気づいた。
ノックに急かされるようにして扉を開けると、そこには愛想の良い笑みを浮かべた制服姿の男が立っていた。
「おくつろぎ中失礼します。乗車券を拝見――」
カミュを起こすのも可哀想だと唇の前で指を一本立ててみせると、事情を察したのか車掌は慌てて口を噤んだ。
さて、困った。
乗車券と言われても、今回の旅を取り仕切っているのはカミュなのだ。
随員にすぎない俺は乗車券がどこにあるのか知らないのだが、みつからなければカミュを起こすことにして、とりあえず心当たりを探してみることにした。
まずは上着だ。
壁に設えられたコート掛けに歩み寄った俺は、カミュがいつも大事なものをいれる上着の内ポケットを探った。
やはり、そこには何かがあった。
手に触った物をまとめて取り出してみる。
封筒と箱だった。
「……あ」
思ったとおり、封筒には乗車券が入っていた。
だがそれ以上に俺の目を引いたのは箱の方だった。
腕時計とか万年筆とかが入っていそうな長方形の小ぶりな箱なのだが、綺麗に包装され丁寧にリボンまでかけられているのだ。
どう見てもこの箱は贈り物だ。
これが誰に、どんな意図を以て贈られるものか、想像力が豊かでなくても容易にわかる。
全く、カミュという奴は。
俺の誕生日だということに気付いていないかのように今までそのことに一切触れなかったのは、俺が少しがっかりしたところでサプライズをしかけようとでも企んでいるからなんだろう。
全く、カミュという奴は、こんなにも長く付き合っているというのに、少しも俺を飽きさせないなんて。
最高だ。
だらしなくにやける顔を懸命に引き締めながら、俺は当初の目的を果たすべく、小箱を丁寧にポケットに戻すと車掌の方に向き直った。
「……確かに」
乗車券を確認した車掌は、ついでわずかに俺を見上げた。
「失礼ですが、お客様のお名前は、カミュ様でしょうか」
「へ? あ、ああ……」
俺の後ろで熟睡している眠り姫がそうだと説明するのも面倒で曖昧に頷くと、車掌は心得顔で懐から何やら紙片を取り出した。
「楽団長から伝言がございます」
聞き慣れない言葉に一瞬戸惑ったが、すぐにこの列車の食堂車両は随分豪勢で、楽団の生演奏を聴きながら食事を楽しめるという触れ込みだったことを思い出す。
だが、その楽団長とやらが、一体何を?
訝る俺の目の前に、車掌はすっとカードを差し出してきた。
「こちら、御夕食時に演奏する曲のリストです」
恭しく差し出す仕草につられてつい紙片を受け取ってしまった俺は、何気なくリストに目を落とした。
心臓が、震えた。
「ご希望と相違ございませんか、どうぞ今一度ご確認くださいませ」
車掌の声は、現実感を失い遠くの方でかすかに聞こえるだけだった。
一時ほんの少しとはいえカミュに不満を抱いたことを、心底後悔した。
どうやら俺は、自分が思っていた以上にカミュに愛されていたらしい。
カミュが希望したとかいう曲のリストには、誕生日を祝う歌が何曲も挙げられていた。
全て俺のために、カミュが苦心して選んでくれたものだった。