無憂宮
2013 ミロ誕


 ことんと小さな音がした。
 目を開けると、テーブル上にはいつの間にか湯気の立つカップが置かれていた。
 頬杖をついてうとうとしていた俺の注意を引こうと、わざと音を立てたんだろう。
 さすが長い付き合いだけに、カミュは俺の対処法をよく知っている。
 あのまま気づかなければ、俺はうっかりとカップを倒し、紅茶を全て気前よくテーブルに飲ませてやっていたかもしれないのだ。
 まずは感謝、しておこう。
 「ああ、ありがと。……俺、寝てた?」
 「そのようだな。紅茶を飲みたがったのはおまえだから、遠慮なく起こさせてもらったが」
 それにもまた感謝だ。
 まだまだ子供の弟子二人とほぼ同レベルで騒ぎまくったから、さすがに少し疲れてはいたが、久々のカミュとの再会という貴重な時間を無駄にする訳にはいかない。
 それに、ここで俺まで眠ったら、一足先に部屋に下がった弟子たちと本当に同格ということになってしまう。
 かるく肩をすくめると、俺はカップに手を伸ばした。
 鼻先を、紅茶だけでは到底出せない芳醇な香りがよぎる。
 寒い寒い北の国ではよく飲まれるというブランデー入りの紅茶だ。
 カミュも時折飲むというので頼んでみたのだが、一口飲むと、熱い紅茶と酒の相互作用で確かに体の中から温まる気がした。
 紅茶対酒の比率によっては薬にも毒にもなりそうな飲み物だが、初挑戦の俺に配慮してか、随分とアルコールは控えめにしてくれたらしい。
 もう少し大人仕様にしてくれてもいいんだが、と言いかけたところで、最近一段と師匠ぶりが板についてきたカミュにこんこんと説教されそうで、止めた。
 今日一日のシベリア滞在で、俺はひとつ学んだのだ。
 二人の子供を指導するうち師匠としての天分を惜しみなく開花させつつあるカミュは、俺のことも三人目の弟子だと思っているきらいがある、と。
 いや、順番から言えば俺が最初の弟子ということになるのか。
 カミュが聖域にいた頃、俺はしょっちゅう宝瓶宮を訪れていた。
 黄金聖闘士自らが出向かねばならないような任務はほとんど年かさの三人が請け負ってしまっていて、俺たちは滅多に聖域から出ることもなく、ただ自己研鑽に励むようにとの命の下野放しにされていた。
 世話役の雑兵もいるにはいたが、自由気ままにやりたかった俺は、自分でやるからと彼らの援助を断ってしまっていた。
 別に打ち合わせた訳ではなかったが、他人の手を煩わせるのを厭うカミュも同様だったらしい。
 そうして一人を選んだはずの俺たちが、いつしか二人でいるようになったというのも、考えたらおかしな話だ。
 一緒に食べようと、パンとリンゴを抱えて最初にカミュの宮に押しかけたのは俺だった。
 次の日には、夕食を多く作りすぎたから食べにきてもいいと、カミュの方から打診してきた。
 以来、たまには自宮に帰れと怒られるほどに、俺はカミュの元に入り浸っていた。
 俺が一人で食事をするのが嫌だったというのが表向きの理由だが、放っておくと食事も忘れて読書に没頭してしまいそうなカミュが心配だったというのも少しはある。
 まあ結局は、二人一緒にいるのが楽しかったからという単純な理由に落ち着くことになるのだが、その頃からカミュは俺の世話係を自認していた。
 何事にも大雑把なミロにはとても任せておけないと、少し呆れたような顔をしながら俺の面倒をみてくれていたのだが、あの頃も食事の作法やら掃除のやり方やら、何も知らない俺に教えているカミュはどこか得意げで楽しそうだった。
 カミュが人に教える喜びを覚えたのは、きっとその頃だ。
 そう考えると、カミュを師匠に育てあげてやったという意味で、むしろ俺の方が師匠になるのかもしれない。
 その割にはカミュには師匠たる俺に対する敬意が足りないのではないかとも思うが、別にいい。
 だって俺は、カミュの師匠になりたい訳ではないのだ。
 俺がなりたいのは、親友であり、恋人。
 カミュにとっての一番の存在に、俺はなりたいのだ。
 そして今のところ幸いにも、その望みは叶っている。
 「……今日はよく来てくれた。礼を言う」
 取り留めのない雑念は、手を温めようとしているみたいに紅茶のカップを両手で挟み込んだカミュの一言で遮られた。
 珍しいこともあるものだ。
 内心では俺の訪問を喜んでくれているとは思うのだが、俺がシベリアに遊びにきても、カミュはあまりいい顔をしない。
 そればかりか、私は遊んでいる訳ではないとか、余程聖域は暇なのだなとか、散々憎まれ口を叩くのだ。
 それでも季節が変わる度にここを訪れてしまうのは、別れ際にカミュが一瞬だけみせる寂しそうな表情のせいだった。
 多分カミュ自身も、自分がそんな顔をしているなんて気づいていないんだろう。
 別れを惜しむような、引き留めたくなるのを我慢しているような、次に会えるのがいつになるのか案じているような表情。
 きっと知ったら最後、カミュは意地でも無表情を貫いてしまうだろうから、これは誰にも言えない俺だけの密やかな楽しみだ。
 「いや、礼を言うのは俺の方だろう。誕生日祝ってもらった訳だし」
 素直なカミュを見るのは別れ際の一瞬だけのご褒美のはずだったが、帰る前からこれというのは、やはり誕生日祝いだからなのだろうか。
 そもそも今回は、カミュの方から俺をシベリアに招待してくれるという、発端からして例外的なものだった。
 招かれた日付から薄々期待していたが、やはり目的は俺の誕生日を祝うためで、おかげで俺は久々にカミュの心尽くしの手料理にありつくことができたのだ。
 どう考えても、カミュは礼を言われる方であって言う方ではない。
 だが、カミュは微笑んでかぶりを振った。
 「本当はいつもそう思っているのだ。おまえが来るとあの子たちも子供に戻る」
 「……あいつら普段は大人なのかよ」
 子供だと、カミュの弟子だと思うから、俺は百万歩譲って彼らにカミュとの同居を許しているのだ。
 もしも奴らが本当は大人なのだとしたら、俺は今からこの家の隣に弟子用の粗末な小屋を光速で建ててやる。
 カミュと一つ屋根の下でなど、絶対に暮らさせてやりはしない。
 結構本気で殺気を揺らめかせたのだが、カミュは冗談だと思ったらしく、くつくつと楽しげに笑う。
 「そうではない。普段は自分を抑えて修行に励んでいるという意味だ」
 そうして、カミュはじっと俺をみつめた。
 「いつも師である私と一緒だからな。やはりどこかで気を張っているのだろう。おまえが来てくれるおかげで、あの子たちは息抜きができているのだと思う」
 本当にありがとう。
 そう言って俺を見る瞳はわずかに潤みを帯びていた。
 深みを増した紅の瞳から、目が離せなくなるのがわかった。
 俺は紅茶を飲み、そのついでというようにさりげなく息を吐いた。
 この紅い瞳にみつめられていると、背骨のあたりがざわりと落ち着かなくなってくる。
 それは、いつからか大人になってしまった二人の関係性がもたらす異変だ。
 子供が弟子の立場をひととき忘れるように、カミュも師である自分を解き放ちたいと、何も考えずにただ俺に溺れたいと、そう暗に伝えているのだと期待したくなってしまう。
 期待、していいんだろうか。
 だって、今日は俺の誕生日だし、カミュは祝ってくれると言っていたし。
 ……いい、んだよな。
 「カ……」
 「ミロ」
 気がせく自分を落ち着かせようと躍起になる俺よりも、カミュが俺の名を呼ぶ方が先だった。
 来た。
 「……ああ、そろそろ寝る、か」
 寝る、という言葉を、普通に言えている自信がなかった。
 夢にみるほど焦がれた、カミュを全身で味わう至福のひとときが、ようやく俺のものになる。
 舌なめずりでもしたい気分だったが、少しでも余裕があるように見せたくて、努めて平然と振る舞う。
 そんな俺の内心を読みとっているのか、カミュは艶然と笑った。
 わずかに綻んだその唇から紡がれるのは、情熱的な愛の囁き――ではなかった。
 「いや、散歩でもしないか」
 「……は?」
 子供たちが眠っていてよかったと心底思うような展開を期待し胸を躍らせていた自分が恥ずかしくなるほど、カミュの発言は健全そのものだった。
 「すまない。紅茶に酒を入れすぎたようで、少し酔ったようなのだ」
 気だるげに吐息を漏らす様は誘っているようにしか思えないのだが、その実態は違ったらしい。
 どうやら久々の再会で欲情していたのは、俺だけだったようだ。
 俺は、カミュに会いたくて、会えたら今度はもっと近くで声を聞きたくなって、近づいたらその白い肌に触れたくて、カミュが欲しくてたまらなくなっていたというのに。
 自分が浅ましい獣になったような、ひどく情けない気分だった。
 毎日子供たちの相手をしているうちに、カミュの内でははそんな原始的な情熱は薄れてしまったんだろうか。
 「……おまえはいつ大人に戻ってくれるんだよ」
 恨みがましくつい呟いた一言に、カミュが怪訝そうに瞳を瞬かせる。
 「何か言ったか?」
 「何にも!」
 言える訳、なかった。


 極北の地シベリアとはいえ、一年中雪と氷に閉ざされているという訳ではない。
 短いとはいえ、草木が芽吹き鳥がさえずる時期もある。
 だが、それもそろそろ終わりに近づいているのだろう。
 夜の外気はひんやりとして、心地よい。
 その澄み切った空気と、ギリシャのそれよりも心なしか大きく見えるさやかな月の明かりのおかげで、大して夜目が効かなくても転ぶ心配はなさそうだった。 
 「寒くはないか?」
 「ああ、まだ大丈夫」
 だが、吐いた先から息が白く凍りつくのは、そう遠い未来ではないのだろう。
 もうじきここは、人が住む世界ではなくなる。
 しかし雪と氷を司る聖闘士とその候補生にとっては、もっとも生を感じさせる領域となるのだ。
 地平線の彼方まで見渡すことができるこの荒涼とした風景が、俺はそれほど嫌いではない。
 この広大な大地がカミュを育んだのだ。
 今でこそカミュを連れ去った地だが、あと何年かしたら再びカミュを俺の元に返してくれることがわかっている以上、嫌いになる理由はなかった。
 「おまえは? 寒いのか?」
 見れば、カミュは首もとに暖かそうな臙脂のマフラーをしていた。
 手編み風の既製品なのか、手編みか。
 そういうことに疎い俺には、見たところで区別はつかない。
 だが、もしも後者なら問題だ。
 わざわざカミュの髪の色に合わせたようなそんな手の込んだ贈り物を、一体カミュは誰にもらったというのだろう。
 あまり地域の住人とは交流がないというが、それでもここは昔から氷の聖闘士の修行場だったそうだから、カミュたちは一定の敬意をもって遇されているはずだった。
 だから、神への供物か何かのように献上される品々もなくはないだろうし、中にはこんな贈り物が含まれていることだってあるだろう。
 その贈り主が、ギリシャでもよく見かけるような通りの端々に集って手芸に興じる老婆ならいいのだが、カミュに想いを寄せる若い女だとしたら、困る。
 ただ単純に、俺が面白くない。
 カミュを想うのは、俺一人で十分だ。
 我ながら呆れるほどの独占欲だが、人の感情の機微に疎いカミュは、俺の内心の葛藤になど少しも気づいた様子がなかった。
 「寒くはないな、これがなかなか暖かい」
 そう言ってカミュはマフラーの端を摘んだ。
 そうして人の気も知らずに無邪気に続ける。
 「やはり手編みは違うものなのかもしれないな」
 わざとではないだろうかと疑いたくなるぐらい的確に、カミュは俺の感情を波立てる。
 「ミロ、おまえは本当に寒くはないのか」
 「別に」
 むっとしたのが顔に出てしまったようで、カミュは少し気遣わしげに尋ねてきたが、無愛想になるのはどうしても避けられなかった。
 ただ、さっきよりも随分と冷え込んできたのは事実で、その短すぎる返答のフォローをしようとするかのようにタイミング悪くくしゃみが出た。
 格好悪い。
 だが、カミュは何故だか嬉しそうに笑った。
 そういえば、俺がシベリアは寒いと言う度に、カミュは満足げに笑うのだ。
 カミュは、自分自身のことについては恐ろしく無頓着なのだが、その代わり自分を取り巻く周囲の事象には人一倍愛着を覚える質らしい。
 たとえば健気で優秀な二人の弟子だとかタイトルからして難しそうな分厚い愛読書だとか、そういった類のものなのだが、この荒涼とした北の大地もそのひとつだった。
 俺は決して褒めているつもりはないのだが、カミュの中では、寒さというのはこの土地の魅力の一つと認識されているのだろう。
 その愛着の何分の一でもいいから、俺に向けてくれればいいのに。
 俺が一番長くカミュの近くにいるはずなのに、いや、逆に余りにも近くにいすぎたせいなのか。
 カミュの俺に対する扱いは時折ひどくつれなくて、残念ながら、俺はカミュが愛情を持って大切にするグループからははみ出しているんじゃないだろうかと時々思う。
 そしてその度に、愛情不足の子供みたいに拗ねたくなった。
 大人にならなきゃいけないのは、カミュじゃなくて俺の方なんじゃないだろうか。
 ああ、俺って本当に格好悪い。
 「ミロ」
 自己嫌悪に苛まれていると、首もとがふわりと暖かくなった。  
 カミュが自分の巻いているマフラーを外し、俺の首にひょいとかけてきたのだ。
 「これをやる、誕生日祝いだ」
 まだカミュの体温が残っているマフラーは、見た目よりも軽くて柔らかい。
 大層心地よかったが、これを俺がもらう訳にはいかなかった。
 「いや、遠慮する」
 「ミロ?」
 断られるとは思いもしなかったのだろう。
 拘束具みたいに俺の首にかかるマフラーを掴んだまま、カミュは不思議そうにこちらを見る。
 わかってる。
 カミュには悪気はないのだ。
 悪意はない分残酷なのだが、それすら理解していない。
 わかってはいるけれど、つくづく罪な奴だと思う。
 小さく息を吐くと、俺はマフラーごとカミュの手をそっと遠ざけた。
 「それはカミュのために誰かが編んだんだろ。俺がもらっていい物じゃない」
 本当はもっとどろどろした醜い理由なのだが、上手くごまかせているだろうか。
 少し心配になったが、カミュの呆気にとられたような表情をみると、恐らく成功していると思っていいだろう。
 どうにも居心地が悪くなり、俺はマフラーとカミュの腕が作る輪から抜け出そうと身を屈めた。
 が、逃げられなかった。
 どういう訳だか、俺が身を低くすると同時にカミュも一緒にしゃがんできたのだ。
 「カミュ」
 少し苛立ち混じりに名を呼んでやったが、カミュは意に介した風もなかった。
 「それなら、おまえにはこれをもらう権利がある。何しろこれを作ったのは私だからな」
 「カミュが?」
 予想外の言葉に俺は目を丸くした。
 首を取り巻くマフラーを慌ててもう一度見る。
 素人目で見ても上手い、このままどこかの店で売れそうなレベルの作品だ。
 「嘘だろ、おまえ、こんな特技あったのかよ」
 「ミロよ、人は成長するものなのだ」
 したり顔のカミュは、少し早口で続けた。
 「完成品よりも糸の方が安かったのでな、上手くできたら弟子たちに作ってやろうと思ったのだ。言うなれば試作品だな」
 それでもよければおまえにやる、と、続ける声が幾分小さくなっていく。
 言い訳じみた、というよりも明らかに後付けの口実なのが丸わかりだ。
 理屈を捏ねるのが好きなカミュらしいが、そのわかりにくい言動から本心を掬いだすのは、昔から俺の特技だった。
 今もそれは変わらない。
 「……ああ、ありがとう、カミュ」
 まだマフラーの端を握ったままのカミュの手に、俺はそっと自分の手を重ねた。
 「あったかいな」
 本当に、暖かい。
 火を入れた暖炉よりも、アルコールを落とした紅茶よりも、何よりも俺に向けられるカミュの想いが温かい。
 嬉しさに目を細めると、カミュもまた微笑んでくれた。
 「誕生日おめでとう、ミロ」
 俺の手の下で、カミュの手にぐっと力が入ったかと思うと、そのままマフラーごと引き寄せられた。
 カミュとの距離が縮まる。
 極自然に、俺たちはキスをした。
 互いの温もりを分かちあうような穏やかな口づけを交わす。
 そうして何度も何度も唇を重ねるうちに、取り巻く寒さの中に、もうすっかり馴染んだ小宇宙がさりげなく含まれていることに遅まきながら気がついた。
 なるほど、急に気温が下がった訳だ。
 この不器用な恋人がどうしようもなく愛しくなり、俺はカミュをぎゅっと抱きしめた。
 今年も、いい誕生日だった。

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