雨宿り
どんよりと曇った空から細い針のように落ちてきた水滴は、みるみるうちに大粒の雨となった。
降りしきる雨に追い立てられるように、カミュは抱えた本を上着の下に隠しつつ厚く葉を茂らせた木の下に駆け込んだ。
聖域まではそれほど遠くはないから走って帰ってもよかったのだが、さすがに買ったばかりの本が濡れてしまうという悲惨な事態は避けたかった。
恐らくはいつもの通り雨だ。
雨雲が通り過ぎるまで、この木の葉の屋根が持ちこたえてくれるといいのだが。
そう期待を寄せつつ、カミュは灰色の空を見上げた。
しかし、上手くいかないときは何もかも悪い方向に進むようで、ただでさえさやかな風はぱたりと吹き止み、雨雲はしばらくカミュの頭上に居座るつもりらしい。
思わず溜息が漏れた。
こんなとき、傘を持って迎えに来てくれるよう気楽に頼める友人がいればいいと思う。
いいと思う、ということは、現実にはそんな都合の良い存在などいない、という意味に他ならない。
いや、唯一心を過ぎる面影があるにはあるのだが、常ならともかく今だけは彼に頼ることはできなかった。
普段なら、カミュが街へ行くと言えば、彼は用もないのについてくるはずだ。
それが今、こうしてカミュがたった一人で曇天とにらめっこをしているのは、出掛けに彼と些細な喧嘩をしてしまったからだった。
意地っぱりで偏屈な自分に喧嘩の原因があるのはわかっていたが、そこで素直に謝ることができるならとっくにそうしていた。
迎えなど、頼めるわけがない。
だから、カミュは情けない表情で天罰のような突然の雨を見上げることしかできなかった。
相変わらず降り続く雨は、蛇口を一杯に開いたシャワーのように勢いを増しつつある。
このもやもやとした感情に苛まれる心を雨の中に突き出して鬱屈を全て洗い流してもらえたなら、どれほどいいだろう。
ひっきりなしに天から零れ落ちる雨粒を眺めていると、そんな埒もない願いがふと頭を過ぎる。
こんな突拍子もない馬鹿げた発想が浮かんでくるというのは、彼とのつまらない口論を後悔しているから、ということなのだろうか。
あまり認めたくない自己分析結果に呆れつつ、カミュはぼんやりと降りしきる雨音を聞いていた。
道の端から近づいてくる人影に気付くのが遅れたのは、そうしてじっと空を仰いでいたためだった。
「……ご一緒しても?」
突然現れた新たな雨宿りの客の声に、慌てて横へ一歩移動し場所を空けたカミュは、まじまじと新客をみつめた。
頭上に枝を張り出し格好の屋根となってくれているのは、街道沿いの大樹だ。
カミュの他にも、突然の雨にたたられその庇護の下に逃げ込む人間がいてもおかしくはない。
だが、その人物が傘をさしているとなれば、話は別だ。
カミュは深くさした傘の下に隠れる相客から視線を外すと、前方に降りしきる雨粒を見据えたままぼそりと呟いた。
「……傘があるのなら、雨宿りの必要などないだろう」
「いや、この分だと、もうじき木の下でも雨に濡れると思うから、やっぱり傘はいるんじゃない?」
人を喰ったようなぬけぬけとした発言が、無性にカミュの癇に障った。
「で、おまえはそうしてわざわざ傘を持たない私に嫌味を言いに来たのか、ミロ?」
じろりと睨みつけるカミュの眼差しを受け流し、軽く傘を持ち上げようやく顔を見せたミロは悪戯っぽくにやりと笑った。
「さあ、どうだろ」
「何でもいいが、もう少し離れろ。濡れる」
不機嫌さを隠そうともしない声に、ミロは横目でちらりとカミュを見た。
傘の露先から垂れた雫が先ほどからカミュの肩を濡らしていることにようやく気付いたらしい。
「ああ、悪い。じゃ、もう少し移動するかな。カミュを濡らさないように」
「そうしてくれ」
殊勝なミロの言葉にぶっきらぼうに答えたカミュの肩が、前触れもなくぐいと引き寄せられた。
「……私から離れてくれるんじゃなかったのか」
「おまえを濡らさないように移動する、と言ったんだ」
「……これでは、『移動する』ではなく、『移動させる』だと思うが」
きつく抱き寄せられた腕の中で、カミュは意地悪く毒吐きつつ、そっと上を盗み見た。
傘の骨が描く微妙な曲線と直線の交錯が美しいオブジェのように見える、この傘は記憶にある。
いつだったか、すぐに傘を置き忘れるミロに呆れたカミュが、店中で最も高額で最も大きい一本を「二度となくすな」との厳命付きで贈ったことがある、その傘だった。
なるほど、この長傘の下に引き込まれたなら、確かに雨に濡れることはなさそうに思われる。
だが、体格の良い二人に一本の傘は、さすがに少々無理があるようだ。
先ほどの謝罪を表するように殊更カミュの方に傘を傾けている分、傘からはみ出したミロの肩が少しずつ雨粒の形に染まりつつあるのが見て取れた。
カミュは小さく息を吐いた。
「……私の代わりに、おまえが濡れているようだが」
「そう? 気のせいじゃない?」
「何故もう一本傘を持ってこなかったのだ」
理由など聞かずともわかっていた。
ミロが持っている中で一番長いこの傘をわざわざ選んでさしてきたのは、二人で一つ傘の下に入らざるを得ない状況を作り出すためだ。
否応もなく距離を縮めることで喧嘩をうやむやにしてしまおうというミロの魂胆が透けてみえたが、心のどこかでほっとしている自分が気恥ずかしい。
その結果、雨に濡れる事態から救われたという恩義もどこへやら、照れ隠しに責めたてるような詰問口調になったのだが、ミロは気にした風もなく笑った。
「ああ、そこまで考えが及ばなかったな」
「……ばかだな」
ぼそりと呟いたカミュは片手を伸ばし、傘の傾きをミロの方に直した。
「だが、おかげで本は濡れずにすみそうだ。一応礼は言っておく。雨があがったら、街に戻って何かご馳走してやろう」
「雨があがらなかったら?」
再びミロが傘の柄をカミュの方にそっと傾がせる。
カミュの肩に置かれたミロの掌に、ぐっと力が入った。
「……このままこうしていられるんなら、俺はそれでもいいんだけど」
耳元をくすぐるミロの囁きを黙殺し、カミュは雨に煙る眼前の景色をただじっと眺めていた。
内心で全く同じことを考えていたという事実がそのままミロに伝わってしまうような気がして、自分を雨から庇うように傾いだ傘を戻せなくなっていた。
どんよりと曇った空から細い針のように落ちてきた水滴は、みるみるうちに大粒の雨となった。
降りしきる雨に追い立てられるように、カミュは抱えた本を上着の下に隠しつつ厚く葉を茂らせた木の下に駆け込んだ。
聖域まではそれほど遠くはないから走って帰ってもよかったのだが、さすがに買ったばかりの本が濡れてしまうという悲惨な事態は避けたかった。
恐らくはいつもの通り雨だ。
雨雲が通り過ぎるまで、この木の葉の屋根が持ちこたえてくれるといいのだが。
そう期待を寄せつつ、カミュは灰色の空を見上げた。
しかし、上手くいかないときは何もかも悪い方向に進むようで、ただでさえさやかな風はぱたりと吹き止み、雨雲はしばらくカミュの頭上に居座るつもりらしい。
思わず溜息が漏れた。
こんなとき、傘を持って迎えに来てくれるよう気楽に頼める友人がいればいいと思う。
いいと思う、ということは、現実にはそんな都合の良い存在などいない、という意味に他ならない。
いや、唯一心を過ぎる面影があるにはあるのだが、常ならともかく今だけは彼に頼ることはできなかった。
普段なら、カミュが街へ行くと言えば、彼は用もないのについてくるはずだ。
それが今、こうしてカミュがたった一人で曇天とにらめっこをしているのは、出掛けに彼と些細な喧嘩をしてしまったからだった。
意地っぱりで偏屈な自分に喧嘩の原因があるのはわかっていたが、そこで素直に謝ることができるならとっくにそうしていた。
迎えなど、頼めるわけがない。
だから、カミュは情けない表情で天罰のような突然の雨を見上げることしかできなかった。
相変わらず降り続く雨は、蛇口を一杯に開いたシャワーのように勢いを増しつつある。
このもやもやとした感情に苛まれる心を雨の中に突き出して鬱屈を全て洗い流してもらえたなら、どれほどいいだろう。
ひっきりなしに天から零れ落ちる雨粒を眺めていると、そんな埒もない願いがふと頭を過ぎる。
こんな突拍子もない馬鹿げた発想が浮かんでくるというのは、彼とのつまらない口論を後悔しているから、ということなのだろうか。
あまり認めたくない自己分析結果に呆れつつ、カミュはぼんやりと降りしきる雨音を聞いていた。
道の端から近づいてくる人影に気付くのが遅れたのは、そうしてじっと空を仰いでいたためだった。
「……ご一緒しても?」
突然現れた新たな雨宿りの客の声に、慌てて横へ一歩移動し場所を空けたカミュは、まじまじと新客をみつめた。
頭上に枝を張り出し格好の屋根となってくれているのは、街道沿いの大樹だ。
カミュの他にも、突然の雨にたたられその庇護の下に逃げ込む人間がいてもおかしくはない。
だが、その人物が傘をさしているとなれば、話は別だ。
カミュは深くさした傘の下に隠れる相客から視線を外すと、前方に降りしきる雨粒を見据えたままぼそりと呟いた。
「……傘があるのなら、雨宿りの必要などないだろう」
「いや、この分だと、もうじき木の下でも雨に濡れると思うから、やっぱり傘はいるんじゃない?」
人を喰ったようなぬけぬけとした発言が、無性にカミュの癇に障った。
「で、おまえはそうしてわざわざ傘を持たない私に嫌味を言いに来たのか、ミロ?」
じろりと睨みつけるカミュの眼差しを受け流し、軽く傘を持ち上げようやく顔を見せたミロは悪戯っぽくにやりと笑った。
「さあ、どうだろ」
「何でもいいが、もう少し離れろ。濡れる」
不機嫌さを隠そうともしない声に、ミロは横目でちらりとカミュを見た。
傘の露先から垂れた雫が先ほどからカミュの肩を濡らしていることにようやく気付いたらしい。
「ああ、悪い。じゃ、もう少し移動するかな。カミュを濡らさないように」
「そうしてくれ」
殊勝なミロの言葉にぶっきらぼうに答えたカミュの肩が、前触れもなくぐいと引き寄せられた。
「……私から離れてくれるんじゃなかったのか」
「おまえを濡らさないように移動する、と言ったんだ」
「……これでは、『移動する』ではなく、『移動させる』だと思うが」
きつく抱き寄せられた腕の中で、カミュは意地悪く毒吐きつつ、そっと上を盗み見た。
傘の骨が描く微妙な曲線と直線の交錯が美しいオブジェのように見える、この傘は記憶にある。
いつだったか、すぐに傘を置き忘れるミロに呆れたカミュが、店中で最も高額で最も大きい一本を「二度となくすな」との厳命付きで贈ったことがある、その傘だった。
なるほど、この長傘の下に引き込まれたなら、確かに雨に濡れることはなさそうに思われる。
だが、体格の良い二人に一本の傘は、さすがに少々無理があるようだ。
先ほどの謝罪を表するように殊更カミュの方に傘を傾けている分、傘からはみ出したミロの肩が少しずつ雨粒の形に染まりつつあるのが見て取れた。
カミュは小さく息を吐いた。
「……私の代わりに、おまえが濡れているようだが」
「そう? 気のせいじゃない?」
「何故もう一本傘を持ってこなかったのだ」
理由など聞かずともわかっていた。
ミロが持っている中で一番長いこの傘をわざわざ選んでさしてきたのは、二人で一つ傘の下に入らざるを得ない状況を作り出すためだ。
否応もなく距離を縮めることで喧嘩をうやむやにしてしまおうというミロの魂胆が透けてみえたが、心のどこかでほっとしている自分が気恥ずかしい。
その結果、雨に濡れる事態から救われたという恩義もどこへやら、照れ隠しに責めたてるような詰問口調になったのだが、ミロは気にした風もなく笑った。
「ああ、そこまで考えが及ばなかったな」
「……ばかだな」
ぼそりと呟いたカミュは片手を伸ばし、傘の傾きをミロの方に直した。
「だが、おかげで本は濡れずにすみそうだ。一応礼は言っておく。雨があがったら、街に戻って何かご馳走してやろう」
「雨があがらなかったら?」
再びミロが傘の柄をカミュの方にそっと傾がせる。
カミュの肩に置かれたミロの掌に、ぐっと力が入った。
「……このままこうしていられるんなら、俺はそれでもいいんだけど」
耳元をくすぐるミロの囁きを黙殺し、カミュは雨に煙る眼前の景色をただじっと眺めていた。
内心で全く同じことを考えていたという事実がそのままミロに伝わってしまうような気がして、自分を雨から庇うように傾いだ傘を戻せなくなっていた。