聖域骨董洋菓子店
「はい、どうぞ」
ぐたりとテーブルに突っ伏していたカミュは、頭上から降ってきたミロの声にゆっくりと顔を上げた。
ことんと小さな音を立て、卓上に置かれたのはガトーショコラの皿だった。
蓄積した疲労にまだぼんやりとした頭がわずかばかりの不審の存在を感知し、カミュは首を傾げた。
首を巡らしてショーケースをみると、その不審は度合いを増した。
今日はバレンタイン。
たまたま来店したカミュが手伝いに借り出されるほどに、チョコレート菓子を求める客で終始店内は賑わっていた。
中でも深く艶やかな色彩に染まるこのガトーショコラの売れ行きは上々で、カミュの記憶が確かなら、つい先ほど完売し客の落胆を誘ったはずだ。
事実、目視による確認の結果、ショーケースの中にこれと同じ濃色のケーキは一つもない。
カミュは無言のままミロへと視線を転じた。
相変わらずの人を惹きつける愛想のよい笑顔を浮かべ、ミロはカミュの隣に腰を下ろした。
「カミュの分、先に一個確保しといたんだ。食べてよ」
「いいのか?」
「ああ、おかげで今日はすごく助かったし。ありがとな。サガもお礼言ってた」
そう言って、ミロはちらりと奥の厨房を眺めやる。
カミュもまたつられたように視線を向けた。
天才と呼ばれる人はやはりどこか常人とは違うのかもしれない。
天才パティシエの名を欲しいままにするサガは、どうも人間嫌いなのか、扉の向こうに閉じこもったままなかなか姿を現そうとしない。
だが、時折みせるその表情はとても優しく穏やかで、ひどく心を惹かれた。
この店に通い始めた当初の目的はボクサーからパティシエへと意外な転身をしたミロへの取材だったのだが、今日はサガに会えるかもしれないという日増しに大きくなる期待も、いつしかカミュをここへ足を運ばせる理由となっていた。
「ほら、食べなよ。でないと俺がもらっちゃうぞ」
「いや、ありがとう。では、遠慮なく頂く」
屈託なく笑うミロに物想いの淵から引き戻されたカミュは、にこりと微笑んだ。
華奢な作りのフォークを手にし、カミュはじっとケーキをみつめた。
優れた職人の手による菓子細工は芸術だと思う。
壊してしまうのが惜しくなるほどの造形だが、口に運んだときの甘美な刺激は目を楽しませてくれる喜びの比ではない。
待ち受ける芳醇な味わいに期待を寄せつつ、カミュはそっとケーキを一口分切り分けた。
表層のチョココーティングがかすかな抵抗を窺わせたが、それも一瞬、ケーキは滑らかにフォークを吸い込んでいく。
立ち上る甘やかな香りを堪能しつつ、カミュは一口舌の上に乗せた。
蕩ける。
甘味が幸せを運ぶなど、この店の菓子に出会うまで知らなかった。
それは、ここのパティシエに出会ってからの変化だった。
「……ホント美味しそうに食べるよね」
傍らのミロが小さく息を吐いた。
口から喉を通して伝わっていく安らぎめいた喜びは、表情にも表れたのだろう。
カミュはさっと頬に血が上るのを感じた。
食す、という原始的な行為に性的な意味合いを含ませたのは誰だったか。
確かに、無防備に欲望を曝け出すという意味では、両者は共通している。
だからこそ、食事姿を人にじっと観察されていたと思うと無性に気恥ずかしい。
そんな羞恥に駆られる自分を誤魔化すようにかるく睨みつけたが、ミロは少しも動じた風がなかった。
「……そんなに、好き?」
ミロの蒼い瞳が、一瞬きらりと鋭い光を宿したようにみえた。
この瞳を、カミュは以前にも見たことがある。
かつてボクサーとして名を馳せたミロがリングの上で見せる、獣にも似た苛烈な眼光だ。
その射抜くような瞳が、今はカミュの一身に集中している。
カミュはこくりと喉を鳴らした。
「……何……を……?」
からからに乾いた舌が上顎に張り付いてしまったようで、声がかすかに震えた。
くすりとミロが笑う。
にわかに緊張するカミュの姿が余程可笑しいのか、ミロの瞳から途端に険が消えた。
「ケーキだよ、ケーキ」
「……ケーキ? あ、ああ、もちろん好きだが」
「笑える。なに硬くなってんの、カミュ」
楽しげにくすくすと笑い続けるミロは、ついで意味ありげな眼差しをちらりとカミュに向けた。
「……それとも、サガのことだと思った?」
図星だった。
心の奥底まで無遠慮に覗き込まれたようで思わず動きを止めるカミュの目の前に、ミロはすっと人指し指を突き立ててきた。
「一年」
「……?」
訝しむカミュの瞳を真っ直ぐに見据えながら、ミロは熱っぽく囁いた。
「一年待ってよ。俺、この一年で必ずサガに追いついてみせるから。そしたら……」
ミロの指がそのまま下へ降り、カミュの食べかけのケーキを一塊むしりとる。
その指がゆっくりとミロの口へと運ばれていくのを、カミュはただ茫然とみつめた。
味を記憶に刻みつけようとでもするように真剣な表情でケーキを食べたミロは、指先に付着したチョコレートを舐めながらにやりと笑った。
「来年のバレンタイン、カミュは俺のケーキを食べる。約束な」
サガではなくこの俺が作ったケーキを、と、ミロは一方的な約束を念を押すように繰り返す。
カミュはつと卓上のケーキへと視線を落とした。
強い輝きを放つ蒼の瞳に気圧されたか、先ほどから心臓は早鐘を打って止まない。
少しでもこの鳴り響く鼓動を落ち着けようと、カミュはさりげなくコーヒーに手を伸ばし、そして冗談めかして笑ってみせた。
「随分と自信過剰なのだな。たった一年であのサガを上回るケーキを作るなど」
「ん、正直言うと、菓子作りでサガに勝つ自信はない。やっぱあの人スゴイからな」
拍子抜けするくらい呆気なく、ミロはカミュの憎まれ口に同意する。
だが、カミュがそんな素直なミロの反応にほっとしたのも束の間だった。
「でも、少なくとも一年あれば、カミュを惚れさせる自信はある」
カミュの瞳を見据えながら、ミロはそう自分自身に宣言するようにきっぱりと告げる。
決然とした表情は、勝利を確信した王者のそれだ。
思わず息を呑んだカミュは、わずかに瞳を細めてミロを見た。
思い出す。
ボクシングになど全く興味のなかったカミュが試合中の彼の虜となったのは、偏にこの貪欲に勝利を追い求める力強い瞳のせいだ。
しばらく懐かしい記憶を辿っていたカミュは、やがてふわりと微笑を浮かべた。
「……それは楽しみだな」
「本当?」
「ああ、私が惚れるほど美味いケーキ、期待させてもらおう」
「……いや、そういうことじゃないんだけど……」
嬉々としてカミュの方に身を乗り出していたミロは、途端にひどく落胆したようにうなだれた。
そのしょぼくれた仔犬のような背に、さらに追い討ちがかかる。
「こら、客口説く暇があったら仕事しろ」
顔を上げたカミュは、ミロの背後に不穏なオーラをまとって立つこの店のオーナー、デスマスクの姿をみとめた。
「なんだよ、サボってたのはオヤジだろ!」
「ああ、うるさい、うるさい。シュラ、こいつ、連れてけ」
「わかりました」
口数の少ないギャルソンに無理矢理引っ張られるようにしてミロが厨房の奥に姿を消すと、デスマスクは一転して愛想のよい笑顔をカミュに向けた。
「すみませんね、どうぞ、ごゆっくり」
「ああ……」
突然の騒動に呆気に取られていたカミュは、如才ないデスマスクの言葉に軽く頷くと、再びケーキに手を伸ばした。
やはり極上の味だ。
つい感じてしまう幸せに、顔がにんまりと締まりなく綻ぶ。
その間の抜けた顔を誰かに見られはしなかったかと、カミュはすぐに我に返り慌てて周囲を見渡した。
視界の端に厨房の扉が映った。
小さな丸窓越しに、一瞬厨房にいるサガの姿がみえ、またすぐに消える。
その端整な相貌がこちらをみて嬉しそうに微笑んでいたような気がして、カミュの心臓はどきりと震えた。
「はい、どうぞ」
ぐたりとテーブルに突っ伏していたカミュは、頭上から降ってきたミロの声にゆっくりと顔を上げた。
ことんと小さな音を立て、卓上に置かれたのはガトーショコラの皿だった。
蓄積した疲労にまだぼんやりとした頭がわずかばかりの不審の存在を感知し、カミュは首を傾げた。
首を巡らしてショーケースをみると、その不審は度合いを増した。
今日はバレンタイン。
たまたま来店したカミュが手伝いに借り出されるほどに、チョコレート菓子を求める客で終始店内は賑わっていた。
中でも深く艶やかな色彩に染まるこのガトーショコラの売れ行きは上々で、カミュの記憶が確かなら、つい先ほど完売し客の落胆を誘ったはずだ。
事実、目視による確認の結果、ショーケースの中にこれと同じ濃色のケーキは一つもない。
カミュは無言のままミロへと視線を転じた。
相変わらずの人を惹きつける愛想のよい笑顔を浮かべ、ミロはカミュの隣に腰を下ろした。
「カミュの分、先に一個確保しといたんだ。食べてよ」
「いいのか?」
「ああ、おかげで今日はすごく助かったし。ありがとな。サガもお礼言ってた」
そう言って、ミロはちらりと奥の厨房を眺めやる。
カミュもまたつられたように視線を向けた。
天才と呼ばれる人はやはりどこか常人とは違うのかもしれない。
天才パティシエの名を欲しいままにするサガは、どうも人間嫌いなのか、扉の向こうに閉じこもったままなかなか姿を現そうとしない。
だが、時折みせるその表情はとても優しく穏やかで、ひどく心を惹かれた。
この店に通い始めた当初の目的はボクサーからパティシエへと意外な転身をしたミロへの取材だったのだが、今日はサガに会えるかもしれないという日増しに大きくなる期待も、いつしかカミュをここへ足を運ばせる理由となっていた。
「ほら、食べなよ。でないと俺がもらっちゃうぞ」
「いや、ありがとう。では、遠慮なく頂く」
屈託なく笑うミロに物想いの淵から引き戻されたカミュは、にこりと微笑んだ。
華奢な作りのフォークを手にし、カミュはじっとケーキをみつめた。
優れた職人の手による菓子細工は芸術だと思う。
壊してしまうのが惜しくなるほどの造形だが、口に運んだときの甘美な刺激は目を楽しませてくれる喜びの比ではない。
待ち受ける芳醇な味わいに期待を寄せつつ、カミュはそっとケーキを一口分切り分けた。
表層のチョココーティングがかすかな抵抗を窺わせたが、それも一瞬、ケーキは滑らかにフォークを吸い込んでいく。
立ち上る甘やかな香りを堪能しつつ、カミュは一口舌の上に乗せた。
蕩ける。
甘味が幸せを運ぶなど、この店の菓子に出会うまで知らなかった。
それは、ここのパティシエに出会ってからの変化だった。
「……ホント美味しそうに食べるよね」
傍らのミロが小さく息を吐いた。
口から喉を通して伝わっていく安らぎめいた喜びは、表情にも表れたのだろう。
カミュはさっと頬に血が上るのを感じた。
食す、という原始的な行為に性的な意味合いを含ませたのは誰だったか。
確かに、無防備に欲望を曝け出すという意味では、両者は共通している。
だからこそ、食事姿を人にじっと観察されていたと思うと無性に気恥ずかしい。
そんな羞恥に駆られる自分を誤魔化すようにかるく睨みつけたが、ミロは少しも動じた風がなかった。
「……そんなに、好き?」
ミロの蒼い瞳が、一瞬きらりと鋭い光を宿したようにみえた。
この瞳を、カミュは以前にも見たことがある。
かつてボクサーとして名を馳せたミロがリングの上で見せる、獣にも似た苛烈な眼光だ。
その射抜くような瞳が、今はカミュの一身に集中している。
カミュはこくりと喉を鳴らした。
「……何……を……?」
からからに乾いた舌が上顎に張り付いてしまったようで、声がかすかに震えた。
くすりとミロが笑う。
にわかに緊張するカミュの姿が余程可笑しいのか、ミロの瞳から途端に険が消えた。
「ケーキだよ、ケーキ」
「……ケーキ? あ、ああ、もちろん好きだが」
「笑える。なに硬くなってんの、カミュ」
楽しげにくすくすと笑い続けるミロは、ついで意味ありげな眼差しをちらりとカミュに向けた。
「……それとも、サガのことだと思った?」
図星だった。
心の奥底まで無遠慮に覗き込まれたようで思わず動きを止めるカミュの目の前に、ミロはすっと人指し指を突き立ててきた。
「一年」
「……?」
訝しむカミュの瞳を真っ直ぐに見据えながら、ミロは熱っぽく囁いた。
「一年待ってよ。俺、この一年で必ずサガに追いついてみせるから。そしたら……」
ミロの指がそのまま下へ降り、カミュの食べかけのケーキを一塊むしりとる。
その指がゆっくりとミロの口へと運ばれていくのを、カミュはただ茫然とみつめた。
味を記憶に刻みつけようとでもするように真剣な表情でケーキを食べたミロは、指先に付着したチョコレートを舐めながらにやりと笑った。
「来年のバレンタイン、カミュは俺のケーキを食べる。約束な」
サガではなくこの俺が作ったケーキを、と、ミロは一方的な約束を念を押すように繰り返す。
カミュはつと卓上のケーキへと視線を落とした。
強い輝きを放つ蒼の瞳に気圧されたか、先ほどから心臓は早鐘を打って止まない。
少しでもこの鳴り響く鼓動を落ち着けようと、カミュはさりげなくコーヒーに手を伸ばし、そして冗談めかして笑ってみせた。
「随分と自信過剰なのだな。たった一年であのサガを上回るケーキを作るなど」
「ん、正直言うと、菓子作りでサガに勝つ自信はない。やっぱあの人スゴイからな」
拍子抜けするくらい呆気なく、ミロはカミュの憎まれ口に同意する。
だが、カミュがそんな素直なミロの反応にほっとしたのも束の間だった。
「でも、少なくとも一年あれば、カミュを惚れさせる自信はある」
カミュの瞳を見据えながら、ミロはそう自分自身に宣言するようにきっぱりと告げる。
決然とした表情は、勝利を確信した王者のそれだ。
思わず息を呑んだカミュは、わずかに瞳を細めてミロを見た。
思い出す。
ボクシングになど全く興味のなかったカミュが試合中の彼の虜となったのは、偏にこの貪欲に勝利を追い求める力強い瞳のせいだ。
しばらく懐かしい記憶を辿っていたカミュは、やがてふわりと微笑を浮かべた。
「……それは楽しみだな」
「本当?」
「ああ、私が惚れるほど美味いケーキ、期待させてもらおう」
「……いや、そういうことじゃないんだけど……」
嬉々としてカミュの方に身を乗り出していたミロは、途端にひどく落胆したようにうなだれた。
そのしょぼくれた仔犬のような背に、さらに追い討ちがかかる。
「こら、客口説く暇があったら仕事しろ」
顔を上げたカミュは、ミロの背後に不穏なオーラをまとって立つこの店のオーナー、デスマスクの姿をみとめた。
「なんだよ、サボってたのはオヤジだろ!」
「ああ、うるさい、うるさい。シュラ、こいつ、連れてけ」
「わかりました」
口数の少ないギャルソンに無理矢理引っ張られるようにしてミロが厨房の奥に姿を消すと、デスマスクは一転して愛想のよい笑顔をカミュに向けた。
「すみませんね、どうぞ、ごゆっくり」
「ああ……」
突然の騒動に呆気に取られていたカミュは、如才ないデスマスクの言葉に軽く頷くと、再びケーキに手を伸ばした。
やはり極上の味だ。
つい感じてしまう幸せに、顔がにんまりと締まりなく綻ぶ。
その間の抜けた顔を誰かに見られはしなかったかと、カミュはすぐに我に返り慌てて周囲を見渡した。
視界の端に厨房の扉が映った。
小さな丸窓越しに、一瞬厨房にいるサガの姿がみえ、またすぐに消える。
その端整な相貌がこちらをみて嬉しそうに微笑んでいたような気がして、カミュの心臓はどきりと震えた。