無憂宮
風邪


 カミュが風邪を引いた。
 師が床に臥すなど滅多にないことだけに、アイザックと氷河は途方に暮れていた。
 高熱にうなされながらも、時折ぼんやりと薄目を開け、傍らに弟子の姿をみとめると安心させるように弱々しく微笑んでみせる。
 「……大丈夫、ですか?」
 氷水に晒したタオルを絞ってはカミュの額に載せていたアイザックが、心配そうにぽつりと呟いた。
 氷の聖闘士を目指す自分たちでなかったら辛かっただろうと思うほどに、常人なら指先の感覚がなくなるくらい冷やしたはずのタオルも、カミュの額の上ではすぐに温まってしまう。
 それでも、自分たちにできることなど他に何も思いつかなくて、ただ傍にいて苦しげなカミュを見守ることしかできない。
 無力感に苛まれつつ、アイザックは言葉を紡いだ。
 「……ミロ、呼びましょうか?」
 いつも騒々しくて煩くてカミュを困らせては楽しんでいるような手に負えない男だが、彼が自分たちが師以外に頼りにできる唯一の存在であることには変わりはない。
 しかし、カミュは頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
 「……大丈夫、すぐ治すから……」
 そう言ったカミュの熱に潤んだ真紅の瞳が、一瞬だけ強い光を放つ。
 「ミロには絶対知らせるな、いいな」
 気力を振り絞ったという感じで、カミュはそれだけ厳命すると、再び不快なまどろみの中に落ちていく。
 無理しちゃって。
 アイザックは悔しそうに俯いた。
 ずっと傍で看病していたから、乾いたカミュの唇が時折かすかに動くのに、気がついてしまった。
 何度も何度も繰り返し音もなく囁くのが同じ言葉だということも、すぐにわかってしまった。
 好奇心にかられ、自分も同じように唇の動きをなぞらえ、不本意ながら悟ってしまった。
 カミュが誰を呼んでいるのか。誰を求めているのか。
 「……ミロに知らせなきゃ、いいんですよね」
 カミュに聞こえていないことを承知した上で、不貞腐れたようにぼそりと言い捨てたアイザックは、氷河に病人の看病を任せると外へ出た。
 この数日来降り続けていた雪はいつのまにか止み、夜空には星が清かに瞬いていた。
 天空に敵でもいるかのように、アイザックはきっと空の彼方を睨みつけた。
 「カミュが寝込んで苦しんでるってのに、何してるんだよ……!」
 別にミロに呼びかけたというわけではない。
 もともと小宇宙で通信できるほどのレベルには、残念ながらアイザックはまだ到達していない。
 それでも、ありったけの小宇宙を集中させ、聖域方面に念波を放ってみた。
 もしこの叫びに何らかの反応があっても、それはアイザックの独り言を聞いた誰かが勝手にしただけのことだ。
 アイザックには、関係ない。
 もう一度空をねめつけると、アイザックはくるりと踵を返した。
 冬の空気が一層しんと冴え渡ったような気がして、アイザックは追い立てられるように足早に家の中へ戻っていった。


 気配を感じたカミュは瞼を持ち上げた。
 「お、気がついた?」
 覗きこんでくるここにいるはずのない人物に驚き、朦朧とする意識を必死でかき集めて起き上がろうとするが、強い腕に寝台に押し戻される。
 「ああ、そのまま寝とけ」
 「……何故ミロがここにいる?」
 じろりとねめつけると、アイザックはカミュから視線を逸らしたまま、氷河を促しそそくさと部屋を出て行った。
 「……余計なことを」
 舌打ちするカミュに、ミロは手にした封筒を差し出した。
 「いや、俺、今日はただの宅配便なんだけど」
 カミュはなにやら少しかさ張る封筒を見た。
 封蝋は教皇の印。教皇からだ。
 ミロはこの状況を知ったからではなく、たまたま公用でシベリアを訪れただけなのだろう。
 濡れ衣で責めてしまった弟子に後で謝らねばならないなどと思いつつ、カミュはミロから封筒を受け取った。
 「ちゃんと渡したぞ。サインもらえる?」
 「ああ……」
 ふらつく頭でペンを探そうと周囲を見回した、そのとき。
   「……サイン代わりに、これでいいや」
 ぐらりと世界が歪んだ。
 悪戯っぽい声と同時に、ミロの舌が口の中に差し込まれてきたのだ。
 熱以外の理由で、カミュの呼吸が荒くなる。
 力の入らない腕でミロを押し戻そうともがくと、彼は意外と素直に解放してくれた。
 「ちなみに、お届け内容は風邪薬と有能な看護人だから」
 自分を指差しにっと口の端を持ち上げるミロに、動揺覚めやらぬカミュは訳もわからずうなずいた。
 「じゃ、まず熱測ろうか。あ、俺の舌、体温計も兼ねてるんで、今度はきちんと測らせてくれない?」
 「……」
 「……冗談。傍にいてやるから、ちゃんと寝ろ」
 「眠らせてくれないのは誰だ……」
 毒づきながらも、カミュは毛布を顎まで引き上げると目を閉じた。
 ふわりと額を撫でた指の感触が心地よくて自然と口元が綻びるのを夢うつつに感じつつ、カミュは静かに眠りに落ちていった。

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