無憂宮
心音


 むせかえるような薔薇の香りに包まれていた。
 ここまで嗅覚が刺激されるとは、夢の中ではないのだろう。
 それでもミロは瞳を閉じたまま、夢と現世との境界をたゆたっていた。
 目覚めてしまうのが惜しい。
 胸の上に感じる重みの正体くらい、瞳を開かなくてもわかる。
 そのぬくもりを、もう少し味わっていたかった。
 身体に密着する愛しい人の感触を、離したくなかった。
 しかし、幸福な時間ほど長くは続かない。
 微妙な変化を感じ取ったか、カミュがほんの少し身体を持ち上げた。
 待ちかねたように隙間に忍び込む空気が冷たい。
 ミロは腕を伸ばし、カミュを引き寄せた。
 先程のように胸に頬を寄せるカミュが、かすかに笑みを浮かべる。
 「どうした、カミュ?」
 「……音を、聴いていた」
 「何の?」
 カミュは不満そうに顔を上げると、ミロの唇に人差し指をそっと添えた。
 「黙って。聴こえなくなる」
 指で封印されたミロは、素直にカミュの言に従うことにした。
 カミュを傍においての沈黙ならば、苦痛ではない。
 どのくらいそうしていただろう。
 カミュは静かに呟いた。
 囁きにも似たその声は、夢の世界から語りかけられるようだった。
 「……生命の奏でる音、だ」
 うっとりと酔いしれるようにカミュは瞳を閉じた。
 「俺には聞こえないけど?」
 「聴こうとしないからだ。鼓動の響きも呼吸音も、美しい旋律を奏でているのに」
 そう言って、カミュは再びミロの胸に顔を寄せた。
 「あったかい……。ミロは、生きているんだな」
 「当たり前だろ。だから、こうしてカミュを抱いてやれるんだ」
 ミロは笑ってカミュの髪を指に絡ませた。
 さらさらと指の合間から滑り落ちていく真紅の髪は、戯れにむしりとった薔薇の花弁が風に舞う様を思い起こさせた。
 「……この音を、絶やすなよ。おまえは、生き続けろ。何があっても……」
 「おまえもな、カミュ」
 返事は無かった。
 カミュは、ただ微笑んで、ミロの心音を聴いていた。
 それを無言の肯定と受け取り、ミロはカミュの髪を撫でていた。
 幸せだった。


 どこからともなく薔薇の香気が漂ってくると、なぜか心音が大きく鳴り響く気がした。
 生きている証を、腕の中にいない相手に伝えようとするかのように。
 その調べを愛でてくれた人に、再び聴いてもらいたいと叫ぶかのように。
 薔薇によく似た髪色の、愛する、あの人に。

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