無憂宮
七夕


 宮の前を小走りに通り過ぎていくミロがあまりに真っ赤な顔をしているんで、つい声をかけてしまったのが運のつきだった。
 「……シュラ……!」
 呼び止められたミロは小声でそう俺の名を呟いたかと思うと、思いっきり顔を歪めた。
 次の瞬間、ミロの目から大粒の涙がぼろぼろこぼれ出し、俺をすっかり慌てさせる。
 「な、何だ? おい、どうした、ミロ、何があった?」
 「……カミュと……ケンカ……した……」
 呼吸困難になりそうになほどしゃくりあげながら、ミロはそれでも何とか俺の質問に答えようとする。
 「今、カミュのとこ行ったらさ……」
 色とりどりの紙細工で飾られた笹があったのだという。
 昨年、まだサガもアイオロスも聖域にいた頃、「七夕」とかいう行事をしたことを思い出したのだろう。
 短冊に願いを書いて笹につるせば、その願いは叶う。
 そんな子供騙しに乗っかって皆で大騒ぎしながら願いを書いたのは、そういえば去年の今頃だった。
 「で、カミュのお願いをみせてもらったらさ、何て書いてあったと思う?」
 「さあな」
 ミロは拳で目をぬぐうと、まるで俺が何か悪いことでもしたかのようにきっと睨みつけた。
 「……『サガに会えますように』って」
 「……ああ、そうか」
 人見知りが激しくなかなか他人に心を開かない分、カミュはサガには人一倍懐いていた。
 突然のサガの失踪から随分時間が経ったとはいえ、それはそんなカミュにしてみれば至極当然の願いだろう。
 しかし、ミロはその何が不満だったのか。
 その疑問の答えは、すぐにミロ自身の口から明らかにされた。
 「俺、カミュが寂しくないようにと思ってさ、サガの分までいっつもカミュの傍にいるのに、なんでまだサガに会いたいって言うのかな? 俺じゃダメなの?」
 まっすぐに俺を見上げて不満を訴えるミロは、訓練中にもみせたことがないほど真剣な表情だった。
 その子供っぽい純粋さは微笑ましかったが、俺はミロのささやかな自尊心を慮り、懸命に真面目な顔を作ってやった。
 ミロには果たせない役割がサガにはあるし、同様にサガには果たせない役割がミロにはあるのだが、それを理解するにはまだ少しこいつは幼い。
 彼を大好きだというただその一点から、カミュの中の優先順位において、自分が第一席を占めていないと気がすまないのだろう。
 好意に優劣はつけられないことをどう説明するべきか、考える時間を稼ごうと、俺は適当な相槌を打った。
 「で、そうカミュに言ったのか?」
 ミロはこくりと頷いた。
 「それから、『サガなんか、どんなに待ったってもう帰ってこない!』って……」
 「……へえ」
 「ついでに、カミュの笹、ばきって折ってきちゃった……」
 「……そりゃマズイな」
 「だからケンカしたんだって!」
 直面する問題を思い出したのか、ミロの瞳が再び潤みだす。
 俺はミロと目線の高さを揃えるように座り込むと、その蒼い瞳を覗き込んだ。
 「自分が悪いことをしたと、思うか?」
 ミロは少し不貞腐れたようにそっぽを向いたが、やがてこくりと頷いた。
 自分の非を認めることのできる素直さは、ミロの長所だ。
 俺はミロの頭に手を伸ばし、癖の強い金髪をくしゃりと撫でてやった。
 「じゃ、カミュに謝りに行くか?」
 余程カミュは激しく怒ったのだろうか。
 普段感情の起伏に乏しいカミュが珍しくみせた感情の爆発は、ミロを随分と恐がらせてしまったらしい。
 途端に緊張に襲われたらしく、ミロは下唇を噛みしめぐっと拳を握り締めた。
 「一緒に行ってやるから」
 「……うん」
 心底ほっとしたように、ミロはにっこり笑った。
 「……一応言っとくが、謝るのは、俺じゃなくておまえだからな」
 その笑顔があまりに晴れやかだったので、無用の心配だとは思いつつ、念のため確認せずにはいられなかった。


 ミロが壊したという笹の修復用にガムテープを探していたら、思ったより手間取ってしまった。
 少し時間が空いてしまったが、カミュもまたひとつのことに囚われるとなかなか次の行動に移れないタイプだから、謝罪が時期を逸したということもないだろう。
 カミュを落ち込ませたままにしているということにわずかばかりの罪悪感を覚えないでもなかったが、そう楽観しつつ、俺とミロは宝瓶宮の扉をノックした。
 返事はなかった。
 顔を見合わせた俺とミロは、そろりと扉を開けて宮中を覗き込んだ。
 カミュはそこにいた。
 長椅子の上、積み重ねたクッションの合間に埋もれて身動きもしない。
 近づいてよく見てみると、頬にかすかに涙の跡を残したまま眠りこんでいた。
 ミロとのケンカは、カミュにしてもショックな出来事だったのだろう。
 泣き疲れて眠ってしまった、ということか。
 好都合。
 それならカミュが寝ている間に、無残に二つ折りにされたという笹を直しておくことができる。
 そう思った俺は壁際で異彩を放つ植物のオブジェに向き直った。
 「……なるほど」
 笹の修復は既に行われていた。
 笹の中ほど、ミロが叩き折ったと思われる部分はしっかりと重ねあわされ、その周囲は厚い氷でぐるりと包まれていたのだ。
 そう簡単には溶ける様子もない硬い修復剤に安心した俺は、諍いの原因になったというカミュの書いた短冊を目で探した。
 みつけた、ように思った。
 随分と読みにくい文字を解読した俺は、小さく息を吐いた。
 「……ミロ、ちょっとこっちに来い」
 「何?」
 「おまえ、カミュが起きたらちゃんと謝っておけ。俺は帰るから」
 「え、傍にいてくれるんじゃ……」
 心細げな抗議の声に小さく笑うと、俺は笹の葉の合間から短冊の一枚を指で引っ張りだした。
 ミロが背伸びをして覗き込むのを確認し、きっかり三秒後に指を放すと、短冊はまるで隠れようとでもするように枝葉の中に戻っていく。
 「一人で大丈夫、だな」
 「……うん」
 ミロは力強く頷いた。
 「ありがとう、シュラ」
 「人騒がせもこれっきりにしろよな」
 ぽんとミロの頭を叩き、俺は宝瓶宮を後にした。


 もしも願いが叶うなら、俺はやはり「一年前のあのときに戻りたい」と短冊にしたためるだろう。
 アイオロスもサガも笑顔でそこにいて、黄金聖闘士が皆仲良く共同生活を営んでいたあの日々に。
 皮肉なものだ。
 あの頃は抱えた望みが多すぎて、短冊に書く願いを何にしようかと散々頭を悩ませたというのに、今はたった一つ、それしか願いは思いつかない。
 俺は込み上げてくる苦い思いをやり過ごそうと、口の端をわずかに吊り上げた。
 短冊に書いた願いが叶うなど、やはり眉唾物だったが、今年はひとつくらいは実現してくれそうだった。
 少なくとも、カミュが涙に文字を滲ませながら書いた「ミロと仲直りができますように」という願いだけは。
 そう思うと、ほんの少し、気分が楽になった。

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