哀悼
十二宮周辺には、それぞれの宮主が醸し出す独特の気が漂っている。
それは下位聖闘士などでは察知できない極々わずかな気配かもしれないが、同じ黄金の聖衣をまとう者たちの間ではすっかり慣れ親しんだ事象だった。
宝瓶宮におけるそれは、清新な冷気だ。
彼の宮に近づくにつれ、冬の夜を満たす外気のような凛と冴え渡った涼感が身を包む。
アイオリアは瞳を眩しげに眇めると行く手を見上げた。
宮主が世を去り数日が経った今でも、その冷涼な気はカミュがここに生きた証を刻み込もうとでもするように辺りをほのかに流れ行く。
だが、かつての人馬宮がそうであったように、黄金聖闘士の鋭敏な感覚をもってしても彼の名残を感知しえなくなるのも時間の問題だ。
そのとき、ミロは何を思うのだろう。
恋人と親友を一度に亡くした喪失感と、彼は一体どう折り合いをつけていくのだろう。
強固な自制心がなせる業か、人前では今までと少しも変わった様子を見せないミロの内心がいかばかりか、やはり大切な存在を亡くしたことのあるアイオリアには容易に想像がついた。
辛いのは、死んだ本人よりも残された生者の方であり、その彼を支えられるのは、死者の思い出ではなく生ける友だ。
兄に先立たれ悲嘆に暮れる幼い自分をミロが救ってくれたように、今度は自分が彼に手を差し伸べよう。
そんな使命感にも似た感情に突き動かされミロへの伝令役を買って出たアイオリアは、ミロの姿を求め黙々と階段を上り続けた。
天蠍宮に主の姿は見当たらなかった。
自宮以外の彼の居場所として最も蓋然性が高いのは、さらに幾つか宮を通り過ぎた先にある。
従前通りならば、という仮定の下ではあったが、他に適当な候補地も思いつかず、次の捜索地をそう定めたアイオリアの判断は正しかったようだ。
程なく宝瓶宮に足を踏み入れたアイオリアは、愕然と立ち尽くした。
捜し人が、そこにいた。
薄暗い宮の中、冷たい石の床の上に、ミロはうつ伏せに横たわっていた。
豊かな黄金の髪を背に波打たせ彫像のように微動だにしないその姿に視線が釘付けになったのは、他でもない。
眼前の光景が、まだ鮮やかな悲しむべき記憶の情景と寸分違わず重なったからだった。
あの長いようで短い一日が終わった後、まさにこの同じ場所に倒れ臥していたのは、カミュ。
真白い氷霜で全身をうっすらと覆い、鼓動を完全に凍りつかせ、カミュは静かに横臥していた。
その顔はまるで眠っているように穏やかで、彼があの印象的な真紅の瞳を永久に閉ざしてしまったなどとはにわかに信じがたく、アイオリアはカミュが起き上がりはしないかとしばらく見守ってしまったほどだった。
無論、残念ながらそんな奇跡は起きなかったのだが、そのカミュとの決定的な違いは、ミロがまだ現世の住人であるということだ。
「……アイオリア、か」
生存証明のように小さく呟く声に、アイオリアは黙って頷いた。
しばらくかけるべき言葉の選択に迷っていると、再びミロのかすかな声が聞こえた。
「……ちょっと、あいつが最期に目にした景色を見てみたくてさ」
「……そうか」
愚行の言い訳じみた台詞に対しそれ以上何と言っていいのか、アイオリアにはわからなかった。
それでもせめて、独り言のようにぽつりぽつりとミロが落とす言葉を大事に拾い集め、その一つ一つをしっかりと耳に留めようと、アイオリアは心に決めた。
悲しみは、一人で胸に仕舞い込んでもその重みを増すだけだ。
率直な心情を吐露することで少しでもその悲嘆を慰撫することができるなら、アイオリアは喜んで聞き役に徹するつもりだった。
ミロだけでなくカミュのためにも、それが無邪気な子供時代を彼らと共に過ごした自分のなすべき務めだと思った。
そうしてアイオリアがじっと視線を注ぐ中、ミロは大儀そうに身を起こした。
床にしどけなく足を投げ出し肩を落として俯いた姿からは、普段の覇気に満ちた偉容など微塵も感じられない。
強さと弱さ。
その一見両極端にもみえる性質は、その本質において表裏一体をなすものである。
天秤がどちらかに傾いたなら、それはただの脆さでしかない。
悲痛な叫びを押し殺し気丈に振舞うミロの天秤は、徐々に強さ一辺倒に偏りつつあった。
カミュが息を引き取ったその場所で一人佇むひとときは、そんなミロを少しずつ弱さへと揺り戻し正常な状態へと近づけつつあったのだろう。
歓迎すべき傾向に安堵するアイオリアに向けてか、カミュを亡くした空虚な自分に向けてか、ミロは淡々と言葉を紡いだ。
「俺、カミュが死んだって、まだどっかで信じられなくてさ。棺に冷たくなったあいつを横たえたのもその棺を埋葬したのも、みんな俺なのにな」
可笑しいだろう、と皮相な笑みを浮かべるミロに、アイオリアは落命した黄金聖闘士の埋葬の儀の風景を思い出していた。
一挙に数を減らした十二宮の宮主は皆、表には出さないもののミロを気遣っていた。
一方、当のミロは、平生の誇り高い戦士の姿勢を少しも崩さず、死者への礼節を重んじ哀悼の意を表しつつ涙一つ流すことはなかった。
だが、立ち去り際、何気なく振り返ったアイオリアは見てしまった。
墓石に刻まれたカミュの名を、ミロが指でなぞっていた。
ここに何故彼の名があるのかと、さも不思議そうに墓標に指を這わせるその仕草を見たとき、アイオリアは思ったのだ。
ミロはまだ、現実を受け止めきれていない、と。
そして、同時に密かに思い定めていた。
じわじわと胸に迫り来る永訣の苦しみに、引き裂かれんばかりに苛まれるときが来たのなら、そのときには自分はミロの傍にいてやろう、と。
恐らくは、今が、そのときなのだろう。
「……いや、俺もだ。カミュはまたシベリアにでも行っているような気がして仕方がない」
ミロの傍に同じように座り込んだアイオリアは相槌を打った。
ミロは我が意を得たりと頷いた。
「そうなんだよな。だからといって、シベリアまで会いに行こうとはさすがに思わないんだが」
アイオリアはちらりとミロを見た。
会いに行くどころか、小宇宙で会話を試みることすら思わない、いや、できないはずだった。
軽口めかして笑ってみせているが、その実はカミュの死という認めたくない事実から逃げ回っているだけなのだ。
それが証拠に、アイオリアが知る限り、ミロは埋葬の儀以来、墓地には一歩たりとも足を踏み入れていない。
しかし、今、ミロは確かに「カミュが死んだ」と口にした。
ようやく強い自分を演じることで押し殺してきた内なる弱さに向き合い、カミュの死を受け入れるつもりになったということか。
「……もうアケローン河渡ったのかな。あいつの気配がどんどん薄れていくのがわかるんだが」
「そうかもしれないな」
推測を裏付けるような台詞に、アイオリアはミロの気を引き立ててやろうと殊更に明るい笑顔を作った。
「今頃、驚いてるだろうな、カミュ。あっちで久々にサガと対面して……」
ミロの表情が途端に強張る。
失言を悟ったアイオリアは、言いさした言葉の残りを慌てて呑み込んだ。
冗談のつもりだったのだが、日頃戯言めいた発言と縁がない自分は、場を和ませるどころかますます凍りつかせてしまったようだ。
「……それは、ないな」
額に垂れ下がる髪をわずらわしげに片手でかき上げたミロが、吐き捨てるように呟く。
発言の意図を量りかねかるく目を見張るアイオリアは、続くミロの台詞に耳を疑った。
「カミュは多分知ってたよ。教皇の正体がサガだって」
「……嘘だろ」
あまりに突拍子もない知らせを耳にすると、人はそれを冗句と信じ込みたくなるのか、ついつい笑みを浮かべてしまうものだ。
アイオリアの反応も御多分に漏れなかったのだが、いつまでたってもミロが「今のは嘘だ」と言う様子はない。
口元に浮かべた微笑を我知らず引きつらせるアイオリアからすっと視線を外したミロは、行き場のない苛立ちをぶつけるように長い髪をくしゃりとかき回した。
「いつぐらいからかな、あいつ、全然拒まなくなったんだよ」
「何を」
「セックス」
二人が情を交わしていることは薄々察してはいたが、その関係についてこうも直裁に言及されたことはない。
赤裸々なミロの言葉に思わず赤面するアイオリアに構わず、ミロは他人事のように淡々と続けた。
「嫌だとか止せとか、あんなにうるさかったのに、突然一言も言わなくなった。多分、俺に隠し事があるのが後ろめたかったんだろう。あいつは子供の頃からひどくサガを慕ってたから、そう考えれば納得がいく」
折角治りかけた傷を殊更に抉るような自虐的な発言は、今までのミロには決してなかったことだ。
彼らしくもない言動の真意を探ろうと、アイオリアはぶつぶつと繰言を並べるミロの横顔を静かに見守り、そしてある可能性に思い至った。
ひょっとしたら、この悪趣味な告白は、彼なりのカミュへの訣別宣言なのかもしれない。
他人に聞かせるべきではない艶事を暴露しても血相を変えて怒り狂う相手はもういないことを、こんな無粋な方法で自分に思い知らせようとしているのかもしれない。
しかし。
「……それは、おまえの勝手な思い込みだろう。証拠もないのに、あまりにカミュに失礼だ」
不服気にちらりと視線を走らせたミロをまっすぐ見据え、アイオリアは聞き分けのない子供に言い聞かせるように徐に口を開いた。
「カミュは、本当におまえのことを好きだったよ。……と、俺は思う」
一語一語をミロの脳髄に直接打ち込むことができたなら、と願いつつ、アイオリアはだんまりを決め込むミロをじっと見守った。
幼馴染の友人からかけがえのない恋人へと二人がその関係を変化させていく、その一部始終をアイオリアは見続けてきたのだ。
ときには愚痴の聞き役にされ、ときにはあてつけの様に惚気られ、喧嘩の仲裁役さえさせられたことがある。
だから、二人が互いに寄せる想いの深さも、二人が共に過ごしてきた時間の眩しさも、つい羨望を覚えてしまうほどによく知っていた。
そんなアイオリアがあえて呈する苦言なのだから、他の誰が言うよりも重い意味を持つはずだった。
胸の内で友人の言を反芻するようにしばらくじっと俯いていたミロは、やがてゆっくりと顔を上げた。
照れ臭さを誤魔化すために付け加えた最後の一言は余計だったかもしれないが、アイオリアの真摯な言葉は確かにミロの胸に届いたようだ。
先刻までのぎすぎすと荒んだ表情の名残は、もはや何処にもなかった。
「……アイオリア、ちょっとアイオロスに似てきたな」
「そうか?」
「ああ、今、何だかアイオロスに怒られてるような気がした」
ミロはくすりと笑うと、ついでわずかに顔を曇らせた。
「ごめんな。俺、アイオロスを信じ通すことができなかった」
蒼い瞳に浮かんだ強い光に、アイオリアは思わず息を呑んだ。
じっとアイオリアを見据えて詫びるミロの瞳には、今は亡き兄の姿が映っているのかもしれない。
この謝罪は、アイオロス本人にこそ伝えるべきものだ。
アイオリアは、笑った。
記憶の中に今尚息づく兄のように白い歯を見せ、力強い笑みを浮かべた。
「気にするな、ミロ」
信じられなかったのは、自分も、同罪だ。
しかし、兄ならば、きっとこんな一言であっけらかんと自分たちを自責の念から解き放ってくれるだろうと、アイオリアは確信していた。
そんなアイオリアの思いはミロにも伝わったのだろう。
心底ほっとしたように口元を緩めたミロは、すっと視線を外へ向けた。
薄暗い宮内から見る外の景色は白く輝いて見えるほどに眩しくて、つられて目線を転じたアイオリアはわずかに目を細めた。
「な、アイオリア。これから墓参りに行かないか」
誰の、とは、ミロは言わなかったし、アイオリアも聞かなかった。
ミロの中で未来を歩み続けていく決意が固まったことに変わりは無いのだから、それでよかった。
アイオリアは頷きかけ、そこでようやくミロを捜していた当初の目的を思い出した。
聖衣の修復作業に追われるムウからの伝言を言付かって来たのだった。
「そのまえに白羊宮に寄れよ。ムウがおまえを呼んでた。血をよこせって」
「……あいつに言われると、何だか吸血鬼の呼び出しを受けてるような気がするな」
ムウの前では決して口にできないような軽口を叩きつつ、ミロはいつものようににやりと不遜な笑みを浮かべて立ち上がる。
そのミロの背中に、アイオリアは何気ない風を装いつつ声をかけた。
「あと献血してないのはおまえだけだから、白鳥星座の聖衣が直せないらしいぞ」
歩き出しかけていたミロの足が、ぴたりと止まる。
誰がどの青銅聖衣に修復用の血液を提供するか、別段取り決めた訳ではなかった。
だが、暗黙の了解のように皆が白鳥星座をミロに委ねるのは、ただ彼の対戦相手だったからという理由だけではないことに、気付かないような鈍い男ではあるまい。
束の間の沈黙の後、ミロは大仰に肩を落としてみせた。
「……こんなことなら、あんまりあいつの聖衣に傷つけるんじゃなかったな。カミュもつくづく面倒な置き土産を残してくれたものだ」
そうぼやくミロの声がどこか嬉しげで、思わず微笑を浮かべたアイオリアは、戸外へと向かうミロの背を黙って見送った。
宮の内外の激しい明度の落差に、その後ろ姿はまるで光の中に吸い込まれていくように見える。
そのミロに寄り添うように一瞬紅い影が過ぎったような気がしたが、アイオリアは少しも動じず、煌く黄金の髪が完全に光と同化してゆく様をただ眩しげにみつめていた。
十二宮周辺には、それぞれの宮主が醸し出す独特の気が漂っている。
それは下位聖闘士などでは察知できない極々わずかな気配かもしれないが、同じ黄金の聖衣をまとう者たちの間ではすっかり慣れ親しんだ事象だった。
宝瓶宮におけるそれは、清新な冷気だ。
彼の宮に近づくにつれ、冬の夜を満たす外気のような凛と冴え渡った涼感が身を包む。
アイオリアは瞳を眩しげに眇めると行く手を見上げた。
宮主が世を去り数日が経った今でも、その冷涼な気はカミュがここに生きた証を刻み込もうとでもするように辺りをほのかに流れ行く。
だが、かつての人馬宮がそうであったように、黄金聖闘士の鋭敏な感覚をもってしても彼の名残を感知しえなくなるのも時間の問題だ。
そのとき、ミロは何を思うのだろう。
恋人と親友を一度に亡くした喪失感と、彼は一体どう折り合いをつけていくのだろう。
強固な自制心がなせる業か、人前では今までと少しも変わった様子を見せないミロの内心がいかばかりか、やはり大切な存在を亡くしたことのあるアイオリアには容易に想像がついた。
辛いのは、死んだ本人よりも残された生者の方であり、その彼を支えられるのは、死者の思い出ではなく生ける友だ。
兄に先立たれ悲嘆に暮れる幼い自分をミロが救ってくれたように、今度は自分が彼に手を差し伸べよう。
そんな使命感にも似た感情に突き動かされミロへの伝令役を買って出たアイオリアは、ミロの姿を求め黙々と階段を上り続けた。
天蠍宮に主の姿は見当たらなかった。
自宮以外の彼の居場所として最も蓋然性が高いのは、さらに幾つか宮を通り過ぎた先にある。
従前通りならば、という仮定の下ではあったが、他に適当な候補地も思いつかず、次の捜索地をそう定めたアイオリアの判断は正しかったようだ。
程なく宝瓶宮に足を踏み入れたアイオリアは、愕然と立ち尽くした。
捜し人が、そこにいた。
薄暗い宮の中、冷たい石の床の上に、ミロはうつ伏せに横たわっていた。
豊かな黄金の髪を背に波打たせ彫像のように微動だにしないその姿に視線が釘付けになったのは、他でもない。
眼前の光景が、まだ鮮やかな悲しむべき記憶の情景と寸分違わず重なったからだった。
あの長いようで短い一日が終わった後、まさにこの同じ場所に倒れ臥していたのは、カミュ。
真白い氷霜で全身をうっすらと覆い、鼓動を完全に凍りつかせ、カミュは静かに横臥していた。
その顔はまるで眠っているように穏やかで、彼があの印象的な真紅の瞳を永久に閉ざしてしまったなどとはにわかに信じがたく、アイオリアはカミュが起き上がりはしないかとしばらく見守ってしまったほどだった。
無論、残念ながらそんな奇跡は起きなかったのだが、そのカミュとの決定的な違いは、ミロがまだ現世の住人であるということだ。
「……アイオリア、か」
生存証明のように小さく呟く声に、アイオリアは黙って頷いた。
しばらくかけるべき言葉の選択に迷っていると、再びミロのかすかな声が聞こえた。
「……ちょっと、あいつが最期に目にした景色を見てみたくてさ」
「……そうか」
愚行の言い訳じみた台詞に対しそれ以上何と言っていいのか、アイオリアにはわからなかった。
それでもせめて、独り言のようにぽつりぽつりとミロが落とす言葉を大事に拾い集め、その一つ一つをしっかりと耳に留めようと、アイオリアは心に決めた。
悲しみは、一人で胸に仕舞い込んでもその重みを増すだけだ。
率直な心情を吐露することで少しでもその悲嘆を慰撫することができるなら、アイオリアは喜んで聞き役に徹するつもりだった。
ミロだけでなくカミュのためにも、それが無邪気な子供時代を彼らと共に過ごした自分のなすべき務めだと思った。
そうしてアイオリアがじっと視線を注ぐ中、ミロは大儀そうに身を起こした。
床にしどけなく足を投げ出し肩を落として俯いた姿からは、普段の覇気に満ちた偉容など微塵も感じられない。
強さと弱さ。
その一見両極端にもみえる性質は、その本質において表裏一体をなすものである。
天秤がどちらかに傾いたなら、それはただの脆さでしかない。
悲痛な叫びを押し殺し気丈に振舞うミロの天秤は、徐々に強さ一辺倒に偏りつつあった。
カミュが息を引き取ったその場所で一人佇むひとときは、そんなミロを少しずつ弱さへと揺り戻し正常な状態へと近づけつつあったのだろう。
歓迎すべき傾向に安堵するアイオリアに向けてか、カミュを亡くした空虚な自分に向けてか、ミロは淡々と言葉を紡いだ。
「俺、カミュが死んだって、まだどっかで信じられなくてさ。棺に冷たくなったあいつを横たえたのもその棺を埋葬したのも、みんな俺なのにな」
可笑しいだろう、と皮相な笑みを浮かべるミロに、アイオリアは落命した黄金聖闘士の埋葬の儀の風景を思い出していた。
一挙に数を減らした十二宮の宮主は皆、表には出さないもののミロを気遣っていた。
一方、当のミロは、平生の誇り高い戦士の姿勢を少しも崩さず、死者への礼節を重んじ哀悼の意を表しつつ涙一つ流すことはなかった。
だが、立ち去り際、何気なく振り返ったアイオリアは見てしまった。
墓石に刻まれたカミュの名を、ミロが指でなぞっていた。
ここに何故彼の名があるのかと、さも不思議そうに墓標に指を這わせるその仕草を見たとき、アイオリアは思ったのだ。
ミロはまだ、現実を受け止めきれていない、と。
そして、同時に密かに思い定めていた。
じわじわと胸に迫り来る永訣の苦しみに、引き裂かれんばかりに苛まれるときが来たのなら、そのときには自分はミロの傍にいてやろう、と。
恐らくは、今が、そのときなのだろう。
「……いや、俺もだ。カミュはまたシベリアにでも行っているような気がして仕方がない」
ミロの傍に同じように座り込んだアイオリアは相槌を打った。
ミロは我が意を得たりと頷いた。
「そうなんだよな。だからといって、シベリアまで会いに行こうとはさすがに思わないんだが」
アイオリアはちらりとミロを見た。
会いに行くどころか、小宇宙で会話を試みることすら思わない、いや、できないはずだった。
軽口めかして笑ってみせているが、その実はカミュの死という認めたくない事実から逃げ回っているだけなのだ。
それが証拠に、アイオリアが知る限り、ミロは埋葬の儀以来、墓地には一歩たりとも足を踏み入れていない。
しかし、今、ミロは確かに「カミュが死んだ」と口にした。
ようやく強い自分を演じることで押し殺してきた内なる弱さに向き合い、カミュの死を受け入れるつもりになったということか。
「……もうアケローン河渡ったのかな。あいつの気配がどんどん薄れていくのがわかるんだが」
「そうかもしれないな」
推測を裏付けるような台詞に、アイオリアはミロの気を引き立ててやろうと殊更に明るい笑顔を作った。
「今頃、驚いてるだろうな、カミュ。あっちで久々にサガと対面して……」
ミロの表情が途端に強張る。
失言を悟ったアイオリアは、言いさした言葉の残りを慌てて呑み込んだ。
冗談のつもりだったのだが、日頃戯言めいた発言と縁がない自分は、場を和ませるどころかますます凍りつかせてしまったようだ。
「……それは、ないな」
額に垂れ下がる髪をわずらわしげに片手でかき上げたミロが、吐き捨てるように呟く。
発言の意図を量りかねかるく目を見張るアイオリアは、続くミロの台詞に耳を疑った。
「カミュは多分知ってたよ。教皇の正体がサガだって」
「……嘘だろ」
あまりに突拍子もない知らせを耳にすると、人はそれを冗句と信じ込みたくなるのか、ついつい笑みを浮かべてしまうものだ。
アイオリアの反応も御多分に漏れなかったのだが、いつまでたってもミロが「今のは嘘だ」と言う様子はない。
口元に浮かべた微笑を我知らず引きつらせるアイオリアからすっと視線を外したミロは、行き場のない苛立ちをぶつけるように長い髪をくしゃりとかき回した。
「いつぐらいからかな、あいつ、全然拒まなくなったんだよ」
「何を」
「セックス」
二人が情を交わしていることは薄々察してはいたが、その関係についてこうも直裁に言及されたことはない。
赤裸々なミロの言葉に思わず赤面するアイオリアに構わず、ミロは他人事のように淡々と続けた。
「嫌だとか止せとか、あんなにうるさかったのに、突然一言も言わなくなった。多分、俺に隠し事があるのが後ろめたかったんだろう。あいつは子供の頃からひどくサガを慕ってたから、そう考えれば納得がいく」
折角治りかけた傷を殊更に抉るような自虐的な発言は、今までのミロには決してなかったことだ。
彼らしくもない言動の真意を探ろうと、アイオリアはぶつぶつと繰言を並べるミロの横顔を静かに見守り、そしてある可能性に思い至った。
ひょっとしたら、この悪趣味な告白は、彼なりのカミュへの訣別宣言なのかもしれない。
他人に聞かせるべきではない艶事を暴露しても血相を変えて怒り狂う相手はもういないことを、こんな無粋な方法で自分に思い知らせようとしているのかもしれない。
しかし。
「……それは、おまえの勝手な思い込みだろう。証拠もないのに、あまりにカミュに失礼だ」
不服気にちらりと視線を走らせたミロをまっすぐ見据え、アイオリアは聞き分けのない子供に言い聞かせるように徐に口を開いた。
「カミュは、本当におまえのことを好きだったよ。……と、俺は思う」
一語一語をミロの脳髄に直接打ち込むことができたなら、と願いつつ、アイオリアはだんまりを決め込むミロをじっと見守った。
幼馴染の友人からかけがえのない恋人へと二人がその関係を変化させていく、その一部始終をアイオリアは見続けてきたのだ。
ときには愚痴の聞き役にされ、ときにはあてつけの様に惚気られ、喧嘩の仲裁役さえさせられたことがある。
だから、二人が互いに寄せる想いの深さも、二人が共に過ごしてきた時間の眩しさも、つい羨望を覚えてしまうほどによく知っていた。
そんなアイオリアがあえて呈する苦言なのだから、他の誰が言うよりも重い意味を持つはずだった。
胸の内で友人の言を反芻するようにしばらくじっと俯いていたミロは、やがてゆっくりと顔を上げた。
照れ臭さを誤魔化すために付け加えた最後の一言は余計だったかもしれないが、アイオリアの真摯な言葉は確かにミロの胸に届いたようだ。
先刻までのぎすぎすと荒んだ表情の名残は、もはや何処にもなかった。
「……アイオリア、ちょっとアイオロスに似てきたな」
「そうか?」
「ああ、今、何だかアイオロスに怒られてるような気がした」
ミロはくすりと笑うと、ついでわずかに顔を曇らせた。
「ごめんな。俺、アイオロスを信じ通すことができなかった」
蒼い瞳に浮かんだ強い光に、アイオリアは思わず息を呑んだ。
じっとアイオリアを見据えて詫びるミロの瞳には、今は亡き兄の姿が映っているのかもしれない。
この謝罪は、アイオロス本人にこそ伝えるべきものだ。
アイオリアは、笑った。
記憶の中に今尚息づく兄のように白い歯を見せ、力強い笑みを浮かべた。
「気にするな、ミロ」
信じられなかったのは、自分も、同罪だ。
しかし、兄ならば、きっとこんな一言であっけらかんと自分たちを自責の念から解き放ってくれるだろうと、アイオリアは確信していた。
そんなアイオリアの思いはミロにも伝わったのだろう。
心底ほっとしたように口元を緩めたミロは、すっと視線を外へ向けた。
薄暗い宮内から見る外の景色は白く輝いて見えるほどに眩しくて、つられて目線を転じたアイオリアはわずかに目を細めた。
「な、アイオリア。これから墓参りに行かないか」
誰の、とは、ミロは言わなかったし、アイオリアも聞かなかった。
ミロの中で未来を歩み続けていく決意が固まったことに変わりは無いのだから、それでよかった。
アイオリアは頷きかけ、そこでようやくミロを捜していた当初の目的を思い出した。
聖衣の修復作業に追われるムウからの伝言を言付かって来たのだった。
「そのまえに白羊宮に寄れよ。ムウがおまえを呼んでた。血をよこせって」
「……あいつに言われると、何だか吸血鬼の呼び出しを受けてるような気がするな」
ムウの前では決して口にできないような軽口を叩きつつ、ミロはいつものようににやりと不遜な笑みを浮かべて立ち上がる。
そのミロの背中に、アイオリアは何気ない風を装いつつ声をかけた。
「あと献血してないのはおまえだけだから、白鳥星座の聖衣が直せないらしいぞ」
歩き出しかけていたミロの足が、ぴたりと止まる。
誰がどの青銅聖衣に修復用の血液を提供するか、別段取り決めた訳ではなかった。
だが、暗黙の了解のように皆が白鳥星座をミロに委ねるのは、ただ彼の対戦相手だったからという理由だけではないことに、気付かないような鈍い男ではあるまい。
束の間の沈黙の後、ミロは大仰に肩を落としてみせた。
「……こんなことなら、あんまりあいつの聖衣に傷つけるんじゃなかったな。カミュもつくづく面倒な置き土産を残してくれたものだ」
そうぼやくミロの声がどこか嬉しげで、思わず微笑を浮かべたアイオリアは、戸外へと向かうミロの背を黙って見送った。
宮の内外の激しい明度の落差に、その後ろ姿はまるで光の中に吸い込まれていくように見える。
そのミロに寄り添うように一瞬紅い影が過ぎったような気がしたが、アイオリアは少しも動じず、煌く黄金の髪が完全に光と同化してゆく様をただ眩しげにみつめていた。