月光の誘い
月の光が街を照らしていた。
満月だった。
教会の尖塔が白く輝き、芝生の庭に十字の影を落としていた。
しかし、人々が寝静まり、もうじき雪が降るような時節では、折角の美しい月も人の目を喜ばせはしない。
その輝きの恩恵を受けようという者は、皆無に等しい。
それでもここに一人、月を愛でる希少な存在がいた。
教会の庭に据えられた聖母像の元で、子供が膝を抱えて月を見上げている。
まだ、片手で年齢が数えられるくらいの幼児だった。
彼は、この教会に付属する孤児院の子供だった。
別に日中の共同生活から脱け出し、一人になりたかったというわけではない。
人と一緒にいるほうが、彼は孤独だったのだから。
物心ついた頃から、彼は人に心を閉ざしていた。
シスター達が、心の内では彼に怯えていることを知っていた。
しかしそれも無理もないと、他人事のように思う。
親でさえ、自分を捨てたのだ。
原因の一つは、この外見。
禍々しいまでに紅い、髪と瞳。
もう一つは…。
そこまで考えて、彼はかぶりをふった。
肩口にかかる真紅の髪が、わずかに風を起こした。
せっかくの一人の時間に、嫌なことは考えたくなかった。
月に向かって、ほうっと息を吐く。
吐息が白い結晶になるのが楽しかった。
もうすぐ冬が来る。
空気が冴え渡り、透き通るように凍えだす感覚が懐かしい。
この嗜好も、自分の中の忌まわしいチカラに関連しているのかもしれないが、とりあえず好きなことを思い浮かべ、彼は微笑んだ。
もう一度、白い息をつく。
背後にまばゆいばかりの明かりがともったのは、その時だった。
驚いて振り返ると、マリア像が金色に輝いている。
彼は弾かれたように立ち上がった。
夜景に慣れていた目は月光をはるかに凌駕する光についていくことができず、彼はまぶしそうに手をかざした。
「すまない、驚かせてしまったかい?」
静かな声がした。
やがて薄れた光の中に、彼は人影を認めた。
いぶかしげに首をかしげる。
「……だれ?」
突然の声の主は、像の影からするりとその姿を現した。
それは黄金の甲冑をまとった少年だった。
その戦仕度とは裏腹に、どこか聖母のような優しい微笑を浮かべている。
長い銀髪を揺らし、少年は音もなく歩みを進めてきた。
突然の訪問者はカミュの前まで来ると立ち止まり、呆けたように見上げる子供と目線を合わせるようにかがみこんだ。
藍色の瞳がまっすぐ彼をのぞきこむ。
慈しみをたたえた、深い湖のように穏やかな瞳だった。
「私はサガ。君を迎えに来たんだよ、カミュ」
「迎えに……?」
思考がついていかない様子の幼児に、サガと名乗る少年は安心させるように笑ってみせた。
「そう、君は星に選ばれたんだ。女神の聖闘士になるんだよ」
カミュは紅い瞳を大きく見開き、そして、ふっと微笑んだ。
妙に子供離れした寂しげな微笑だった。
「それなら、人違いだと思います。僕はセイントにはなれない」
サガは不思議そうにカミュをみつめた。
黙って、次の言葉を待つ。
「だって、僕は悪魔の子だから。恐ろしいって、みんな陰で言ってます」
生まれて間もない彼は、まさに今いる場所に捨てられていたという。
淡く雪が降り積もる中、まるでそれが暖かい毛布であるかのように、すやすやと眠っていた赤子。
それがカミュだった。
そして、彼を拾った孤児院の修道女は、すぐに気がついたのだ。
その赤子が泣くと、そこはかとなく冷気が発せられることに。
得体の知れないもの、受け入れがたいものに対する排斥は、時に信心深いほど強くなる。
彼は周囲の人間から、密かに恐れられていた。
「だから、名前ももらえなかったんです。ここの子供は、みんな聖人の名前がつくのに」
カミュは下を向いた。
この孤児院に拾われた名の無い子供には、守護聖人の名前が授けられていた。
唯一の例外はカミュ。
この名の由来は、自分と共に捨てられていたバースデーカードのついたブランデーのボトルだった。
シスターは、親とのつながりだから、と言っていたけれど、それは嘘。
贈り物を用意し、誕生を祝おうとしていた親でも、その子を捨ててしまうなら、親ではない。
つながりなど、いらない。
聖人の名を、悪魔の子にはつけられないだけだ。
「だから、セイントにはなれません」
カミュはうなだれたまま、ぼそりとつぶやいた。
サガは、そんなうちひしがれた子供の前に膝をついた。
この子が言っているセイントとは、キリスト教の聖人であって、女神の聖闘士ではない。
聖闘士の存在が一般に知られていない以上当然のことだが、今その説明をする気はなかった。
こんな幼い子供が、こんな哀しい目をしていてはいけない。
すぐにでも、呪縛から解き放ってやりたかった。
両手を伸ばし、カミュの小さな手をぎゅっと握る。
「それは当然だよ。だって、君自身が聖闘士になるんだから。既にいる聖人の名前を使うと、同じ名前のセイントが二人になってしまうだろう?」
カミュは大きな瞳を瞬かせて、サガをみつめた。
「一緒に行こう、カミュ。私たちの仲間になってほしい」
カミュの心の中で、氷が溶け出し閉じ込められていた気泡が外に出るような小さな音がした。
自分の手を握る人も、これほど温かく微笑みかける人も、生まれて初めてだった。
シンジテイイノ? ボクヲナカマニシテクレルノ?
無言の問いかけが通じたのか、サガはうなずいた。
「行こうか、カミュ」
立ち上がり、握った手に軽く力を込める。
自分の手をおずおずと握り返してきた子供に、サガはにっこり微笑んだ。
「手を離さないで、しっかり握っているんだよ」
言葉と同時に、彼の体は再び金色の光に包まれだした。
月光が闇を照らす権利を取り戻したときには、庭にはもう誰もいなかった。
ただ聖母像だけが、変わらずひっそりとたたずんでいた。
月の光が街を照らしていた。
満月だった。
教会の尖塔が白く輝き、芝生の庭に十字の影を落としていた。
しかし、人々が寝静まり、もうじき雪が降るような時節では、折角の美しい月も人の目を喜ばせはしない。
その輝きの恩恵を受けようという者は、皆無に等しい。
それでもここに一人、月を愛でる希少な存在がいた。
教会の庭に据えられた聖母像の元で、子供が膝を抱えて月を見上げている。
まだ、片手で年齢が数えられるくらいの幼児だった。
彼は、この教会に付属する孤児院の子供だった。
別に日中の共同生活から脱け出し、一人になりたかったというわけではない。
人と一緒にいるほうが、彼は孤独だったのだから。
物心ついた頃から、彼は人に心を閉ざしていた。
シスター達が、心の内では彼に怯えていることを知っていた。
しかしそれも無理もないと、他人事のように思う。
親でさえ、自分を捨てたのだ。
原因の一つは、この外見。
禍々しいまでに紅い、髪と瞳。
もう一つは…。
そこまで考えて、彼はかぶりをふった。
肩口にかかる真紅の髪が、わずかに風を起こした。
せっかくの一人の時間に、嫌なことは考えたくなかった。
月に向かって、ほうっと息を吐く。
吐息が白い結晶になるのが楽しかった。
もうすぐ冬が来る。
空気が冴え渡り、透き通るように凍えだす感覚が懐かしい。
この嗜好も、自分の中の忌まわしいチカラに関連しているのかもしれないが、とりあえず好きなことを思い浮かべ、彼は微笑んだ。
もう一度、白い息をつく。
背後にまばゆいばかりの明かりがともったのは、その時だった。
驚いて振り返ると、マリア像が金色に輝いている。
彼は弾かれたように立ち上がった。
夜景に慣れていた目は月光をはるかに凌駕する光についていくことができず、彼はまぶしそうに手をかざした。
「すまない、驚かせてしまったかい?」
静かな声がした。
やがて薄れた光の中に、彼は人影を認めた。
いぶかしげに首をかしげる。
「……だれ?」
突然の声の主は、像の影からするりとその姿を現した。
それは黄金の甲冑をまとった少年だった。
その戦仕度とは裏腹に、どこか聖母のような優しい微笑を浮かべている。
長い銀髪を揺らし、少年は音もなく歩みを進めてきた。
突然の訪問者はカミュの前まで来ると立ち止まり、呆けたように見上げる子供と目線を合わせるようにかがみこんだ。
藍色の瞳がまっすぐ彼をのぞきこむ。
慈しみをたたえた、深い湖のように穏やかな瞳だった。
「私はサガ。君を迎えに来たんだよ、カミュ」
「迎えに……?」
思考がついていかない様子の幼児に、サガと名乗る少年は安心させるように笑ってみせた。
「そう、君は星に選ばれたんだ。女神の聖闘士になるんだよ」
カミュは紅い瞳を大きく見開き、そして、ふっと微笑んだ。
妙に子供離れした寂しげな微笑だった。
「それなら、人違いだと思います。僕はセイントにはなれない」
サガは不思議そうにカミュをみつめた。
黙って、次の言葉を待つ。
「だって、僕は悪魔の子だから。恐ろしいって、みんな陰で言ってます」
生まれて間もない彼は、まさに今いる場所に捨てられていたという。
淡く雪が降り積もる中、まるでそれが暖かい毛布であるかのように、すやすやと眠っていた赤子。
それがカミュだった。
そして、彼を拾った孤児院の修道女は、すぐに気がついたのだ。
その赤子が泣くと、そこはかとなく冷気が発せられることに。
得体の知れないもの、受け入れがたいものに対する排斥は、時に信心深いほど強くなる。
彼は周囲の人間から、密かに恐れられていた。
「だから、名前ももらえなかったんです。ここの子供は、みんな聖人の名前がつくのに」
カミュは下を向いた。
この孤児院に拾われた名の無い子供には、守護聖人の名前が授けられていた。
唯一の例外はカミュ。
この名の由来は、自分と共に捨てられていたバースデーカードのついたブランデーのボトルだった。
シスターは、親とのつながりだから、と言っていたけれど、それは嘘。
贈り物を用意し、誕生を祝おうとしていた親でも、その子を捨ててしまうなら、親ではない。
つながりなど、いらない。
聖人の名を、悪魔の子にはつけられないだけだ。
「だから、セイントにはなれません」
カミュはうなだれたまま、ぼそりとつぶやいた。
サガは、そんなうちひしがれた子供の前に膝をついた。
この子が言っているセイントとは、キリスト教の聖人であって、女神の聖闘士ではない。
聖闘士の存在が一般に知られていない以上当然のことだが、今その説明をする気はなかった。
こんな幼い子供が、こんな哀しい目をしていてはいけない。
すぐにでも、呪縛から解き放ってやりたかった。
両手を伸ばし、カミュの小さな手をぎゅっと握る。
「それは当然だよ。だって、君自身が聖闘士になるんだから。既にいる聖人の名前を使うと、同じ名前のセイントが二人になってしまうだろう?」
カミュは大きな瞳を瞬かせて、サガをみつめた。
「一緒に行こう、カミュ。私たちの仲間になってほしい」
カミュの心の中で、氷が溶け出し閉じ込められていた気泡が外に出るような小さな音がした。
自分の手を握る人も、これほど温かく微笑みかける人も、生まれて初めてだった。
シンジテイイノ? ボクヲナカマニシテクレルノ?
無言の問いかけが通じたのか、サガはうなずいた。
「行こうか、カミュ」
立ち上がり、握った手に軽く力を込める。
自分の手をおずおずと握り返してきた子供に、サガはにっこり微笑んだ。
「手を離さないで、しっかり握っているんだよ」
言葉と同時に、彼の体は再び金色の光に包まれだした。
月光が闇を照らす権利を取り戻したときには、庭にはもう誰もいなかった。
ただ聖母像だけが、変わらずひっそりとたたずんでいた。