それは、はじまり
聖域の外れにある小さな森は、暦上は秋とはいえまだまだ暑い昼をすごすのに快適だった。
最近のミロは昼寝場所をその一角に定めている。
ちょうどいい枝振りの木をみつけたので、すでにハンモックをつるしてあるほどだ。
一番仲のいい友人は図書室にこもって読書中なので、今日もミロは一人で森へ向かっていた。
森の中は平野の照りつけるような太陽を拒み、かすかに木漏れ日だけがその名残を示している。
ひんやりとして心地よい。
どこか友人の宮を思い出させるのも、彼は気に入っていた。
目指す休息所まで行く途中、聞きなれた声がした。
ミロは首をかしげた。
誰でも入れる森なので、他に人が涼んでいることも珍しくはない。
が、それが知り合いであることは稀だった。
道をそれ、枝をかきわけて声のほうへ進む。
倒れた木の幹に座るアイオリアの後姿があった。
遊び相手が見つかったと思ったミロは笑顔を浮かべ、声をかけようとした。
しかし、一、二歩踏み出した足はすぐに止まる。
アイオリアの傍らに、見知らぬ少女がいるのをみとめたのだ。
格好からすると聖闘士候補生であるのが見て取れた。
惜しげもなくさらされた手足の肌にかすかに黄みがかかっていることからすると、聖域には珍しい東洋系なのだろう。
だが、それ以上のことはわからず、アイオリアとの関係もつかめず、ミロは躊躇して木の陰から様子を見ていた。
しばらくすると少女は森の外へ向かって走り出す。
アイオリアが片手を挙げて挨拶しているところからみると、これから訓練に向かうのだろう。
少女の姿が見えなくなっても、アイオリアは動こうとしない。
その後ろ姿はすこし残念そうで、ミロの悪戯心に火をつけた。
彼は足音を忍ばせて背後から近づくと、大声でわっと叫んだ。
突然の奇声に、アイオリアは文字通り飛び上がり拳を固めた。
「ミ、ミロ、いつからいた?」
「さっきから。誰、今の子?」
動揺するアイオリアをからかうのもおもしろいのだが、あまり調子に乗ると本気で怒らせかねない。
彼が落ち着く前に、ミロは好奇心を満足させてくれるだろう質問を発した。
「べ、別になんでもないぞ。魔鈴は……」
「へえ、あの子、そういう名前なんだ。どこで知り合った?」
ミロがいたずらっぽく流し目を送る。
兄のことがあって以来、アイオリアは自分からはあまり人と関わろうとせず、いつも一人でいた。
ミロはそれでも結構声をかけていたが、昔のように屈託ない反応が返ってこないことに気づいてからは、無理に誘うことはなかった。
とはいえ、幼馴染でもあり、常に気にかけてはいたのである。
そのアイオリアに、自分の知らない交友関係があるというのは少し意外でもあり、また喜ばしくもあった。
アイオリアは観念したのか、人に話すのが嬉しいのか、赤くなりながらも話し出す。
「このあいだ、他の候補生にいじめられてたんだ。東洋人で、女だから聖闘士なんかなれっこないって」
「は、はーん、で、お前が助けて感謝された、というわけだな」
「いや、余計なことをするなと怒られた」
「は?」
ミロは眉を寄せて首を90度傾けた。
理解不能の展開だった。
「いいたい奴には言わせておけばいい、自分が聖衣を得たらすむだけの話だって」
「そりゃ、たくましいな」
「そうだろう? ただギリシャ語がまだイマイチだから、教えてくれって」
アイオリアはなんとなく嬉しそうに笑った。
久しぶりにみる友人の笑顔に、ミロもつられて笑った。
自分にはどうしようもないことで責められる経験のある二人には、通じ合うものがあったのだろうか。
逆境をはねのける力は、一人より二人の方が強い。
いい相手を見つけたな、とミロは心から祝福してやりたくなった。
「笑った顔がみたいな、とか思っちゃうんだよね」
アイオリアは頭をかきながら照れくさそうに言う。
いや、その前に素顔だろう、お前にはあの仮面は見えないのか。
そう突っ込みたかったが、かろうじて喉元でおさえた。
恋する少年には何を言っても無駄であろう。
「ミロはさ、そういうのいないの?」
「は、なにが?」
「だから、笑顔を見たいなって思うような子とか」
無意識とはいえ、ほんの少し言葉にこもる優越感に似た響きに、負けず嫌いのミロは敏感に反応した。
それが真似事に過ぎないにしても、アイオリアには恋愛ごっこをする相手がいるのだ。
ここでいないとか言ったなら、一人、子供扱いされてしまう。
それは、避けたい。
「……いる」
「え、誰、だれ?」
アイオリアがわくわくした顔で問いかける。
自分ばかり語ってしまったので、いまさらながら少し恥ずかしいのだろう。
ミロを同じ状況に引っ張りこめたのは、彼にとっては大成功だったといえる。
一方、見栄を張ってしまったミロは、内心で非常に困っていた。
不満に思ったことも無かったが、周りにいるのは黄金聖闘士ばかりで、女の子など遠巻きにしか見たことは無い。
もっとも、密かに候補生の間ではミロは人気者だったのだが、それは彼のあずかり知らぬところである。
笑顔、笑顔……と、ミロは心の中で呪文のように呟いた。
と、突然一筋の光明が差す。
「そうだ、カミュ! あいつ滅多に笑わないけど、笑うとすっごい綺麗で、もっと見てたいなって思うんだ」
重荷が解かれたように晴れ晴れとしたミロに、アイオリアは怪訝な顔をした。
「……今、好きな子はって聞いたつもりだったんだけど……」
ミロの笑顔はそのまま固まった。
確かに、必死に誰かいないかと考えすぎて、当初の質問の意味を忘れていた。
笑顔が見たい、と、その条件だけで脳内を検索していたのだった。
「カミュのこと、好きなの?」
ミロの思考は停止した。
カミュのこと、好きなの?
一人ハンモックに揺られながら、ミロは何度もアイオリアの台詞を自分に問いかけてみた。
好きなのは、事実。
一緒にいて楽しいし、ミロの言動に呆れたようにため息をつくカミュの仕草が見たくて、わざわざ突拍子もないことをやってしまったりもする。
でも、それは幼馴染で、友人で、兄弟みたいなものだと思っていた。
と、そこでミロは自分の胸に手を当てた。
思っていた?
なんで、過去形なんだろう。
なんで、心臓がこんなにばくばく音をたててるんだろう。
なんで、だろう。
答えは、見つからなかった。
「……ミロ、ミロ、起きろ」
名前が呼ばれるのを意識の片隅に聞いた。
あまり悩んだことの無い頭は、慣れないことをしすぎたせいで疲れたのだろう。
いつのまにか眠ってしまっていたらしかった。
ぼんやりと目を開ける。
あたりはもう暗くなりかけていた。
「こんなところで寝てると、風邪をひくぞ」
薄闇にもわかる真紅の瞳が、すぐ近くで呆れたようにミロを見詰めていた。
「わっ、カ、カミュ!」
さんざん想っていた人物が突然目の前に出現したことに驚き、ミロは勢いよく起き上がった。
しかし、ハンモックの上だということを忘れていたため、バランスを崩し、転がり落ちる。
カミュは吹きだした。
「何やってるんだ、おまえ」
相変わらず騒々しいやつだ、と笑うカミュはやはり綺麗で、ミロは痛みも忘れてしばらく見惚れた。
ああ、わかった、かもしれない。
やっぱりカミュの笑顔を見ていたい、と思う。
ソレハ…………ナンダヨ。
どくん。
心臓が、跳ねた。
「頭でも打ったか? ほら、立てる?」
様子がおかしいミロに、カミュはまだくすくす笑いながら手を差し出した。
いままでなんのためらいもなく握ることができたカミュの手は、今日はなぜか違って見えた。
ミロはどうしていいかわからず、ただその手をじっとみつめた。
「なんだ、手相でもみるのか?」
続く沈黙に、カミュは不審気に尋ねる。
覚悟を決めたミロは、カミュの手をさっとつかんで起き上がった。
指の長い華奢な手のぬくもりが伝わってくる。
どくん。
心臓が、また、跳ねた。
頭の中で、もう一人の自分がささやく。
ソレハ、こい、ナンダヨ。
「うそっ!」
頭の中に響く声に、ミロは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
いよいよカミュはいぶかしげに眉をひそめる。
「おまえ、どうかした? さっきアイオリアもおかしかったけど……」
「アイオリア? 何、あいつ、なんか変なこと言った?」
ミロの頬が紅潮した。
もし余計なことを言っていたら、スカーレットニードル三十発位はお見舞いしよう、と本気で思った。
「ミロをよろしく頼むって。おまえたち、けんかでもしたのか?」
早く仲直りしろよ、とカミュは真面目な顔をした。
真剣な話をするとき、カミュはまっすぐ人の瞳をみつめる。
人見知りの激しかった子供のときは、相手の目を見ることができなくて、よくミロに注意されていた。
こうして視線を合わせることができるのも、ミロの訓練の賜物である。
しかし、今この瞬間のミロは、幼かった自分の行動を後悔していた。
カミュの紅い瞳に吸い込まれそうで、視線を合わせることができなかった。
一度視線を捉えてしまったら、もう離せなくなる気がした。
気づいてしまったから。
カミュが、好きだ。
それは、恋の、はじまり。
聖域の外れにある小さな森は、暦上は秋とはいえまだまだ暑い昼をすごすのに快適だった。
最近のミロは昼寝場所をその一角に定めている。
ちょうどいい枝振りの木をみつけたので、すでにハンモックをつるしてあるほどだ。
一番仲のいい友人は図書室にこもって読書中なので、今日もミロは一人で森へ向かっていた。
森の中は平野の照りつけるような太陽を拒み、かすかに木漏れ日だけがその名残を示している。
ひんやりとして心地よい。
どこか友人の宮を思い出させるのも、彼は気に入っていた。
目指す休息所まで行く途中、聞きなれた声がした。
ミロは首をかしげた。
誰でも入れる森なので、他に人が涼んでいることも珍しくはない。
が、それが知り合いであることは稀だった。
道をそれ、枝をかきわけて声のほうへ進む。
倒れた木の幹に座るアイオリアの後姿があった。
遊び相手が見つかったと思ったミロは笑顔を浮かべ、声をかけようとした。
しかし、一、二歩踏み出した足はすぐに止まる。
アイオリアの傍らに、見知らぬ少女がいるのをみとめたのだ。
格好からすると聖闘士候補生であるのが見て取れた。
惜しげもなくさらされた手足の肌にかすかに黄みがかかっていることからすると、聖域には珍しい東洋系なのだろう。
だが、それ以上のことはわからず、アイオリアとの関係もつかめず、ミロは躊躇して木の陰から様子を見ていた。
しばらくすると少女は森の外へ向かって走り出す。
アイオリアが片手を挙げて挨拶しているところからみると、これから訓練に向かうのだろう。
少女の姿が見えなくなっても、アイオリアは動こうとしない。
その後ろ姿はすこし残念そうで、ミロの悪戯心に火をつけた。
彼は足音を忍ばせて背後から近づくと、大声でわっと叫んだ。
突然の奇声に、アイオリアは文字通り飛び上がり拳を固めた。
「ミ、ミロ、いつからいた?」
「さっきから。誰、今の子?」
動揺するアイオリアをからかうのもおもしろいのだが、あまり調子に乗ると本気で怒らせかねない。
彼が落ち着く前に、ミロは好奇心を満足させてくれるだろう質問を発した。
「べ、別になんでもないぞ。魔鈴は……」
「へえ、あの子、そういう名前なんだ。どこで知り合った?」
ミロがいたずらっぽく流し目を送る。
兄のことがあって以来、アイオリアは自分からはあまり人と関わろうとせず、いつも一人でいた。
ミロはそれでも結構声をかけていたが、昔のように屈託ない反応が返ってこないことに気づいてからは、無理に誘うことはなかった。
とはいえ、幼馴染でもあり、常に気にかけてはいたのである。
そのアイオリアに、自分の知らない交友関係があるというのは少し意外でもあり、また喜ばしくもあった。
アイオリアは観念したのか、人に話すのが嬉しいのか、赤くなりながらも話し出す。
「このあいだ、他の候補生にいじめられてたんだ。東洋人で、女だから聖闘士なんかなれっこないって」
「は、はーん、で、お前が助けて感謝された、というわけだな」
「いや、余計なことをするなと怒られた」
「は?」
ミロは眉を寄せて首を90度傾けた。
理解不能の展開だった。
「いいたい奴には言わせておけばいい、自分が聖衣を得たらすむだけの話だって」
「そりゃ、たくましいな」
「そうだろう? ただギリシャ語がまだイマイチだから、教えてくれって」
アイオリアはなんとなく嬉しそうに笑った。
久しぶりにみる友人の笑顔に、ミロもつられて笑った。
自分にはどうしようもないことで責められる経験のある二人には、通じ合うものがあったのだろうか。
逆境をはねのける力は、一人より二人の方が強い。
いい相手を見つけたな、とミロは心から祝福してやりたくなった。
「笑った顔がみたいな、とか思っちゃうんだよね」
アイオリアは頭をかきながら照れくさそうに言う。
いや、その前に素顔だろう、お前にはあの仮面は見えないのか。
そう突っ込みたかったが、かろうじて喉元でおさえた。
恋する少年には何を言っても無駄であろう。
「ミロはさ、そういうのいないの?」
「は、なにが?」
「だから、笑顔を見たいなって思うような子とか」
無意識とはいえ、ほんの少し言葉にこもる優越感に似た響きに、負けず嫌いのミロは敏感に反応した。
それが真似事に過ぎないにしても、アイオリアには恋愛ごっこをする相手がいるのだ。
ここでいないとか言ったなら、一人、子供扱いされてしまう。
それは、避けたい。
「……いる」
「え、誰、だれ?」
アイオリアがわくわくした顔で問いかける。
自分ばかり語ってしまったので、いまさらながら少し恥ずかしいのだろう。
ミロを同じ状況に引っ張りこめたのは、彼にとっては大成功だったといえる。
一方、見栄を張ってしまったミロは、内心で非常に困っていた。
不満に思ったことも無かったが、周りにいるのは黄金聖闘士ばかりで、女の子など遠巻きにしか見たことは無い。
もっとも、密かに候補生の間ではミロは人気者だったのだが、それは彼のあずかり知らぬところである。
笑顔、笑顔……と、ミロは心の中で呪文のように呟いた。
と、突然一筋の光明が差す。
「そうだ、カミュ! あいつ滅多に笑わないけど、笑うとすっごい綺麗で、もっと見てたいなって思うんだ」
重荷が解かれたように晴れ晴れとしたミロに、アイオリアは怪訝な顔をした。
「……今、好きな子はって聞いたつもりだったんだけど……」
ミロの笑顔はそのまま固まった。
確かに、必死に誰かいないかと考えすぎて、当初の質問の意味を忘れていた。
笑顔が見たい、と、その条件だけで脳内を検索していたのだった。
「カミュのこと、好きなの?」
ミロの思考は停止した。
カミュのこと、好きなの?
一人ハンモックに揺られながら、ミロは何度もアイオリアの台詞を自分に問いかけてみた。
好きなのは、事実。
一緒にいて楽しいし、ミロの言動に呆れたようにため息をつくカミュの仕草が見たくて、わざわざ突拍子もないことをやってしまったりもする。
でも、それは幼馴染で、友人で、兄弟みたいなものだと思っていた。
と、そこでミロは自分の胸に手を当てた。
思っていた?
なんで、過去形なんだろう。
なんで、心臓がこんなにばくばく音をたててるんだろう。
なんで、だろう。
答えは、見つからなかった。
「……ミロ、ミロ、起きろ」
名前が呼ばれるのを意識の片隅に聞いた。
あまり悩んだことの無い頭は、慣れないことをしすぎたせいで疲れたのだろう。
いつのまにか眠ってしまっていたらしかった。
ぼんやりと目を開ける。
あたりはもう暗くなりかけていた。
「こんなところで寝てると、風邪をひくぞ」
薄闇にもわかる真紅の瞳が、すぐ近くで呆れたようにミロを見詰めていた。
「わっ、カ、カミュ!」
さんざん想っていた人物が突然目の前に出現したことに驚き、ミロは勢いよく起き上がった。
しかし、ハンモックの上だということを忘れていたため、バランスを崩し、転がり落ちる。
カミュは吹きだした。
「何やってるんだ、おまえ」
相変わらず騒々しいやつだ、と笑うカミュはやはり綺麗で、ミロは痛みも忘れてしばらく見惚れた。
ああ、わかった、かもしれない。
やっぱりカミュの笑顔を見ていたい、と思う。
ソレハ…………ナンダヨ。
どくん。
心臓が、跳ねた。
「頭でも打ったか? ほら、立てる?」
様子がおかしいミロに、カミュはまだくすくす笑いながら手を差し出した。
いままでなんのためらいもなく握ることができたカミュの手は、今日はなぜか違って見えた。
ミロはどうしていいかわからず、ただその手をじっとみつめた。
「なんだ、手相でもみるのか?」
続く沈黙に、カミュは不審気に尋ねる。
覚悟を決めたミロは、カミュの手をさっとつかんで起き上がった。
指の長い華奢な手のぬくもりが伝わってくる。
どくん。
心臓が、また、跳ねた。
頭の中で、もう一人の自分がささやく。
ソレハ、こい、ナンダヨ。
「うそっ!」
頭の中に響く声に、ミロは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
いよいよカミュはいぶかしげに眉をひそめる。
「おまえ、どうかした? さっきアイオリアもおかしかったけど……」
「アイオリア? 何、あいつ、なんか変なこと言った?」
ミロの頬が紅潮した。
もし余計なことを言っていたら、スカーレットニードル三十発位はお見舞いしよう、と本気で思った。
「ミロをよろしく頼むって。おまえたち、けんかでもしたのか?」
早く仲直りしろよ、とカミュは真面目な顔をした。
真剣な話をするとき、カミュはまっすぐ人の瞳をみつめる。
人見知りの激しかった子供のときは、相手の目を見ることができなくて、よくミロに注意されていた。
こうして視線を合わせることができるのも、ミロの訓練の賜物である。
しかし、今この瞬間のミロは、幼かった自分の行動を後悔していた。
カミュの紅い瞳に吸い込まれそうで、視線を合わせることができなかった。
一度視線を捉えてしまったら、もう離せなくなる気がした。
気づいてしまったから。
カミュが、好きだ。
それは、恋の、はじまり。