無憂宮



 もっと豊かな香で咲き誇る薔薇を求めた。
 強く芳醇な香で、この身に染み付いた血の臭いを消してくれる、そんな薔薇が必要だった。


 謁見の取次ぎを求めると、教皇付きの侍従は眉を顰めた。
 当然だろう。
 今の私は、およそ教皇にまみえる様な姿ではない。
 聖衣にはところどころに戦闘の名残の赤い染みがついていた。
 身を清めてから参内すべきことくらい、子供にだってわかる。
 それでも、私はこの姿で会いたいのだ。
 彼の発した命の結末を、その目でしかと見届けさせ、その反応を見たいのだ。
 私は慈愛に満ちた聖母のように、限りなく優しく微笑んでみせた。
 どこまでも無垢な微笑は、血に染まる身体でさえも清浄な姿と錯覚させる。
 狂気も、突き詰めれば純粋な熱情の歪んだ形だ。
 それほど無理のある擬装ではない。
 「……一刻もはやくご報告申し上げて、御心労を取り除いて差し上げたいのだ」
 美貌で名高い私だ。
 この微笑に相手を意のままにする効力があることも、幼い頃から承知していた。
 効果を計算づくで微笑む私に、かすかに頬を上気させた侍従は、一礼するときびすを返した。
 ようやく教皇に取り次ぐ気になったらしい。
 よかったね、君。
 融通の利く侍従なら、合格だ。
 教皇の正体に気がついた時に糾弾するような側近なら、遅かれ早かれ私たちの誰かが手を下すことになるだろう。
 君は気づいていないけど、命拾い、したんだよ。
 去り行く後ろ姿に、私はそう呟いた。


 「教皇猊下には、ご機嫌麗しく」
 慇懃無礼を絵に描いたような私の台詞に気を害した風もなく、サガはわずかにうなずいた。
 仮面の下の表情は窺い知れない。
 だだっ広い教皇の間に座する間、彼は常に“教皇”だった。
 余人の有無にかかわらず、この陰鬱な空間では、いついかなる時も。
 その素顔を最後に見たのはいつだったろう。
 記憶の中の穏やかな表情が朧に霞む。
 それ位長期間、彼は注意深く教皇を演じ続けてきたのだ。
 茶番だ。
 全て。
 突然、何もかも馬鹿馬鹿しくなってきた。
 私は肩にかかる髪を両手で後ろに乱暴に跳ね上げた。
 一瞬だが首筋に風が通る。
 沈滞していた室内の空気が、私の動作につられ、思い出したように動き始めた。
 「行ってきたよ。終わったからね」
 一気に普段の口調に戻った私に、サガは何事もなかったようにうなずく。
 簡略化しすぎた嫌いのある結果報告だが、彼はそれでも痛痒を感じないのだろう。
 それとも、そのような瑣末なことに煩わされる余裕すらないのか。
 「……ご苦労だったね」
 「勅命だから」
 教皇に叛旗を翻す不穏分子の粛清。
 黄金聖闘士たる私にしてみれば、容易い仕事だ。
 聖域では、女神と教皇が正義。
 その実態は虚像にすぎなくても、それが、真理。
 偽りも、もっともらしく飾り立てれば真実に見えてくる。
 そして、対外的脅威から地上の平和を守るという目的は、虚飾の存在によって果たされるのだ。
 聖域に、なんら異変は起きていない。
 地上を守る聖闘士は、ここにいる。
 私たちは、その虚構を守るために動く駒にすぎなかった。
 「サガは教皇なんだから、ご苦労なんて、言わないでよね。ただ偉そうに命じていればいいんだ」
 仮面の下で、サガはどのような顔をしているのだろう。
 私の言葉は、彼の胸に薔薇の棘のように突き刺さっているのかもしれないが、その内心を忖度するつもりはなかった。
 だって、サガはそれに見合うだけのことをしてしまったのだから。
 薄暗い教皇の間に、私の声は亡霊が発しているもののように、冷たく響いた。


 張り詰めた空気は、サガの一声によって破られた。
 「では、こちらへ来い。アフロディーテ」
 彼の厳然とした命令口調は珍しい。
 事情を知る私たちの前では、高圧な素振りなど微塵も感じさせないサガなのに。
 無神経な私の発言は、さすがに彼を怒らせてしまっただろうか。
 それでも、いい。
 少しくらい感情を露にしてくれた方が、私たちも気が楽だ。
 それに、そもそも私自身、心のどこかで叱責を望んで、こんな挑発めいた言動を繰り返しているのかもしれなかった。
 私は玉座に近づくと、真正面からサガをみつめた。
 肘掛に置かれていたサガの腕が持ち上がる。
 殴られるのか。
 打擲するにはやけに緩慢な動きだが、聖闘士の動作は一般の常識では予測がつき難い。
 サガの突然の所作の理由として、それは充分考えられるものだ。
 ぼんやりと動きを追いかける私の視線の中で、その腕はゆっくりと顔に近づいてきた。
 「……頬に血が付いている。折角の美貌が台無しだよ」
 サガの指は、かるく私の頬を拭うと、そのまま遠ざかっていった。
 指先は仄かに朱に染まっていた。
 教皇には、縁遠くなくてはならない色に。
    イヤになる。
 サガがもっと普通の男だったら、私たちもここまで身を粉にしない。
 教皇を弑逆した罪人として、なんの躊躇もなく断罪していただろう。
 彼がもっと普通の人間だったら。
 こんな事態にならなかった、かもしれない。
 私は深く息を吐いた。
 悩んでも、仕方がなかった。
 過ぎたことは、取り返しが付かない。
 そして、私たちはもう、この途を選んでしまったのだ。
 サガの罪を隠蔽することで、平和を守るという途を。
 もう一度、息を吐く。
 教皇の間の空気は、深く澱んで息苦しい。
 余計なことまで考えてしまうのは、そのせいだろうか。
 早くこの場を離れよう。
 一礼して、向きを転じる。
 と、踏み出した足が止まった。
 前方を見据えたまま、ふとした思いつきが勝手に口をついて出る。
 「……また、暇になったら双魚宮に来てよ。お茶くらい出すから」
 「そう、嬉しいね。楽しみにしているよ」
 背中越しに聞く声は、相変わらず静穏だ。
 おそらく、サガは仮面の下で微笑んでいるのだろう。
 仮面は、サガの表情を消す。
 それが、サガの最後の砦。
 共犯となった私たちと一線を隔し、全ての責めを一身に負う覚悟の表明。
 私たちには、その罪の肩代わりをすることは許されない。
 私には、彼をサガに戻すことはできない。
 たとえ、どんなに望んでも。
 込み上げてくる虚無感に、私はただ唇を噛みしめて教皇の間を後にした。


 もっと芳しい華が欲しい。
 あの仮面を通してでも、サガにその香が届くような華が。
 嵐の前の凪のごとく不気味な静寂に覆われる彼の内が、寄せ返す波のようにただ平穏で単調な、それでいてなぜか快い調べだけを奏でるように。
 そんな華が、欲しかった。

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