慰撫
突然の来訪にも関わらず、扉を開け俺を迎えるカミュに驚いた様子はなかった。
その真紅の瞳に浮かぶのは、わずかに気遣わしげな色だけだ。
一息で吹き消される蝋燭の炎のように頼りない俺の小宇宙を既に感じ取っていたのだろう。
再会の挨拶もなくいきなり抱きしめられたというのに、いつものように抗うどころか逆に俺の背にそっと腕を回してくれることからも、わかる。
一塊の彫像と化したようにカミュをきつく抱きしめ放さないでいると、やがて小さな呟き声がした。
「……ここでは寒いだろう。中へ入れ」
俺は抱きしめた腕の力をほんの少し緩め、カミュの肩越しに家の中を覗き見た。
住人の性格を表すように整然と片付けられた室内は、俺を誘うようにちろちろと揺らめく炎に彩られていた。
極寒のシベリアというのが不思議になるほど、いつ訪れてもこの小さな家は暖かい。
それは煌々と焚かれた暖炉の火のせいだけではなかったが、その穏やかな雰囲気は今の俺のささくれだった心には少しばかり酷だ。
俺は首を横に振った。
「いや、いい。顔をみたくなっただけだ」
嘘だ。
声を聞きたい。
触れたい。
カミュを全身で感じていたい。
そんな餓えた内心を覆い隠そうと、俺は強いて笑顔をみせた。
だが、俺の作り笑いは余程下手らしく、カミュを納得させるどころか、虚勢を張るなと非難するような瞳で俺を凝視させるという無残な結果に終わった。
普段は苛立ちを覚えさせられる程に人の感情の機微を察しないくせに、時折カミュは別人のように鋭く俺の心の内を見抜く。
幸か不幸か、今は、その希少な機会に該当するのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「……今すぐ抱きたいって言ったら、怒る?」
直裁な俺の発言に、カミュは顔色を変えることもなく、ちらりと奥の部屋に通じる扉を見た。
今頃あの扉の向こうでは、小生意気なカミュの弟子たちが、のどかな夢の国の住人となっているはずだった。
「……あの子たちを起こさないと約束できるなら、来い」
俺が求める行為の最中、子供にはもったいなくて聞かせられないような甘く淫靡な声を上げるのはカミュの方だ。
彼が提示した条件は、俺よりもむしろカミュの方が気をつけるべき事柄だと思ったが、あえて異を唱えるのは止めた。
「……じゃ、お邪魔します」
その代わり、一歩家の中に踏み込んだ俺は、音を立てないように細心の注意を払いつつゆっくりと扉を閉めた。
自分が言い出したこととはいえ、カミュにとっては予想外に大変な遵守事項だったらしい。
俺が抱えた鬱屈をそのままぶつけるような余裕のない抱き方をしたせいか、隣室の健やかな眠りを守るべく必死で理性を保ち続けようとしたせいか、一層の羞恥心がカミュを苛んだのだろう。
吐息の塊が音になる前に呑み込んでしまおうと喉の奥を狂おしげに鳴らすカミュは、始終ひどく辛そうに眉根を寄せていた。
だが、その妙に艶っぽい表情に煽られたおかげで、俺は何も考えることなくとっぷりとカミュに溺れ、ようやくいくらか人心地を取り戻すことができたのは事実だ。
わずかばかりの罪悪感を味わいつつ、俺は抜け殻のように横たわるカミュを見た。
枕に突っ伏し顔だけをこちらに向けたカミュの瞳はとろりと澱んでいた。
疲労と歓楽の余韻が内にくすぶったままなのか、まるで死んだように身動き一つしない。
まるで、死んだように。
不吉な印象が、氷の指で俺の胸をそろりと撫でた。
思い出したくもない数時間前の記憶が鮮明に甦り、胸騒ぎを覚えた俺は震える指をそろそろと伸ばした。
指先が、カミュの頬に触れる。
温かい。
「……どうした……?」
ほっと安堵の息を吐く俺に、虚ろな瞳のまま力なくカミュは問う。
部屋に入るやいなや扉を閉める間ももどかしくカミュを押し倒したにもかかわらず、今まで何一つ尋ねられなかったというのも、考えてみれば奇妙な話だ。
いつになく従順に身を任せたのは、やはり様子のおかしい俺を気遣ってのことか。
俺はカミュの頬を指先でそっと撫でつつ答えた。
「今日、白銀を一人、粛清してきた」
再三の召集に応じず聖域に叛意ありと看做された聖闘士の追討任務だった。
黄金聖闘士たる俺にしてみれば、白銀聖闘士の一人や二人の排斥など大した労でもない。
だが、血の海の中に横たわる男が最後に落とした言葉は、その拳などよりもはるかに大きな衝撃を俺に与えた。
……女神などいないと、何故、気付こうとしない……
文字通り血を吐くような凄絶な声が耳に突き刺さったが、問い詰めようとしたときには既に事切れ、その言葉の真意を知ることはできなかった。
これが、俺を激しく動揺させ、遮二無二カミュに貪りつかせた原因たる出来事だ。
寝物語にはいささか血生臭い話だが、カミュは眉一つ動かさずに聞いていた。
その相変わらずの無表情に救われ、俺は壁に向かって独白するように胸にたまった暗い感情を淡々とカミュにぶつけた。
「確かに、そんな噂を最近よく耳にするんだ。密かに教皇への不審を抱く輩も多いらしい」
他愛もない流言と一笑に付してしまえばよかったのかもしれない。
だが、その妄言にはただの誹謗と退けられない何かがあるような気がして、俺の神経をちくちくと刺激して止まなかった。
もしもそれが事実だとしたら、俺は女神の聖闘士という名の、ただの殺戮者ということになる。
もしも。
もしも、事実だったとしたら。
ぞくりと背筋が凍りつくような恐怖が、じわりじわりと俺の身体を侵食していくのがわかった。
独りでは御しがたい陰鬱な感情を持て余し、気がつくと銀雪の大地に佇んでいた。
どうしようもなく、カミュに会いたかった。
「……おまえはどう思う? 女神は本当に……」
胸に暗い影を落とす絶望的な思いを洗いざらい吐き出した俺は、縋るようにカミュを見た。
あきれたと言わんばかりに大げさな溜息をつき、馬鹿だな、と、一蹴してくれることを期待したのだ。
だが、その反応は少し違った。
「……いないのかもしれないな」
恐ろしくあっけない肯定の言葉。
思わず耳を疑う俺の反応など気にも留めず、カミュは淡々と続けた。
「現世に降誕されたのは事実だろうが、私たち黄金聖闘士ですら女神に拝謁できないというのは少々奇異だ。だから、今、聖域には、女神はいらっしゃらないのかもしれない」
「カミュ……」
予想外のカミュの返答に、言葉を失くした俺はただ茫然とカミュをみつめた。
一身に視線を浴びながらゆっくりと上体を起こしたカミュは、額に落ちかかる長い髪を無造作にかき上げた。
普段は気にも留めないのに、一旦気になりだすとどうして払いのけずにはいられないのだろう。
俺は訳もなくそんなことを思いつつ、わずらわしげに頭を揺らすカミュを、まるで見知らぬ他人のようにぼんやりと眺めていた。
「私たちが女神の力を本当に必要とするのは、聖戦のときだろう。そのときまで、何処かで女神としての修養を積まれているのかもしれん」
また何かよからぬ事態が起こることを危惧しての計らいだろう、と呟くカミュの脳裏に、かつての射手座の叛乱が浮かんでいることは明らかだ。
確かに、黄金聖闘士ですら女神に害をなしかねないという悲しい可能性の存在は、歴史が証明している。
カミュの言うことには一応筋が通っていた。
それが真相なら、俺は、救われる。
だが、それでも、俺はカミュが論破してくれることを期待して、さらに疑問を投げかけた。
「そうは言うが、現に教皇は女神に拝謁し御意思を賜っているじゃないか」
「教皇は生身の人間だからな。人を統べるに、ときに人より上位の存在の方がよい場合もあるということだ。女神の命となれば、私たちは粛として従うだろう?」
「……じゃ、俺たちを欺いてるってことか?」
疑問が疑惑に変わり、俺は自分を納得させようと無理に確証を求めた己の浅はかさを呪った。
わからずやの子供と対話するように、カミュはふと瞳を伏せた。
「……悪く言えば、そういうことになるな」
一旦言葉を切ったカミュは、次いで挑むように俺の瞳をじっと覗き込んできた
「だがな、ミロ。地上の平和を守るという使命は、私は正しいことだと思うのだ。女神の意にも適うその崇高な使命の達成のためなら、多少の偽りも是とされて然るべきではないか」
少し、驚いた。
俺が知るカミュは妙なところで潔癖で、こんな誤魔化しめいた解決法を唾棄していたはずだった。
いつの間にか、必要悪としての曖昧さを甘受する柔軟性を身に着けていたということか。
その変化が良いものなのか悪いものなのかはよくわからなかったが、少しカミュが遠くに行ってしまったような気がする。
一抹の寂しさに襲われた俺は、つと右手に視線を落とした。
カミュが言う「正しい」使命とやらのために血に濡れ続けてきた手だ。
自己の行いを正当化してよいものか、わずかばかりの迷いがいまだに纏わりついて離れない。
そんな俺の困惑を察したのか、カミュはそっと両の掌で俺の手を包み込んだ。
重ねられた手から伝わってくる穏やかなぬくもりが、俺の全身を支配していた緊張をゆるゆると解かしていくような気がして、俺はちらりとカミュを見た。
恐らく、今の俺はひどく情けない顔をしているのだろう。
幼い子供を励まし諭すように、カミュは随分と慈悲深い微笑をたたえていた。
「ミロ、私たちのこの力も、人々を守るための力なのだ。強くなくては、誰も守ることなどできはしない。少なくとも、私は子供たちにそう教えている」
ついで、カミュは俺の手を握る指にぐっと力を込めた。
「……忘れたか。私もおまえも、生まれながらに有するこの力の意味を知ったときから、その結果を背負い生きていく覚悟は決めたはずだろう」
静かなカミュの言葉がずしんと胸に響いた。
俺は馬鹿だ。
少し考えれば容易にわかることだった。
俺よりもずっと聡いカミュが、同じ疑問を抱えなかったわけがない。
師として二人の少年を導く責を負うカミュは、自分一人の宿命にしか目を向けていなかった俺以上に悩み苦しみ、そして乗り越えたのだろう。
誰に相談することもなく、たった一人で。
俺は、馬鹿だ。
「……すまない」
甘ったれた弱音を吐いた自分が無性に恥ずかしくなり、俺は俯いた。
自然、垂れ下がった髪が俺の表情を隠してくれる。
普段は鬱陶しいだけの長い髪が、心底ありがたかった。
やがて、そろそろと俺の手を放したカミュは小さく笑った。
「おまえは余計なことを考えるな。慣れない真似をするから、こうして迷いが生じたりするのだ」
カミュの軽口めいた発言は、塞いだ俺を慰めようとしたものだろう。
その心遣いをありがたく受け取った俺は、わざと仏頂面を作ってみせた。
「なんだよ、それ。さりげなく馬鹿にしてるのか」
「……いや、羨ましいのだ」
予想に反して真面目な表情を浮かべたカミュは、静かに首を横に振る。
「おまえはもっと自分の直観力を誇るべきだ。私にはそうして一足飛びに結論に達するような芸当は到底できないから」
カミュは強い決意を秘めた瞳で真っ直ぐ俺を見返してきた。
瞳の奥で、真紅の炎が妖しく燃え盛る。
俺はしばし我を忘れてその紅い双眸に見惚れた。
「おまえの感覚が下した結論を余人に納得させるための理屈なら、私がいくらでも考えてやる。だから……」
すっとカミュの腕が伸びてきた。
その腕が俺を引き寄せるためのものだったのだと、気がついたときには俺はもうすっかりカミュの胸に抱きしめられていた。
俺の髪を撫でながら歌うような調子で優しく囁くカミュの声を、俺はどこか夢見心地で聞いた。
「だから、もしも迷いが生じたのなら、いつでも私に会いに来い。おまえの直感に理があれば支えてやるし、それが誤りならば目を覚まさせてやる」
そう言った後、髪を梳くカミュの指がふと止まった。
続く言葉を躊躇うような沈黙が下りた後、やがてカミュは思い切ったように口を開いた。
「……そのかわりと言っては何だが、もしも私が揺らぎそうになったときには……」
「安心しろ」
俺はカミュを見上げてにやりと笑った。
「そのときは、俺が、おまえを抱きしめてやるよ」
嬉しかった。
俺たちは運命を分かち合うかけがえのない同士として、これほどまでに互いの存在に依拠しているのだ。
眠る弟子たちを無理矢理叩き起こして自慢したくなる誘惑に駆られる自分を抑え、俺は神聖なる誓いを立てるように「大丈夫だ」と繰り返した。
嬉しそうに微笑んだカミュは、よろしく頼むと呟くと、そっと俺の額に口付ける。
その心地よい感触にうっとりと目を閉じた俺は、再びカミュの胸にもたれかかった。
「だけど、今夜はもう少し甘えさせてもらっていいか」
我侭な俺の台詞にくすりと笑ったカミュは、承諾の返事の代わりに俺の頭をあやすように撫でた。
「いつもこう素直だと、おまえも可愛らしいのだがな」
「でも、もしそうだったら、こんなに俺に惚れてないだろ?」
「……その過剰な自意識は、一体どこから来るものなのだろうな」
不貞腐れたような憎まれ口が降ってきたが、密着した肌を通して早鐘を打ち始めるカミュの鼓動を感じていた俺は少しも苦にしなかった。
優しく髪を滑る指も、しっかりと俺を抱きしめてくれる腕も、その胸のぬくもりも、今この瞬間カミュの全てが俺のためだけに存在しているという歴然たる事実が、ただひたすらに愛おしかった。
突然の来訪にも関わらず、扉を開け俺を迎えるカミュに驚いた様子はなかった。
その真紅の瞳に浮かぶのは、わずかに気遣わしげな色だけだ。
一息で吹き消される蝋燭の炎のように頼りない俺の小宇宙を既に感じ取っていたのだろう。
再会の挨拶もなくいきなり抱きしめられたというのに、いつものように抗うどころか逆に俺の背にそっと腕を回してくれることからも、わかる。
一塊の彫像と化したようにカミュをきつく抱きしめ放さないでいると、やがて小さな呟き声がした。
「……ここでは寒いだろう。中へ入れ」
俺は抱きしめた腕の力をほんの少し緩め、カミュの肩越しに家の中を覗き見た。
住人の性格を表すように整然と片付けられた室内は、俺を誘うようにちろちろと揺らめく炎に彩られていた。
極寒のシベリアというのが不思議になるほど、いつ訪れてもこの小さな家は暖かい。
それは煌々と焚かれた暖炉の火のせいだけではなかったが、その穏やかな雰囲気は今の俺のささくれだった心には少しばかり酷だ。
俺は首を横に振った。
「いや、いい。顔をみたくなっただけだ」
嘘だ。
声を聞きたい。
触れたい。
カミュを全身で感じていたい。
そんな餓えた内心を覆い隠そうと、俺は強いて笑顔をみせた。
だが、俺の作り笑いは余程下手らしく、カミュを納得させるどころか、虚勢を張るなと非難するような瞳で俺を凝視させるという無残な結果に終わった。
普段は苛立ちを覚えさせられる程に人の感情の機微を察しないくせに、時折カミュは別人のように鋭く俺の心の内を見抜く。
幸か不幸か、今は、その希少な機会に該当するのだろう。
俺は小さく息を吐いた。
「……今すぐ抱きたいって言ったら、怒る?」
直裁な俺の発言に、カミュは顔色を変えることもなく、ちらりと奥の部屋に通じる扉を見た。
今頃あの扉の向こうでは、小生意気なカミュの弟子たちが、のどかな夢の国の住人となっているはずだった。
「……あの子たちを起こさないと約束できるなら、来い」
俺が求める行為の最中、子供にはもったいなくて聞かせられないような甘く淫靡な声を上げるのはカミュの方だ。
彼が提示した条件は、俺よりもむしろカミュの方が気をつけるべき事柄だと思ったが、あえて異を唱えるのは止めた。
「……じゃ、お邪魔します」
その代わり、一歩家の中に踏み込んだ俺は、音を立てないように細心の注意を払いつつゆっくりと扉を閉めた。
自分が言い出したこととはいえ、カミュにとっては予想外に大変な遵守事項だったらしい。
俺が抱えた鬱屈をそのままぶつけるような余裕のない抱き方をしたせいか、隣室の健やかな眠りを守るべく必死で理性を保ち続けようとしたせいか、一層の羞恥心がカミュを苛んだのだろう。
吐息の塊が音になる前に呑み込んでしまおうと喉の奥を狂おしげに鳴らすカミュは、始終ひどく辛そうに眉根を寄せていた。
だが、その妙に艶っぽい表情に煽られたおかげで、俺は何も考えることなくとっぷりとカミュに溺れ、ようやくいくらか人心地を取り戻すことができたのは事実だ。
わずかばかりの罪悪感を味わいつつ、俺は抜け殻のように横たわるカミュを見た。
枕に突っ伏し顔だけをこちらに向けたカミュの瞳はとろりと澱んでいた。
疲労と歓楽の余韻が内にくすぶったままなのか、まるで死んだように身動き一つしない。
不吉な印象が、氷の指で俺の胸をそろりと撫でた。
思い出したくもない数時間前の記憶が鮮明に甦り、胸騒ぎを覚えた俺は震える指をそろそろと伸ばした。
指先が、カミュの頬に触れる。
温かい。
「……どうした……?」
ほっと安堵の息を吐く俺に、虚ろな瞳のまま力なくカミュは問う。
部屋に入るやいなや扉を閉める間ももどかしくカミュを押し倒したにもかかわらず、今まで何一つ尋ねられなかったというのも、考えてみれば奇妙な話だ。
いつになく従順に身を任せたのは、やはり様子のおかしい俺を気遣ってのことか。
俺はカミュの頬を指先でそっと撫でつつ答えた。
「今日、白銀を一人、粛清してきた」
再三の召集に応じず聖域に叛意ありと看做された聖闘士の追討任務だった。
黄金聖闘士たる俺にしてみれば、白銀聖闘士の一人や二人の排斥など大した労でもない。
だが、血の海の中に横たわる男が最後に落とした言葉は、その拳などよりもはるかに大きな衝撃を俺に与えた。
……女神などいないと、何故、気付こうとしない……
文字通り血を吐くような凄絶な声が耳に突き刺さったが、問い詰めようとしたときには既に事切れ、その言葉の真意を知ることはできなかった。
これが、俺を激しく動揺させ、遮二無二カミュに貪りつかせた原因たる出来事だ。
寝物語にはいささか血生臭い話だが、カミュは眉一つ動かさずに聞いていた。
その相変わらずの無表情に救われ、俺は壁に向かって独白するように胸にたまった暗い感情を淡々とカミュにぶつけた。
「確かに、そんな噂を最近よく耳にするんだ。密かに教皇への不審を抱く輩も多いらしい」
他愛もない流言と一笑に付してしまえばよかったのかもしれない。
だが、その妄言にはただの誹謗と退けられない何かがあるような気がして、俺の神経をちくちくと刺激して止まなかった。
もしもそれが事実だとしたら、俺は女神の聖闘士という名の、ただの殺戮者ということになる。
もしも。
もしも、事実だったとしたら。
ぞくりと背筋が凍りつくような恐怖が、じわりじわりと俺の身体を侵食していくのがわかった。
独りでは御しがたい陰鬱な感情を持て余し、気がつくと銀雪の大地に佇んでいた。
どうしようもなく、カミュに会いたかった。
「……おまえはどう思う? 女神は本当に……」
胸に暗い影を落とす絶望的な思いを洗いざらい吐き出した俺は、縋るようにカミュを見た。
あきれたと言わんばかりに大げさな溜息をつき、馬鹿だな、と、一蹴してくれることを期待したのだ。
だが、その反応は少し違った。
「……いないのかもしれないな」
恐ろしくあっけない肯定の言葉。
思わず耳を疑う俺の反応など気にも留めず、カミュは淡々と続けた。
「現世に降誕されたのは事実だろうが、私たち黄金聖闘士ですら女神に拝謁できないというのは少々奇異だ。だから、今、聖域には、女神はいらっしゃらないのかもしれない」
「カミュ……」
予想外のカミュの返答に、言葉を失くした俺はただ茫然とカミュをみつめた。
一身に視線を浴びながらゆっくりと上体を起こしたカミュは、額に落ちかかる長い髪を無造作にかき上げた。
普段は気にも留めないのに、一旦気になりだすとどうして払いのけずにはいられないのだろう。
俺は訳もなくそんなことを思いつつ、わずらわしげに頭を揺らすカミュを、まるで見知らぬ他人のようにぼんやりと眺めていた。
「私たちが女神の力を本当に必要とするのは、聖戦のときだろう。そのときまで、何処かで女神としての修養を積まれているのかもしれん」
また何かよからぬ事態が起こることを危惧しての計らいだろう、と呟くカミュの脳裏に、かつての射手座の叛乱が浮かんでいることは明らかだ。
確かに、黄金聖闘士ですら女神に害をなしかねないという悲しい可能性の存在は、歴史が証明している。
カミュの言うことには一応筋が通っていた。
それが真相なら、俺は、救われる。
だが、それでも、俺はカミュが論破してくれることを期待して、さらに疑問を投げかけた。
「そうは言うが、現に教皇は女神に拝謁し御意思を賜っているじゃないか」
「教皇は生身の人間だからな。人を統べるに、ときに人より上位の存在の方がよい場合もあるということだ。女神の命となれば、私たちは粛として従うだろう?」
「……じゃ、俺たちを欺いてるってことか?」
疑問が疑惑に変わり、俺は自分を納得させようと無理に確証を求めた己の浅はかさを呪った。
わからずやの子供と対話するように、カミュはふと瞳を伏せた。
「……悪く言えば、そういうことになるな」
一旦言葉を切ったカミュは、次いで挑むように俺の瞳をじっと覗き込んできた
「だがな、ミロ。地上の平和を守るという使命は、私は正しいことだと思うのだ。女神の意にも適うその崇高な使命の達成のためなら、多少の偽りも是とされて然るべきではないか」
少し、驚いた。
俺が知るカミュは妙なところで潔癖で、こんな誤魔化しめいた解決法を唾棄していたはずだった。
いつの間にか、必要悪としての曖昧さを甘受する柔軟性を身に着けていたということか。
その変化が良いものなのか悪いものなのかはよくわからなかったが、少しカミュが遠くに行ってしまったような気がする。
一抹の寂しさに襲われた俺は、つと右手に視線を落とした。
カミュが言う「正しい」使命とやらのために血に濡れ続けてきた手だ。
自己の行いを正当化してよいものか、わずかばかりの迷いがいまだに纏わりついて離れない。
そんな俺の困惑を察したのか、カミュはそっと両の掌で俺の手を包み込んだ。
重ねられた手から伝わってくる穏やかなぬくもりが、俺の全身を支配していた緊張をゆるゆると解かしていくような気がして、俺はちらりとカミュを見た。
恐らく、今の俺はひどく情けない顔をしているのだろう。
幼い子供を励まし諭すように、カミュは随分と慈悲深い微笑をたたえていた。
「ミロ、私たちのこの力も、人々を守るための力なのだ。強くなくては、誰も守ることなどできはしない。少なくとも、私は子供たちにそう教えている」
ついで、カミュは俺の手を握る指にぐっと力を込めた。
「……忘れたか。私もおまえも、生まれながらに有するこの力の意味を知ったときから、その結果を背負い生きていく覚悟は決めたはずだろう」
静かなカミュの言葉がずしんと胸に響いた。
俺は馬鹿だ。
少し考えれば容易にわかることだった。
俺よりもずっと聡いカミュが、同じ疑問を抱えなかったわけがない。
師として二人の少年を導く責を負うカミュは、自分一人の宿命にしか目を向けていなかった俺以上に悩み苦しみ、そして乗り越えたのだろう。
誰に相談することもなく、たった一人で。
俺は、馬鹿だ。
「……すまない」
甘ったれた弱音を吐いた自分が無性に恥ずかしくなり、俺は俯いた。
自然、垂れ下がった髪が俺の表情を隠してくれる。
普段は鬱陶しいだけの長い髪が、心底ありがたかった。
やがて、そろそろと俺の手を放したカミュは小さく笑った。
「おまえは余計なことを考えるな。慣れない真似をするから、こうして迷いが生じたりするのだ」
カミュの軽口めいた発言は、塞いだ俺を慰めようとしたものだろう。
その心遣いをありがたく受け取った俺は、わざと仏頂面を作ってみせた。
「なんだよ、それ。さりげなく馬鹿にしてるのか」
「……いや、羨ましいのだ」
予想に反して真面目な表情を浮かべたカミュは、静かに首を横に振る。
「おまえはもっと自分の直観力を誇るべきだ。私にはそうして一足飛びに結論に達するような芸当は到底できないから」
カミュは強い決意を秘めた瞳で真っ直ぐ俺を見返してきた。
瞳の奥で、真紅の炎が妖しく燃え盛る。
俺はしばし我を忘れてその紅い双眸に見惚れた。
「おまえの感覚が下した結論を余人に納得させるための理屈なら、私がいくらでも考えてやる。だから……」
すっとカミュの腕が伸びてきた。
その腕が俺を引き寄せるためのものだったのだと、気がついたときには俺はもうすっかりカミュの胸に抱きしめられていた。
俺の髪を撫でながら歌うような調子で優しく囁くカミュの声を、俺はどこか夢見心地で聞いた。
「だから、もしも迷いが生じたのなら、いつでも私に会いに来い。おまえの直感に理があれば支えてやるし、それが誤りならば目を覚まさせてやる」
そう言った後、髪を梳くカミュの指がふと止まった。
続く言葉を躊躇うような沈黙が下りた後、やがてカミュは思い切ったように口を開いた。
「……そのかわりと言っては何だが、もしも私が揺らぎそうになったときには……」
「安心しろ」
俺はカミュを見上げてにやりと笑った。
「そのときは、俺が、おまえを抱きしめてやるよ」
嬉しかった。
俺たちは運命を分かち合うかけがえのない同士として、これほどまでに互いの存在に依拠しているのだ。
眠る弟子たちを無理矢理叩き起こして自慢したくなる誘惑に駆られる自分を抑え、俺は神聖なる誓いを立てるように「大丈夫だ」と繰り返した。
嬉しそうに微笑んだカミュは、よろしく頼むと呟くと、そっと俺の額に口付ける。
その心地よい感触にうっとりと目を閉じた俺は、再びカミュの胸にもたれかかった。
「だけど、今夜はもう少し甘えさせてもらっていいか」
我侭な俺の台詞にくすりと笑ったカミュは、承諾の返事の代わりに俺の頭をあやすように撫でた。
「いつもこう素直だと、おまえも可愛らしいのだがな」
「でも、もしそうだったら、こんなに俺に惚れてないだろ?」
「……その過剰な自意識は、一体どこから来るものなのだろうな」
不貞腐れたような憎まれ口が降ってきたが、密着した肌を通して早鐘を打ち始めるカミュの鼓動を感じていた俺は少しも苦にしなかった。
優しく髪を滑る指も、しっかりと俺を抱きしめてくれる腕も、その胸のぬくもりも、今この瞬間カミュの全てが俺のためだけに存在しているという歴然たる事実が、ただひたすらに愛おしかった。