隠棲
山岳を吹き抜ける風は、咽び泣く声のようにもの悲しく響いていた。
もちろん、自然現象である空気の流れに、想いは無い。
そう聞こえるのは、聞き手の感傷にすぎない。
わかっていても、耳を塞ぎたくなる。
そんなことくらいでは風の調べから逃れることもできない。
それもわかっていたのだが。
薄暗い部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまる。
小刻みに震える身体を縮みこませる。
ひとり。
人界から取り残されたようなジャミールの地で、たったひとり。
それが自ら求めた居場所だった。
他者の訪れは、今のムウには脅威でしかない。
真実を知ってしまった、今のムウには。
聖域からの刺客以外、誰がこんな僻地まで訪ねてくるだろう。
教皇は、もういない。
サガが、殺した。
聖域を統括する至高の存在は、思っていた以上に自分の支えとなっていたらしい。
その庇護の翼から、否応無く解き放たれてしまった今頃思い知っても、仕方が無いのだが。
唇が、皮相な笑みを形どる。
絶望に駆られると、人は涙も出なくなるらしい。
日頃からムウは達観した傍観者として評されていた。
しかし、こんな状況でもどこか冷めた自分がいることが、意味もなく可笑しい。
いっそ狂ってしまえたら、楽なのだが。
自嘲気味に哄笑を上げかけたムウの表情が強張った。
来た。
ぞくりと、背筋が凍る。
深く立ちこめた霧の向こうから、近づいてくる小宇宙があった。
黄金聖闘士を討てる者は、黄金聖闘士しかいない。
それにしても、派遣されてきたのが、よりによって彼とは。
サガも苛烈な仕打ちをする。
ムウは幽鬼のようにゆらりと立ち上がると、扉の影から外の様子を窺った。
緊張が身を覆い尽くす。
耳に入るのは、風の音、早鐘を打つ自分の鼓動の音、そして近づいてくる足音。
「……一体、何を警戒しているのだね」
霧越しに霞む小さな光点は、次第に眩いばかりの黄金の輝きを放ちだす。
凝縮された光彩を突き破り、霧の中から白金の髪をなびかせたシャカが現れた。
ムウの姿を見とめても、シャカは歩みを止めることは無かった。
出迎えも受けないまま、勝手に室内に入ると、当然のようにテーブルにつく。
悠然と卓上に組んだ手を置き、ようやくそこで立ち尽くすムウを見上げてきた。
「客に茶も出さんのかね」
「……招いた覚えはありませんけど」
張り詰めていた緊張感は、常と変わらぬシャカの傍若無人な態度に、呆れるくらい一気に氷解した。
聖域に起きた異変について、彼はどこまで知っているのか、そもそも気づいてすらいないのか。
日頃から親しんでいたとはいえ、あまり他者に関心を払わないシャカが、自分を訪ねるためだけに、ここまで足を運ぶとは思えなかった。
シャカの来訪の目的がわからない中、手探りで会話を繋げなくてはならない。
ムウはシャカの閉ざされた瞳の奥を覗き込むようにみつめた。
「今日は、なんの御用ですか」
「用事が無ければ、来てはいけないのかな」
「そういうわけじゃ、ありませんけど」
声にこもる、少しふて腐れたような響きが、自分でも意外だった。
会いにきてほしいと、一人は辛いと、思っていたのだろうか。
そんなムウの内心の葛藤にも頓弱なく、シャカはいつものように穏やかな微笑みを投げてきた。
「いつまでこんなところに引きこもっているつもりだ」
「人の館をこんなところ扱いですか。相変わらずですね、あなたも」
思わず苦笑が漏れる。
シャカのマイペース振りが、心の奥底に温かく沁みた。
過ぎ去った日々と、同じだ。
たった一つの正義を信じ、何の迷いもなく過ごしていた日々と。
もう二度と取り戻すことのできない、安逸な日々と。
ゆくりなくもあふれ出してきた思い出に流されそうになっていたムウの耳に、淡々としたシャカの声が届く。
「君がいないと、聖域もつまらん。早く帰って来たまえ」
独善的な苦情にも似た言葉に、ムウはただ静かに微笑んだ。
……できることなら、そうしたいですけどね。
声にならない呟きを、一つ。
研ぎ澄まされたシャカの聴覚に響いたかもしれないが、それでも、構わない。
シャカになら、構わない。
神仏と対話し悟りを開いた、というのは伊達ではないのかもしれない。
全てを見透かされていたとしても、それを認容させてしまう。
そんな何かがシャカにはあった。
衆生済度の実践か。
シャカが醸し出す雰囲気に不思議と心地よさを感じる自分に驚きを覚えつつも、ムウは黙していた。
言うべき言葉も、見つからなかった。
その沈黙から、感じるものがあったのだろう。
シャカは一人、得心がいったようにうなずいた。
「……まあ、修復師には私たちのわからぬ道理があるのかもしれんがな」
「そう……ですね」
乾いた唇が、小さな呟きを漏らす。
迂闊にも今まで忘れていた。
聖衣の修復ができるのは、シオン亡き今となっては、ムウ一人のみ。
この修復という技術の保全のために、どんなに目障りな存在であっても、誰もムウを害することはできないのだ。
口封じのためにムウを抹殺すれば、結局は自分の首を絞める結果に終わることを、聡明なサガが看過するはずもなかった。
ムウの身の安全は、修復師であるという、ただその一点により保障されていたのだった。
それは、シオンが愛弟子に残した置き土産かもしれなかった。
幾星霜の時を経た戦士が、まだ幼い弟子に与えた、最後にして最大の贈り物。
視界が不意にぼやけた。
切り裂かれたようにずきりと痛む胸を押さえ、ムウは瞳を閉じた。
零れ落ちそうな涙が、眦でかろうじて留められる。
息が苦しい。
ここは、空気が薄すぎる。
今まで気にも留めたことのなかった高地特有の過酷な環境条件が、突如ムウを苛みだした。
ゆったりと深呼吸を繰り返す。
動悸が治まったのを確認すると、ムウは黙然と自分を見守っていたシャカに向き直った。
その閉ざされた瞳を見据える。
ムウが見ていたのは、シャカではない。
対峙すべきは、シャカの向こうにいる簒奪者だ。
恐怖に震えていたこの数日間を払拭するように、凛とした声が響いた。
「シャカ、帰ったら教皇に伝えてください。私はここで修復を続ける、と」
「断る。君が自分で伝えたまえ」
「こちらに来たのも、教皇命令でしょう。どうせ私の様子を報告するなら、ついでにお願いします」
穏やかに微笑みながらも、有無を言わせない口調。
外柔内剛の威圧感さえ漂わせ、反論の余地も与えないはずだった。
しかし、シャカは意に介した風もなく、しれっとうそぶいた。
「別に、勅命を受けたというわけではない。私が君に会いたいと思ったから来たまでのことだ」
言葉は、時に凶器となる。
さらりと言ってのけたシャカの言に胸を突かれ、再びムウの呼吸器は職務を放棄した。
なぜだろう。
瞳を閉じているからといって見えていないというわけではない。
そう承知しているにもかかわらず、シャカの瞳が瞼に隠されているのがありがたい。
おそらく、常人と同じ感覚を通しては、今の自分の表情を見られたくないのだ。
ただの無力な人間のように、必死に涙をこらえる自分の姿を。
俯いたムウは、小さく吐息を漏らした。
強張っていた全身から、ようやく力が抜けていく。
「……お茶請けになるようなものは、何もありませんよ」
「ふむ。まあ、今回は我慢してやろう。次からは茶菓子くらい用意しておきたまえ」
「あなたが手土産も無しに突然来るのが悪いんです」
ようやく来客をもてなす会話らしきものが交わされる。
ムウは微笑んだ。
先程までとは異なる、悲哀の欠片もにじませない、安らかな笑み。
そうと気づいているのかいないのか、シャカもまた口許に慈しむような微笑を漂わせていた。
伸ばした手の先すら覚束ないほど真白く立ち込めるジャミールの霧は、あたかも繭のように、その内に息づく者を優しく包み護ってくれる。
ムウがその繭を破り外界に姿を現すのは、それから十三年後。
新たなる希望に、時の流れが鳴動し始めた頃だった。
山岳を吹き抜ける風は、咽び泣く声のようにもの悲しく響いていた。
もちろん、自然現象である空気の流れに、想いは無い。
そう聞こえるのは、聞き手の感傷にすぎない。
わかっていても、耳を塞ぎたくなる。
そんなことくらいでは風の調べから逃れることもできない。
それもわかっていたのだが。
薄暗い部屋の片隅で、膝を抱えてうずくまる。
小刻みに震える身体を縮みこませる。
ひとり。
人界から取り残されたようなジャミールの地で、たったひとり。
それが自ら求めた居場所だった。
他者の訪れは、今のムウには脅威でしかない。
真実を知ってしまった、今のムウには。
聖域からの刺客以外、誰がこんな僻地まで訪ねてくるだろう。
教皇は、もういない。
サガが、殺した。
聖域を統括する至高の存在は、思っていた以上に自分の支えとなっていたらしい。
その庇護の翼から、否応無く解き放たれてしまった今頃思い知っても、仕方が無いのだが。
唇が、皮相な笑みを形どる。
絶望に駆られると、人は涙も出なくなるらしい。
日頃からムウは達観した傍観者として評されていた。
しかし、こんな状況でもどこか冷めた自分がいることが、意味もなく可笑しい。
いっそ狂ってしまえたら、楽なのだが。
自嘲気味に哄笑を上げかけたムウの表情が強張った。
来た。
ぞくりと、背筋が凍る。
深く立ちこめた霧の向こうから、近づいてくる小宇宙があった。
黄金聖闘士を討てる者は、黄金聖闘士しかいない。
それにしても、派遣されてきたのが、よりによって彼とは。
サガも苛烈な仕打ちをする。
ムウは幽鬼のようにゆらりと立ち上がると、扉の影から外の様子を窺った。
緊張が身を覆い尽くす。
耳に入るのは、風の音、早鐘を打つ自分の鼓動の音、そして近づいてくる足音。
「……一体、何を警戒しているのだね」
霧越しに霞む小さな光点は、次第に眩いばかりの黄金の輝きを放ちだす。
凝縮された光彩を突き破り、霧の中から白金の髪をなびかせたシャカが現れた。
ムウの姿を見とめても、シャカは歩みを止めることは無かった。
出迎えも受けないまま、勝手に室内に入ると、当然のようにテーブルにつく。
悠然と卓上に組んだ手を置き、ようやくそこで立ち尽くすムウを見上げてきた。
「客に茶も出さんのかね」
「……招いた覚えはありませんけど」
張り詰めていた緊張感は、常と変わらぬシャカの傍若無人な態度に、呆れるくらい一気に氷解した。
聖域に起きた異変について、彼はどこまで知っているのか、そもそも気づいてすらいないのか。
日頃から親しんでいたとはいえ、あまり他者に関心を払わないシャカが、自分を訪ねるためだけに、ここまで足を運ぶとは思えなかった。
シャカの来訪の目的がわからない中、手探りで会話を繋げなくてはならない。
ムウはシャカの閉ざされた瞳の奥を覗き込むようにみつめた。
「今日は、なんの御用ですか」
「用事が無ければ、来てはいけないのかな」
「そういうわけじゃ、ありませんけど」
声にこもる、少しふて腐れたような響きが、自分でも意外だった。
会いにきてほしいと、一人は辛いと、思っていたのだろうか。
そんなムウの内心の葛藤にも頓弱なく、シャカはいつものように穏やかな微笑みを投げてきた。
「いつまでこんなところに引きこもっているつもりだ」
「人の館をこんなところ扱いですか。相変わらずですね、あなたも」
思わず苦笑が漏れる。
シャカのマイペース振りが、心の奥底に温かく沁みた。
過ぎ去った日々と、同じだ。
たった一つの正義を信じ、何の迷いもなく過ごしていた日々と。
もう二度と取り戻すことのできない、安逸な日々と。
ゆくりなくもあふれ出してきた思い出に流されそうになっていたムウの耳に、淡々としたシャカの声が届く。
「君がいないと、聖域もつまらん。早く帰って来たまえ」
独善的な苦情にも似た言葉に、ムウはただ静かに微笑んだ。
……できることなら、そうしたいですけどね。
声にならない呟きを、一つ。
研ぎ澄まされたシャカの聴覚に響いたかもしれないが、それでも、構わない。
シャカになら、構わない。
神仏と対話し悟りを開いた、というのは伊達ではないのかもしれない。
全てを見透かされていたとしても、それを認容させてしまう。
そんな何かがシャカにはあった。
衆生済度の実践か。
シャカが醸し出す雰囲気に不思議と心地よさを感じる自分に驚きを覚えつつも、ムウは黙していた。
言うべき言葉も、見つからなかった。
その沈黙から、感じるものがあったのだろう。
シャカは一人、得心がいったようにうなずいた。
「……まあ、修復師には私たちのわからぬ道理があるのかもしれんがな」
「そう……ですね」
乾いた唇が、小さな呟きを漏らす。
迂闊にも今まで忘れていた。
聖衣の修復ができるのは、シオン亡き今となっては、ムウ一人のみ。
この修復という技術の保全のために、どんなに目障りな存在であっても、誰もムウを害することはできないのだ。
口封じのためにムウを抹殺すれば、結局は自分の首を絞める結果に終わることを、聡明なサガが看過するはずもなかった。
ムウの身の安全は、修復師であるという、ただその一点により保障されていたのだった。
それは、シオンが愛弟子に残した置き土産かもしれなかった。
幾星霜の時を経た戦士が、まだ幼い弟子に与えた、最後にして最大の贈り物。
視界が不意にぼやけた。
切り裂かれたようにずきりと痛む胸を押さえ、ムウは瞳を閉じた。
零れ落ちそうな涙が、眦でかろうじて留められる。
息が苦しい。
ここは、空気が薄すぎる。
今まで気にも留めたことのなかった高地特有の過酷な環境条件が、突如ムウを苛みだした。
ゆったりと深呼吸を繰り返す。
動悸が治まったのを確認すると、ムウは黙然と自分を見守っていたシャカに向き直った。
その閉ざされた瞳を見据える。
ムウが見ていたのは、シャカではない。
対峙すべきは、シャカの向こうにいる簒奪者だ。
恐怖に震えていたこの数日間を払拭するように、凛とした声が響いた。
「シャカ、帰ったら教皇に伝えてください。私はここで修復を続ける、と」
「断る。君が自分で伝えたまえ」
「こちらに来たのも、教皇命令でしょう。どうせ私の様子を報告するなら、ついでにお願いします」
穏やかに微笑みながらも、有無を言わせない口調。
外柔内剛の威圧感さえ漂わせ、反論の余地も与えないはずだった。
しかし、シャカは意に介した風もなく、しれっとうそぶいた。
「別に、勅命を受けたというわけではない。私が君に会いたいと思ったから来たまでのことだ」
言葉は、時に凶器となる。
さらりと言ってのけたシャカの言に胸を突かれ、再びムウの呼吸器は職務を放棄した。
なぜだろう。
瞳を閉じているからといって見えていないというわけではない。
そう承知しているにもかかわらず、シャカの瞳が瞼に隠されているのがありがたい。
おそらく、常人と同じ感覚を通しては、今の自分の表情を見られたくないのだ。
ただの無力な人間のように、必死に涙をこらえる自分の姿を。
俯いたムウは、小さく吐息を漏らした。
強張っていた全身から、ようやく力が抜けていく。
「……お茶請けになるようなものは、何もありませんよ」
「ふむ。まあ、今回は我慢してやろう。次からは茶菓子くらい用意しておきたまえ」
「あなたが手土産も無しに突然来るのが悪いんです」
ようやく来客をもてなす会話らしきものが交わされる。
ムウは微笑んだ。
先程までとは異なる、悲哀の欠片もにじませない、安らかな笑み。
そうと気づいているのかいないのか、シャカもまた口許に慈しむような微笑を漂わせていた。
伸ばした手の先すら覚束ないほど真白く立ち込めるジャミールの霧は、あたかも繭のように、その内に息づく者を優しく包み護ってくれる。
ムウがその繭を破り外界に姿を現すのは、それから十三年後。
新たなる希望に、時の流れが鳴動し始めた頃だった。