無憂宮
邂逅


 カーテン越しに差し込む朝の光の強さは、ここが自分の慣れた土地ではないことを教えていた。
 ここと比べると、つい先日までいた母国では朝日もそれほど仕事熱心ではなかったように思う。
 遠くに来たのだと、カミュは寝ぼけた目をこすりながら改めて実感していた。
 やがて、朝に弱いカミュの五感が正常に働きだす。
 慌てたようにベッドから飛び降りると、彼はそうっとドアを開けた。
 「おはよう、カミュ。朝食にしようか」
 テーブルの向こうで、微笑む麗人と目が合った。
 「すみません、また寝過ごしてしまいました」
 恥ずかしそうに、すでに朝食が用意されたテーブルに着く。
 こちらに来るまで、寝過ごすことなどなかったのに。
 「いいんだよ、君はまだ子供なんだから。寝るのも、仕事だよ」
 サガはいつも優しく、それがますますカミュを恐縮させた。
 自分を手放しで子供扱いするサガに、感情を封じることで生き延びてきた彼は、まだ戸惑っていた。
 それでも、朝起きられないということは、無意識に既にサガに甘えているのだろう。
 サガに連れられて聖域に来て以来、彼はサガの居室だという双児宮にいた。
 この数日で、彼はサガに多くのことを教えられていた。
 女神とは、聖闘士とは、聖域とは……。
 初めて聞くことばかりだったが、カミュは懸命に理解しようとしていた。
 ただ、自分がその世界に組み込まれる要素として選ばれたことについては、半信半疑のままだった。


 「今日は、教皇にお会いするからね」
 サガはカミュにオレンジジュースを渡しながら、そう告げた。
 カミュの目が見開かれる。
 かすかに怯えが走るのを、サガは見逃さなかった。
 他人と接触するのが苦手なカミュのことを思い、サガは極力人を遠ざけていた。
 最初に会うのが聖域の現最高権力者では、カミュに少し酷だっただろうか。
 サガは手を伸ばし、カミュの頭をなでてやった。
 はじめはこうして触れるたびに体をこわばらせていたカミュも、最近はようやく慣れてきたらしい。
 サガの大きな手が、安心感を与える薬になりつつあった。
 「君は水瓶座の聖闘士になるんだよ。教皇にご挨拶しないとね」
 「……本当に、僕なんでしょうか?」
 十二星座を戴く黄金聖闘士というのは、この聖域にいる最上級の戦士ときく。
 その一人だというサガなら、その鍛えられた肉体も高潔な人柄も、十分その称号に値すると思う。
 しかし自分は、少々風変わりな子供に過ぎないのだ。にわかに信じがたい話である。
 「教皇が星のお告げを得て、私が君を迎えにいったんだよ。間違いないさ」
 「でも、もし違ったら?」
 カミュはおそるおそるサガを見上げた。
 ここに来て、初めて生きることを許された気がしているのに、また元に戻るのだろうか。
 自分では抑えようもない恐怖がカミュを押し包んでいた。
 一方、サガはそんなカミュの憂慮を取り除く天才だった。片目を閉じて悪戯っぽく笑う。
 「そうだね、その時はここで私と一緒に暮らせばいい。もちろん君さえよければね」
 思いもかけない軽口に、カミュはつられて微笑んだ。
 こうしていられるならば、それでもいいような気がした。


 教皇の間は、十二宮のはるか上方に位置している。
 小さな子供の目には、雲の上とさえ思われた。
 カミュは途中までは頑張って階段を上っていたのだが、やがて根負けして、サガに抱き上げられて連れて行かれることになった。
 「ここが宝瓶宮。君が守護することになる宮だよ」
 いくつもの宮を過ぎたところで、サガが口を開いた。
 他の多くの宮と同様、無人の薄暗い建物だったが、そのひんやりとした空気は、カミュにとってどこか懐かしい、落ち着けるものであった。
 しかし、ふと振り返ったカミュは、小さくため息をつく。
 「どうかしたのかい?」
 「いえ、別に……」
 「カミュ?」
 ごまかそうとしても、サガは見逃してくれそうもなかった。
 カミュは覚悟を決めた。少し赤くなりながら、サガの耳元にささやく。
 「双児宮が遠いな、と思って……」
 サガは一瞬目を見張り、そして次にはとても幸せそうに笑った。
 綺麗な笑顔だった。
 カミュは恥ずかしさも忘れてサガに見惚れた。
 「聖闘士になったら、この位近いものだよ。はやく聖闘士になるんだよ」
 カミュはばつが悪そうにうなずいた。
 感情を抑えれば、冷気の放出も抑えられることに気づいてから、極力心を動かさないようにしていたのだが、サガと出会ってからはその自制もゆるゆると解かれ始めていた。
 ところが不思議なことに、それでも冷気はほとんど感じられなかった。
 怒り、悲しみなどの陰性感情を持つことが少ないからだろうか。
 自分にこんな効果を与えてくれたサガに、カミュは感謝していた。
 共に歩むことができるなら、自分は何でもするだろう。
 聖闘士に、なりたい。カミュは強く思った。


 教皇の間は、それまでのどの宮よりも荘厳な造りの建物であった。
 ここにいるのは、女神の地上代行者、聖闘士を統括する至高の存在なのだ。
 空気さえ、下界とは異なり、凛と張り詰めたものをはらんでいた。
 我知らず緊張するカミュに引き換え、サガは臆したふうもない。
 サガは遠くにそびえる火時計をちらりと見やった。
 「さあ、教皇はお待ちかねだよ。ひょっとしたらテレパシーでお話しかけになるかもしれないけれど、驚かないようにね」
 カミュはごくりとつばを飲み込んだ。
 サガの手を握る掌が汗ばむのを感じた。
 「大丈夫、私がついているから」
 サガが微笑みかける。
 その笑顔に力をもらい、カミュはようやく足を踏み出すことができた。
 重々しい扉が、サガが前に立つや音もなく開かれる。
 「カミュをお連れしました」
 広間の奥に鎮座する人影に、サガは声をかけた。
 カミュの聞いたことのない言葉だった。
 それまでフランス語で会話をしていたので気にもしていなかったが、今いるのはギリシャだ。
 サガは普段はギリシャ語で話すのだということに、うかつにもカミュは初めて気がついた。
 どうしようもなく不安がかきたてられる。
 それでも、彼は逃げ出したくなる足になんとか言うことを聞かせ、サガの影に隠れるように教皇の御前にたどり着く。
 薄暗がりの最奥に、教皇は座していた。
 仮面と長衣に包まれたその姿は、たとえようもない近寄りがたさを身にまとっていた。
 これが、教皇。
 カミュのような子供でさえも威儀を正さずにはいられない威厳の持ち主だった。
 教皇はしばらく無言のまま、赤毛の子供を見つめる。
 居心地の悪さに下を向くカミュの頭の中に、突然思念が飛び込んできた。
 (水瓶座よ、聖衣と対面してみるがよい)
 それは言語ではなく、直接脳に打ち込まれる意思だった。
 驚いて見上げたカミュは、いつの間にか教皇の傍に黄金の箱があるのを見つけた。
 「カミュ、近くにいってごらん」
 サガの促す声に、カミュは何かに魅入られたように箱に向かって近づいていった。
 細工の込んだ箱は、サガの持っているものと同種類。
 すなわち中に黄金聖衣を納めるパンドラボックスだ。
 違うのはその彫刻が水瓶であるということ。その持ち主が水瓶座の聖闘士であるということ。
 カミュは震える手を箱に伸ばした。
 その指が触れる瞬間。
 リ…ン……と、まるで水晶でできた鈴を震わせるかのように澄んだ音がした。
 そればかりか、箱の輝きが増し、暗い宮内をほのかに照らしだす。
 突然の鳴動に、カミュは驚いて指を引っ込めた。
 自分の置かれている状況も忘れ、怖くなってサガに駆け寄る。
 サガはしっかりとカミュを抱きとめ、嬉しそうに破顔する。
 「おめでとう、カミュ。聖衣が君を認めたよ。君が水瓶座の聖闘士なんだ」
 「サガ……?」
 サガの言葉を、脳内で反芻する。
 妙にその言葉には現実感がなかった。
 自分は何もいままでと変わらないのに、黄金聖闘士だというのか。
 (水瓶座よ、今後修行に励み、立派な聖闘士になるがよい。その暁には、この聖衣を改めてそなたに授けよう)
 再び、教皇の意思が直接伝わってくる。
 カミュは慌ててお辞儀をした。
 アクエリアスというのが自分の称号だということには、当分慣れそうもなかった。


 教皇と話があるから、という保護者を残し、カミュは一足先に宮を出た。
 外に出ると、ギリシャの暑い日ざしに目がくらむ。
 これでも、もうじき冬になるというのだ。
 言葉も通じない異国にいることを、ひしひしと実感する。
 足元がおぼつかないほどの心もとなさは、珍しくサガと離れているからだろうか。
 カミュは後ろを振り返った。
 暗い建物からは、当分誰も出てきそうもなかった。
 今度は十二宮を見下ろす。
 双児宮は、気が遠くなるほど下に見えた。
 一人では帰りたくない。
 ふと、近くに視線を移す。
 程近いところに、上から二つ目の宮があった。
 ここが、君の宮だよ。
 サガの言葉が脳裏をよぎる。
 生まれて初めて得る自分の場所、自分だけの居場所。
 カミュは意を決して、宝瓶宮に行ってみることにした。


 宮の作りは、どこもそれほど大差はなかった。
 居室部分は鍵がかかったままで、重そうな扉が入室を拒んでいる。
 それでも、外気よりも確実に涼感が漂う宮は、どことなく居心地がよかった。
 ここが、自分の宮になるのだ。
 神話の時代から、代々のアクエリアスが守護してきた宮。
 その連綿と続く流れの中に、自分もまた身を投じるのだ。
 不思議な高揚感がカミュを包んだ。
 疎ましいと思っていた冷気を発する力も、そのためだったのかもしれない。
 宮にも、聖域にも受け入れられた気がして、我知らず顔がほころぶ。
 と、ふと、あたりを見渡していた視線が一点に止まった。
 細い通路が奥へと続いていた。
 カミュは首をかしげると、そちらに足を向けた。


 暗い宮を通り抜けたその先は、緑生い茂る庭だった。
 あまり手入れはされていないらしく、草も木も勝手気ままに枝葉を茂らせている。
 カミュの目は、その木陰に据えられた一体の像に引き寄せられていた。
 先代のアクエリアスが置いたのだろうか、水瓶をささげる少年の像だった。
 ところどころ苔むし、時の流れを感じさせる姿だった。
 しかし、その水瓶から流れ出す水はすがすがしく、足下の泉へと注がれている。
 カミュはゆっくり近づいた。
 ほとばしる水を両の掌にすくってみる。
 冷たく、澄んだ水が心まで潤すようだった。
 乾燥した空気に慣れないカミュは、気持ちよさそうに水飛沫を顔に浴び、うっとりと目を閉じた。


 どの位そうしていただうか。
 ふと気配を感じ、カミュはまぶたを持ち上げる。
 水鏡に映るのは、紅い髪の子供と、そしてもう一人。
 飛び上がるようにして振り返る。
 そこには金色の巻き毛の子供がいた。
 やはり驚いたような顔をして、じっとカミュをみつめている。
 カミュは教会の宗教画を思い出した。
 そこに描かれていた天使が、こんな姿だった。
 太陽の光で染め上げたかのような金の髪に、晴れ渡った空のような蒼い瞳。
 まぶしいくらいの光の存在。
 天使はゆっくりとカミュに手を差し伸べてきた。
 この手をとってもいいのだろうか。
 自分が、光にふれてもいいのだろうか。
 ためらう彼の思いも知らず、手はそのまま持ち上げられ、そして。
 思いっきりカミュの紅い髪を引っ張った。
 「痛い!」
 あまりの突飛な行動と痛さに驚き、カミュは目の前の天使を突き飛ばした。
 そのまま振り返りもせず、走り出す。
 後には尻餅をついたまま、あっけにとられている光の子供が残された。


 その夜。
 久々に双児宮に来客があった。
 聖域にいるもう一人の黄金聖闘士、射手座のアイオロスである。
 いつものことだが、挨拶もそこそこに中に入る。
 「カミュがもう寝てるんだ、静かにしてくれよ」
 やや迷惑そうなサガの台詞も、あまりこの勇壮な戦士には効果がないらしい。
 意に介したふうもなく、笑いかける。
 「会えないかな?新しい仲間に」
 「おまえ、聞いてなかったのか。カミュは……」
 「や、そこをちらっとでいいから、一目だけ。な、頼む」
 顔の前で両手を合わせて満面の笑みで訴える来訪者に、サガは聞こえるようにため息をついた。
 「少しだけだからな」
 サガはカミュの寝室を小さくノックする。
 応えがないため振り返ると、期待に満ち溢れた友人の顔が待っていた。
 もう一度盛大にため息をつくと、サガはドアをほんの少し開けた。
 アイオロスがその隙間から室内を覗き込む。
 「ありがと。うーん、納得した」
 腕組みをして一人得心がいったようにうなずくアイオロスに、サガは不審の目を向ける。
 「うちのちびどもが、今うるさいんだ」
 うちのちび、とは彼の弟、獅子座のアイオリアと、蠍座のミロである。
 サガがカミュを世話しているように、それぞれの修行地に旅立つまで、アイオロスが彼らの面倒をみていた。
 「ミロが今日、宝瓶宮で妖精を見たって言って、アイオリアがいるわけないって言い張って、現在千日戦争中。で、俺は妖精の正体を確かめにきたってわけ」
 「……で、感想は?」
 「ミロがそう思うのも無理ないかな。きれいな顔してるし、珍しいくらいの赤毛だ」
 「おまえ、それを子供たちに言う気じゃないだろうな」
 せっかく心を開きかけてきたカミュが、また自分の世界に閉じこもってしまう事態は避けたい。
 ただでさえ異端視されて育った子供だ。せめてここでだけは普通に扱ってやりたかった。
 「言わないよ、そんなこと」
 過保護な親めいた友人の必死な顔に、アイオロスは微笑を禁じえなかった。
 いつも落ち着いた笑顔しかみせないサガだけに、一層だ。
 ようやく安心した様子のサガは、くすりと笑った。
 今度はアイオロスが怪訝な顔をする。
 「今日、カミュが言っていたんだ。『聖域に天使はいるんですか』 って。詳しいことは何も言わなかったけど、そうか、ミロのことだったんだな」
 「あの子も、黙ってればかわいいからな。確かに外見は天使かも」
 しかし黙ってないどころか悪戯好きなんだ、と天使の世話係は滔滔とこの数日間の苦労をサガに語った。
 「でも、明後日にはミロは修行地へ行くんだ。静かになって物足りないかもな」
 愚痴を言っているのか、寂しがっているのかわからない様子のアイオロスは、そこでふとひらめいた。
 「そうだ、明日リアとミロをカミュに会わせてやろうよ。子供同士だし、仲良くなるんじゃないか?」
 サガは顎に手をかけて考えた。
 確かに二人とも、明るいいい子ではあるが……。
 「今はやめたほうがいいんじゃないかな。言葉も通じないし。それに、またミロが修行地に行かないって言い出したら、おまえ、どうするんだ?」
 すっかりアイオリアと仲良くなったミロは、一緒に聖域で修行すると言って聞かなかった。
 ようやくミロス島行きを了解させたのはつい最近のことである。
 アイオロスは天井を向いて息を吐いた。
 「そうか、そうだよな。いい考えだと思ったんだけどなー」
 「どうせあと二、三年もすれば、皆聖闘士になってここに帰ってくる。それからでもいいだろう」
 「うん、わかった。ところで、カミュはいつから修行地にいくんだ?」
 アイオリア達と違って、カミュは聖域の公用語であるギリシャ語をまったく知らない。
 修行地に送り出す前に、ある程度のギリシャ語を教えるのが、次のサガの使命だった。
 きっとアイオロスがミロと過ごしたよりも長い時間がかかるだろう。
 別れるときには、やはり寂しい想いをするのだろうか。
 「……サガ、サガってば。おいおい、妖精に魔法でもかけられたか?」
 物思いにふけりだしたサガは、アイオロスの言葉に現実へと引き戻された。
 そうかもしれない、とサガは微笑んだ。
 カミュの保護者として全霊を傾けている自分の姿は、魔法で魅了されているかのようだ。
 自分は頼ってほしいのだ。甘えてほしいのだ。かつて、自分と同じ姿の存在がそうしてくれていたように。
 カミュが幸せになるのならば、かつて傷つけてしまった自分の半身への埋め合わせになるような気がした。
 私の贖罪のよりしろでは、カミュは迷惑かもしれないが……。
 サガは内心の決意に苦笑しつつ、閉じられたドアを見た。
 君が幸せになれるように、私は全力を傾けよう。
 サガは言葉にはださず、そう誓った。

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