無憂宮
片恋


 いつもうるさい友人たちが留守という、滅多に得られない貴重な夜だった。
 静かな時間を過ごす。
 ただそれだけのことも、この十二宮の上半分に住んでいると、非常な贅沢に思えてくる。
 シュラは満足そうに独りの時間を楽しもうとしていた。
 テーブルの上にはウイスキーとアイスペール。
 つまみもなくひたすらグラスを傾けるだけの、身体を壊しそうな飲み方。
 それが、シュラの酒だった。
 本当に身体を壊したところで、心配する奴もいないしな。
 シュラは自虐的な嘲笑を浮かべながら、氷が融けたグラスに火酒を注ぎたした。
 とくとくと酒がグラスを満たしていく音が、耳に優しく響く。
 しかし、そんな贅沢もつかの間だったらしい。
 遠慮がちに扉を叩く音が、シュラの時間に突然割り込んできた。
 無視しても良かったが、残念ながら、黙殺するにはシュラは根が真面目すぎる。
 不承不承ながらも扉を開けたシュラは、目を見張ると軽く拳で自分の頭を叩いてみた。
 ところが、それでも眼前の人物は消えず、ようやくシュラは、それが酒精の魅せる幻でないことを悟った。
 「……よう、帰ってきたのか」
 「ああ、さっき」
 扉の外には、数ヶ月ぶりに修行地から戻ってきたカミュがいた。
 秀麗な顔に、疲労と焦燥の翳が宿っている。
 「シュラ、ミロ知らないか?」
 紅い瞳が、少し羞恥に曇って見えた。
 久々の再会の挨拶も無く恋人の消息を尋ねる性急さが、シュラの苦笑を誘った。
 それほどまでに、奴に会いたいか。
 少々やっかみを覚えるが、そんな鬱屈した想いなどおくびにも出さず、さらりと質問に応える。
 もう、すっかり慣れてしまったことだ。
 「デスと一緒に、アフロの買い物に付き合わされてる。昨日のポーカーの罰ゲームだ」
 「アフロディーテの買い物? じゃあ、帰りは遅いな」
 カミュは困ったように眉をひそめた。
 「そのうち帰ってくるだろ。宮で待ってろよ」
 「……だめなんだ」
 小さな声がした。
 シュラは訝しげに目を細め、続くべき言葉を無言で促した。
 「鍵、忘れたから。宝瓶宮の合鍵はミロが持ってるんだが」
 ますます羞恥に頬を染め、カミュは俯いた。
 自分の宮に閉め出されたその様子は、途方に暮れた幼い子供のようだ。
 シュラは思わず吹き出した。
 「笑うことはないだろう」
 「ま、仕方ないな。シベリアじゃ鍵なんてかける必要ないしな」
 不服そうに睨みつけてくるカミュを横目に見ながら、シュラはなおも肩を震わせて笑い続けた。
 カミュは明晰な頭脳の持ち主のはずだが、日常生活ではどこか抜けている。
 カミュらしい粗忽な失態に、悪いとは思いつつも笑いが止まらなかった。
 しかし、それがカミュの気に障ったらしい。
 羞辱とは違う原因で頬を紅潮させ、カミュは口を尖らせた。
 「もういい、獅子宮にでも泊めてもらう」
 さっときびすを返したカミュの肩を、シュラは慌ててつかんだ。
 なんとか口許の笑いだけは抑えつけ、しかつめらしい顔を作ってみせる。
 「その大荷物で、また階段上り下りする気か。もう笑わんから、入れ」
 長距離移動の疲れで、内心では一刻も早く休みたいのだろう。
 カミュは上目遣いにシュラを睨みながらも、こくりとうなずいた。


 部屋に通されたカミュは、壁際に荷物を置くと、ふかぶかとソファに身を沈めた。
 組んだ両手を思いっきり伸ばし、一日の疲れを取り去ろうとする。
 気持ちよさそうに目を閉じたその姿は、まるで猫。
 それも気紛れにしか人に懐かない、移り気で高慢な猫。
 人は、その猫のご機嫌がいい時に、相手をしてもらえる恩恵にありつくだけなのだ。
 シュラは苦笑しつつも、グラスをもう一つ用意した。
 「おまえも飲むか?」
 カミュは薄目を開けてテーブルを見た。
 飲みかけの酒が、卓上で主を待っていた。
 「つまみは?」
 「いるのか?」
 カミュは当然、とばかりに首を縦に振った。
 「食事してないんだ」
 シュラは大仰にため息をついた。
 手土産も無しに現れたこの客は、存外に図々しい。
 しかし、それも自分に心を許している証拠だと思えば、怒る気も失せてしまう。
 「わかった。適当に作るから、ちょっと待ってろ」
 「手伝おうか?」
 「いい。疲れてるんだろ。休んどけ」
 カミュは素直にうなずくと、再びごろごろとソファに懐きだした。
 殊勝に手伝いを申し出たのも、断られることを見越してかもしれなかった。
 甘え上手な末っ子気質は、弟子をとる身になっても抜けないらしい。
 それとも、普段は世話をする側なだけに、世話をしてもらうのが嬉しいのだろうか。
 いずれにしても、頼られると断れないシュラは、カミュの面倒をみてしまうのだ。
 時折、気が向いたように訪れる隣人の面倒を、みさせていただくのだ。
 俺も、変わってないらしい。
 シュラは独りごちた。


 もともと器用なシュラは、料理においてもその才を遺憾なく発揮する。
 ありあわせの材料でできているとはとても思えない軽食を何品か用意して、シュラは程なく戻ってきた。
 テーブルが、あっという間にバーから居酒屋に変わった。
 卓上に並んだ皿から立ち上る香気が、食欲を誘う。
 よほど空腹を抱えていたのか、カミュは嬉しそうに破顔した。
 食欲というものは、共に食事をする相手がいると旺盛になるらしい。
 カミュの笑顔を前にして、酒で誤魔化されていたシュラの食欲も、一気にその存在を主張し始めた。
 再会に乾杯するのもそこそこに、早速カミュは料理に手をつけた。
 一口、口に運ぶと、フォークを咥えたまま動きを止める。
 しばらくしてようやくフォークを置いたカミュは、まじまじとシュラをみつめた。
 「こんなにおいしいものをすぐに作れるのに、どうして一人だと酒しか飲まないんだ?」
 「自分一人のためだけに作るのも、面倒なんでな」
 カミュはなおもシュラの瞳を覗き込んだ。
 真紅の瞳に映る自分の表情が、かすかに強張っていく。
 紅い魔石のような妖しい輝きは、無垢というベールを通さなかったら、直視に耐えられなかっただろう。
 自分の魅力を知らないこと、気がつこうとしないこと。
 それがカミュの美点であり、罪であった。
 「酒だけでは身体に良くない。面倒でも何か食べた方がいい」
 「なんだ、説教か、先生」
 ひたすらまっすぐに注がれる視線に落ち着かず、シュラは冗談めかして笑った。
 「違う。忠告だ、友人としての」
 友人。
 その言葉を喜ぶべきか、悲しむべきか。
 シュラは薄く笑うと、グラスの中身を減らす作業に没頭しだした。
 一方、カミュは、反応がなくなったシュラの様子に、機嫌を損ねたと思ったようだ。
 取り繕うように、慌てて話題を転換する。
 「氷、つくっといたから」
 カミュが指差す方を見遣ると、アイスペールに氷の山ができていた。
 誇張ではなく、まさに小さな氷山。
 およそ酒の席に供するような代物ではない。
 「グラスには大きすぎて入らんだろうが、これじゃ」
 シュラは呆れながらもアイスピックを差し出した。
 「最後まで責任持てよ」
 一応手伝ったのに礼もない、と言いたいのだろう。
 カミュは不満気な顔をしながら、それでもしぶしぶと氷を砕きだした。
 内心の不興をぶつけるように力を込め過ぎているせいか、周囲に氷の破片が派手に飛散する。
 「この作業は、ミロがうまいんだ」
 不器用な自分をごまかすかのように、カミュが小さく呟いた。
 「あいにく奴じゃなくて悪かったな」
 「そういうことは言っていない」
 シュラの台詞をからかいと受け止めたか、カミュの目の端が桜色に染まった。
 些細な軽口にも過敏な反応を示すのは、相変わらずだ。
 シュラはふと昔に戻ったような感慨に襲われ、口許に笑みを浮かべた。
 個性の強い集団に馴染むのに大変な苦労をしていたカミュを、密かに気遣い、さりげなく支えてやった遠い昔。
 その頃から気だけは強くて、年長者にからかわれる度、紅い瞳に静かな炎を浮かべていた。
 多分、カミュは幼すぎて覚えてもいないだろうが、かつて、そんな日々もあったのだ。
 「ああ、もういいから寄こせ。これで俺もなかなか役にたつんだぞ」
 カミュからアイスペールを取り上げたシュラは、さっと氷を撫でるように腕を動かした。
 その腕の一閃ごとに、氷が小さく切り取られていき、オンザロックに最適の大きさの氷が、瞬く間に出現していく。
 「シュラってすごい……」
 「おお、今頃気づいたか」
 目を見張って感嘆するカミュに、シュラは苦笑した。
 他に一体どんな表情をすればよいのか、皆目見当もつかなかった。


 夜も更け、封を切られたばかりのボトルの中身も、残りわずかとなった頃。
 もともと口数の多い方でもない二人の話題も、そろそろつきかけた。
 「まだ帰ってこない……」
 さすがに酒豪とはいえ、少しは酔いが回ったか。
 カミュは膝を抱えると、ふてくされたようにその膝頭に頬をつけた。
 どんなに酔っても、カミュがミロを忘れることはない。
 目の前にいるのがシュラだけでも、カミュはミロを待ち続けている。
 改めて突きつけられた事実に、シュラはため息をついた。
 こんなにもカミュを待たせて、あいつは何をしているのだ。
 カミュを、独りにして。
 酒の威力が、強固なまでの自制の壁に、割れ目を刻んだ。
 いや、酒のせいにしたかっただけかもしれない。
 シュラは訳もなく、ミロに腹立ちを覚えた。
 「ミロは、太陽だからな」
 ぼそりと吐き捨てるように呟くシュラに、カミュは興味深そうに瞳を向けた。
 「珍しいな。あなたがミロを褒めるなんて」
 「褒めちゃいない。太陽みたいに世界が自分を中心に回っていると考える、自己中心的な奴だ、と言ってるんだ」
 この醜い感情は、嫉妬、という名で呼ばれるのだろう。
 いつもなら心の奥底に封じ込められている想いが、かすかに開いた捌け口に、ざわつきだした。
 決して表出を許されることのない暗い情念が、業火のように胸を焼く。
 グラスを傾けながら苦虫を噛み潰すような顔をしたシュラに、カミュは笑顔を向けた。
 シュラの想いも知らぬ、無邪気な笑みだった。
 「言いえて妙だな。確かに、ミロにはそういうところがある」
 カミュは手の中のグラスをくるりと回した。
 グラスの中の液体が激しく波打つ。
 まるで、シュラの内心を震源とする揺れが、空気を通して伝わったかのようだった。
 「しかし、それを周囲に許させてしまうのも、やはり太陽ならではだな」
 そう言って、にこりと笑ったカミュは、グラスを口に持っていった。
 漣の名残を残す酒が、カミュの喉に流し込まれていく。
 さりげなく誇らしげなカミュの笑顔がまぶしくて、シュラはふいっと顔を背けた。
 黙って氷の欠片を噛み砕く。
 異様なほど、その音は大きく響く気がした。


 やがて、目を閉じたカミュは小さな寝息を立て始めた。
 疲れと酔いもあり、一向に帰ってこないミロを待ちくたびれて、眠ってしまったのだ。
 シュラは毛布を持ってくると、ふわりとカミュの身体に覆いかぶせた。
 「いい気なもんだな」
 気持ちよさそうに無防備な寝顔をみせるカミュに、シュラは苦笑いを浮かべた。
 おそらく自分のことだから、ミロが帰ってきたらこの眠り姫を起こしてやったりするのだろう。
 まちがいなく自分のことだから、ミロの腕にカミュを委ねてしまうのだろう。
 「俺も損な性分だ」
 シュラはカミュの額にかかる髪をかきあげると、そっとおやすみのキスをした。
 幸せな眠りを妨げないように、一瞬で離れる口付け。
 それが、突然の来客の世話に奮闘したシュラの請求する、ささやかな報酬だった。

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