無憂宮
帰還


 久しぶりに戻った聖域は、相変わらず多くの人で雑然としていた。
 気候自体の暑さも加わり、シベリアに慣れた身はただ歩くだけでも疲労感を覚える。
 十二人しかいない黄金聖闘士のなかでも滅多に姿を見せないことと、真紅の髪という人目をひく容貌のせいで、私は常に好奇の目を集めていた。
 慣れていることとはいえ、あまりいい気はしない。
 落ち着けるのは十二宮に達したころだろうか。
 ここまで来れば、遠巻きに寄せられる人々の視線も気にならなくなる。
 白羊宮までくると、ようやく帰ってきた実感がわいた。


 年に数回、シベリアでの弟子の育成の成果の報告のため、教皇の間を訪れる。
 子供のときの印象が強いせいか、今でも教皇は少し苦手だ。
 膨大な仕事に忙殺されておられるのだろう。
 私が謁見しても、報告書を受け取るだけのこともあるし、また逆に多くの質問を投げかけられることもある。
 果たして今日はどちらだろうか。
 扉をくぐるときは、常に一抹の緊張感が身を覆う。
 侍従に取次ぎを求め、ぼんやりと外を眺めた。
 太陽が燦燦と輝く、青い空と緑の木々の国。
 白い世界に慣れてしまった弟子たちは、この国をどう思うだろうか。
 そんなことを考えながら立ち尽くしていると、やがて先ほどの侍従が戻ってくる。
 今日はご多忙の日らしい。
 報告書を彼に預け、不謹慎にも少しほっとしながら、私は階段を下っていった。


 久々に入る宝瓶宮は暖かく私を迎えてくれた。
 無人の宮特有のよどんだ空気は、それほど感じられない。
 きちんと言いつけを守って風を入れたりしてくれているのだろう。
 あとで褒めてやらねばなるまい。
 シベリアに持ち帰る本を物色しながら、私は浮かび上がる微笑を抑えられなかった。


 「カミュ、カミュってば!」
 聞きなれた少しむくれたような声に揺り起こされた。
 時差と長距離移動に疲れていたのか、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 ぼんやり開けた瞳に飛び込んでくるのは、豪奢な金髪の持ち主。
 「せっかく帰ってきたんだから、早く家いって飯食おうぜ」
 「ああ、わるい」
 寝ぼけた体をゆっくり持ち上げると、私は彼の頭をなでてやった。
 きょとんとした顔がおかしい。
 「いや、なにかおまえを褒めることがあったんだが……」
 大型犬が尻尾を振ってなついてくるように、彼は期待に満ちた顔で次の台詞を待つ。
 「何?」
 「寝たら忘れた。思い出したら教えてやる」
 「なんだよ、それ」
 不満げな、それでも嬉しそうな笑顔。
 ああ、彼も光の国の住人だった。
 まぶしいほどの笑顔だった。


 たまに聖域に戻るときは、天蠍宮で食事をするのが暗黙の了解になっていた。
 とはいえ、ミロが料理をすることは滅多に無い。
 大抵はケータリング、時にはデスマスクやシュラが作っていてくれることもあった。
 もっともその場合、どんな見返り条件がついていたのか、私は知らない。
 今日は新しくアテネ市内にできたというギリシャ料理店の食事。
 それほどオリーブ油がきつくなく、食べやすい。
 その旨を伝えると、彼はまるで自分が料理人であるかのように誇らしげに笑った。
 本当によく笑う男だ。
 この笑顔に、私はどれだけ救われてきたことだろう。
 周囲を幸せにできる能力。
 私は、弟子たちにこういう聖闘士になってほしいと思っていた。
 地上の平和を守るのも、身近な幸福を守るのも、どちらも私たちの務め。
 ミロはそのどちらも無理なく成し遂げそうな気がした。


 食事が終わると、ワインを飲みながら語りあうというのが定番だった。
 最近のミロのお気に入りは、ソファに座り私を横抱きにして膝の上に乗せること。
 初めは抵抗もあったが、次第に慣れた。
 こうしていると、テーブルの上のワインやチーズが取りやすいし、会話の合間に触れるだけの口づけをすることもできる。
 私の話題は、当然といえば当然なのだが弟子の話が多い。
 本の話をしてもミロは理解不能といった顔をするし、結局落ち着くのは近況報告なのだ。
 世界が狭くなったといわれても反論できないが、ミロはいつも楽しそうに聞いてくれた。
 シベリアまで遊びに来ても、よく子供たちの相手をしてくれる。
 子供が好きなのだろう。
 弟子をとったら、私よりもはるかにいい師になると思うのだが、今のところそのつもりはないようだ。
 ひととおりお互いの話が終わるころには、ワインのボトルも空に近くなる。
 それを合図に、ミロは私の耳元でささやく。
 「そろそろ寝よっか」
 この台詞が、純粋な睡眠以外のことをも含みだしたのは、いつからだったろう。


 終わったあとは、いつも気だるい。
 まるで、全身に砂が詰まっているかのように、指一本でも動かすのが億劫になる。
 もっとも、それは私だけらしく、ミロは私の髪をもてあそんだり、耳元に赤面するような言葉を吹き込んだりしていた。
 基本的な体力の違いもあるだろうが、私ばかりこんなに疲れているのは、妙に悔しかったりもする。
 「カミュさ、少し、やせた?」
 ミロが私の背を撫でながら不意に尋ねる。
 うつぶせたまま、私は顔だけ動かした。
 「そうか? 意識したことなかったが……」
 「うん、ここんとこ、骨が前よりめだつ」
 言いながら、彼の指は肩甲骨をなぞる。
 まだ過敏さを残す身体がわずかに震えた。
 全身に力を込めて、刺激に耐える。
 「子供たちの相手しかしていないからな。ちょっと背筋鍛えないといけないかな」
 何気なさを装って、私はミロに背を向けた。
 彼の指だけで甘い感覚を覚えている顔など、見せたくなかった。
 そんな私の努力を知ってか知らずか、ミロは私の背に唇を落とした。
 「知ってる? この骨って、天使の羽の痕なんだって」
 天使、ねえ。
 私はくすりと笑った。
 おまえは知らないだろうけれど、初めて会ったとき、私はおまえのことを天使だと思ったんだよ。
 意地悪な天使だと。
 私は、天使じゃない。
 私は、むしろ……。
 「なんで天使だってわかるんだ。悪魔の翼かもしれないだろ」
 そう、その方が言われ慣れていた。
 自分を見る他人の目に恐れを感じたことなど、おまえにはあるまい。
 幼いときの記憶が、不意に甦ってきた。
 胸の奥が、かすかに焼け付くように痛んだ。
 じわりと広がりつつあった痛みは、しかしすぐに消えた。
 私の内心になど気づいていないだろうに、ミロが背後から私を両手で抱え込んだのだ。
 うなじに顔をうずめたミロは、夢見るようにささやく。
 「どっちでもいいや。カミュだったら。それに、こうしてれば飛んでいけないし」
 一瞬、息ができなかった。
 私がずっと心の奥底に溜め込んでいた鬱屈を、彼はたった一言で消してしまった。
 「……カミュ、……寝ちゃった?」
 小さな声が遠くに聞こえた。
 安心感と幸福感。
 子供たちに与えたいと思っているもの全てが、ここにはある。
 たまには私自身が与えられる側になるのも、悪くない。
 ミロの腕は、温かくて心地よい。
 このまま眠ってしまうのは、もったいないような気もするが、今の私には最高の贅沢だった。
 ミロが何事かささやく声を子守唄に、私は睡魔の誘いに身を委ねていった。

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