無憂宮
告白


 ミロは久しぶりに十二宮の階段を上っていた。
 足取りは、重いような、軽いような不思議な感じだった。
 階段の一段一段ごとに、早く着きたいと思ったり、引き返そうと思ったり、心はひっきりなしに揺れていた。
 宝瓶宮が見えてくると、ミロは拳を握り締めた。
 「よしっ」
 気合をいれた。


 扉をノックしても、返事はなかった。
 いつものことだった。
 宮主は本当にいないか、いても気づかないかどちらかだ。
 通いなれた宮だけに、そこはかとなく漂う雰囲気から、ミロは後者と信じることにした。
 「はいるぞ」
 一応、一言声をかけてから、中へ入っていく。
 心臓がどくどくと音を立てている。
 このまま逃げ出したい気もするが、この数日間悩んで、ようやく覚悟を決めたのだ。
 ここで退散するわけにはいかなかった。
 日当たりのいいリビングにカミュはいた。
 窓辺のお気に入りの椅子で、サイドテーブルに紅茶をおいて、読書中。
 予想通りの姿に、ミロは微笑を禁じえなかった。
 本に熱中すると、大抵のことはカミュを素通りしてしまうのだ。
 今、来客があることにも気づいてはいまい。
 紅茶に手を伸ばしたら、声をかけよう。
 ミロはそう決めると、扉にもたれてしばらく待った。
 「……いつまでそうしているつもりだ?」
 突然、カミュが本から目を離さずに告げる。
 ミロの肩がびくっと震えた。
 「え、なに。気づいてたの?」
 「気づかないわけないだろう。何か用か」
 心なしか、声が冷たい。
 この数日間、食事を一緒にとらなかったことを根に持っているのだろうか。
 ミロは挫けそうになる自分を奮い立たせた。
 なんのために、ここしばらくカミュを独りにしていたのだ。
 「うん、そうなんだけど……」
 「なんだ、手短に頼む」
 カミュは本を開いたまま膝の上に置いた。
 ようやく顔を上げたものの、すぐにでも読書に戻るという意志をありありと表明している。
 どうやらミロは歓迎されざる客らしかった。
 「あ、うん、えっと……」
 ミロは予想以上にカミュの機嫌が悪いことに脅えた。
 動揺する頭から、用意してきた言葉が、すべて霧消してしまった。
 ちらりとカミュに目を遣ると、氷のように冷たい視線に迎えられた。
 用事がないなら邪魔をするな、と、今にも言い出しそうだった。
 しかし、ミロもようやく決心してここに来ているのだ。
 目的を果たさずには帰れなかった。
 どうやって切り出せばいいのかわからないものの、意を決してカミュに近づく。
 かすかに足が震えるのがわかり、ミロは密かに深呼吸をした。
 心を落ち着けようとしたのだが、無駄な努力だったらしい。
 全身に、うるさいほど心臓の音が響き渡る。
 カミュに聞こえていないのが不思議なくらいだった。
 傍に立つと、カミュは顔だけ動かして、ミロを見上げた。
 綺麗な、瞳だった。
 久しぶりに会うためか、ミロは息を呑んで見惚れた。
 すっかり紅い瞳に魅了されたミロの口から、無意識に言葉がつむぎだされる。
 「キス……してもいい?」
 カミュは一瞬怪訝な顔をすると、次にはあきれたようにくすくす笑い出した。
 「変なやつだな。いつもしてるだろう」
 耳にかかる真紅の髪をかきあげ、ほら、とカミュは片頬を差し出してきた。
 いつもの、挨拶のキスを待つ。
 ミロは顔を近づけた。


 カミュの膝から、本がどさりと落ちた。
 顎に指がかけられ、引き寄せられたことを驚く間もなかった。
 頬に落ちてくるはずのミロの唇は、カミュの唇をふさいでいた。
 呼吸が、止まった。
 しばらくしてようやく我に返ったカミュは、思い切りミロを突き飛ばした。
 が、座った姿勢からではたいした力もだせず、ミロを一歩後ずらせただけだった。
 「何をする……」
 乾いた声が漏れた。
 ミロは、ふう、と息をついた。
 衝動的な行動に、かえって度胸が据わったようだった。
 「キス。してもいいっていったろ」
 ミロはにやっと笑った。
 カミュは頬を朱に染めた。
 きっとミロをにらみつける。
 「ただの挨拶のキスだと思うだろう、普通。こんな……。ふざけるな!」
 「や、ふざけてないんだけど。すっごい真面目」
 ミロは口調はともかく、真剣な面持ちを浮かべた。
 「ここんとこ、カミュと離れて、悩んで、一生分考えた結論」
 珍しく必死な様子のミロに気圧されて、カミュは怒りの言葉を呑みこんだ。
 こんなひたむきな表情のミロは、ついぞ見たことがなかった。
 黙って次の台詞を待つ。
 「俺、カミュが好きだ」
 ミロはまっすぐカミュをみつめて、きっぱりと言い切った。
 熱い視線が、カミュを貫く。
 灼熱の炎のような光を宿す双眸に、カミュは耐え切れなくなって、すっと瞳をそらした。
 「……出て行け」
 小声で呟く。
 「カミュ……」
 「いいから出て行け!」
 いつになく声を荒げるカミュに、ミロは寂しそうに頷いた。
 帰りしな、振り返ると、ぽつりと言葉をおとす。
 「俺、本気だから」
 返事はなかった。


 カタン、と扉が閉まる音がして、ようやくカミュはこわばった体を動かし始めた。
 すっかり冷めてしまった紅茶に手を伸ばす。
 カップに伸ばした手が震え、ソーサーが小刻みな音を奏で出した。
 ゆっくりとカップを口に持っていく。
 硬質で冷たい触感。
 さっき自分の唇に触れたものとはあまりに異質で、その対極さがかえって感覚を思い出させた。
 一口も飲めず、カップを戻す。
 かわりに震える指が、唇に当てられる。
 そのまま彫像のように動けなくなっていた。

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