久闊
自宮が十二宮の最初に位置していることが心底ありがたいとムウは思った。
数年ぶりに聖域に戻ってきたのだが、おかげで知った顔には誰にも会わずに宮に辿り着くことができた。
ここだけ忘れ去られたように停まっていた時間が、ムウの帰還により動き出す。
澱んでいた空気も、ようやくその本来の役目を思い出したようにゆったりと漂いだした。
物珍しげに周囲を見渡していた貴鬼に宮の掃除を申しつけ、ムウは隣接の工房へ足を向けた。
長い時間閉ざされたままだった扉が、ぎいと錆付いた音を立てて主を迎え入れる。
ムウはゆっくりと周囲を見渡した。
懐かしい。
全てはあの頃のままだった。
整然と壁際の棚に並ぶ数多の修復具も備蓄の修復材も、当時のまま変わらずそこにある。
うっすらと降り積もった埃だけが時の経過を控えめに主張している中、ムウは持参した修復具を取り出した。
出奔時、せめてこれだけはと持ち出した師愛用の修復具は、今ではすっかりムウの手に馴染んでいた。
その師のために今ムウができるのは、師から受け継いだ全ての技量をもって、明日訪れる少年たちの聖衣を調整してやることだけだ。
普段は黄金聖衣の修復にしか用いない極めて純度の高い資材を用い、彼らのまとう聖衣を最高の青銅聖衣に仕立て上げてやるつもりだった。
準備万端整えて彼らを迎えてやろうと、ムウは黙々と修復具の刃を研ぐ。
一定の力で、繰り返し繰り返し、砥石に刃を滑らせる。
リズミカルに響く小気味よい音が、周囲の静けさを際立たせた。
無心になれるこの単純作業は、嫌いではない。
むしろ、嫌な記憶から逃れ心の乱れを落ち着かせるための手段として有用だと思う。
決戦を明日に控えた今、否応もなく昂ぶる心を静めるためにも、こうして修復具を手入れする意味はあった。
そうして全ての修復具を研ぎ終わった頃、おずおずと工房を覗き込む気配を感じたムウは、戸口を振り返った。
「どうしました、貴鬼」
「ムウさま、お客ですよ」
この、聖域にずっと背を向けていたムウの元に、一体誰が来たというのか。
わずかに目を見張ったムウは無言で立ち上がった。
部屋に通されるでもなく、来客は戸口に佇んだままだった。
そこだけ花が咲いたように鮮やかな紅い髪が目を引く。
カミュだ。
「……久しぶりですね」
「……ああ」
静かに声をかけると、顔を上げたカミュはかすかに微笑んだ。
本当に、しばらくぶりだった。
幼い頃はほとんど毎日顔を突き合わせていたというのに、ムウがジャミールに閉じこもるようになって以来、すっかり没交渉になっていた。
出不精の彼がジャミールに出向くためには何がしかの口実が必要で、しかし残念ながらどうしても良い理由を思いつくことができなかったのだろう。
とはいえ、唯一ジャミールを訪れていたシャカによれば、カミュはひどくムウの様子を気にしていたというから、少々疎遠になったものの決して自分は忘れられていたわけではないと思う。
ムウもまた、シベリアを訪問することこそなかったが、聖闘士候補生の指導に当たっているというカミュの消息をよくシャカに尋ねていたのだから、お互いさまだ。
続く言葉に迷ったように一旦言葉を切ったカミュは、視線をムウからそっと外した。
「人の気配がしたのでな。君が帰ってきたのだと思った」
「ええ、先程戻りました。お茶ぐらいなら出せますが」
ちらりと中を見遣り入室を促したが、カミュは素っ気無く首を横に振った。
「いや、いい」
相変わらずだ。
ムウはカミュに気付かれない程度に口の端をふわりと持ち上げた。
恐らくは帰還したばかりで落ち着かないムウの状況を慮ってのことなのだろうが、彼の無愛想な反応は相手に誤解を与えかねない。
よくカミュを知らない人間が、彼を評して冷淡だと厭う所以だ。
子供の頃からあったその好ましからぬ傾向が今も変わらず続いていることが、本人にとっては不本意だろうが、幼馴染としては少し嬉しい。
教皇に従う彼と、表立って逆らってはいないものの聖域と距離を置いた自分と、立場はすっかり違ってしまったが、かつて育んだ友情だけは変わらず持ち続けていたかった。
「……明日、ですね」
短いムウの言葉に、カミュはわずかに眼を伏せた。
聖域に反旗を翻した一人が、彼の弟子だ。
口さがない人々の陰口を気にするような彼ではなかろうが、今のこの状況が面白いはずがない。
せめて少しなりとも彼が背負う重荷を減らしてやりたくて、ムウは優しく微笑んだ。
「明日、私は青銅聖衣に修復を施すつもりです」
自分が聖域に戻った意図を誰に言う気もなかったが、彼にだけは伝えておいてもよいと思った。
少し驚いたように目を見張るカミュに、ムウは静かに続けた。
「私は彼らと少々関わりを持ちましたのでね。彼らを無駄に逝かせるのは惜しいのです」
一旦言葉を切ったムウは、訝しげな紅い瞳をじっとみつめ、再び口を開いた。
「あなたは、いい聖闘士を育てましたね」
一瞬、カミュが呼吸を止めるのがわかった。
ムウの一言は、カミュの琴線を激しく震わせたらしい。
その余韻を味わうようにしばらく無言を貫いていたカミュの口許に、やがてとても嬉しそうな微笑が刻まれる。
「……ありがとう」
滅多に感情を露にすることのないカミュがみせる喜びの表情は、それを浮かばせたムウをもまた誇らしい気分にさせるものだった。
「私が言うのもどうかと思うが、よろしく頼む」
「承知しました」
微笑むムウに、カミュは満足気に頷いた。
「では、邪魔をしたな。久々に会えてよかった」
「私もです」
深い思いを乗せた短い言葉の応酬を終え、カミュは踵を返した。
歩き出したその背が、見送るムウの目の前でふと止まった。
「ムウ」
名を呼ばれたムウは、続く言葉を待ちその背をみつめた。
その視線の中、前方を見据えたままのカミュが、意を決したように呟く声がした。
「……すまなかった」
ムウの瞳が愕然と見開いた。
ひどく小さな声だったが、その一言は寸分聞き間違えることなくムウの耳に鋭く突き刺さった。
その唐突な謝辞の意味くらい、考えるまでもなく容易に悟ることができた。
明日の決戦を前にして、長らく放逐に追い込まれた我が身への謝罪が意味するところは、一つしかない。
カミュは、全てを知っていた。
聖域を支配する偽りの正義の正体を、カミュは熟知した上で加担していた。
カミュの来訪の真意は、ただ久闊を叙することなどではなく、この知りたくもなかった事実の謝罪にあったのだ。
言葉を失ったムウを後にして、カミュは無言のまま再び歩き出した。
階段を上っていくその後ろ姿を、ムウはただじっとみつめていた。
これが、ムウが最後に目にするカミュの姿になるかもしれない。
そうぼんやりと思いつつ、夕陽に照らされさらに鮮麗に染まる紅い髪がみえなくなるまで、ムウは微動だにせず見送っていた。
自宮が十二宮の最初に位置していることが心底ありがたいとムウは思った。
数年ぶりに聖域に戻ってきたのだが、おかげで知った顔には誰にも会わずに宮に辿り着くことができた。
ここだけ忘れ去られたように停まっていた時間が、ムウの帰還により動き出す。
澱んでいた空気も、ようやくその本来の役目を思い出したようにゆったりと漂いだした。
物珍しげに周囲を見渡していた貴鬼に宮の掃除を申しつけ、ムウは隣接の工房へ足を向けた。
長い時間閉ざされたままだった扉が、ぎいと錆付いた音を立てて主を迎え入れる。
ムウはゆっくりと周囲を見渡した。
懐かしい。
全てはあの頃のままだった。
整然と壁際の棚に並ぶ数多の修復具も備蓄の修復材も、当時のまま変わらずそこにある。
うっすらと降り積もった埃だけが時の経過を控えめに主張している中、ムウは持参した修復具を取り出した。
出奔時、せめてこれだけはと持ち出した師愛用の修復具は、今ではすっかりムウの手に馴染んでいた。
その師のために今ムウができるのは、師から受け継いだ全ての技量をもって、明日訪れる少年たちの聖衣を調整してやることだけだ。
普段は黄金聖衣の修復にしか用いない極めて純度の高い資材を用い、彼らのまとう聖衣を最高の青銅聖衣に仕立て上げてやるつもりだった。
準備万端整えて彼らを迎えてやろうと、ムウは黙々と修復具の刃を研ぐ。
一定の力で、繰り返し繰り返し、砥石に刃を滑らせる。
リズミカルに響く小気味よい音が、周囲の静けさを際立たせた。
無心になれるこの単純作業は、嫌いではない。
むしろ、嫌な記憶から逃れ心の乱れを落ち着かせるための手段として有用だと思う。
決戦を明日に控えた今、否応もなく昂ぶる心を静めるためにも、こうして修復具を手入れする意味はあった。
そうして全ての修復具を研ぎ終わった頃、おずおずと工房を覗き込む気配を感じたムウは、戸口を振り返った。
「どうしました、貴鬼」
「ムウさま、お客ですよ」
この、聖域にずっと背を向けていたムウの元に、一体誰が来たというのか。
わずかに目を見張ったムウは無言で立ち上がった。
部屋に通されるでもなく、来客は戸口に佇んだままだった。
そこだけ花が咲いたように鮮やかな紅い髪が目を引く。
カミュだ。
「……久しぶりですね」
「……ああ」
静かに声をかけると、顔を上げたカミュはかすかに微笑んだ。
本当に、しばらくぶりだった。
幼い頃はほとんど毎日顔を突き合わせていたというのに、ムウがジャミールに閉じこもるようになって以来、すっかり没交渉になっていた。
出不精の彼がジャミールに出向くためには何がしかの口実が必要で、しかし残念ながらどうしても良い理由を思いつくことができなかったのだろう。
とはいえ、唯一ジャミールを訪れていたシャカによれば、カミュはひどくムウの様子を気にしていたというから、少々疎遠になったものの決して自分は忘れられていたわけではないと思う。
ムウもまた、シベリアを訪問することこそなかったが、聖闘士候補生の指導に当たっているというカミュの消息をよくシャカに尋ねていたのだから、お互いさまだ。
続く言葉に迷ったように一旦言葉を切ったカミュは、視線をムウからそっと外した。
「人の気配がしたのでな。君が帰ってきたのだと思った」
「ええ、先程戻りました。お茶ぐらいなら出せますが」
ちらりと中を見遣り入室を促したが、カミュは素っ気無く首を横に振った。
「いや、いい」
相変わらずだ。
ムウはカミュに気付かれない程度に口の端をふわりと持ち上げた。
恐らくは帰還したばかりで落ち着かないムウの状況を慮ってのことなのだろうが、彼の無愛想な反応は相手に誤解を与えかねない。
よくカミュを知らない人間が、彼を評して冷淡だと厭う所以だ。
子供の頃からあったその好ましからぬ傾向が今も変わらず続いていることが、本人にとっては不本意だろうが、幼馴染としては少し嬉しい。
教皇に従う彼と、表立って逆らってはいないものの聖域と距離を置いた自分と、立場はすっかり違ってしまったが、かつて育んだ友情だけは変わらず持ち続けていたかった。
「……明日、ですね」
短いムウの言葉に、カミュはわずかに眼を伏せた。
聖域に反旗を翻した一人が、彼の弟子だ。
口さがない人々の陰口を気にするような彼ではなかろうが、今のこの状況が面白いはずがない。
せめて少しなりとも彼が背負う重荷を減らしてやりたくて、ムウは優しく微笑んだ。
「明日、私は青銅聖衣に修復を施すつもりです」
自分が聖域に戻った意図を誰に言う気もなかったが、彼にだけは伝えておいてもよいと思った。
少し驚いたように目を見張るカミュに、ムウは静かに続けた。
「私は彼らと少々関わりを持ちましたのでね。彼らを無駄に逝かせるのは惜しいのです」
一旦言葉を切ったムウは、訝しげな紅い瞳をじっとみつめ、再び口を開いた。
「あなたは、いい聖闘士を育てましたね」
一瞬、カミュが呼吸を止めるのがわかった。
ムウの一言は、カミュの琴線を激しく震わせたらしい。
その余韻を味わうようにしばらく無言を貫いていたカミュの口許に、やがてとても嬉しそうな微笑が刻まれる。
「……ありがとう」
滅多に感情を露にすることのないカミュがみせる喜びの表情は、それを浮かばせたムウをもまた誇らしい気分にさせるものだった。
「私が言うのもどうかと思うが、よろしく頼む」
「承知しました」
微笑むムウに、カミュは満足気に頷いた。
「では、邪魔をしたな。久々に会えてよかった」
「私もです」
深い思いを乗せた短い言葉の応酬を終え、カミュは踵を返した。
歩き出したその背が、見送るムウの目の前でふと止まった。
「ムウ」
名を呼ばれたムウは、続く言葉を待ちその背をみつめた。
その視線の中、前方を見据えたままのカミュが、意を決したように呟く声がした。
「……すまなかった」
ムウの瞳が愕然と見開いた。
ひどく小さな声だったが、その一言は寸分聞き間違えることなくムウの耳に鋭く突き刺さった。
その唐突な謝辞の意味くらい、考えるまでもなく容易に悟ることができた。
明日の決戦を前にして、長らく放逐に追い込まれた我が身への謝罪が意味するところは、一つしかない。
カミュは、全てを知っていた。
聖域を支配する偽りの正義の正体を、カミュは熟知した上で加担していた。
カミュの来訪の真意は、ただ久闊を叙することなどではなく、この知りたくもなかった事実の謝罪にあったのだ。
言葉を失ったムウを後にして、カミュは無言のまま再び歩き出した。
階段を上っていくその後ろ姿を、ムウはただじっとみつめていた。
これが、ムウが最後に目にするカミュの姿になるかもしれない。
そうぼんやりと思いつつ、夕陽に照らされさらに鮮麗に染まる紅い髪がみえなくなるまで、ムウは微動だにせず見送っていた。