惚気
日の長いギリシャとはいえ、わずかに空気が湿り気を帯びつつあるのが感じられた。
暗くなるのは、まだまだ先。
それでも夜は、その輪郭をぼんやりと霞ませながらも密やかに近づいてきていた。
心なしか和らいだ陽射しの中、カノンは長い階段を上がっていた。
慣れてしまったこととはいえ、延々と続く十二宮の階段に少々うんざりした頃、風の音に混じる自分以外の足音が鼓膜を刺激し始める。
顔を上げると、遠目にも目立つ紅い髪の持ち主が駆け下りてくるのが見えた。
いつも落ち着いた彼には珍しく、大慌てで飛び出してきたという感じだ。
シャツのボタンは全て留められているという訳ではなく、片手に引っつかんだ上着とネクタイが、まるで羽のように彼の背後になびいている。
それもそうだろう。
カノンは後にしてきた自宮を思い出した。
もう一人の宮主が、今頃そわそわと時計とにらめっこをしているはずだ。
今日、カミュはサガと所用で外出することになっていた。
こうしてカノンが階段を上がっているのも、一人残されたミロをからかうためなのだが、彼が双児宮を出た時点ですでに約束の時間を過ぎていたらしい。
待ち合わせの時間に遅れるなど、カミュらしくもない。
ただ、いつも仮面のように無表情なだけに、動揺するカミュを見るのは楽しかった。
それは、精一杯大人ぶっている子供が垣間見せた歳相応な素顔を、微笑ましく見守るようなものだ。
年長者の余裕、とでも言うべきか。
そして、そうやって密かに楽しんでいる姿を子供に感づかせないようにするのも、大人の務めだった。
近づいてきたカミュは、足こそ止めないものの幾分歩調を緩め、カノンに軽く黙礼した。
愛想は無いが、最低限の礼儀を失することはない。
そういえば、こいつの弟子もそんな感じだった。
カノンにしてみれば、カミュより馴染み深い海将軍の面影を、苦笑とともに思い返す。
何故かその仏頂面をからかってみたくなるのは、今にして思えば師譲りだったのだろう。
「よう、サガが待ってるぞ」
「今、行くところです」
……そりゃ、まあ、見りゃわかるがな。
この律儀なまでの生真面目さが、カノンの中の悪戯心を刺激するということを、カミュは少しもわかっていない。
カノンは傍目にはわからない程度に、口の端を歪めた。
「あいつに会う前に、ネクタイ締めとけよ」
傍らを通り過ぎかけたカミュは、訝しげに振り返った。
物問いたげな視線を一身に浴びつつ、カノンは自分の鎖骨を指で軽く弾くと片目をつぶってみせた。
「遅刻の原因、丸判りだぜ」
きょとんと目を見張ったカミュは、我が身を見下ろした。
胸元から垣間見えるかすかな鬱血の痕に気づくや、慌ててシャツのボタンを首許まで留め始める。
「……ご忠告、感謝します」
その髪と同じくらい頬を紅潮させ、それでも几帳面に礼の言葉を小さく呟く。
サガが、ことカミュに関してだけはいつまでも子離れできない理由が、少しだけわかった気がした。
自分よりはるかに年若の少年たちに囲まれていた海底での歳月があるから、なんとなくわかる。
もっとも、そんな心の動きを表出させるほど、カノンは不器用ではない。
相変わらずの揶揄するような笑みを浮かべたまま、再びカノンは階段を上り始めた。
「じゃあな。ああ、ミロ、借りるぜ」
「別に私の許可はいりませんから、ご自由に。私もサガをお借りします」
「おお、返さなくていいぞ」
カミュに背を向けたまま、軽くいなすように手を振る。
神をもたぶらかした男に、口で勝てる訳が無い。
言葉に言いよどんだカミュが、見送る視線に不満を滲ませるのを背中越しに感じた。
しかし、その気配も程なく消える。
サガを待たせている自分の現状に思い至ったのだろう。
慌てて階段を駆け下りていく足音が、次第に遠ざかっていった。
天蠍宮では、カミュの遅刻の原因を作った張本人が、不貞腐れたようにソファに横たわっていた。
予想通りの光景に苦笑を浮かべつつ、カノンは居間に足を踏み入れた。
「母親に置いてきぼりにされた子供だな、まるで」
「そういうあんたは、旦那に浮気された奥さん?」
蒼い視線がちらりと上を向いた。
打てば響くように憎たらしい言葉が返ってくる小気味よさは、カミュにはない。
カノンは口の端を緩めつつ、手にした酒瓶をこれ見よがしにかざした。
「いいのかね、差し入れ持ってきてやった客にそんな口きいて」
「いいんじゃない? つまみ用意したのはこっちだし」
予想外の返答に、カノンは軽く瞳を見張った。
そこはかとなく勝ち誇ったような笑みと共に、ミロの指がすっと持ち上げられる。
ミロが指差す方向へ釣られて視線を移すと、そこには食堂へ通じる扉があった。
「正確には料理したのはカミュだけど。きっとカノンが来るから、今晩は二人でメシ食えって」
「……お見通しって訳か」
「そういうトコだけは気がつくんだよね、カミュ」
ようやく起き上がったミロは、笑っていた。
恋人を自慢する幸せな男の顔で、笑っていた。
カノンもミロも、酒に弱い方ではない。
カノンが持参したボトルはすぐに空になり、ミロはぶつぶついいながらも新しい酒瓶を出してきた。
「ウィスキーでいいよな? カミュ、これはあんまり飲まないから」
「そりゃ構わんが……」
ふとこみ上げた笑いを飲み込むように口をつぐんだカノンを、ミロは不思議そうにみつめ返した。
「何?」
「おまえ、口を開けばカミュ、カミュってのな。一体、カミュのどこがそんなにいいわけ?」
「全部」
即答だった。
ミロは自明の事実を何故今更訊くのかとでも言いたげな、怪訝な表情を隠そうともしない。
今自分がした質問は、ひょっとしたらとんでもない愚問だったのだろうか。
予想はしていたが、ここまで恋は盲目の反応が返ってくるとは思わなかった。
カノンは手際よく水割りを作りながら、口角を持ち上げた。
酒の肴は、決まった。
聖域に住まうようになった当初、新たな十二宮の住人としての自分の位置を模索するため、しばらく人間観察をしていた時期があった。
黄金聖闘士はなかなか興味深い人間ばかりで、いろいろな意味で面白かったのだが、その中でもカミュの存在は異色だった。
サガやミロなど、自分が比較的関係深い人間たちは、何故か一様にカミュに執心だったから、余計にそう思ったのかもしれない。
それでも、あの愛想笑い一つできない朴念仁がこれほどまでに人の心を集める理由はわからず、密かに聖域七不思議の一つとして勘定していたのだ。
今夜は、この不思議な謎に、解決を与えてもらうことにしよう。
カノンはミロにグラスを手渡しながら問いかけた
「あいつ、顔は確かにキレイかもしれんが、それ位なら他にもいるだろ」
「外見だけじゃないって。カミュ、かわいいし」
「……今、ひょっとして、かわいいって言ったか?」
聞き間違いだろうか、いや、きっとそうに違いない。
およそ信じがたいミロの発言に耳を疑い、カノンは眉をしかめた。
しかし、ミロが平然と首肯するところを見ると、どうやら自分の聴覚は正常らしい。
「かわいいよー、カミュ。すぐ怒るし、泣くし、悩むし、落ち込むし、全身から構ってオーラ発してるくせに、ちょっかいだすと嫌そうな顔するし……」
「いいとこねーじゃん!」
呆れたカノンが遮っても、ミロは満面の笑みを崩さなかった。
「それが、かわいいんだって。意地っ張りで天邪鬼なとこが。なんか猫みたいで」
その猫の自称飼い主は、やに下がった顔を隠そうともしなかった。
のぼせ上がった表情のあまりの情けなさに、最高位の戦士の称号を返上したほうがいいと忠言したくなるのを、カノンはかろうじて舌先でこらえた。
今のミロに、何を言っても無駄だ。
カミュが弟子バカだというなら、ミロは文句なしにカミュバカだ。
おそらく、今までに散々ミロの惚気を聞かされている他の聖闘士たちには、とっくに愛想を尽かされているのだろう。
ミロが一層上機嫌なのは、久々にミロの恋愛譚を聞いてくれる人物をつかまえたからに違いない。
自分は、話題の選択を間違えたのかもしれない。
好奇心が後悔に変わりつつあるカノンの内心も知らず、ミロは嬉々として恋人の自慢を続けていた。
「……それに、笑った顔は本当に綺麗でねー。あの笑顔を見るためだったら、俺、何でもできると思う」
臆面も無くきっぱりと言い切った後、ミロは悪戯を告白する子供のようにぺろりと舌を出した。
「今だから言うけどさ、俺、子供のとき、カミュを女神に見立ててたんだよね」
「……は?」
冒涜も甚だしいミロの言葉に、我ながら間抜けな声が漏れた。
神官が耳にしたなら、激昂のあまり卒倒する者さえいるだろう。
それくらい不敬な発言を、ミロはさらりと言ってのけていた。
ミロは水割りを口にすると、遠くを見るようにわずかに目を細めた。
「カノンは知らないだろうけどさ。子供の頃のカミュ、すっごい大人しくてね……」
黄金聖闘士は選ばれた戦士なのだという自意識が、幼いミロの誇りとなっていた。
それはミロだけでなく、アイオリアもムウもシャカも同じだ。
自分の力に対する絶大な信頼が、傲慢なまでの自尊心に育ちつつあったと思う。
ところが、カミュは違った。
「カミュは全っ然、自分に自信が無くてさ。いつも俯いてて、人と目を合わせないわけ。だから、俺、誓ったんだ。カミュはこんなに頼りないから、俺が守ってやろうって」
カミュが自分を守れない程弱いなら、その分ミロが強くなってカミュを守ってやろう。
カミュが自分の力に脅えるなら、その分ミロがその力を讃えてやろう。
カミュが自分を嫌うなら、その分ミロがカミュを愛してやろう。
そう、思ったのだという。
「でさ、その頃、女神が降誕したんだけど、俺たちまだ子供だったから拝謁もできないし、本当に女神がいるのか、わかんないじゃん?」
聖闘士は、女神を守るために戦う。
だから、ミロが守るべき女神はカミュであると、密かに思い定めた。
今にして思えば、カミュを守ろうなどというのは不遜の極みの発想なのだが、多分そのときから既に、カミュはミロにとって特別な存在だったのだ。
「……って、まあ、これは内緒な。聞いたら、カミュ、絶対怒るから」
酒の席の戯言にしては、少々真剣に話しすぎたことに気づいたのだろう。
さすがに照れくさくなったのか、ほんの少し顔を赤らめたミロは、勢いよくグラスを空にした。
そして、気まずさを隠すように、高らかに笑う。
「あ、あと、何といってもあれだ。……メチャクチャ感度がいい!」
唐突に卑俗な話題に転換するのは、照れ隠しのなせる業だ。
カノンは、その不自然なまでの明朗さに気づかない振りをしてやった。
「……そりゃ、一度お手合わせ願いたいもんだな」
「やってみろ、殺すぞ」
ミロは威嚇するようにカノンをびしりと指差した。
その鋭い爪が、真紅に染まっている。
表情は、にこやかな笑みを浮かべたまま。
しかし、明らかに瞳に不穏な色が宿っていた。
どうやら、本気、だ。
ミロの技を体感したことのある体が、勝手に危険信号を発してこの場から逃げ出したがっていた。
少々トラウマになりかけた記憶に、生唾が湧く。
あの激痛は、できることなら二度とごめんこうむりたい。
「やらねーよ。カミュに手出したら、サガにも殺される」
これもあながち冗談にならないと思いつつ、カノンは乾いた唇を水割りで湿らせた。
ただ、台詞に含まれた一抹の真理は、ミロの緊張を解く効果があったらしい。
「それもそうだな。あー、早く帰ってこないかな」
殺気を収めたミロは、所在無げに空になったグラスを振った。氷がぶつかる澄んだ音が響く。
「カミュが作った氷だと、オン・ザ・ロックも美味いんだぜ。今度四人で飲まね?」
「ああ、いいかもな」
……ただし、今度はあんまり惚気ないことだな。
警告の言葉を内心で呟き、カノンは小さく笑った。
サガとカミュの前でこんな会話をする勇気は、さすがのミロにも無いだろうが。
そうなっても面白いかもしれないな、などと無責任に思いつつ、カノンはミロのグラスに火酒を注ぎいれてやった。
その頃。
「……思ったより早く終わりましたね」
仕事を終えたサガとカミュは、帰路についていた。
ギリシャではもう夜の帳が下りた頃なのだが、時差を考慮すると、結果的に時間外労働にならざるを得なかったのだ。
体内時計では夕餉の時間をとっくに過ぎてしまったらしく、仕事の後の開放感も手伝って、空腹感がその存在を顕示し始めていた。
「サガ、何か食べていきませんか?」
「ああ、私は構わないが。早く帰らなくていいのかい?」
早く帰らないと、誰がどう困るのか。
そんな無粋なことを尋ねるサガではない。
それでも、言外に仄めかされた意図をきちんと受け止めたのだろう。
カミュは平然と答えた。
「食事は用意しておきましたから。それに、ミロはそんな狭量な男じゃありません」
しれっと言ってのけると、カミュはくすりと笑った。
「それは、サガもご存知でしょう?」
悪戯っぽくサガを見上げるカミュの瞳は、雄弁だった。
カミュが不幸になるような相手ならば、サガが黙認しているはずがない。
圧倒的な力を有するカミュの保護者が、そんな事態を看過するはずがない。
もしサガがミロという人物を認めないのなら、あらゆる手段を講じて、二人を破局に導いているに違いない。
そうでしょう、と、紅い瞳が笑いながら問いかけていた。
サガはわざとらしくため息をついてみせた。
「……君も、随分自惚れるようになったものだね」
「だとしたら、ミロの影響でしょうね。ずっと傍にいたから」
そう言って微笑むカミュに、サガはもう一度小さな息を落とした。
今度は、わざとではなかった。
カミュはおそらく無意識なのだろうが、その笑顔にも言葉の端々にも、恋人への想いが溢れていた。
サガが享受することはない想い。
かすかに胸の奥に突き刺さる棘は、ただの保護者ではない証なのだが、サガにはその棘を抜く気はなかった。
この痛みも、贖罪として甘受するべきものだろう。
カミュがこれほど優しい笑顔を浮かべられるようになったのも、全てミロのおかげなのだから。
「……保護者としては、喜ぶべきなのだろうね」
「何がですか?」
訝しげに小首を傾げるカミュの頭に、サガは軽く手を載せた。
幼い子供をあやすように、大きな手が優しく髪を撫でる。
「何でもないよ。さあ、何が食べたい? 今日は私がご馳走しよう」
嬉しそうに目を輝かせて思案を始めるカミュは、まるで無邪気な幼子のようで。
時が戻ったような錯覚が、サガを眩暈にも似た幻惑で包み込む。
あのまま何事もなく時が過ぎていたなら、カミュに幸せな笑顔をもたらしたのは、ミロではなく自分だったかもしれない。
カミュが、少し眩しそうな、それでいて誇らしげな微笑を向けてくれるのは、ミロではなく……。
ゆくりなくも沸き起こる甘美な仮想に、サガは自嘲の笑みをもらした。
あくまで仮想は、かりそめの想い。
繰り広げても意味の無い、空中楼閣にすぎない。
それは嫌というほどわかっていた。
それでも、せめてこの一時だけでも、束の間の夢に酔わせてもらいたかった。
聖域に帰れば、いつもと同じ現実の日々が待っているのだから。
だから今だけ、ほんの少しの間だけ、カミュを独占させてもらうよ。
遠く聖域のミロに心中で一方的に通告すると、サガはゆっくりとカミュの背を追いかけた。
日の長いギリシャとはいえ、わずかに空気が湿り気を帯びつつあるのが感じられた。
暗くなるのは、まだまだ先。
それでも夜は、その輪郭をぼんやりと霞ませながらも密やかに近づいてきていた。
心なしか和らいだ陽射しの中、カノンは長い階段を上がっていた。
慣れてしまったこととはいえ、延々と続く十二宮の階段に少々うんざりした頃、風の音に混じる自分以外の足音が鼓膜を刺激し始める。
顔を上げると、遠目にも目立つ紅い髪の持ち主が駆け下りてくるのが見えた。
いつも落ち着いた彼には珍しく、大慌てで飛び出してきたという感じだ。
シャツのボタンは全て留められているという訳ではなく、片手に引っつかんだ上着とネクタイが、まるで羽のように彼の背後になびいている。
それもそうだろう。
カノンは後にしてきた自宮を思い出した。
もう一人の宮主が、今頃そわそわと時計とにらめっこをしているはずだ。
今日、カミュはサガと所用で外出することになっていた。
こうしてカノンが階段を上がっているのも、一人残されたミロをからかうためなのだが、彼が双児宮を出た時点ですでに約束の時間を過ぎていたらしい。
待ち合わせの時間に遅れるなど、カミュらしくもない。
ただ、いつも仮面のように無表情なだけに、動揺するカミュを見るのは楽しかった。
それは、精一杯大人ぶっている子供が垣間見せた歳相応な素顔を、微笑ましく見守るようなものだ。
年長者の余裕、とでも言うべきか。
そして、そうやって密かに楽しんでいる姿を子供に感づかせないようにするのも、大人の務めだった。
近づいてきたカミュは、足こそ止めないものの幾分歩調を緩め、カノンに軽く黙礼した。
愛想は無いが、最低限の礼儀を失することはない。
そういえば、こいつの弟子もそんな感じだった。
カノンにしてみれば、カミュより馴染み深い海将軍の面影を、苦笑とともに思い返す。
何故かその仏頂面をからかってみたくなるのは、今にして思えば師譲りだったのだろう。
「よう、サガが待ってるぞ」
「今、行くところです」
……そりゃ、まあ、見りゃわかるがな。
この律儀なまでの生真面目さが、カノンの中の悪戯心を刺激するということを、カミュは少しもわかっていない。
カノンは傍目にはわからない程度に、口の端を歪めた。
「あいつに会う前に、ネクタイ締めとけよ」
傍らを通り過ぎかけたカミュは、訝しげに振り返った。
物問いたげな視線を一身に浴びつつ、カノンは自分の鎖骨を指で軽く弾くと片目をつぶってみせた。
「遅刻の原因、丸判りだぜ」
きょとんと目を見張ったカミュは、我が身を見下ろした。
胸元から垣間見えるかすかな鬱血の痕に気づくや、慌ててシャツのボタンを首許まで留め始める。
「……ご忠告、感謝します」
その髪と同じくらい頬を紅潮させ、それでも几帳面に礼の言葉を小さく呟く。
サガが、ことカミュに関してだけはいつまでも子離れできない理由が、少しだけわかった気がした。
自分よりはるかに年若の少年たちに囲まれていた海底での歳月があるから、なんとなくわかる。
もっとも、そんな心の動きを表出させるほど、カノンは不器用ではない。
相変わらずの揶揄するような笑みを浮かべたまま、再びカノンは階段を上り始めた。
「じゃあな。ああ、ミロ、借りるぜ」
「別に私の許可はいりませんから、ご自由に。私もサガをお借りします」
「おお、返さなくていいぞ」
カミュに背を向けたまま、軽くいなすように手を振る。
神をもたぶらかした男に、口で勝てる訳が無い。
言葉に言いよどんだカミュが、見送る視線に不満を滲ませるのを背中越しに感じた。
しかし、その気配も程なく消える。
サガを待たせている自分の現状に思い至ったのだろう。
慌てて階段を駆け下りていく足音が、次第に遠ざかっていった。
天蠍宮では、カミュの遅刻の原因を作った張本人が、不貞腐れたようにソファに横たわっていた。
予想通りの光景に苦笑を浮かべつつ、カノンは居間に足を踏み入れた。
「母親に置いてきぼりにされた子供だな、まるで」
「そういうあんたは、旦那に浮気された奥さん?」
蒼い視線がちらりと上を向いた。
打てば響くように憎たらしい言葉が返ってくる小気味よさは、カミュにはない。
カノンは口の端を緩めつつ、手にした酒瓶をこれ見よがしにかざした。
「いいのかね、差し入れ持ってきてやった客にそんな口きいて」
「いいんじゃない? つまみ用意したのはこっちだし」
予想外の返答に、カノンは軽く瞳を見張った。
そこはかとなく勝ち誇ったような笑みと共に、ミロの指がすっと持ち上げられる。
ミロが指差す方向へ釣られて視線を移すと、そこには食堂へ通じる扉があった。
「正確には料理したのはカミュだけど。きっとカノンが来るから、今晩は二人でメシ食えって」
「……お見通しって訳か」
「そういうトコだけは気がつくんだよね、カミュ」
ようやく起き上がったミロは、笑っていた。
恋人を自慢する幸せな男の顔で、笑っていた。
カノンもミロも、酒に弱い方ではない。
カノンが持参したボトルはすぐに空になり、ミロはぶつぶついいながらも新しい酒瓶を出してきた。
「ウィスキーでいいよな? カミュ、これはあんまり飲まないから」
「そりゃ構わんが……」
ふとこみ上げた笑いを飲み込むように口をつぐんだカノンを、ミロは不思議そうにみつめ返した。
「何?」
「おまえ、口を開けばカミュ、カミュってのな。一体、カミュのどこがそんなにいいわけ?」
「全部」
即答だった。
ミロは自明の事実を何故今更訊くのかとでも言いたげな、怪訝な表情を隠そうともしない。
今自分がした質問は、ひょっとしたらとんでもない愚問だったのだろうか。
予想はしていたが、ここまで恋は盲目の反応が返ってくるとは思わなかった。
カノンは手際よく水割りを作りながら、口角を持ち上げた。
酒の肴は、決まった。
聖域に住まうようになった当初、新たな十二宮の住人としての自分の位置を模索するため、しばらく人間観察をしていた時期があった。
黄金聖闘士はなかなか興味深い人間ばかりで、いろいろな意味で面白かったのだが、その中でもカミュの存在は異色だった。
サガやミロなど、自分が比較的関係深い人間たちは、何故か一様にカミュに執心だったから、余計にそう思ったのかもしれない。
それでも、あの愛想笑い一つできない朴念仁がこれほどまでに人の心を集める理由はわからず、密かに聖域七不思議の一つとして勘定していたのだ。
今夜は、この不思議な謎に、解決を与えてもらうことにしよう。
カノンはミロにグラスを手渡しながら問いかけた
「あいつ、顔は確かにキレイかもしれんが、それ位なら他にもいるだろ」
「外見だけじゃないって。カミュ、かわいいし」
「……今、ひょっとして、かわいいって言ったか?」
聞き間違いだろうか、いや、きっとそうに違いない。
およそ信じがたいミロの発言に耳を疑い、カノンは眉をしかめた。
しかし、ミロが平然と首肯するところを見ると、どうやら自分の聴覚は正常らしい。
「かわいいよー、カミュ。すぐ怒るし、泣くし、悩むし、落ち込むし、全身から構ってオーラ発してるくせに、ちょっかいだすと嫌そうな顔するし……」
「いいとこねーじゃん!」
呆れたカノンが遮っても、ミロは満面の笑みを崩さなかった。
「それが、かわいいんだって。意地っ張りで天邪鬼なとこが。なんか猫みたいで」
その猫の自称飼い主は、やに下がった顔を隠そうともしなかった。
のぼせ上がった表情のあまりの情けなさに、最高位の戦士の称号を返上したほうがいいと忠言したくなるのを、カノンはかろうじて舌先でこらえた。
今のミロに、何を言っても無駄だ。
カミュが弟子バカだというなら、ミロは文句なしにカミュバカだ。
おそらく、今までに散々ミロの惚気を聞かされている他の聖闘士たちには、とっくに愛想を尽かされているのだろう。
ミロが一層上機嫌なのは、久々にミロの恋愛譚を聞いてくれる人物をつかまえたからに違いない。
自分は、話題の選択を間違えたのかもしれない。
好奇心が後悔に変わりつつあるカノンの内心も知らず、ミロは嬉々として恋人の自慢を続けていた。
「……それに、笑った顔は本当に綺麗でねー。あの笑顔を見るためだったら、俺、何でもできると思う」
臆面も無くきっぱりと言い切った後、ミロは悪戯を告白する子供のようにぺろりと舌を出した。
「今だから言うけどさ、俺、子供のとき、カミュを女神に見立ててたんだよね」
「……は?」
冒涜も甚だしいミロの言葉に、我ながら間抜けな声が漏れた。
神官が耳にしたなら、激昂のあまり卒倒する者さえいるだろう。
それくらい不敬な発言を、ミロはさらりと言ってのけていた。
ミロは水割りを口にすると、遠くを見るようにわずかに目を細めた。
「カノンは知らないだろうけどさ。子供の頃のカミュ、すっごい大人しくてね……」
黄金聖闘士は選ばれた戦士なのだという自意識が、幼いミロの誇りとなっていた。
それはミロだけでなく、アイオリアもムウもシャカも同じだ。
自分の力に対する絶大な信頼が、傲慢なまでの自尊心に育ちつつあったと思う。
ところが、カミュは違った。
「カミュは全っ然、自分に自信が無くてさ。いつも俯いてて、人と目を合わせないわけ。だから、俺、誓ったんだ。カミュはこんなに頼りないから、俺が守ってやろうって」
カミュが自分を守れない程弱いなら、その分ミロが強くなってカミュを守ってやろう。
カミュが自分の力に脅えるなら、その分ミロがその力を讃えてやろう。
カミュが自分を嫌うなら、その分ミロがカミュを愛してやろう。
そう、思ったのだという。
「でさ、その頃、女神が降誕したんだけど、俺たちまだ子供だったから拝謁もできないし、本当に女神がいるのか、わかんないじゃん?」
聖闘士は、女神を守るために戦う。
だから、ミロが守るべき女神はカミュであると、密かに思い定めた。
今にして思えば、カミュを守ろうなどというのは不遜の極みの発想なのだが、多分そのときから既に、カミュはミロにとって特別な存在だったのだ。
「……って、まあ、これは内緒な。聞いたら、カミュ、絶対怒るから」
酒の席の戯言にしては、少々真剣に話しすぎたことに気づいたのだろう。
さすがに照れくさくなったのか、ほんの少し顔を赤らめたミロは、勢いよくグラスを空にした。
そして、気まずさを隠すように、高らかに笑う。
「あ、あと、何といってもあれだ。……メチャクチャ感度がいい!」
唐突に卑俗な話題に転換するのは、照れ隠しのなせる業だ。
カノンは、その不自然なまでの明朗さに気づかない振りをしてやった。
「……そりゃ、一度お手合わせ願いたいもんだな」
「やってみろ、殺すぞ」
ミロは威嚇するようにカノンをびしりと指差した。
その鋭い爪が、真紅に染まっている。
表情は、にこやかな笑みを浮かべたまま。
しかし、明らかに瞳に不穏な色が宿っていた。
どうやら、本気、だ。
ミロの技を体感したことのある体が、勝手に危険信号を発してこの場から逃げ出したがっていた。
少々トラウマになりかけた記憶に、生唾が湧く。
あの激痛は、できることなら二度とごめんこうむりたい。
「やらねーよ。カミュに手出したら、サガにも殺される」
これもあながち冗談にならないと思いつつ、カノンは乾いた唇を水割りで湿らせた。
ただ、台詞に含まれた一抹の真理は、ミロの緊張を解く効果があったらしい。
「それもそうだな。あー、早く帰ってこないかな」
殺気を収めたミロは、所在無げに空になったグラスを振った。氷がぶつかる澄んだ音が響く。
「カミュが作った氷だと、オン・ザ・ロックも美味いんだぜ。今度四人で飲まね?」
「ああ、いいかもな」
……ただし、今度はあんまり惚気ないことだな。
警告の言葉を内心で呟き、カノンは小さく笑った。
サガとカミュの前でこんな会話をする勇気は、さすがのミロにも無いだろうが。
そうなっても面白いかもしれないな、などと無責任に思いつつ、カノンはミロのグラスに火酒を注ぎいれてやった。
その頃。
「……思ったより早く終わりましたね」
仕事を終えたサガとカミュは、帰路についていた。
ギリシャではもう夜の帳が下りた頃なのだが、時差を考慮すると、結果的に時間外労働にならざるを得なかったのだ。
体内時計では夕餉の時間をとっくに過ぎてしまったらしく、仕事の後の開放感も手伝って、空腹感がその存在を顕示し始めていた。
「サガ、何か食べていきませんか?」
「ああ、私は構わないが。早く帰らなくていいのかい?」
早く帰らないと、誰がどう困るのか。
そんな無粋なことを尋ねるサガではない。
それでも、言外に仄めかされた意図をきちんと受け止めたのだろう。
カミュは平然と答えた。
「食事は用意しておきましたから。それに、ミロはそんな狭量な男じゃありません」
しれっと言ってのけると、カミュはくすりと笑った。
「それは、サガもご存知でしょう?」
悪戯っぽくサガを見上げるカミュの瞳は、雄弁だった。
カミュが不幸になるような相手ならば、サガが黙認しているはずがない。
圧倒的な力を有するカミュの保護者が、そんな事態を看過するはずがない。
もしサガがミロという人物を認めないのなら、あらゆる手段を講じて、二人を破局に導いているに違いない。
そうでしょう、と、紅い瞳が笑いながら問いかけていた。
サガはわざとらしくため息をついてみせた。
「……君も、随分自惚れるようになったものだね」
「だとしたら、ミロの影響でしょうね。ずっと傍にいたから」
そう言って微笑むカミュに、サガはもう一度小さな息を落とした。
今度は、わざとではなかった。
カミュはおそらく無意識なのだろうが、その笑顔にも言葉の端々にも、恋人への想いが溢れていた。
サガが享受することはない想い。
かすかに胸の奥に突き刺さる棘は、ただの保護者ではない証なのだが、サガにはその棘を抜く気はなかった。
この痛みも、贖罪として甘受するべきものだろう。
カミュがこれほど優しい笑顔を浮かべられるようになったのも、全てミロのおかげなのだから。
「……保護者としては、喜ぶべきなのだろうね」
「何がですか?」
訝しげに小首を傾げるカミュの頭に、サガは軽く手を載せた。
幼い子供をあやすように、大きな手が優しく髪を撫でる。
「何でもないよ。さあ、何が食べたい? 今日は私がご馳走しよう」
嬉しそうに目を輝かせて思案を始めるカミュは、まるで無邪気な幼子のようで。
時が戻ったような錯覚が、サガを眩暈にも似た幻惑で包み込む。
あのまま何事もなく時が過ぎていたなら、カミュに幸せな笑顔をもたらしたのは、ミロではなく自分だったかもしれない。
カミュが、少し眩しそうな、それでいて誇らしげな微笑を向けてくれるのは、ミロではなく……。
ゆくりなくも沸き起こる甘美な仮想に、サガは自嘲の笑みをもらした。
あくまで仮想は、かりそめの想い。
繰り広げても意味の無い、空中楼閣にすぎない。
それは嫌というほどわかっていた。
それでも、せめてこの一時だけでも、束の間の夢に酔わせてもらいたかった。
聖域に帰れば、いつもと同じ現実の日々が待っているのだから。
だから今だけ、ほんの少しの間だけ、カミュを独占させてもらうよ。
遠く聖域のミロに心中で一方的に通告すると、サガはゆっくりとカミュの背を追いかけた。