再会
二年ぶりに感じる熱い太陽と熱気は、見えない牙となってカミュに襲い掛かるようだった。
以前も閉口した覚えがあるが、修行で寒さへの耐性が強まった分、暑気には弱くなったらしい。
おまけに記憶にあるのは初冬だが、今は盛夏だ。
カミュはふかぶかと深呼吸をした。
新鮮な空気を入れれば少しは改善するかと思ったのだが、かえって体内を熱風が駆け巡るようで逆効果だった。
とりあえず、日陰に行こう。
蜃気楼に霞むように揺らいで見える木陰を目指し、彼はゆっくり歩き出した。
木の下で座り込んだカミュは額に手を当てて休んでいた。
少しだけ冷気を集中したため、ひんやりと気持ちいい。
情けない。
せっかく修行を終えてギリシャに戻ってきたのに、聖域にたどり着く前にこの状態では。
気候の変化に体を慣らしつつ移動したなら、まだ良かったのかもしれない。
テレポートにはまだ慣れていない上、体感温度はかなりの差があるのだから、一気に移動すると体にかかる負担が大きい。
でも、はやく帰って、あの人に会いたかった。
優しい微笑で迎えてほしかった。
だから、少し無理をした。
そう、ほんの少しだけ。
「大丈夫だ」
自己暗示をかけるように、カミュは声に出してみた。
唇が乾いているのを改めて思い知る。
「そうは見えないけど?」
頭上から降ってきた声に、カミュはびくっと身を震わせた。
恐る恐る見上げた先には。
「お帰り、カミュ」
夢にまでみた人が、笑いながらカミュを覗き込んでいた。
「……ただいま、サガ」
カミュは蚊の鳴くような声で答えた。
恥ずかしさに、また体温が上がった気がした。
冷たい飲み物を手に戻ってきたサガは、カミュの頭を軽くこづいた。
「シベリアまで迎えに行くっていっただろう」
「すみません」
ストローをくわえたカミュは、ようやく生き返った気分になった。
それとともに、羞恥心が増大する。
言いつけを守らずに帰ってきて、しかも暑さ負けしているのだから、合わせる顔がないとしか言いようがない。
「心配したけれど、よかった。無事で」
隣に座ったサガは、そんな子供のささやかなプライドを慮ってか、あまり詳しいことを尋ねようとはしなかった。
懐かしい暖かな微笑みに、カミュは帰ってきたことを実感する。
話したいことはたくさんあった。
多すぎて、何から言っていいのかわからなかった。
でも、こうして隣にいる充足感に、言葉はいらなかった。
ただそばにいる幸せを、カミュは全身で味わっていた。
聖域に着いた彼らは、カミュの居宅となる宝瓶宮を訪れた。
二年前は無人の宮だったが、今は備品がそろえられ住人を待つのみとなっていた。
「宝瓶宮はとりあえず住めるようにしておいたけれど、何か必要な物があったら遠慮なく言うんだよ」
「ありがとうございます」
世話になるばかりで、サガには申し訳ないと思った。
早く自分が一人立ちすることが、恩返しになるのだろうか。
漠然とした不安が、カミュを押し包んでいた。
「今日は教皇はいらっしゃらないんだ。よかったら聖域を案内しようか。他の黄金聖闘士も、何人か修行から帰ってきているから、紹介しよう」
二年前、初めて聖域を訪れたときは、まだ対人恐怖症だったカミュはほとんど双児宮にこもっていた。
これから聖域で生活していくための最低限の知識すら、彼は持ち合わせていなかったのだ。
カミュは無言でうなずいた。
宝瓶宮を出ると、一人の子供が待っていた。
あまり人の外見に興味のないカミュが目を見張るほどの美しい子供だった。
「こんにちは。外を通るのを見かけたから。私は魚座のアフロディーテだ。よろしく」
美の女神と同じ名に恥じることのない美貌の持ち主は、一輪のバラの花を差し出しながら微笑みかけた。
カミュはおずおずと花を受け取った。
「あ、ありがとうございます。カミュです……」
それだけいうのが精一杯だった。
しっかりしなくては、と思うのだが、人見知りする性質はシベリア育ちで拍車がかかってしまったらしい。
彼にとっては幸いなことに、アフロディーテは気にした様子もなかった。
子供とは思えない艶然とした笑みを残して、階段を上がっていく。
カミュはその後姿を陶然と見送った。
「あの子は二歳くらい上になるのかな。面倒見のいい子だから、いろいろ聞くといいよ」
サガはまだぼんやりしているカミュの頭をなでてやった。
彼はそれでようやく現実に戻ることができた。
「ああ、ちょうどいい。年上の子がもう二人来た」
サガが見やった先には、小生意気そうな子供と生真面目そうな子供という正反対な印象の二人連れが階段を上ってきていた。
「お、サガだ。あれ、新入り?」
年長者への礼儀を欠いた発言にも、サガは気にする様子もない。
「ああ、そうだよ。この子は水瓶座のカミュ。カミュ、蟹座のデスマスクと山羊座のシュラだ」
「はじめまして……」
訳もなく緊張してきたカミュは、さっきもらったバラを我知らず握りしめていた。
「おお、アフロのバラだ。それ、毒バラじゃねーだろーな」
デスマスクと呼ばれた方が、からかうように笑いかけてきた。
カミュは大きな瞳を瞬かせて、じっとバラを見つめた。
「よせよ、あんまりいじめるなって。俺はシュラ、隣に住んでるんだ。よろしくな」
「よろしく……」
カミュは小声で返事をすると、かるくお辞儀をした。
「じゃ、私たちは聖域の案内を続けるから」
サガはカミュを促して、階段を下り始めた。
カミュはサガに手を引かれてついていく。
その後ろ姿を見送ったデスマスクは、一人腕組みをしてうなずいていた。
「なるほど。あの噂は本当だったんだな」
「何が?」
デスマスクはどこから仕入れてくるのか、聖域の噂話に通じている。
もちろん噂だけに信憑性はあまり高くなかったが。
「なんで十二宮が白羊宮から始まるか、知ってるか」
シュラは肩をすくめると、無言で続きを促した。
「じゃ、最後の二つの星座の由来は?」
それは知っていた。
魚座は美の女神アフロディーテが魚に姿をかえたもの、水瓶座は大神ゼウスに見初められた美少年ガニュメデス。
「つまり、女神の他にも、美女と美少年が上のほうにいたら、頑張って戦ってこいつらを守ってやろうって思うかららしい。アフロは黙ってりゃ美形だし、今の子も大きくなったら期待できそうじゃん」
シュラは振り返って、遠ざかる赤い髪の子供を見た。
デスマスクの言うことにしては、今回は当たっているかもしれない、と思った。
一方、サガとカミュは人馬宮を通りかかっていた。
「アイオロスは覚えているよね。今は多分、闘技場の方に行っていると思うけれど」
カミュは太陽のように明るい聖闘士を思い出した。
満面の笑みを浮かべて、豪快に笑う人だった。
大人だと思っていたサガが不思議に年相応に見えるのは、彼と話しているときが多かった様に思う。
明るすぎて少し苦手だったけれど、悪い印象はなかったはずだ。
サガとアイオロスがいるなら、カミュは聖域でもやって行けると思った。
「次は天蠍宮……」
「あーーーーーー!」
案内を続けるサガの言葉を遮って、大きな声が響いた。
驚いたサガとカミュは顔を見合わせ、次に階段を見下ろした。
そこには砂埃を巻き上げるほどの勢いで、階段を一段抜かしで駆け上ってくる金髪の子供がいた。
くるくるした巻毛に、蒼い瞳。
カミュの記憶の中にある映像が、瞬時に甦る。
嫌な思い出。
カミュは顔を引きつらせると、弾かれたようにサガの後ろに隠れた。
「どうしたんだい、ミロ。大声を出したりして」
長い癖毛を背中で揺らし、ミロは勢いよく止まった。
サガの服をつかんで必死な顔で訴えかける。
「今、今、妖精さんがいた。サガの隣!」
サガは一瞬あっけにとられ、そして苦笑した。
必死に後ろに隠れるカミュを前に押し出す。
うろたえたカミュは救いを求めるようにサガを見上げた。
「水瓶座のカミュだよ。よろしく。カミュ、こっちは蠍座のミロ」
サガは笑った。
初めてこの二人が会ったのは二年前、一瞬のことだったらしい。
いい友達になってくれるといいが。
サガは期待をこめて、ミロを見つめた。
ミロは大きな目をさらに丸くしてカミュを見る。
首をかしげた。
「カミュ? 水瓶座? えぇっ、聖闘士なの?」
カミュは下を向いた。
自分が聖闘士だというのは、それほど意外だろうか。
今日、最悪の出会いだと思った。
「そうだよ。ほら、カミュ、挨拶は?」
「……こんにちは」
カミュはうつむいたままつぶやいた。
このにぎやかな子供に早く立ち去って欲しかった。
「よろしく、僕はミロ。今日来たの?」
しかし、ミロにはそんなカミュの心の叫びなど届かないらしい。
にこにこ笑ってカミュの顔を覗き込む。
カミュはいたたまれなくなり、無言でうなずいた。
「じゃ、僕、案内してあげるよ。行こう、カミュ」
カミュが困惑した顔をするのにもかまわず、ミロはカミュの手をとった。
カミュはサガを見上げたが、彼は微笑んでうなずくだけで、今回は助けになる気はないらしい。
「今晩は双児宮で食事をしよう、よかったらミロもおいで」
「うん、わかった。じゃ、あとでね」
ミロはカミュを引っ張るように階段を駆け降りだした。
カミュは何度もサガの方を振り向きながら、その後についていった。
「……で、あっちが図書館。これでひととおり説明終わったかな?」
振り返ったミロは、カミュが仏頂面をしていることに初めて気づいた。
「何?」
「手、離してくれないかな」
ミロは十二宮からずっとカミュの手を握っていたことを思い出す。
あまりに自然に自分の手の中に納まっていたため、すっかり忘れていた。
「あ、ごめん、痛かった?」
「……君は僕が嫌いなんだろう? もう近くに人いないから、無理に手をつながなくてもいいよ」
「……何のこと?」
ミロは心底怪訝な顔をした。
よく軽率だといわれる自分だが、何か彼に悪いことをしただろうか。
まだ会って一時間も経ってないのに。
「昔、僕の髪を引っ張っただろう、君」
ぼそりとつぶやいたカミュに、ミロはみるみるうちに嬉しそうな顔をした。
今度はカミュが不審な表情を浮かべる。
「うわあ、嬉しい、覚えててくれたんだ。あの時、君のこと、妖精だと思ってさ。逃げられる前に捕まえようとしたんだ」
でも仲間だったんだ、よかった、と一人で幸せそうなミロを、カミュはあっけにとられてみつめていた。
遠巻きに怯えた視線を投げかけられたり、陰でこそこそと気味悪がられるのには慣れていた。
しかし、直截な物理的攻撃を加えられたのは、あのときが初めてで、それなりにショックだったのだ。
それなのに、その原因となった聖域で一番会いたくないと思っていた子供は、全く悪気がなかったらしい。
この二年間、ときどき思い出しては不愉快な気分にさせられていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
不自然なほど長く続いた沈黙をごまかすため、カミュは手に持ったままだったバラに視線を落とした。
「え、なんで萎れてないの、ずっと持ってたのに」
ミロは目ざとくみつけると、覗き込むように顔を近づけてきた。
よく見ると、バラは霜が降りたように凍り付いていた。
カミュは氷華を見つめたまま口を開いた。
「凍らせたんだ。これが、僕の能力」
できるだけ感情を込めずに語る。
これで気味が悪いと思われればそれまでだった。
別に、構わない。
昔からそうだったから。
自分を忌避する人は多かったから。
きっと君もそうだろう。
ところが、ミロは予想もしない反応を示した。
「すごい、じゃ、アイスクリームとか作れる?」
目をきらきらと輝かせて、楽しそうに笑う。
カミュは不思議な生き物を見るような目をしてミロを見つめた。
彼の数少ない人間関係の中では、どの類型にも属さない子供が目の前にいた。
「……作ったこと、ないから」
「じゃ、試してみようよ。戻ろう、カミュ。サガに何が必要か聞かなきゃ」
ミロは新しい楽しみを見つけ、喜色満面といった顔をすると、当然のように手を差し伸べてきた。
この手が、昔自分の髪を思いっきり引っ張ったのだった。
カミュはトラウマになりかけた思い出をかろうじて押しとどめた。
自分の手をじっと見つめる。
ためらいがちに手を伸ばすと、ミロはしっかりと握りしめてきた。
「カミュの手ってさ、ひんやりしてて気持ちいいよね」
ミロは太陽のような笑顔を見せた。
カミュはまぶしくなって顔を背けた。
ギリシャの夏は、暑くて嫌いだった。
ギリシャの太陽も激しくて嫌い。
でも、ずっとここで暮らせば、好きになるのだろうか。
それまで、自分にも太陽は降り注いでくれるのだろうか。
カミュの心中を察したわけでもないのに、ミロは握った手に力をこめた。
カミュは軽く息を吐き、その手をわずかに握り返した。
太陽は相変わらず照り付けていたが、それほど不快ではなくなっていた。
二年ぶりに感じる熱い太陽と熱気は、見えない牙となってカミュに襲い掛かるようだった。
以前も閉口した覚えがあるが、修行で寒さへの耐性が強まった分、暑気には弱くなったらしい。
おまけに記憶にあるのは初冬だが、今は盛夏だ。
カミュはふかぶかと深呼吸をした。
新鮮な空気を入れれば少しは改善するかと思ったのだが、かえって体内を熱風が駆け巡るようで逆効果だった。
とりあえず、日陰に行こう。
蜃気楼に霞むように揺らいで見える木陰を目指し、彼はゆっくり歩き出した。
木の下で座り込んだカミュは額に手を当てて休んでいた。
少しだけ冷気を集中したため、ひんやりと気持ちいい。
情けない。
せっかく修行を終えてギリシャに戻ってきたのに、聖域にたどり着く前にこの状態では。
気候の変化に体を慣らしつつ移動したなら、まだ良かったのかもしれない。
テレポートにはまだ慣れていない上、体感温度はかなりの差があるのだから、一気に移動すると体にかかる負担が大きい。
でも、はやく帰って、あの人に会いたかった。
優しい微笑で迎えてほしかった。
だから、少し無理をした。
そう、ほんの少しだけ。
「大丈夫だ」
自己暗示をかけるように、カミュは声に出してみた。
唇が乾いているのを改めて思い知る。
「そうは見えないけど?」
頭上から降ってきた声に、カミュはびくっと身を震わせた。
恐る恐る見上げた先には。
「お帰り、カミュ」
夢にまでみた人が、笑いながらカミュを覗き込んでいた。
「……ただいま、サガ」
カミュは蚊の鳴くような声で答えた。
恥ずかしさに、また体温が上がった気がした。
冷たい飲み物を手に戻ってきたサガは、カミュの頭を軽くこづいた。
「シベリアまで迎えに行くっていっただろう」
「すみません」
ストローをくわえたカミュは、ようやく生き返った気分になった。
それとともに、羞恥心が増大する。
言いつけを守らずに帰ってきて、しかも暑さ負けしているのだから、合わせる顔がないとしか言いようがない。
「心配したけれど、よかった。無事で」
隣に座ったサガは、そんな子供のささやかなプライドを慮ってか、あまり詳しいことを尋ねようとはしなかった。
懐かしい暖かな微笑みに、カミュは帰ってきたことを実感する。
話したいことはたくさんあった。
多すぎて、何から言っていいのかわからなかった。
でも、こうして隣にいる充足感に、言葉はいらなかった。
ただそばにいる幸せを、カミュは全身で味わっていた。
聖域に着いた彼らは、カミュの居宅となる宝瓶宮を訪れた。
二年前は無人の宮だったが、今は備品がそろえられ住人を待つのみとなっていた。
「宝瓶宮はとりあえず住めるようにしておいたけれど、何か必要な物があったら遠慮なく言うんだよ」
「ありがとうございます」
世話になるばかりで、サガには申し訳ないと思った。
早く自分が一人立ちすることが、恩返しになるのだろうか。
漠然とした不安が、カミュを押し包んでいた。
「今日は教皇はいらっしゃらないんだ。よかったら聖域を案内しようか。他の黄金聖闘士も、何人か修行から帰ってきているから、紹介しよう」
二年前、初めて聖域を訪れたときは、まだ対人恐怖症だったカミュはほとんど双児宮にこもっていた。
これから聖域で生活していくための最低限の知識すら、彼は持ち合わせていなかったのだ。
カミュは無言でうなずいた。
宝瓶宮を出ると、一人の子供が待っていた。
あまり人の外見に興味のないカミュが目を見張るほどの美しい子供だった。
「こんにちは。外を通るのを見かけたから。私は魚座のアフロディーテだ。よろしく」
美の女神と同じ名に恥じることのない美貌の持ち主は、一輪のバラの花を差し出しながら微笑みかけた。
カミュはおずおずと花を受け取った。
「あ、ありがとうございます。カミュです……」
それだけいうのが精一杯だった。
しっかりしなくては、と思うのだが、人見知りする性質はシベリア育ちで拍車がかかってしまったらしい。
彼にとっては幸いなことに、アフロディーテは気にした様子もなかった。
子供とは思えない艶然とした笑みを残して、階段を上がっていく。
カミュはその後姿を陶然と見送った。
「あの子は二歳くらい上になるのかな。面倒見のいい子だから、いろいろ聞くといいよ」
サガはまだぼんやりしているカミュの頭をなでてやった。
彼はそれでようやく現実に戻ることができた。
「ああ、ちょうどいい。年上の子がもう二人来た」
サガが見やった先には、小生意気そうな子供と生真面目そうな子供という正反対な印象の二人連れが階段を上ってきていた。
「お、サガだ。あれ、新入り?」
年長者への礼儀を欠いた発言にも、サガは気にする様子もない。
「ああ、そうだよ。この子は水瓶座のカミュ。カミュ、蟹座のデスマスクと山羊座のシュラだ」
「はじめまして……」
訳もなく緊張してきたカミュは、さっきもらったバラを我知らず握りしめていた。
「おお、アフロのバラだ。それ、毒バラじゃねーだろーな」
デスマスクと呼ばれた方が、からかうように笑いかけてきた。
カミュは大きな瞳を瞬かせて、じっとバラを見つめた。
「よせよ、あんまりいじめるなって。俺はシュラ、隣に住んでるんだ。よろしくな」
「よろしく……」
カミュは小声で返事をすると、かるくお辞儀をした。
「じゃ、私たちは聖域の案内を続けるから」
サガはカミュを促して、階段を下り始めた。
カミュはサガに手を引かれてついていく。
その後ろ姿を見送ったデスマスクは、一人腕組みをしてうなずいていた。
「なるほど。あの噂は本当だったんだな」
「何が?」
デスマスクはどこから仕入れてくるのか、聖域の噂話に通じている。
もちろん噂だけに信憑性はあまり高くなかったが。
「なんで十二宮が白羊宮から始まるか、知ってるか」
シュラは肩をすくめると、無言で続きを促した。
「じゃ、最後の二つの星座の由来は?」
それは知っていた。
魚座は美の女神アフロディーテが魚に姿をかえたもの、水瓶座は大神ゼウスに見初められた美少年ガニュメデス。
「つまり、女神の他にも、美女と美少年が上のほうにいたら、頑張って戦ってこいつらを守ってやろうって思うかららしい。アフロは黙ってりゃ美形だし、今の子も大きくなったら期待できそうじゃん」
シュラは振り返って、遠ざかる赤い髪の子供を見た。
デスマスクの言うことにしては、今回は当たっているかもしれない、と思った。
一方、サガとカミュは人馬宮を通りかかっていた。
「アイオロスは覚えているよね。今は多分、闘技場の方に行っていると思うけれど」
カミュは太陽のように明るい聖闘士を思い出した。
満面の笑みを浮かべて、豪快に笑う人だった。
大人だと思っていたサガが不思議に年相応に見えるのは、彼と話しているときが多かった様に思う。
明るすぎて少し苦手だったけれど、悪い印象はなかったはずだ。
サガとアイオロスがいるなら、カミュは聖域でもやって行けると思った。
「次は天蠍宮……」
「あーーーーーー!」
案内を続けるサガの言葉を遮って、大きな声が響いた。
驚いたサガとカミュは顔を見合わせ、次に階段を見下ろした。
そこには砂埃を巻き上げるほどの勢いで、階段を一段抜かしで駆け上ってくる金髪の子供がいた。
くるくるした巻毛に、蒼い瞳。
カミュの記憶の中にある映像が、瞬時に甦る。
嫌な思い出。
カミュは顔を引きつらせると、弾かれたようにサガの後ろに隠れた。
「どうしたんだい、ミロ。大声を出したりして」
長い癖毛を背中で揺らし、ミロは勢いよく止まった。
サガの服をつかんで必死な顔で訴えかける。
「今、今、妖精さんがいた。サガの隣!」
サガは一瞬あっけにとられ、そして苦笑した。
必死に後ろに隠れるカミュを前に押し出す。
うろたえたカミュは救いを求めるようにサガを見上げた。
「水瓶座のカミュだよ。よろしく。カミュ、こっちは蠍座のミロ」
サガは笑った。
初めてこの二人が会ったのは二年前、一瞬のことだったらしい。
いい友達になってくれるといいが。
サガは期待をこめて、ミロを見つめた。
ミロは大きな目をさらに丸くしてカミュを見る。
首をかしげた。
「カミュ? 水瓶座? えぇっ、聖闘士なの?」
カミュは下を向いた。
自分が聖闘士だというのは、それほど意外だろうか。
今日、最悪の出会いだと思った。
「そうだよ。ほら、カミュ、挨拶は?」
「……こんにちは」
カミュはうつむいたままつぶやいた。
このにぎやかな子供に早く立ち去って欲しかった。
「よろしく、僕はミロ。今日来たの?」
しかし、ミロにはそんなカミュの心の叫びなど届かないらしい。
にこにこ笑ってカミュの顔を覗き込む。
カミュはいたたまれなくなり、無言でうなずいた。
「じゃ、僕、案内してあげるよ。行こう、カミュ」
カミュが困惑した顔をするのにもかまわず、ミロはカミュの手をとった。
カミュはサガを見上げたが、彼は微笑んでうなずくだけで、今回は助けになる気はないらしい。
「今晩は双児宮で食事をしよう、よかったらミロもおいで」
「うん、わかった。じゃ、あとでね」
ミロはカミュを引っ張るように階段を駆け降りだした。
カミュは何度もサガの方を振り向きながら、その後についていった。
「……で、あっちが図書館。これでひととおり説明終わったかな?」
振り返ったミロは、カミュが仏頂面をしていることに初めて気づいた。
「何?」
「手、離してくれないかな」
ミロは十二宮からずっとカミュの手を握っていたことを思い出す。
あまりに自然に自分の手の中に納まっていたため、すっかり忘れていた。
「あ、ごめん、痛かった?」
「……君は僕が嫌いなんだろう? もう近くに人いないから、無理に手をつながなくてもいいよ」
「……何のこと?」
ミロは心底怪訝な顔をした。
よく軽率だといわれる自分だが、何か彼に悪いことをしただろうか。
まだ会って一時間も経ってないのに。
「昔、僕の髪を引っ張っただろう、君」
ぼそりとつぶやいたカミュに、ミロはみるみるうちに嬉しそうな顔をした。
今度はカミュが不審な表情を浮かべる。
「うわあ、嬉しい、覚えててくれたんだ。あの時、君のこと、妖精だと思ってさ。逃げられる前に捕まえようとしたんだ」
でも仲間だったんだ、よかった、と一人で幸せそうなミロを、カミュはあっけにとられてみつめていた。
遠巻きに怯えた視線を投げかけられたり、陰でこそこそと気味悪がられるのには慣れていた。
しかし、直截な物理的攻撃を加えられたのは、あのときが初めてで、それなりにショックだったのだ。
それなのに、その原因となった聖域で一番会いたくないと思っていた子供は、全く悪気がなかったらしい。
この二年間、ときどき思い出しては不愉快な気分にさせられていた自分が馬鹿馬鹿しくなった。
不自然なほど長く続いた沈黙をごまかすため、カミュは手に持ったままだったバラに視線を落とした。
「え、なんで萎れてないの、ずっと持ってたのに」
ミロは目ざとくみつけると、覗き込むように顔を近づけてきた。
よく見ると、バラは霜が降りたように凍り付いていた。
カミュは氷華を見つめたまま口を開いた。
「凍らせたんだ。これが、僕の能力」
できるだけ感情を込めずに語る。
これで気味が悪いと思われればそれまでだった。
別に、構わない。
昔からそうだったから。
自分を忌避する人は多かったから。
きっと君もそうだろう。
ところが、ミロは予想もしない反応を示した。
「すごい、じゃ、アイスクリームとか作れる?」
目をきらきらと輝かせて、楽しそうに笑う。
カミュは不思議な生き物を見るような目をしてミロを見つめた。
彼の数少ない人間関係の中では、どの類型にも属さない子供が目の前にいた。
「……作ったこと、ないから」
「じゃ、試してみようよ。戻ろう、カミュ。サガに何が必要か聞かなきゃ」
ミロは新しい楽しみを見つけ、喜色満面といった顔をすると、当然のように手を差し伸べてきた。
この手が、昔自分の髪を思いっきり引っ張ったのだった。
カミュはトラウマになりかけた思い出をかろうじて押しとどめた。
自分の手をじっと見つめる。
ためらいがちに手を伸ばすと、ミロはしっかりと握りしめてきた。
「カミュの手ってさ、ひんやりしてて気持ちいいよね」
ミロは太陽のような笑顔を見せた。
カミュはまぶしくなって顔を背けた。
ギリシャの夏は、暑くて嫌いだった。
ギリシャの太陽も激しくて嫌い。
でも、ずっとここで暮らせば、好きになるのだろうか。
それまで、自分にも太陽は降り注いでくれるのだろうか。
カミュの心中を察したわけでもないのに、ミロは握った手に力をこめた。
カミュは軽く息を吐き、その手をわずかに握り返した。
太陽は相変わらず照り付けていたが、それほど不快ではなくなっていた。