無憂宮
策略


 「ねえ、カミュ、一体ミロの何が気に入らないんだい?」
 アフロディーテ自慢の薔薇茶を飲もうとしていたカミュは、突然投げかけられた質問に激しくむせた。
 久々の聖域で、久々に隣人に会い、久々の茶会での初台詞がこれでは、さすがのカミュも冷静さを保てなかった。
 しかし、絶世の美人はそんなカミュの様子にもひるまず、なおも尋問の手を休めない。
 「離れててもミロがカミュを好きだったら、つきあうんだろう? でも、あれから二年も経つのに、まだみたいだし」
 「そんなことは言ってない。……考える、と言ったんだ」
 ようやく咳をおさめたカミュが、涙目で反駁する。
 自分が不在の間に、ミロは周囲に何を言ってまわっているのだろうと思うと、極度の不安がカミュを苛んでいた。
 動揺するカミュにもお構いなく、アフロディーテは平然と続ける。
 「ミロって結構いい男になると思うよ。ちょっとうるさいけどさ」
 それは、カミュも思う。
 彼は明朗にして至誠の存在。
 その清爽な風姿と豪胆な行動力は、時に理想の聖闘士と目される程である。
 最近はカミュよりも背が伸び、少し大人びた精悍な表情さえ見せるようになっていた。
 「そうかもしれないが……」
 「じゃあ、なんで?」
 凄絶なまでの流し目を送ってくるアフロディーテに、カミュは意味もなくどぎまぎした。
 役者が上なのである。
 彼を前にして黙りとおすことなど、まだまだ社交術に未熟なカミュには到底不可能な業だった。
 「……恐いんだ」
 カミュは観念したようにぼそりと呟いた。
 ミロの想いは、常にまっすぐカミュに向けられていて、避けることも引くことも許さない。
 燃えさかる熾烈な炎のようで、少しでも気を抜いたら焼き尽くされるようだった。
 それは、カミュがシベリアに行っても変わらず、いや離れて一層、温度を増しつつある。
 その想いに、カミュは応えられる自信が無かった。
 黙ってカミュの言葉に耳を傾けていたアフロディーテは、優雅にカップに口をつけた。
 艶やかな唇が、咲き初めた花のようにほころぶ。
 「なんだ、カミュもミロのことが好きなんじゃないか」
 「そんなことはない……!」
 赤面したカミュは、即刻アフロディーテの言葉を否定した。
 不必要なほどきっぱりと断言するカミュの姿がよほどおかしいのか、アフロディーテはくすくすと楽しげに笑った。
 子供の時と同じだった。
 宮が近いこともあり、アフロディーテにはかわいがられると同時によくからかわれていた。
 どうあがいても敵わない年上の友人に、カミュは不興気な視線を向ける。
 アフロディーテは、無言で薔薇茶の香りを楽しんでいるようだった。
 艶美な微笑に阻まれて、その内心は察知できなかった。


 教皇に定例報告をした後、書庫で調べものをしていたカミュは、突然本の上に差した影に顔を上げた。
 目の前には、白皙の美貌に珍しく緊迫した表情を浮かべているアフロディーテがいた。
 戦闘でもないのに真剣な面持ちの彼を、カミュは訝しげにみつめ返した。
 常に優雅な微笑をたたえた印象が強いアフロディーテには、この気配は似つかわしくない。
 胸の奥底から、どんよりと黒ずんだ雷雲のような不穏な予兆が湧き上がってくる。
 カミュは我知らずぎゅっと手を握り締めていた。
 促されるまま、半ば引っ張られるように双魚宮へと連れて行かれる。
 不審そうなカミュを無理やりソファに座らせると、アフロディーテはじっと瞳を覗き込んできた。
 「いい、カミュ。落ち着いてきくんだよ。ミロのことなんだけど……」
 カミュは怪訝な顔をした。
 ミロは昨日から任務で聖域にいないはずだった。
 その彼が、一体どうしたというのか。
 「事故にあって、意識が戻らないんだ」
 アフロディーテが淡々と告げた。
 「……事故?」
 カミュは鸚鵡のように繰り返した。
 意識が戻らない?  ミロが?
 カミュは目を瞬かせた。
 その言葉が何を意味しているのか、全く頭に入ってこなかった。
 「君が教皇に謁見している間に、宮に搬送されてきたんだ。詳しいことは私もわからないけれど……」
 アフロディーテは、沈痛な面持ちで目を伏せる。
 長い睫が、それ以上の説明を拒むように潤んだ瞳を覆い隠した。
 カミュの脳内で、ようやくアフロディーテの発した一語一語が、パズルのように組み合わさり始めた。
 言葉が、意味を成す。
 激しい動悸を感じた。
 喉がからからに渇く。
 ミロが、事故で、意識不明。
 頭の中でそのフレーズが、不気味な存在感をもって繰り返し響く。
 聖闘士といえど、不死身ではない。
 とはいえ、それが戦闘ならば、何かの間違いだと一蹴できただろう。
 相手が人であれば、黄金聖闘士であるミロが大した傷を負うはずもない。
 しかし、自然の前に人が無力であることを、北極圏に暮らしたカミュはよく知っていた。
 事故の状況次第では、たとえ黄金聖闘士でも重症を負いうるのだ。
 ミロの光り輝くような笑顔が脳裏をよぎり、そして引き裂かれるように消失した。
 カミュは脱兎のごとく駆け出した。
 が、双魚宮の出入り口で、ちょうど入ってきたデスマスクと衝突する。
 謝りもせずに脇をすり抜け、外に飛び出そうとしたカミュは、しかし、デスマスクに腕を捕まれぐいと引き戻された。
 捕まれた腕を振り解こうと睨むカミュに、頭上から切迫した声が降ってきた。
 「ミロの奴、冥界の入口まで行っちゃってる。このままだとやばいぞ」
 彼が冥界の入口と自由に出入りできることは、皆知っていた。
 比岸と彼岸をつなぐ世界には、デスマスクの助力がなくては、余人は足を踏み入れることが許されない。
 カミュはデスマスクにすがった。
 「頼む、私を連れて行ってくれ。ミロを連れ戻すから!」
 必死に頼み込むカミュに、デスマスクは少し困ったように口許を歪めた。
 その表情が、カミュをいらだたせる。
 一刻を争うというのに、なぜ望みを聞いてはくれないのか。
 焦燥感と無力感が、カミュを覆いつくした。


 と、そのとき。
 「おい、アフロ! てめー、一体何飲ませやがった!!」
 けたたましくわめきながら、階段を駆け上ってくる人物がいた。
 デスマスクにすがりつくカミュの手が止まった。
 この声は。
 「……カミュ、なんでデスの首絞めてるの?」
 ミロだ。
 双魚宮の通路には、目を丸くして立ち尽くすミロの姿があった。
 「……おまえ、意識が戻ったのか?」
 「あ、ああ、帰ってすぐにアフロに変なもの飲まされて寝ちゃったけど、さっき起きた……」
 乾いた声で尋ねるカミュに、ミロは訳もわからず答えを返した。
 デスマスクの首にすがるように立っていたカミュは、途端にその場に崩れ落ちた。
 糸を切られた操り人形のごとく、全身の力が一気に抜けたようだった。
 「まったくよ、おまえ、本気で首絞めやがったな」
 デスマスクが大げさに首を撫でながら、カミュの頭を小突く。
 「あのー、何があったの、ここ。全然話が見えないんですけど?」
 首を傾げて聞くミロの質問に、答える者はいなかった。
 カミュは茫然自失の体で座り込んだまま。
 デスマスクは人の悪いにやにや笑いをうかべたまま。
 アフロディーテが満足そうにカミュに微笑みかけた。
 常にもまして優艶な微笑は、まさに名を同じくする愛の女神のそれといっても過言ではなかった。
 「ねえ、カミュ。私たちはいつ死ぬかわからないんだよ。いつこれが現実になってもおかしくないんだ。それでも、後悔しない?」
 カミュは俯いたまま虚空を見つめていた。
 アフロディーテの声が届いているのかどうかも定かではなかった。


 「いや、名演技だったな、俺たち」
 「うん、なかなかやるじゃん。役者としても生きていけそうだ」
 一連の騒動の首謀者達は、機嫌よくお互いの健闘を称えあっていた。
 「じゃ、買出し、行こうか」
 外出用の上着を手にしたアフロディーテに、デスマスクはうろんな視線を向ける。
 アフロディーテは蠱惑的な秋波を飛ばした。
 「今晩はシュラの自棄酒に付き合わなきゃな。酒とつまみ、いるだろ」
 「……おまえ、天使だか悪魔だかわかんねーな」
 デスマスクは引きつった笑いを浮かべた。
 どうやら、今夜は長い夜になりそうだった。


 ミロは胸一杯に疑問符を抱えたまま、足が萎えて立てないカミュをおぶって階段を下りていた。
 カミュは何を話しかけても一言も答えず、ただミロの背に額をちょこんとつけてじっとしているだけだった。
 宝瓶宮にたどり着くと、ミロは背中の麗人を長椅子へと移動させた。
 カミュはそれでも反応が無く、人形のようにぼんやりと俯いている。
 「と、とりあえずお茶でも飲むか?」
 事情もわからずどうしたものかと思案にくれたミロは、さしあたりの解決策を求め、頭をかきながら台所に行こうとした。
 しかし、ジャケットの裾が引っ張られてミロの足を止める。
 振り返ると、カミュの手が服の裾を捕まえていた。
 「どうした、カミュ?」
 「死んでしまうかと、思ったんだ……」
 下を向いたままのカミュが、独り言のように呟く。
 感情の入らない小さな声が、静かな部屋に溶け込んでいく。
 「おまえが死んでしまったらどうしようかって、そう思ったら、他に何も考えられなくて……。馬鹿みたいだ。落ち着けば、おかしいってすぐわかるのに」
 「……心配、してくれたんだ。ありがとな」
 ミロは笑った。
 なんとなく話が読めてきた。
 アフロディーテたちの悪戯に、カミュはまんまと嵌められたのだ。
 いつも冷静なカミュが、自分を案じてこれほどまでに動揺してくれたのかと思うと、なんとなく嬉しい。
 「俺はおまえを残して死なないって、昔、約束したろ」
 ミロは、安心させるようにカミュの頭を撫でてやった。
 子供のときから、ミロがよくする仕草だった。
 突如いなくなったサガの代わりに、自分がカミュを守ろうと決意してから、ずっと。
 対人関係に不得手なためか、カミュはどこか頼りなくて放っておけない子供だったのだ。
 能力的には自分と対等かそれ以上のものを持つカミュは、いつもそんなミロに、子供扱いするな、と怒ってきた。
 ところが、普段ならそうして怒りの瞳を向けてくるはずのカミュは、何故か素直にされるがままになっていた。
 「……もう、こんな思いをするのは嫌だ。おまえがいなくなるなんて……」
 カミュがうわごとのように紡ぐ言葉は、ミロの胸にほのかな期待を植えつけた。
 ミロがいなくなるのが嫌ということは、反対解釈すれば傍にいて欲しいということだ。
 傍にいて欲しいということは……。
 「じゃ、さ、俺とつきあう? 俺のものになる?」
 何度囁いたかわからない口説き文句は、その度にすげなく却下されていた。
 しかし、今日のカミュは何かいつもと違う。
 ミロは胸の鼓動を高鳴らせながら、返事を待った。
 「……それは、断る。私は誰のものにもならない」
 ミロはため息をついた。
 やはり、また駄目か。
 カミュの想いは、ミロと異なり、友情から恋には発展してくれないらしい。
 失望したミロに、カミュは俯いたまま、いっそう小声で続けた。
 「でも、おまえが私に好意を抱いて欲しいと思っているのなら、その意思は尊重してもいい」
 ミロの動きが止まった。
 こくん、と喉が鳴り、声がかすかに震える。
 「あの、さ。俺、頭悪いからよくわかんなかったんだけど……。それって、俺を好きってこと……?」
 カミュはますます視線を落とした。
 耳が痛くなるほどの静寂があたりを包み込む。
 やがて、かろうじて聞き取れる程度のさやかな声が空気を震わせた。
 「……解釈はおまえに任せる」
 ミロは息を呑み、大きく目を見張った。
 そして次の瞬間には、文字通り飛び上がって全身で喜びを表現していた。
 「やったー! ありがと、ありがと、カミュ。俺、すっごい嬉しい!!」
 狂喜し快哉を叫んだミロは、思い切りカミュを抱きしめた。
 腕の中のぬくもりが、そのままミロの熱に転化する。
 夢にまでみた至福のときの熱情に浮かされ、ミロはカミュの唇を求めた。
 と、カミュの手が、迫るミロの顔を遮るように持ち上げられる。
 訝しげなミロに、カミュはその髪と同じくらい赤くなりながらも不平を申し立てた。
 「お茶、淹れてくれるんじゃなかったのか」
 相変わらず素直でないカミュの台詞に、ミロはにやりと笑った。
 「気が変わった」
 「……おまえはどうしてそう飽きっぽいんだ」
 「でも、カミュには全然飽きたことないな」
 上目遣いに睨むカミュが愛しくて、ミロは微笑んだ。
 万感の想いをこめて、真紅の瞳をじっと覗き込む。
 「好きだよ、カミュ」
 とろけるような甘い囁きに、カミュはようやく抵抗を諦めたようだった。
 ほうっと小さな吐息を漏らすと、はにかんだように視線をそらす。
 ミロはカミュの手を握り膝の上に下ろさせると、ゆっくりと顔を寄せていった。
 カミュはわずかにみじろいだが、静かに瞳を閉じおずおずとミロの唇を受け止める。
 二年ぶりの口付けは、ミロの片想いが終わったことを告げていた。

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